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十二、守りたかったもの
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相模川沿いでは見かけなかった残雪を、荒川沿いで見た時、
「ようやく帰ってきた」
氏邦は、冷たく澄んだ空気を胸にいっぱい吸い込んだ。
海の美しい小田原で生まれ育ったはずなのに、いつの間にか、秩父の山並みも荒々しいこの風景の方がすっかり懐かしいものとなっていた。
「あら、まぁ」
氏邦が戻って来たと知った福は、驚きの表情で迎えた。
「もう戻ってこないかと思っておりましたよ」
籠城する心づもりで、白装束に身を包み、慣れ親しんだ薙刀を握りしめていた。
女あるじらしく、帰城したばかりの家臣一行に出すための膳をあつらえるよう急いで命じた。
「おれが戻ってこないと言ったか?」
「ならば、早飛脚でお知らせくださればよかったのに」
「そんな。その手間すら惜しくて、大急ぎで戻ってきたのに」
氏邦は不貞腐れた顔をした。
「だって、小田原では議論がまとまらないと伺いましたもの……」
確かにもう少し遅ければ小田原も鉢形も敵に囲まれ、戻ることは不可能となっていただろう。
「でも」
福は上目づかいで呟いた。
「嬉しい」
一緒に籠城できるのですねと、人目もはばからずに、薙刀を放り投げて抱きついた。
「ちょっと、危ないでしょう」
「そうですね、申し訳ありません」
「それに籠城するとは決めていません」
「でも小田原へはもう行かないのでしょう」
「だいたい、このような振る舞いはあなたらしくない」
氏邦が諭して、引き離そうとするが、
「いえ、これが本当の私です」
何かを感じとっているのか、福は離れようとしない。
途端に氏邦も、必死で自制心を掲げていた若き日の自分が滑稽に思えてきて、
「しばし二人で籠もる」
その間に荷を解いておくようにと、今まで言ったことのない我が儘な命令を出した。
まだ日は高い。
しかし、嫌な顔をするものは誰もいなく、むしろ悲しげな空気さえあった。
二人きりになり、氏邦は福の肩に唇を這わせ、
「この女はおれしか知らない」と、思った。
もし、おれがいなくなったら。
藤田の血を守るために、光福丸を連れて再婚するのだろうか。だが年齢を考えたら、相手と夫婦としての繋がりを持つことはもうないかもしれない。
しかし、名目上だけの夫婦であっても、自分以外の誰かと微笑み合うのだと思うだけで頭がおかしくなりそうだった。
あぁ、おれは兄上どのと同じなのか。
いつにない夫の激しさに、福は指を噛み、気を失いそうになるのを何度も堪えていた。
本当はこうやってずっと一緒にいて欲しかった。何かを気にすることも無く、野山を駆ける民のように、野放図に抱き合っていられたらどんなに楽であったろうか。
自分が藤田の血を継いでいなければ、地獄へでもこの人について行けるのにと思った。
「ひと月しか離れていなかったのに、こんなに離れがたいのは何故だろう」
大きく息急き切りながら、氏邦が呟いた。
「私もです」
「このまま休みたい」
「寝てしまえばよろしいですよ」
福はそばに放り投げていた袿を引き寄せ、二人の上に掛けた。
外では、木蓮が風に揺れている。
先ほどまでの激しさが嘘のように、お互い憑きものが落ちたような優しい笑顔で見つめあった。
二人が部屋から出てきたのは、夜半も過ぎてからである。
「よくお休みになられましたか」
評定で軽口を言われても、氏邦は臆面もなく、すっきりした、と言った。
「放置してすまなかった」
「鉢形のものは皆、殿が好きです。これからどのように進んでいこうが、一同、殿に付いていく腹づもりだと言っていたところです」
「そなたら……」
氏邦は胸を衝かれた。
自分の判断は間違っていなかったのだと、涙が出そうだった。
せっかく切り取った北関東まで守りきれないことを詫びた上で、
「北武蔵は守りたい」
強く言い切った。
