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人斬りの夜
弐
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「というわけで、美羽さまはお屋敷で暮らすことになりました。ですから、決して傷つけてはいけませんよ」
夜も更けた頃、政司は藤也の部屋を訪れていた。
庄之助長屋から屋敷に戻り、おかみさんらに聞いた事 ー もちろん美羽の父親の事や、その使いと思われる者の事はなるべく伏せた ー を伝えると、やはり藤也は美羽を引き取ると言い出した。
しかも、普段なら呼ばれても寄り付かない本宅へ、殿様の許しを請うため自ら出掛けて行ったのだから、決意は固いと知れた。
政司としては美羽の存在が藤也に良い影響(例えば普通の子供らしい感情を共有できれば)を与えるのではないかと期待する一方で、彼女の父親の存在が気に掛かっていた。そんな政司の複雑な心境を知るはずもない殿様は、予定外の藤也の訪問とお願いに気を良くし、美羽を使用人としてではなく屋敷に引き取る事を了承していた。
藤也に「ずっと屋敷に居ていいんだよ」と言われてからの美羽は、すぐに周りに打ち解け、これまでの頑なさは追い出されるのではないかという緊張からであった事がわかった。
自分の面倒を見ている小間使いの少女とも仲良くなり、ちょっとした手伝いもするようになっている。といっても藤也にお茶を運ぶといった程度であるが。
そうして美羽が屋敷に馴染み始めた頃、何日かぶりに目覚めた刀夜に政司は状況を話して聞かせていたのである。
「ああ。すぐに成長するものでもないしな」
ちらりと政司を見て、刀夜は可笑しそうに口の端を上げる。
『絶対わかってないですよね。確かに大きくなるのを待てと言いましたけど、事情が変わったんですよ!』と心の中で叫びつつ、政司は表面上は冷静に話し続ける。
「とにかく父親の素性がわかりませんし、今後どのような事態になるともしれませんから、あなたの事は絶対に美羽に知られないよう気を付けて下さい」
「面倒なら、殺してしまえばいいだろう」
簡単な事ではないか、と訝かる視線が政司に向けられる。
「ですから、殺さぬように、殺さねばならない状況にもしないで下さい!と言っているんです」
思わず仏頂面で言い返した政司に、珍しく楽しそうに笑いだした刀夜であるが、続く言葉は政司の心胆を寒からしめるものであった。
「その、ごうつくばりであれば、己の命にもさぞ執着するであろうな。遊びがいがありそうだ」
そう言って瞳を妖しく輝かせる刀夜に、自分が魅了されている事をとっくに政司は気付いている。
故に、これから始まる陰惨な宴を止める事は、彼にも出来なかったのである。
※ ※ ※ ※ ※
夕立が涼しい風を運んで来る。
開け放った障子の先には小さいながらも庭があり、つくばいも置かれている。むろん茶室等ありはせぬが、彼より遥かに裕福な者達の真似事をすれば、彼より貧しい者らと己の格が違う事を示しているようで、気分が良かった。
だから彼自身の格がどうであれ、親が幾つかの長屋を残してくれたお陰で、大家として住民に威張り散らすことが出来るのは彼にとって有り難いことであった。
「まったく忌々しい女だ」
手にした文を放り出し、庄之助は悪態をついた。
「面倒ばかりかけたくせに、礼の一つも遺さねーんだからな」
長い間病みついていたお千鶴が死んだと知った時から、庄之助はそれを探していた。
あの女は気位高く、さも身分のあるふりをしていたが、明らかに囲われ者だった。家賃はきちんと払っていたが、その金も日々のたつきも全て何処ぞの旦那から届けられたものに違いない。おおかた奉公先の主人に色目を使い、体の関係に持ち込んだのだろう。不特定多数の客を取るか取らぬかの違いだけで、所詮遊女や夜鷹と変わりないではないか。
