私の脳内会議がうるさい

恋した蕎麦

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プロローグ

全ての始まりはエレベーターから

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---入社して数日経ったある日の朝。


憂衣「……やばい!昨日最終回目前の『砂漠の王子様』を1からまた見直してたら寝坊したわ!!」


重度のオタクである神崎 憂衣(かんざき ゆい)は、遅刻の恐怖に追い詰められながら、オフィスビルのエレベーターへと滑り込んだ。


憂衣「はぁー…間に合った。朝から寝癖スプレーと消臭スプレー間違えるし最悪だよ……あっつ…」


駅から全力疾走したせいで、滝のような汗が止まらない。手で汗を拭いながら、自分の髪から漂う安っぽい「ウッディ系」の消臭スプレーの匂いに、憂衣は小さく溜息をついた。だが、ここは地獄の通勤ラッシュの頂点。


憂衣「あ、ちょ、あだっ……!」


背後から、スーツの群れが一瞬にして押し寄せる。


憂衣「ぶへっ!!!」


逆らう術もなく、憂衣の体は奥の鏡張りの壁に激しく叩きつけられた。

鏡の冷たさと、周囲のむせ返るような熱気に挟まれ、肺の空気が押し出される。

(……うう、苦しい。死ぬ。満員電車ならぬ満員エレベーターで圧死するんだわ……さようなら、我が推しの御影様……っ)

そう諦めかけた、その時だった。

不意に、憂衣を覆っていた圧迫感が消失した。

代わりに鼻腔を突いたのは、高級なウッディと、ワックスの匂いが混ざり合った「男」の香り。

(へ……?)

恐る恐る見上げれば、そこには仕立ての良いシャツの上からでも分かる、圧倒的に分厚い「胸板」があった。

艶やかな黒髪を少し乱したその男は、片肘を憂衣の右の壁に突き、自分の広い背中で周囲の圧力をすべてせき止めていた。

(……は、ひゃあああああああ!?漫画でよく見るヤツぅ!!!)

憂衣の脳内乙女ゲームデータベースが超高速で検索を開始する。

スペック:端正すぎる顔立ち、切れ長の瞳、完璧な黄金比の厚い胸板。

シチュエーション:満員エレベーターでの壁ドンならぬ肘ドン。

レアリティ:間違いなくSSR。というか、これ課金しても出ないレベルでは…?


?「……わりぃな。ちょっと我慢してくれ」


低く、深く響くイケメンボイスが頭上で鳴る。

(はぅぅぅぅぅうう!!!声までイケボとは……これは夢だわ……死ぬ前に神様が胸きゅんを恵んでくれたのね…なんて粋な…)

壁ドンよりも距離が近い、至近距離の肘ドン。

男の腕が作る「檻」の中に閉じ込められ、憂衣は鼻先を掠めるシャツの質感と、彼の体温をダイレクトに浴びていた。

だが周囲の押しはさらに強まり、男は憂衣を潰さないよう、グッと腕に力を込めた。その時---



?「…………はぁ……………んっ……」



力を振り絞る男の喉から漏れた、低く、微かに掠れた「生々しい吐息」。
野性味溢れる、あまりにも艶やかなその声が憂衣の耳を直接揺さぶった。

憂衣は思わず顔を上げて凝視する。

(……エロい、エロすぎるわ………しかも4K画質の高音質ボイスだなんて…これ無料で聴いて大丈夫?後から高額な請求来るやつじゃないよね?)

【追加オプション:生ボイス(吐息)付き】に、憂衣の興奮は最高潮に達する。


憂衣「…ありがとうございます。神様…」


すると男は憂衣の顔をじっと見つめ、獲物を鑑定するかのように至近距離まで顔を近づけてきた。

あまりの顔面の美しさに、憂衣の網膜が焼き切れそうになる。

男はポケットから、アイロンの効いた清潔なハンカチを取り出すと、それを憂衣の汗ばんだ首筋にそっと押し当てた。

驚いて目を見開く憂衣の耳元で、男は誰にも聞こえないような低い声で囁く。


?「……汗がすごいが…大丈夫か?」

憂衣「……っ?!へ?!すいません!私、汗臭いですよね……」

?「……?いや、臭くはない。寧ろ……君の匂いは親近感が湧くな」


(ひ、ひゃああああ!! イケメンはこんなこともスマートにしてくれるの?ご褒美?てか、親近感?! 私のこれは800円の消臭スプレー(ウッディ系の香り)です!!あなたのその高級なウッディの香りと化学反応を起こして、運命の調香始めちゃったのかしら!?)

すると、男は憂衣のブラウスの襟元に一瞬視線を落とし、それから自分のシャツの第2ボタンあたりの位置を、長い指先でトントンと軽く叩いて見せた。


?「……ボタン。かけ間違えてるぞ」

憂衣「、うそ」


憂衣は慌てて襟元を抑え、あまりの恥ずかしさに一瞬で沸騰した。

固まる憂衣を見て、男はふっと僅かに口角を上げると、彼女の手を取り、そのハンカチを無理やり握らせた。


?「…ハンカチは返さなくて大丈夫だ。…では失礼する」

憂衣「あっ……!待ってくださ………!!」


言いかけた瞬間、エレベーターの自動扉が無情にも閉まる。

憂衣の手元には、自分の汗を吸ってしっとり湿ったハンカチと、去っていった男の圧倒的な残り香。

(ダメ、忘れられない。あの胸板の厚み、あの低い声に僅かに口角上げる感じ……!! 脳のメモリが足りない、忘れたくない、この『素材』を永遠に定着させたい……っ!!)

その夜、憂衣は憑かれたようにキーボードを叩き始めた。

最初はただの「日記」だった。

しかし、妄想は加速し、肉体の描写は緻密になり、気づけばそれは一編の「官能小説」へと姿を変えていた。



それから_____

あの時の男性が副社長の黒鉄 慎(くろがね まこと)であることを知るが、彼は秘書の鴇 立夏(とき りつか)と共に海外出張へ行っており、接触は断念………。だが、憂衣の情熱は衰えるどころか、オフィス全体の美形へと飛び火していくのであった。

(あのエレベーターでの出会いから、私の作家人生は始まったのよ……っ!)

今日も憂衣は仕事をこなしつつ、ブラウザの裏側で『丸秘メモ』を更新し続ける。

すべては、あの日あの場所で出会った「SSR級の衝撃」を超える作品を書くために。


憂衣「さあ……今日も最高の『資料』を、この目に焼き付けるわよっ!」


かくして、不謹慎な官能小説家のオフィスライフが、本格的に幕を明けたのであった______
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