燭の火が、瞳の中で揺らめいている。
「だから、要の地である鉢形城を簡単に開けることはできないと思っている」
鉢形が陥落すれば、兵が殺されるだけではない。近隣の民は乱妨取りされ、女たちはなぶられ、飢えきった西国の雑兵たちに掠奪の限りを尽くされるのは明白である。
敵数の規模からして、その凄惨さは、当然上杉や武田の時の比ではない。
西国兵による乱取り禁制を出させるための交渉をしたいという氏邦の願いは、家臣たちに伝わっていた。
「ならば、籠城でしょうか」
結論はすぐに出た。
どれだけ出来るか分からないが、こちらに有利な条件を引き出すための時間は稼げるはずだと、誰もが思った。
そうなるよう願いながら、近隣の領民を城内に避難させて、兵糧を集中させ、さらに堀を深くし土塁を固めた。
「やはり籠城ですね」
福は明るく笑った。
「私の薙刀も上達したから戦力になります」
「怖くはないのですか」
いいえと、福は氏邦を見つめ返した。
「とうに覚悟しています。ただ……」
「光福丸のことか」
「はい」
「ならば、光福丸を町田に預けて近くの寺にやろう」
敵に見つからないうちに、家臣に託して鉢形領の隣村まで逃がすことにした。
「小田原も籠城することになったようだ」
「他の支城も皆、倣うのでしょうね」
城主たちは小田原へ行き、妻や代官が残った守備隊を率いる。福もこの前までは、そのつもりで準備をしていた。
「私は思いがけず、新太郎さまが帰ってきてくださいましたが」
脳裏に、比佐が浮かんだ。
氏照は当然小田原にいるだろうが、比佐はどうしているだろうか。
最後まで一人で城に残るのだろうか。その場合、城内のものたちは心がひとつになれるのだろうか。あるいは、先手を打って落ち延びるのだろうか。
わずかながらも気持ちが寄り添い、また会いたいと思っていただけに、気にかかった。
「小田原ではな、あなたの言っていた織田の生き残った姫たちの話もしていたよ」
「そうですか」
「親兄弟、養父まで殺した仇に囲われたと聞き、さらに忌み嫌っておったよ」
「そうですか」
福は上目づかいで訊いた。
「八王子の兄上さまは、どのようなお顔をなさってましたか」
あっと、何かに気付いた顔で、氏邦は、
「どうだったかな」
と、首をかしげた。
「どうだったかなぁ」
もう一度言い、二人で顔を見合わせた。
そんな中、とうとう鐘が領内一帯に響き渡った。
高根山の半鐘が鳴ったのは、武田信玄の襲来以来であろうか。
黒い土煙をたてながら怒濤の勢いで迫ってくる黒い塊が、山からはっきり見えた。途中、鉢形城の物資補給用に点在していた砦もあらかた潰され、すぐに高根山の半鐘も、敵に奪われた。
しかし鉢形城に籠もったものは、皆よく守った。
本丸の櫓から見渡すと、荒川沿いで水浴びをする鳥たちが集い、緑が濃く映える気持ちのいい眺めである。
対岸に陣取る軍勢の総大将の旗印は、秀吉の腹心である前田であった。他には氏邦たちの弟景虎を殺した上杉や、浅野といった幟が見える。
沼田では、猪俣が真田と対峙しているようだが、そちらもじきに秀吉の援軍に囲まれるだろう。
数はいつぞやの武田の比ではないが、時折氏邦自ら夜襲をかけ、籠城軍の士気を落とすことはしなかった。
返り血を浴びて戻って来ても、もう冷静さを失うこともなく、むしろ遠くを見るような静かな目をしていた。
やがて東海道から進軍した連中が、氏政の言っていたとおり、兵糧不足で焦りを見せ始めていた頃、東山道から鉢形城を囲みに来た者たちも、ひと月ほど続く睨み合いに苛立ちをみせていた。
鉢形城の補給用物資を奪ってもなお兵糧は足りず、近隣の村から奪おうにもすでに鉢形城内に運び込まれた後であり、じっとりとした暑さに身も心も堪えた表情を隠せなくなっている。
陣の所々、味方同士で諍いを起こしているのが、こちら側からも見えた。
「潮時か」
六月に入り、氏邦の首を差し出す代わりに、いまだに残っている五つの武蔵の城、岩付、鉢形、八王寺、忍、津久井を助命してやって欲しい、という使者を前田の陣へ向かわせた。