そんな勝手な思いから庄之助は度々お千鶴に言い寄っていたが、毎回手厳しく撥ね付けられていた。それ故に彼女が亡くなった時も、仏心など少しもわかず、憎しみのままその遺体を川に投げ捨てさせていたのである。その遺児である美羽については、最初は岡場所に売り飛ばそうと考えていたのだが、母親の遺体が川に放り込まれると、彼女はそれを追い掛けて川に入ってしまった。連れ戻そうとも思ったが、売りに出しても僅かばかりの金にしかならないし、そのまま溺れ死んでくれた方が後腐れがないと放置した。
「くそっ、何処にも旦那の名前がないじゃないか」
庄之助は数日かけて、文箱に納められていた数十通の文を一枚づつ、ゆっくりと(あまり読み書きは得意ではなかったので)読み進めていた。
哀れな親子を厄介払いした後、家捜しして手に入れたものである。どの文もお千鶴親子の様子を心配する文面であったが、送り主の名前や素性は一切書かれていなかった。相手が誰か解れば、お千鶴の最後を看取ってやった事、手厚く葬ってやった事を知らせてやるつもりであった。そうすれば相手は、謝礼という名の口止め料を払ってくれるだろう。美羽の事を聞かれたとしても、引き取り先を探している間にいなくなったと言えば、厄介毎が無くなったと喜びこそすれ探しはせぬはずだと、庄之助は考えていた。
「肝心の旦那の素性が、わからねぇんじゃ。一文にもなりゃしねぇ」
腹立ち紛れに文箱を投げつけようと引寄せたところ、底に畳んで敷かれた布地の間に、何かが挟まっているのに気が付いた。
金子かと慌てて布地を開いてみると、一本の簪が出てきた。隅々まで調べてみるが、得にこれといった特徴もなく、何らかの印さえも庄之助には見つけられなかった。
「大した金にはなりそうにないが…、もしも銀なら少しは値がつくな」
今時の流行りに比べるとあまりにも質素なものであったが、地金が銀ならそれなりの金にはなるはずだ。
「全く、とんだ骨折り損だぜ」
ぶつぶついいながら、文と簪を文箱に納め直す。簪は明日にでも売り払って酒代の足しにしようと決めると、庄之助は一人きりの侘しい夕げの支度に取り掛かった。
※ ※ ※
「ごめんください」
煮立った湯に、残り物の冷飯と菜っ葉を放り込み、庄之助が鍋をかき混ぜていると、誰かが戸を叩いた。こんな時刻に誰だろうと思いつつ、板戸のふしに隠すように開けてある覗き穴から外の様子を伺った。
年の頃、二十二、三歳ぐらいの若い男だった。黒い無地の着物に、店の銘の入った紺色の前掛けをしている。少し曲がりをつけて結った髷以外は、商家の真面目な奉公人といった見た目であったので、用心しつつも庄之助は戸を開けた。
「庄之助さんですか?」
呼び掛けに答える事なく、突然戸が開いた事に驚き、男は後ずさりながら尋ねる。庄之助は頷き、出来うる限りの威圧を込めて誰何した。
「誰だ」
年齢的にも二廻りは下であろうし、相手が奉公人であれば己の方が格は上だと思いたかった。
「へつ、へぇ、あっしは、あるお店の手代をしております、貞吉というものでして…」
庄之助の様子に気圧された男が、おずおずと名乗るのに内心ほっと息をついた。
「あるお店?」
思わず漏れた庄之助の問いに、はっとした様子で定吉は前掛けの端を帯に挟み込んだ。そうすることで、お店の銘が隠れたが、既に庄之助はその銘を見とっていた。
それは、江戸でも一、二を争う茶問屋の銘であったが、庄之自身には馴染みはなく、その手代が訪ねてくる理由に覚えもなかった。益々額に皺を寄せる庄之助に、定吉は回りの様子を伺いながら頼んだ。
「込み入ったお話なので、中にいれてもらえませんか?」
それにも庄之助が答えずにいると、「あなたの長屋に住んでいた親子の件で、どうしてもお話が…」
告げられた言葉に、小躍りしそうになった庄之助であるが、おくびにも出さず渋々といった体で定吉を招じ入れたのであった。
※ ※ ※ ※ ※
両国、広小路の一角。
立ち並ぶ出逢茶屋や船宿を通りすぎ、庄之助は一軒の小間物問屋の暖簾を潜った。とっくに夕げも終える時刻であれば、客がいるはずもないであろうに、その店は灯りを惜しむ事なく庄之助ただ一人を待っていた。
