荒川にそばだつ

和田さとみ

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十一、西戎

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 北条は北関東を次々と攻略していく最中、沼田城へも何度か侵攻を試みたが、真田だけはいい加減しぶとく、なかなか陥落しなかった。
 その間、西国では羽柴秀吉が、妹と母親を人質として差し出すことによってようやく徳川家康を臣従させることに成功していた。それに伴い上杉や毛利といった全国の有力大名たちにも次々と臣従を誓わせ、やがて太政大臣まで上り詰め、天皇から豊臣姓を下賜されるに至った。
 天正十五年(一五八七)正月、北条御一家衆や宿老たちが一同に会する評定では、当主氏直とご隠居さまである氏政を中心とした座次が、御一家衆筆頭の氏照に続き、氏邦が二位の位置となっていた。
「上野、下野攻略への貢献が多大であったため」と説明をされたが、氏規を差し置くのは正直気が引けた。
 同盟関係にある家康が秀吉に降ったことにより、織田以上に西国を気にせざるを得なくなっている現状を考えれば、自分よりも氏規の方が序列が上になるのではないかと思ったからである。
 秀吉は西国の諸大名に対して私闘を禁止した法令を出しており、それに違反したとして今年中に薩摩の島津を征服しに出るという話が、小田原まで伝わってきている。秀吉の矛先がこちらに向く前に、いかに対等な関係を結ぶかが、評定の主な話題となった。
 しかし氏直はともかく、氏政が気乗りしないふうであった。
「織田の後釜なのだろう?」
 信長からの冷淡な扱いを根に持っており、西国の連中は信用できないと言い切った。
 家康を通じてどうにか北条の立場を悪くしないようにする……と言葉を尽くして説得を試みている氏規を見ると、武田を飲み込み、徳川や上杉までを従わせるこの西国の武将は、版図で見る以上に大きな存在だと、氏邦には思えた。
「東北の伊達政宗とも誼を通じて、いざという時は、北関東の連中を挟撃いたしましょう」
 存在を誇示するかのように、氏照が口を出した。
「うむ、遠交近攻については引き続き陸奥守どの、お頼み申すぞ」
 当主氏直のひと言で、この日の評定は終わった。
 結局氏邦は、一度も口を開くことがなかった。上野すら完全に手中にできずにいる自分は一体何をしているのだと、情けない気持ちになっただけで終わった。
 そんな氏邦を気にかけるように、
「久々に一献つきあわぬか?」
 氏政が声をかけてきた。
「よい姫を貰って、感謝しておる」
 まだ日は高いが、氏邦は素直に盃を受け取った。
「いえ、まだ分別もつかずにご迷惑をかけていないか心配しております」
 ひと息に呷りながら答えると、
「ぬしも大人になったのう」
 昔はわしの盃を馬鹿正直に断っていたのにと、氏政が笑った。
「寿々姫は幼きながらも己の役割をよく心得ており、作法も申し分ないと礼を言われたぞ」
「小田原で色々教えていただいた結果でしょう」
「ぬしの控えめさは相変わらずだのう。源三と混ぜてみたら、ちょうどよさそうだな」
「あ、いや、それは」
 弟の慌てるさまを、嬉しそうに眺めた。
「幼き頃の福どのによう似ておった。わしの娘に欲しかったくらいだ」
 福は元気にしているかと、氏政は訊ねた。
「二人に色々あったのは知っておるが、それでもずっと仲睦まじういてくれるのは、父上もあの世で喜んでおろう」
「それが北条のためになったのであれば本望です」
「否、そうではないぞ」
 遠い地でまだ若い息子に孤軍奮闘させてしまっていることに対して、氏康は負い目を感じていたし、そこで優しい女と幸せに過ごしている様子に安心していたと、氏政は言った。
