ageratum

永本雅

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ageratum

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    優しい彼女は夢を見る。
    誰もが子供の頃に当たり前に自分にやってくると信じていた、来ないことなど予想もしなかった「将来」の夢。
    彼女の夢が現実になることはないのだということはきっと彼女が一番よく解っている。その事実をきちんと受け止めている。
    仲夏ちゅうかにしては大分暑い夜。先週咲いた百合水仙アルストロメリアが下を向いている。
 私は紗綾形文様さやがたもんようの寝間着姿で、縁側に腰かけた彼女に声をかける。
「お茶、持ってきたよ」
 彼女は聞こえないふりをしたまま、笑みを浮かべておぼろ月を眺めている。
 私は彼女に聞こえるようにため息をつくと、湯呑ゆのみを縁側に置いて彼女の隣に腰かける。
 そのまま、彼女の蒼白な右手を握って子供をあやすようにして手を上下させる。
 静寂しじまが満ちていく。
 私は覚悟を決める。
「今日、先生と話してきた」
 彼女は右手を私の左手から逃がすとそのまま左腕に絡ませる。
「進行のスピードが今のままなら、数年生きてはいられる・・・・・・・・
 左手に絡んだ彼女の腕が強張こわばる。
「だから」
 刹那、ダァンという鈍い音とともに目の前に天井が映る。後頭部に遅れて痛みがやってくる。
 彼女が私の上にまたがる。月明かりのせいで彼女の顔は見えない。
 彼女は私の両手首を握って自分の頬にあてがった。冷たい。
「ダメ」
 私の手は顎を伝って頸部へと連れていかれる。
「約束したでしょ? こうやって少し力を入れるだけだから」
 母親が子供の手をとって包丁の使い方を教えるように、私の手は彼女によって徐々に彼女の細い首に沈んでいく。
 そのまま彼女は縁側に仰向けになる。
 彼女は私の手を離すと右手をおもむろに伸ばす。私は両の掌をより深く彼女の首に沈める。
「…っ、ぇ。ぉ…ぇね」
 聞こえないふりをする。聞こうとしたら彼女との約束を二度と守れなくなる気がした。正体のわからない恐怖に駆られて両の掌を一層深く彼女の白い首に沈めた。

    伯林青べれんすの空がしらむ。
    晨風しんぷうが額に滲んだ汗を拭った。

    彼女に言われていた通りに箪笥から桔梗が描かれた浴衣を持ってきて骸にかける。
    よく似合っていた。
    浴衣の袖から封筒が落ちる。拾って中を確かめると花柄の便箋に彼女の字があった。

    私の愛おしい人へ
    私を殺してくれてありがとう。
    私は記憶に蝕まれて、いつの日か君が誰かもわからなくなってしまうかもしれない。それでも君はきっと、私が何度忘れても出会ったことや、思い出を教えてくれるだろうね。そうして、私は「優しい人」に最期を看取られる。あなたは私という「最愛の人」を失って涙を流す。そんな、爛れた最期もいいね。
    でも、私は「愛おしい人」に最期を看取られたかった。
    わがままばっかりでごめんね。
    それと、不器用でごめんね。
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