「おまちしておりました」
ここが自分の居場所であるといった落ち着きで、定吉が出迎える。もちろん、この店が本来の定吉の奉公先ではないと庄之助は知っていたが、これから逢う人物や話の内容から人目を憚らなければならない事情は心得ていたので、いちいち指摘はしなかった。
殆ど何もない店の中を通り過ぎ、案内されるままに建物を突っ切って外に出る。すると、店の裏手は水路になっており、そこに小さめの屋形船が待ち構えていた。
「さっ、どうぞ。中でご新造様がお待ちです」
定吉に促されるまま、庄之助は船に乗り込む。続いて定吉が乗り移ると、船はすぐに動き出した。
「ご新造さま、庄之助様をお連れいたしました」
そう声をかけつつ、障子を開いた定吉は、庄之助に中へ入るよう促す。庄之助が膝を進め中に入ると、背後の障子が閉められた。
室内の灯りは数本の蝋燭だけで薄暗く、隅々まで見分けることは出来なかったが、船のとも寄りに女が座っているのに気がついた。女の正面に、膳が準備されていることから、そこへ座れということだろうと、庄之助は女の方に近寄っていった。
座についた庄之助は、礼儀上目を伏せたまま相手が話し始めるのを、しばらく待っていたのだが、一向に声が掛からない。居心地の悪い時が過ぎるなか、ふと、得体の知れない不安が庄之助を捕らえた。
目の前にいるのは女一人だが、この船には定吉や船頭もいるわけで、既に数の上では負けている。しかも、船の上では助けも呼べない庄之助は、孤立無援となってしまったと言える。何らかの悪巧みに巻き込まれてしまったのではないだろうか?
いざとなったら、川に飛び込んで……、庄之助がそんな考えを巡らせていると「失礼します」と声を掛け定吉が中に入って来た。
『いよいよか!』と内心身構える庄之助に、定吉は運んできた銚子を膳の上に置いた。
「お口に合えばいいのですが。どうぞ、お召し上がりください」
微笑んで、庄之助に膳に並んだ料理を勧める。
「はぁ、どうも」
頷いたが、まだ安心出来ない庄之助は、膳には手を付けずに定吉に話を進めてほしい旨を告げる。
「申し訳ありません。ご新造さまからお話されると思っていたのですが」
詫びつつ、定吉は女の隣に座り直すと、声を潜めて話し始めた。
※ ※ ※
「ご新造さまは、さるお店の後妻に入られたのですが、旦那さまがお年で、いえ。その~授かり物なので。とにかく、まだ後継ぎに恵まれていらっしゃらないんです」
言葉を選び選び語る定吉であったが、ようは後継ぎに恵まれないまま妻と死別した男の後妻に入ったが、旦那が高齢なため子種が望めない。旦那自身の血縁がいないため養子を取るか、後家となった女が店の者を婿として後を継ぐしかないという事であった。
「ご新造さまは養子を貰うのは反対なんです」
そう言って定吉は、隣の女にちらりと視線を送る。つられて庄之助も女に目をやったが、女は庄之助が入って来た時から、ずっと俯いたままだ。しかし、その女の手を、定吉が握りしめるのを庄之助は見逃さなかった。
『こいつら出来てるんだな』薄々事情が解り始めた庄之助は後を促した。
「それがうちの住人と何の関係があるんでしょうかね」
「へぇ、それは」
その後語られたのは、庄之助が検討をつけていた通り、二人は旦那が死んだ後に一緒になろうと決めているが、旦那に隠し子がいる事に気付いた。もしもその子を引き取ることになれば、女は養母として子供を育てなければならず、好いた男とも一緒になれない。何とかしなければと、その親子の行方を調べていたところ、番頭が年に数度どこぞに金子を届けている事を知った。番頭を宥めすかして、ようやく聞き出したのが庄之助長屋に住む親子の存在だったのである。
「なるほどなるほど、そんな事情があったんですか」
さも、驚いたと言う風に庄之助は呟いた。それから二人の言いたい事は解ったというような表情で言葉を続ける。