「そうでしょうか」
 他の兄弟たちのように甘えられない自分など、仕事の結果が出なければ興味などなかったのではないか。
 そのために氏邦は、言いたかった言葉を何度飲み込んだことか。
「父上にとって、ぬしは我が儘も言わぬ、もの分かりのよい息子だったからな」
 もそっと酔えと、氏政はさらに盃を勧めた。
「南武蔵の国衆と違い、北は難しい連中ばかりで、さぞや気苦労だったろう。いつまでも藤田を名乗らせて申し訳ないと、わしも思うておる」
「いえ、おれは藤田を気に入っていますから」
 何度盃を重ねても、酔える気がしなかった。
「しかし、そろそろ潮時ではないか」
「と申しますと」
「ぬしが藤田に婿入りして、どれほど経った?」
「おれが十一歳の時でしたから……」
 氏邦は指を折って数えた。
「もう二十八年ですか」
「そんなに経つか」
「来年、四十路になります」
 確かに年も取るはずだと、氏政が笑った。 
「北条に戻らぬか」
「え?」
「北条を名乗っても離反されぬまでに、ぬしが北武蔵での信頼を勝ち得たと思うておる」
 氏政が膝を乗り出してきた。
「これからは、あくまで北条が東国をまとめるために働いて貰いたい」
「しかし……」
 長年の働きが認められたというのに、すぐには答えられなかった。
 これは打診などではない。断ることなどできるはずもない。
 それは氏邦も分かっている。ただ、心が付いて来なかっただけである。
 しかし、おれは今まで誰のために働いてきたのだろうかと、思った。
 ある時は北条のためにといい、ある時は北武蔵のためといい、都合よくふらふらしてきただけではないかと、改めて己の芯の無さを突きつけられた気がした。
 後日正式に北条復姓の縁組をするということで、一旦鉢形城へ戻り、福へその旨を告げると、
「まぁ、それはようございました」
 思いがけず喜んでくれた。
「藤田ではなくなるのですね」
 と、一瞬だけ寂しそうな表情をしたが、
「あなたが今までやってきたことが、小田原の兄上さまにご理解いただけて、嬉しくないはずがございません」
 上杉との同盟の時のような苦い思いをしなくてすむと、健気に笑った。
「それでも、あなたがどれほど北武蔵のために心を砕いてきたか、一番よく知っているのは、もちろん私でございますからね」
 そこは譲る気はないと唇を尖らすのが、またかわいい。
「この子は、藤田ではなく、北条の子として生まれるのですね」
 それから、優しく瞳を落とした。
「この子、とは?」
「また、できました」
「は?」
「四人目です」
「なんと」
 驚きと喜びの中、年末に福は三人目の男児を産んだ。
 前回以上の安産で、
「北条氏邦の跡取りですよ」
 健やかな笑顔を見せた。
 女が皆強いわけではないのは、菊名に何度も言われて分かってはいるが、福を見ているとやはり、こうも強くなっていくものかと感心せざるを得ない。
「福によく似ている」
 そう言って、光福丸と名付けた。
「いよいよ無様な姿は見せられなくなったな」
 氏邦が強い思いで沼田攻略の計画を思案している間、小田原は秀吉といい関係を築きあぐねたまま、城下を囲む広大な堀、土塁の増強を始めたのだが、これが秀吉に伝わり、
「北条は戦さをするつもりか」
 と、言いがかりをつけてきた。
 九州まで平定させた秀吉の目は、いよいよ関東・東北に向かってきており、それに乗じて反北条の関東諸将が秀吉へ、北条を退治してくれと縋りついた。
 次の正月の評定でやむなく氏直は、いまだ不信感を露わにしている氏政を御して、秀吉に従属を申し入れるために重臣を京都へ使いに遣ると決めた。
 氏政の不満を少しでも和らげたいと思った氏邦は、真田が居座っている沼田領を北条に引き渡すという条件を付けてはどうかと提案した。これが通れば上野の攻略も完了、兄の気も少しは晴れよう。
