カルバート

角田智史

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 さくら 3

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 チキン南蛮を頬張りながら、私は言った。
 それは包み隠さずに伝えた。
 「まきにはもう伝えちょ、明日俺が一人で行くのか、それとも正造を連れていくのか、今日話して決めるって。」
 「まきさんに言ったって事ですか?」
 正造は聞いてきた。
 年齢はまきよりも正造が一つ上である。それなのにずっと「まきさん」と呼んでいる。
 まきは確かに大人びた部分もあり、先輩が連れていったスナックのママという事もあるんだろうが、彼自身がやはり子供であり、まきをさん付けするその時点で少し頭悪いんじゃないだろうか、と僕は常日頃から思っていた。
 正造が言っているのは、上手くいっていない仕事の事をまきに伝えたのか、というものだった。どうやら、職場での様子をまきや他の女の子に知られたくなかったらしい。この状況に置かれても尚、そちら側の体裁の方が気になっている様だったが、彼にとってはそれが全てだったのかもしれない。
 僕はただ頷いた。
 「今の時点なら、どちらでもいける。俺の契約にしても、正造の契約にしてもいい、明日一緒に行くか、行かないか。」
 5月24日だった。本来であれば5月中の契約、そして5月中にサービス開始する事を求められていた。契約をもらったとしても、事務的な処理、もろもろの手配で1週間程度の時間は要する。
 時間がなかった。

 僕は迫った。
 「どうする?」
 少し間を空けて正造は言った。
 「行きます。」

 常日頃からそうだった。
 支社長がいて、僕がいる。本音と建て前があるのは人間として当然だ。
 僕は先輩、同僚であって上司ではない。仕事に対する責任感や本気度は営業担当の域を超える事はなかったし、仕事は自分自身を成長させるツールでしかないと思っている。心から会社にお仕えする、この会社に骨を埋めるような感覚は持ち合わせていなかった。だからこそいつだって彼に馬鹿話をしたし、今回に限っては、彼の本音を聞いた上で決めたかった。
 しかしながらこの状況下で、
 「いや、僕は行きません。」
 その選択肢は無かっただろう。この時の彼の言葉が、本心かどうかは、分からなかった。
 もう、僕が作り上げたレールの上を、事は走り出していた。

 ある程度の反応は予測できていた。やはり彼は変わり者であるというのは強い。
 ただ、もしこれが自分の立場であったなら。
 そう考えると、正直こんな先輩がいたとしたら泣き崩れていただろう。泣きじゃくりながら「ありがとうございます」と繰り返していたと思う。
 彼の「行きます」という言葉に滲み出るものは何もなく。僕は淡々と今後彼がするべき事を事務的に伝えた。
 明日の11時にサロンに訪問する事、見積データを自分のものに変更する事、支社長への報告の仕方、今後の心構えについて。
 「はっきり言うけど、これは延命措置でしかないからな、次の一カ月、本当に持ってこれんかったらおしまいやからな。」
 「角田さん、すみません、ありがとうございます。」
 正造はどこともない目線で僕に言った。この言葉も、作られたものかも分からなかった。

 5月、今までになくプレッシャーをかけられていた。
 その中で少し、ほんの少しだけ彼の中で成長があった、と僕は感じていた。何より自分自身を変えようとする言葉を一言、二言、聞いていた。
 人間、変わろうと思って即日変われるような事もそんなにない。
 日々、成長、このままではいけないと気づいて、徐々に変わっていく。
 営業員からしたらこの砂漠のような土地で、それに気が付いてから、一カ月やそこらで契約を持ってくるのは至難の業だった。だからこそ、この延命措置を思いつき、僕は彼にプラス一カ月の猶予期間を作ろうと思ったのだった。
 
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