「つまり、私の借家に住んでいる親子が、ご新造さんの旦那さんのお身内なのではないか、と言うことですね」
定吉が大きく頷く。二人の話を聞けば、間違いなくお千鶴親子の事であろう。しかし証拠を見せろと言われれば、文には旦那の名も店の名もない。この二人が納得するだろうか。
「確かにあの親子はそう言った事情持ちではあったのですが……」
そう思いながらも庄之助は持参していた風呂敷包みをといて、あの文箱を取り出した。
「実は、その女、お千鶴というんですが、一月ほど前に亡くなっておりまして。何かと面倒は見てやったんですが、私にさえ旦那さんの名前は明かしてくれませんでした」
文箱から数通の文を取り出し定吉に渡す。定吉はお千鶴が死んだと聞かされ驚いた様子であったが、渡された文を広げ中を改めた。読み終えると、庄之助と同じように落胆した様子で他に何かなかったかと尋ねる。
「あとは……こんなものが」
庄之助は銀の簪を取り出し、灯りにかざして見せた。すると、その時初めて、女が顔を上げた。
女は庄之助の太い指に摘ままれた、簪を睨み付けるように見ていたが、庄之助は女の顔を、ただただ呆然と見つめていた。
白い細面の顔に納まるのは、柔かな曲線を描く眉、切れ長の艶っぽい目に、高すぎず太すぎもしない筋の通った鼻。女にしては薄い唇は紅を塗っているかのように赤く、庄之助の視線を釘付けにしていた。頬に影を落とす長い睫毛が二、三度瞬いたかと思うと、女の視線は簪から外れ庄之助を捉えていた。
声も出せず身動きできない庄之助を笑うように、女の赤い唇から更に赤い舌がちらりと覗いた。その瞬間、庄之助の背筋を虫が這い上がるような、ぞわりとした感覚が襲った。思わず身震いする庄之助に、だめ押しのように女が妖しく微笑み掛ける。
「くっ!」
下腹部に激しい衝動が起こり、小さく苦鳴のような声が漏れてしまう。
庄之助は、慌てて口許に手をやって塞いだが、女には気づかれているようだった。
「それを貸して頂いてもいいですか?」
一方、定吉の方はそんな事には気づかぬ様子で、庄之助に簪を貸して欲しいと頼んだ。
「ああ、どうぞ」
定吉に簪を渡した庄之助は、衝動を治めようと銚子に手を伸ばしたのだが、白魚のような手が先にそれを掴みとった。庄之助が顔を上げると女が酌をしようと、銚子を持ち上げている。慌てて猪口を差し出すと、女は酒を注ぎ庄之助の顔をじっと見つめてくる。
その誘うような眼差しに、庄之助が味など解らぬままに飲み干すと、女はまた酒を注いだ。
そんな風に女の美しさに魅了されながら、杯をすすめた庄之助は不覚にも意識を無くしていたのである。
夜も更けた頃、政司は藤也の部屋を訪れていた。
庄之助長屋から屋敷に戻り、おかみさんらに聞いた事 ー もちろん美羽の父親の事や、その使いと思われる者の事はなるべく伏せた ー を伝えると、やはり藤也は美羽を引き取ると言い出した。
しかも、普段なら呼ばれても寄り付かない本宅へ、殿様の許しを請うため自ら出掛けて行ったのだから、決意は固いと知れた。
政司としては美羽の存在が藤也に良い影響(例えば普通の子供らしい感情を共有できれば)を与えるのではないかと期待する一方で、彼女の父親の存在が気に掛かっていた。そんな政司の複雑な心境を知るはずもない殿様は、予定外の藤也の訪問とお願いに気を良くし、美羽を使用人としてではなく屋敷に引き取る事を了承していた。
藤也に「ずっと屋敷に居ていいんだよ」と言われてからの美羽は、すぐに周りに打ち解け、これまでの頑なさは追い出されるのではないかという緊張からであった事がわかった。
自分の面倒を見ている小間使いの少女とも仲良くなり、ちょっとした手伝いもするようになっている。といっても藤也にお茶を運ぶといった程度であるが。
そうして美羽が屋敷に馴染み始めた頃、何日かぶりに目覚めた刀夜に政司は状況を話して聞かせていたのである。
「ああ。すぐに成長するものでもないしな」