 これに対し、秀吉は、
「まず、春に氏政、氏直が上洛してからだ」
 と、応えた。だが、氏政はさっさと上洛を拒否した。
「徳川には母親と妹を差し出したのだろう。なぜ北条にはそこまでせぬ」
「兄上、いい加減に折れてくだされ」
 氏規が困ったように言った。
「体面にこだわる場面ではございませんぞ」
「そうではない。信用できぬと申しておるのだ」
「徳川どのは織田と同盟関係だったからであり、上杉や毛利といった大名も北条と同じ条件で上洛しておりますから、身の安全は担保されております」
 あまりに拒否を繰り返されると、手立てがなくなると家康が通達してきたという。
「向こうでは北条討伐の風聞が立っておるとのことですぞ」
「ならば、こちらも迎え撃つ準備をするまでだ」
「昨年、上洛を要求される羽目になったのではありませぬか」
「こちらは関東を統一させると言うておるのに、そもそも、なぜ西国へ阿らなければならぬのじゃ。筋違いも甚だしい」
 氏政の言い分も正しくはあるが、正義の有無など無関係に突撃してくる相手にいつまでも意地を張ったところで、ことは治まらない。
 氏政が渋々、氏規を上洛させると決めたという通達を、氏邦は鉢形城で受け取った。
「ようやく決めてくださったか」
 氏邦は、ほっとした面持ちでこぼした。
 沼田領引き渡しに備えて鉢形衆の軍備強化をして、正月以来ずっと待機していたのに、なかなか話が進まないので焦燥感に苛まれていたのである。
「氏政、氏直が無理なら一門の兄弟衆の誰かを上洛させて欲しい。それも断るなら督姫を返していただく」
 とうとう家康が、そう申し入れをしてきたのが決定打になったという。
「そこまで言われたのであれば、お断りできませんね」
 丸々とよく肥えた光福丸をあやしながら、福もうなずいた。
「八王子の兄上さまを行かせるのではないのですね」
 氏照はこの頃、滝山より西の、八王子権現の祀られている山に本拠地を移している。
「助五郎の兄上は京に滞在経験もあるし、徳川とも昔から仲がいい」
 氏邦の脳裏に、氏照の悔しげな顔が浮かんだ。
「しかし、また金がかかるな」
「北条の御一門の御方がそれなりの手土産もお持ちになるでしょうし、今度はいかほどでしょうね」
「おれはさほどは多くないだろうから、三百か四百貫文ほどかな」
「まぁ、また臨時で課税なさるのですか」
「頭が痛くはあるが、皆に頼み込むしかあるまい」
 それは後で考えるとして、と言いながら、光福丸を抱いた。
「この子といられる時間ができたから、まぁよしとしようか」
「そうおっしゃるわりには、寿々子ほどはしておりませんよ」
「そうかな」
 息子と娘とでは何か違うのかなと、氏邦が笑うと、
「まぁ、本当に、男親というものは」
 福が呆れた。


 上洛から戻ってきた氏規は、ひとまず秀吉の怒りは静めたと報告した。
 家康を仲介にして面会すると、殊の外機嫌がよかったという。
「美濃守どの、よう上洛なさった」
 美濃守とは氏規の官位である。
 しかし、その機嫌よさげな顔で、
「北条氏政の上洛がない時は来春に北条討伐を行わせて貰う」
 冷たく告げてきた。
「当主は氏直ではないか、なぜわしが上洛せねばならんのだ」
「実質の当主が兄上だと、あちらは認識しておりますのでしょう」
「徳川の娘を嫁に貰っているのが当主だと、徳川はちゃんと言ったのか?」
 怒ったように言って一旦奥へ引きこもったが、しばらくして評定の間へ戻ってきた。
「笑顔で恐ろしいことを言う、その猿とやらの顔を拝むのも悪くない」
 言い聞かせるようにゆっくりと呟き、上洛する準備の手配をせよと命じた。
 それを受けて、次の夏には、
「沼田城を含む沼田領三分の二は北条領、利根川の対面、残り三分の一は真田領として安堵する」