数日後、回答がきた。
降伏は認められない、とあった。
秀吉は、「首などいらぬ。とにかく、備中高松城のように徹底的に囲んで、威圧しろ」と言っているという。
秀吉はかつて、備中高松城を無残な目に合わせ、己の力を見せつけ毛利を屈伏させたと伝え聞く。
氏邦は福の部屋へ来て、ため息をついた。
「この鉢形を見せしめにし、小田原の士気を落とそうというつもりのようだ」
「どうなさるおつもりで?」
福が手ずから、みかんを搾って果汁を差し出すと、
「まだ手はある」
氏邦はひと息で呷り、気持ちを落ち着けた。
「これなら……という案はある。たださすがに評定では言えない。あなただけに打ち明けたい。聞いてもらえるだろうか」
秀吉の腹心である前田に内密に申し入れるつもりだと、膝を進めて、うなずく福の耳元で囁いた。
・・・・。
「へぇえ?」
思わずおかしな声が出た。
「もしも、ですよ。それが聞き入れられたなら、北条へ対しての裏切り行為となるのでは」
不安そうな顔の福に、氏邦は強いまなじりで言い切った。
「たとえ北条への裏切りとなっても、この地の者たちが助かるなら、おれが罪を被ってもいいと思っている」
「……」
「最後は北条ではなく、やはり藤田の当主としての責任を全うしたい」
「そうですか」
そのために鉢形へ戻る決意をしたのだと言う氏邦を、福はまぶしそうに見つめた。
「あなたが罪を背負う覚悟なら、私も共に背負いましょう」
灯燭の翳で、氏邦の睫毛が揺らいだように見えた。
「その時が来たら光福丸に託したいと、あの子の保護を願い出る」
武蔵の武士は義理堅い。藤田の跡取りを保護しておけば、必ずその下に集まるであろう。
「責を負うためにおれの首は差し出すが、後のことは頼んでいいね」
「承知しました」
「おれに寄り添って生きてくれたのが、あなたでよかった」
「とうに覚悟はできておりますもの」
福は小さく笑った。
そうこうしている間にも、近くの車山から大砲が打ち込まれ、城内にも被害が出るようになっていた。
もう時間はない。
前田に使者を遣わすと、思いがけず前回よりも早く回答が届いた。
その使者として、藤田信吉が来た。武田滅亡後、上杉で禄を食んでいるという。
「まぁ、どの面を下げて来れたものか」
これを聞いた福は腹を立てたが、氏邦は、
「そう叱ることもない。弥六郎の立場も考えてやろう」
悟ったように、庇ってみせた。
「氏邦さま、お久しぶりでございます」
拝謁の場に出てきた氏邦に対して、感情を殺すようにできるかぎり平坦な声で、信吉は、前田からの書状を差し出した。
楽しかったここでの思い出は、遠い昔である。
「前田さまは、すぐに返事が欲しいとのことです」
前田自ら秀吉の陣に参じ、内々に相談をしたという。
おかげで氏邦の提案は受け入れられることになったが、勝手に自らの陣を離れたと叱責されたらしい。
「催促するために、身内のそなたを寄越したのだな」
言いながら、その場で書状に目を通すと、氏邦は大きな声で笑いだした。
「そなたは、殺したいほどおれを憎んでいるのかもしれないが」
「いえ、そのようなことは」
「遠慮するな。でなければ、あの状況で裏切るはずもない」
氏邦は近侍に筆を持ってこさせ、書状の裏に、了解するという旨を簡単に書き込んだ。
「しかし、残念だったな。鉢形城は開城となったよ」
「え?」
「おれも、質として前田どののお預かりだと」
突然の秀吉の軟化に、信吉は驚きを隠せなかった。
「一体何を申し入れたのですか?」
「そなたが上杉どのから聞かされていないのであれば、おれの口から教える必要はないし、そもそも前田どの以外は知らぬだろう」
「はぁ…」
「明朝さっそく青龍寺にて髷を落として、前田本陣に参ろう。そのように伝えておいてくれ。後の手配はこれから評定で決めて、追って伝える」
信吉をさっさと帰してから、氏邦は評定で、決定事項として鉢形城の開城を伝えた。
家臣一様に、
「どのように交渉なさったのだ」
と、驚いたが、
「それは聞いてくれるな」
氏邦が深く長く頭を下げると、皆大人しく従った。