ちらりと政司を見て、刀夜は可笑しそうに口の端を上げる。
『絶対わかってないですよね。確かに大きくなるのを待てと言いましたけど、事情が変わったんですよ!』と心の中で叫びつつ、政司は表面上は冷静に話し続ける。
「とにかく父親の素性がわかりませんし、今後どのような事態になるともしれませんから、あなたの事は絶対に美羽に知られないよう気を付けて下さい」
「面倒なら、殺してしまえばいいだろう」
簡単な事ではないか、と訝かる視線が政司に向けられる。
「ですから、殺さぬように、殺さねばならない状況にもしないで下さい!と言っているんです」
思わず仏頂面で言い返した政司に、珍しく楽しそうに笑いだした刀夜であるが、続く言葉は政司の心胆を寒からしめるものであった。
「その、ごうつくばりであれば、己の命にもさぞ執着するであろうな。遊びがいがありそうだ」
そう言って瞳を妖しく輝かせる刀夜に、自分が魅了されている事をとっくに政司は気付いている。
故に、これから始まる陰惨な宴を止める事は、彼にも出来なかったのである。
※ ※ ※ ※ ※
夕立が涼しい風を運んで来る。
開け放った障子の先には小さいながらも庭があり、つくばいも置かれている。むろん茶室等ありはせぬが、彼より遥かに裕福な者達の真似事をすれば、彼より貧しい者らと己の格が違う事を示しているようで、気分が良かった。
だから彼自身の格がどうであれ、親が幾つかの長屋を残してくれたお陰で、大家として住民に威張り散らすことが出来るのは彼にとって有り難いことであった。
「まったく忌々しい女だ」
手にした文を放り出し、庄之助は悪態をついた。
「面倒ばかりかけたくせに、礼の一つも遺さねーんだからな」
長い間病みついていたお千鶴が死んだと知った時から、庄之助はそれを探していた。
あの女は気位高く、さも身分のあるふりをしていたが、明らかに囲われ者だった。家賃はきちんと払っていたが、その金も日々のたつきも全て何処ぞの旦那から届けられたものに違いない。おおかた奉公先の主人に色目を使い、体の関係に持ち込んだのだろう。不特定多数の客を取るか取らぬかの違いだけで、所詮遊女や夜鷹と変わりないではないか。
そんな勝手な思いから庄之助は度々お千鶴に言い寄っていたが、毎回手厳しく撥ね付けられていた。それ故に彼女が亡くなった時も、仏心など少しもわかず、憎しみのままその遺体を川に投げ捨てさせていたのである。その遺児である美羽については、最初は岡場所に売り飛ばそうと考えていたのだが、母親の遺体が川に放り込まれると、彼女はそれを追い掛けて川に入ってしまった。連れ戻そうとも思ったが、売りに出しても僅かばかりの金にしかならないし、そのまま溺れ死んでくれた方が後腐れがないと放置した。
「くそっ、何処にも旦那の名前がないじゃないか」
庄之助は数日かけて、文箱に納められていた数十通の文を一枚づつ、ゆっくりと(あまり読み書きは得意ではなかったので)読み進めていた。
哀れな親子を厄介払いした後、家捜しして手に入れたものである。どの文もお千鶴親子の様子を心配する文面であったが、送り主の名前や素性は一切書かれていなかった。相手が誰か解れば、お千鶴の最後を看取ってやった事、手厚く葬ってやった事を知らせてやるつもりであった。そうすれば相手は、謝礼という名の口止め料を払ってくれるだろう。美羽の事を聞かれたとしても、引き取り先を探している間にいなくなったと言えば、厄介毎が無くなったと喜びこそすれ探しはせぬはずだと、庄之助は考えていた。
「肝心の旦那の素性が、わからねぇんじゃ。一文にもなりゃしねぇ」
腹立ち紛れに文箱を投げつけようと引寄せたところ、底に畳んで敷かれた布地の間に、何かが挟まっているのに気が付いた。
金子かと慌てて布地を開いてみると、一本の簪が出てきた。隅々まで調べてみるが、得にこれといった特徴もなく、何らかの印さえも庄之助には見つけられなかった。
「大した金にはなりそうにないが…、もしも銀なら少しは値がつくな」