 という通達が京より届いた。
 氏邦はもちろん「そんな馬鹿な」と思ったが、それ以上に氏政が不満げな顔をした。
「沼田領がきちんと引き渡されないのであれば、秀吉に従う理由はないではないか」
「兄上、そこはお収めください」
「父上、美濃守どのの言う通りですぞ」
 氏直と氏規と、二人がかりで説得するが、気付けば、氏照も不服そうな顔で、氏政と一緒の考えだと言い出した。
「西国などもう放っておいて、関東と東北でまとまってゆけばよいではないか」
 そのような裁定に従って中途半端に真田を居座らせると、そこから食い破られるに決まっている、だったら自力で全て切り取った方がいいと、主張した。
「俺が上洛していれば、もっとうまく交渉した」
 横で氏規の顔色がさっと変わった。
 氏邦は、
「とりあえずっ」
 この場を治めねばという思いにかられ、早口で遮った。
「上野はおれが取次ぎなので、おれが沼田城を受け取りに行きます。ひとまずこれ以上揉めるのは止めましょう」
 しかし、と続けようとする氏照に、
「おれが沼田に入ります。それでいいでしょう」
 初めて、この兄へ強く言い放った。
 氏政も、「ここは新太郎に任せる」とうなずいた。
 沼田城を受け取りに、準備していた二千の兵を率いて出向いた氏邦は、秀吉や家康が派遣してきた検使役たちと初めて対面したが、彼らは東国で見てきた武将たちとは違う、重々しいような、華やかなような、何とも複雑な雰囲気を醸しだしていた。
 くれぐれも舐められるなと氏政に強く言いつけられてきたので、無理矢理にでも背筋を伸ばし、卑屈にならないように眉をしかめたままでいたが、緊張感は消えず口の中が渇き、何度も言葉を噛んでしまった。
 こういう連中相手に西国で立ち回り続けてきた氏規が大きな存在に思え、やはり氏規の言い分に従った方がいいのではないかと改めて感じた。
「お疲れでございましたでしょう」
 ようやく鉢形城まで戻ってくると、福が出迎えた。
「うむ。でもまだ終わったわけではないからな」
 言いながらも、緊張の糸がようやく切れたように、福に寄り掛かかった。
「沼田城代には猪俣を置いてきたが、対面の名胡桃城には相変わらず真田が居座っていて目障りで仕方がない」
「でもあなたは、主戦派の方々をお止めになったのでしょう」
「そうなんだよな」
「上野を全て取るべきと主張なさるかと思うておりましたよ」
「うん、自分でもそう思ってたはずなんだけどな」
 しかし今では、正しい判断だったと思っている。
「西国の連中は得体が知れぬ。あんなのと交渉している助五郎の兄上は、大したお人だよ」
「あなたがそうおっしゃるなら、そうなのでしょうね」
 福が小さく笑いながら、
「光福丸が近ごろ急に言葉を憶えて、何かとしゃべりたがるので、相手をしてあげてくださいませ」
 水を向けると、氏邦はたちまち相好を崩して、「そうか」と言った。
「さっそくここへ呼んでまいれ。いや、おれが行こう」
「小さい子供の相手をするのが一番気持ちが安らぎますからね」
「久々に会うて、知らない人みたいな顔をされるのは、わりと傷つく」
「それは仕方のないことでございます。男は皆、長い間城を離れるのですから」
「そうは言ってもなぁ。皆に当たり前でも、おれには当たり前だと思えぬよ」
 乙千代丸時代の境遇を思えば、福にも気持ちは理解できた。
「では、一緒にいられる間にできるだけ可愛がってあげてくださいませ」
「前にも同じようなことを聞いたな」
「それしか、できることはありませんもの」
 そうは言っても、すぐに下野へ出陣せねばならず、ゆっくり鉢形に腰を据える時間はなかった。
 後ろ髪を引かれつつ氏邦が下野の宇都宮に陣を張っている間、氏政は邦憲へ書状を送っていた。
 もちろん写しは氏邦にも届けられているが、それを読んだ氏邦は不安しかなかった。
 名胡桃城を囲め──
 油断はするな、常に隙を窺え、と氏政は邦憲に命じていた。
 確かに邦憲は小田原にいる一族の出なので、氏政も直接指示を出しやすいのだろう。しかし、氏邦が鉢形不在中にわざわざ命令を出すのは、どうにも解せない。
 これが秀吉に知られたら、言いがかりをつけられるのではないか。
 しかし年末には、言いがかりどころの話ではなくなっていた。
 年明け、評定よりも早くに氏邦は、小田原に出仕した。
「兄上」
 屋敷の渡殿を歩く氏政を見るなり、氏邦は駆け寄った。
「今そちらに向かおうと」
 言いながら氏政の袖を掴み、すぐ近くの開け放されていた部屋へ引きずりこんだ。
「おお、臨月の千代を見舞ってくれるのか」
「そんなんじゃ、ありません」
「そんなのとは無礼じゃな」
「今はそんな話ではないということです」
 後ろ手に障子を閉めると、責めるような口振りで言った。
「なぜ名胡桃城を奪ってしまったのですか」
 氏規が西国との均衡を保とうと骨を折っているのに、なぜ火種を作るのだ。しかも、おれが下野にいて手が出せない隙に、と怒りの目を向けた。
 普段人のよさげな顔を向けてくる弟の、珍しく激しい剣幕に押され、氏政は少したじろいだが、
「空いていたからだ」
 気付いたらもぬけの空になったから猪俣を入らせてだけだと、答えた。
「どう考えても、そんなのおかしいじゃないですか。急に空になるなんて」
「おかしくても取れる時に取っておくのだ。後は死守すればよい」
「いや、しかし」
「嘘をついたのは、向こうだ」
「確かに、沼田の裁決はおれも不満ですが」
「そうではない」
 きりっと強い目で氏邦を見た。
「秀吉はわしに上洛を要求しておきながら、じつは一年も前に、反北条の連中に北条攻めの約束をしていたのだ」
北関東へ潜入し調べつくした風間出羽守が、そういう情報を掴んだという。
「だから名胡桃城を空けたのは、罠だ」
「罠?」
「関東へ攻め入る口実を作りたかっただけだ」
「そこまで分かっていながら」
 氏邦の方が目を見開いた。
「なぜ、みすみす罠に乗るのですか」
「わざわざ向こうから来るというのだから、乗るしかあるまい」
「それで本当に攻撃宣言をされてしまったのですから、どうしようもない」
 なおも氏邦が言い募ろうとすると、
「ぬしは、わしの味方だと思うておったのに」
 氏政は小さくため息をついた。
「おれはいつでも兄上の味方です」
「沼田城受け取り以来、ぬしが助五郎の言い分に傾いているのを、わしが気付かないとでも?」
「だから、おれが下野に行っている間に、邦憲に指示を出していたのですか」
 氏政は、弟をじっと見た。
「ぬしが今することは何だ」
「……」
「……」
「武蔵、上野を守り、治めることです」
「ならばそうしておけばよい」
 言い捨てて、「そろそろ皆も登城してくる頃だろう」と障子を開けて出ていった。
 それからひと月ほど評定は、話が行ったり来たりした。
 あくまで富士の裾野へ討って出ることを主張するものがいる一方、数で勝てないだろうと考えたものが、「まだ和睦の余地はないのか」と言うと、
「沼田すら守らなかったやつらが、交渉しても約束を守るはずもない」
と、さらに反対意見が出て、
「ならば戦い、頃合いを見て交渉した方がいい」
 どのみち戦さは避けられない、に戻っていった。
 やがて秀吉軍の先発隊が発ったという報せが入って来た。
 大軍は、二手に分かれる。
「一手は東海道、もう一手は東山道を通って北から来るだろう」
 ならばこれまで切り取った北関東は諦めようと、氏照が言った。
「伊達が動いたら、その隙に東海道へ討って出よう」
 伊達が北関東へ攻め入れば、秀吉はそちらにも軍を割かねばならない。
 しかし、伊達が動く確証はあるのか。