今時の流行りに比べるとあまりにも質素なものであったが、地金が銀ならそれなりの金にはなるはずだ。
「全く、とんだ骨折り損だぜ」
ぶつぶついいながら、文と簪を文箱に納め直す。簪は明日にでも売り払って酒代の足しにしようと決めると、庄之助は一人きりの侘しい夕げの支度に取り掛かった。
※ ※ ※
「ごめんください」
煮立った湯に、残り物の冷飯と菜っ葉を放り込み、庄之助が鍋をかき混ぜていると、誰かが戸を叩いた。こんな時刻に誰だろうと思いつつ、板戸のふしに隠すように開けてある覗き穴から外の様子を伺った。
年の頃、二十二、三歳ぐらいの若い男だった。黒い無地の着物に、店の銘の入った紺色の前掛けをしている。少し曲がりをつけて結った髷以外は、商家の真面目な奉公人といった見た目であったので、用心しつつも庄之助は戸を開けた。
「庄之助さんですか?」
呼び掛けに答える事なく、突然戸が開いた事に驚き、男は後ずさりながら尋ねる。庄之助は頷き、出来うる限りの威圧を込めて誰何した。
「誰だ」
年齢的にも二廻りは下であろうし、相手が奉公人であれば己の方が格は上だと思いたかった。
「へつ、へぇ、あっしは、あるお店の手代をしております、貞吉というものでして…」
庄之助の様子に気圧された男が、おずおずと名乗るのに内心ほっと息をついた。
「あるお店?」
思わず漏れた庄之助の問いに、はっとした様子で定吉は前掛けの端を帯に挟み込んだ。そうすることで、お店の銘が隠れたが、既に庄之助はその銘を見とっていた。
それは、江戸でも一、二を争う茶問屋の銘であったが、庄之自身には馴染みはなく、その手代が訪ねてくる理由に覚えもなかった。益々額に皺を寄せる庄之助に、定吉は回りの様子を伺いながら頼んだ。
「込み入ったお話なので、中にいれてもらえませんか?」
それにも庄之助が答えずにいると、「あなたの長屋に住んでいた親子の件で、どうしてもお話が…」
告げられた言葉に、小躍りしそうになった庄之助であるが、おくびにも出さず渋々といった体で定吉を招じ入れたのであった。
※ ※ ※ ※ ※
両国、広小路の一角。
立ち並ぶ出逢茶屋や船宿を通りすぎ、庄之助は一軒の小間物問屋の暖簾を潜った。とっくに夕げも終える時刻であれば、客がいるはずもないであろうに、その店は灯りを惜しむ事なく庄之助ただ一人を待っていた。
「おまちしておりました」
ここが自分の居場所であるといった落ち着きで、定吉が出迎える。もちろん、この店が本来の定吉の奉公先ではないと庄之助は知っていたが、これから逢う人物や話の内容から人目を憚らなければならない事情は心得ていたので、いちいち指摘はしなかった。
殆ど何もない店の中を通り過ぎ、案内されるままに建物を突っ切って外に出る。すると、店の裏手は水路になっており、そこに小さめの屋形船が待ち構えていた。
「さっ、どうぞ。中でご新造様がお待ちです」
定吉に促されるまま、庄之助は船に乗り込む。続いて定吉が乗り移ると、船はすぐに動き出した。
「ご新造さま、庄之助様をお連れいたしました」
そう声をかけつつ、障子を開いた定吉は、庄之助に中へ入るよう促す。庄之助が膝を進め中に入ると、背後の障子が閉められた。
室内の灯りは数本の蝋燭だけで薄暗く、隅々まで見分けることは出来なかったが、船のとも寄りに女が座っているのに気がついた。女の正面に、膳が準備されていることから、そこへ座れということだろうと、庄之助は女の方に近寄っていった。
座についた庄之助は、礼儀上目を伏せたまま相手が話し始めるのを、しばらく待っていたのだが、一向に声が掛からない。居心地の悪い時が過ぎるなか、ふと、得体の知れない不安が庄之助を捕らえた。
目の前にいるのは女一人だが、この船には定吉や船頭もいるわけで、既に数の上では負けている。しかも、船の上では助けも呼べない庄之助は、孤立無援となってしまったと言える。何らかの悪巧みに巻き込まれてしまったのではないだろうか?
いざとなったら、川に飛び込んで……、庄之助がそんな考えを巡らせていると「失礼します」と声を掛け定吉が中に入って来た。
『いよいよか!』と内心身構える庄之助に、定吉は運んできた銚子を膳の上に置いた。
「お口に合えばいいのですが。どうぞ、お召し上がりください」
微笑んで、庄之助に膳に並んだ料理を勧める。
「はぁ、どうも」
頷いたが、まだ安心出来ない庄之助は、膳には手を付けずに定吉に話を進めてほしい旨を告げる。
「申し訳ありません。ご新造さまからお話されると思っていたのですが」
詫びつつ、定吉は女の隣に座り直すと、声を潜めて話し始めた。
※ ※ ※
「ご新造さまは、さるお店の後妻に入られたのですが、旦那さまがお年で、いえ。その~授かり物なので。とにかく、まだ後継ぎに恵まれていらっしゃらないんです」
言葉を選び選び語る定吉であったが、ようは後継ぎに恵まれないまま妻と死別した男の後妻に入ったが、旦那が高齢なため子種が望めない。旦那自身の血縁がいないため養子を取るか、後家となった女が店の者を婿として後を継ぐしかないという事であった。
「ご新造さまは養子を貰うのは反対なんです」
そう言って定吉は、隣の女にちらりと視線を送る。つられて庄之助も女に目をやったが、女は庄之助が入って来た時から、ずっと俯いたままだ。しかし、その女の手を、定吉が握りしめるのを庄之助は見逃さなかった。
『こいつら出来てるんだな』薄々事情が解り始めた庄之助は後を促した。
「それがうちの住人と何の関係があるんでしょうかね」
「へぇ、それは」
その後語られたのは、庄之助が検討をつけていた通り、二人は旦那が死んだ後に一緒になろうと決めているが、旦那に隠し子がいる事に気付いた。もしもその子を引き取ることになれば、女は養母として子供を育てなければならず、好いた男とも一緒になれない。何とかしなければと、その親子の行方を調べていたところ、番頭が年に数度どこぞに金子を届けている事を知った。番頭を宥めすかして、ようやく聞き出したのが庄之助長屋に住む親子の存在だったのである。
「なるほどなるほど、そんな事情があったんですか」
さも、驚いたと言う風に庄之助は呟いた。それから二人の言いたい事は解ったというような表情で言葉を続ける。
「つまり、私の借家に住んでいる親子が、ご新造さんの旦那さんのお身内なのではないか、と言うことですね」
定吉が大きく頷く。二人の話を聞けば、間違いなくお千鶴親子の事であろう。しかし証拠を見せろと言われれば、文には旦那の名も店の名もない。この二人が納得するだろうか。
「確かにあの親子はそう言った事情持ちではあったのですが……」
そう思いながらも庄之助は持参していた風呂敷包みをといて、あの文箱を取り出した。
「実は、その女、お千鶴というんですが、一月ほど前に亡くなっておりまして。何かと面倒は見てやったんですが、私にさえ旦那さんの名前は明かしてくれませんでした」
文箱から数通の文を取り出し定吉に渡す。定吉はお千鶴が死んだと聞かされ驚いた様子であったが、渡された文を広げ中を改めた。読み終えると、庄之助と同じように落胆した様子で他に何かなかったかと尋ねる。
「あとは……こんなものが」
庄之助は銀の簪を取り出し、灯りにかざして見せた。すると、その時初めて、女が顔を上げた。
女は庄之助の太い指に摘ままれた、簪を睨み付けるように見ていたが、庄之助は女の顔を、ただただ呆然と見つめていた。
白い細面の顔に納まるのは、柔かな曲線を描く眉、切れ長の艶っぽい目に、高すぎず太すぎもしない筋の通った鼻。女にしては薄い唇は紅を塗っているかのように赤く、庄之助の視線を釘付けにしていた。頬に影を落とす長い睫毛が二、三度瞬いたかと思うと、女の視線は簪から外れ庄之助を捉えていた。
声も出せず身動きできない庄之助を笑うように、女の赤い唇から更に赤い舌がちらりと覗いた。その瞬間、庄之助の背筋を虫が這い上がるような、ぞわりとした感覚が襲った。思わず身震いする庄之助に、だめ押しのように女が妖しく微笑み掛ける。
「くっ!」
下腹部に激しい衝動が起こり、小さく苦鳴のような声が漏れてしまう。
庄之助は、慌てて口許に手をやって塞いだが、女には気づかれているようだった。
「それを貸して頂いてもいいですか?」
一方、定吉の方はそんな事には気づかぬ様子で、庄之助に簪を貸して欲しいと頼んだ。
「ああ、どうぞ」
定吉に簪を渡した庄之助は、衝動を治めようと銚子に手を伸ばしたのだが、白魚のような手が先にそれを掴みとった。庄之助が顔を上げると女が酌をしようと、銚子を持ち上げている。慌てて猪口を差し出すと、女は酒を注ぎ庄之助の顔をじっと見つめてくる。
その誘うような眼差しに、庄之助が味など解らぬままに飲み干すと、女はまた酒を注いだ。
そんな風に女の美しさに魅了されながら、杯をすすめた庄之助は不覚にも意識を無くしていたのである。
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海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
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