「あちらは大軍だ、兵糧はすぐに尽きる。武田や上杉にも落ちなかった小田原だ。それまで籠城すれば持ちこたえるだろう」
 二度も落城したという縁起の悪い女を囲っている秀吉こそ、砦を維持できず逃げ落ちるべきだと、氏政は織田の遺児を持ち出して言い切る。
 確かに女たちは当然として、城内のものは一様に織田の遺児を忌み嫌ってはいるが、
「武田をひと息に滅ぼした西国の連中に同じ手が通用すると?」
 氏直や氏規など、戦うこと自体を疑問視するものもいた。
「伊豆、相模の守りを固め、駿河まで出て撃ち返すべきだ」
 氏照はあくまで譲ろうとしない。
「もう意気地を張らず、北条の本来の旗印を見据えればよいではないですか」
 氏邦はそう主張した。
 こうなった以上、たとえ我らでなく羽柴であっても、和平を実現できるならば、もうそれでいいではないか。誇りとは、何のためのものなのか。
「ようやく口を開いたと思ったら、ぬしも腰抜け策か」
 氏政はもう聞く耳も持たなかった。
 嘘つきは豊臣であり、義は当方にあると譲らないまま、怒った表情で氏政は席を立ってしまった。
 ため息と共に、氏邦と一緒に場を退出した氏規が、
「どうせ、後で尻拭いするのは私だ」
 簀子を歩きながら、ぽつりと言った。
「兄上は年々頑固になってゆかれる。昔は弟たちの声に耳を傾けてくれていたのに」
 年は取りたくないなと、小さく笑った。
「今のは戯れ言だ。聞かなかったことにしてくれ」
 お前相手だとつい本音が出てしまうなと、氏規はおどけたように首をすくめる。
「あの兄上に正論をぶつけるのは、お前くらいだ。そのせいかな」
「おれは……」
 氏邦は言葉に詰まった。
 どちらの兄の言い分も理解できている。
 西国を軽視するような氏政態度の尻拭いを、常に氏規がしてきたのも知っている。
 にもかかわらず、自分の方が、御一門の席次で氏規より上に居たのは、北条がただ関東統一だけをひたすら見つめ続けてきたからである。
「助五郎兄上は、よう我慢なさってきたと思います」
「お前は気にすることはない」
 氏規は足を止め、見透かすように笑いかけた。
のためにお前がどれだけ働いてきたかは、誰もが知っている」
「兄上……」
「色々あれど、やはり私は北条の皆が好きだ。そのために私も働いてきた」
 気付けば、鈍色の空から雪が舞い降り始めていた。生け垣の硬い葉の上に落ちては、すぐに消え去っていった。
「積もりそうにないな」
「そうですね」
「儚いものだな」
 庭を見やりながら言う氏規の表情の重さに、氏邦はうつむくしかなかった。
「私はそろそろ韮山に戻る」
 ひと月もすれば秀吉本隊が出陣するであろう。籠城だろうが討って出ようが、どのみち戦うつもりであれば、西方の守りを固めておかなければならない。
「新太郎、お前自身はどうしたいのだ?」
 小田原では氏政の新しい子供が誕生した。戦勝をもたらすであろうとして、勝千代と名付けられた。
 殺伐とした空気が少しだけ和らいだのを見届けて、氏規が小田原を去った。
 決断の時が、すぐそこまで迫っている。
「我らを信じてずっと従ってきてくれた北武蔵を切り捨てることなど、おれにはできない」
 秀吉に臣従しないのであれば、北武蔵は傍若無人に荒らされる。
「ならば、北武蔵を守るために鉢形に帰りたい」
 氏邦はそう告げた。
「ぬしが行ったところで、南下してくる大軍をどう止めるというのだ」
 訊ねる氏政に、
「分かりません」
 氏邦は素直にそう言った。
「分からないけど、無為なまま大事な場所を荒らされるのはごめんです」
「そうか」
 氏政は寂しそうに笑ったが、
「帰る……か」
 引き止めることはしなかった。
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