全てのお膳立てを終えた氏邦は、福の部屋に行くと、
「やぁ、終わった、終わった」
解放されたように、ごろりと横になって、福の膝の上に頭を乗せた。
ことの仔細を話し終えると、
「韮山の兄上さまに負けず、きちんと西国と交渉いたしましたね。しかも豊臣ですよ」
しかも開城に際して、兵たちの乱暴無道の禁制も約束させている。
福は、よう頑張りなされたと、優しく氏邦の頬を撫でた。
「あなたは今いくつだ」
ふいに氏邦が訊いた。
「今年で四十になりましたが」
「そうか。ではぎりぎり間に合うかな?」
「え?」
首をかしげる福に、氏邦は、
「最後にもう一度、女の博打を打っては貰えないだろうか」
小田原で勝千代が生まれたのが羨ましかった、と素直に打ち明けた。
「……」
福は、驚いたように丸い瞳を見開いたが、しばらく考えて、
「はい、がんばります」
と、うなずいた。
氏邦は身体を起こし、白い歯をこぼした。
「あら、何がおかしいのでございますか」
「いや、かわいいなと思って」
「私は真剣に答えたのですよ」
「いや、おれはいつでも真剣だよ」
あなたと初めて迎えた夜も同じことを言っていたのを思い出した、と言った。
福は、初めて自分から帯を解いた。
恥じらうように寝衣を肩から下ろし胸をはだけさせると、
「あぁ、だめだ」
この三十年で初めて見た妻の仕草に、氏邦は少年のように胸が高鳴り、両手で顔を覆った。
「この期に及んで、またあなたの初めての姿を見るなんて。これからどんなふうになっていくのか、確かめられないのが無念で仕方ない」
「大丈夫です。いつかお許しが出てまた会える時まで、私は変わりませんよ」
「そうだといいな」
子供を四人産んで、なお張りのある乳房に口づけた。
昔よく、そうしていたように、床板の上で抱き合いながら、二人ともそんな日が来ることはないと感じていた。
香子と千代が自害した、という風聞が後日届いた。その数日前には、秀吉が己の慰めのために呼び寄せた側女が、本陣に到着していたという。
小田原の人々が忌み嫌っていた、二度の落城をした織田の姫である。
もしかして見下されるのが屈辱で……いや、生まれたばかりの我が子を置いてまでとは思うが、それほどまでに嫌っていたのだと言われたら、否定する気にもなれない。
鉢形城を許した代わりに八王子城が見せしめの標的にされ、凄惨な目に合い、非戦闘民の子女たちまで首を晒されたと聞いた。比佐の行方も聞こえてこない。
北条が頼みにしていた東北の雄、伊達も秀吉の元へ参上してしまい、槍も太刀も折れ、矢玉も枯れ果てた小田原城はとうとう力尽き、開城となった。
秀吉はこの度の戦さの責として、北条家から氏政、氏照、重臣も上位席次の二人にそれぞれ切腹を命じた。
──見知った人たちは、粗方いなくなってしまった……。
鉢形城を出た福は青龍寺の片隅に小さな庵を結び、仏を拝んで過ごしていた。菊名も見守るように、燐家に控えていてくれている。
地元の民が何くれと世話をしにきてくれているので、暮らしに困ることはない。
全ては氏邦がこの地を安寧に治めていたからこそだと、福は信じている。
わずかに目立ち始めたお腹も、
「お殿さまが残していった宝」
として、誰もがいたわってくれた。
少しでも気が緩むと、あの日、氏邦が城門を出て行った光景が瞼に浮かぶ。
わずかな供回りのみを連れて去ってゆく後ろ姿は、今思い出しても堂々としており、清々しいような気さえする。
爽やかな風の吹き抜ける早朝、
「では、達者でな」
朝露を踏みしめながら手を振る後ろ姿を、絶対泣くまいと決めて送りだしたが、胸の奥が夕べの名残りで疼き、それがこの上なく辛かった。
「母上」
氏邦とよく似た声で呼びかけられ、我に返った。
「また父上のことを思い出してましたね」
「まぁ、鉄柱」
福がここに来てから、頻繁に顔を出しにきてくれている。
「ずっと離れて暮らしていたのに、なぜいつも分かるのですか」
聡い子ねと、福が笑うと、
「私は離れていてもみなのことを考えておりましたから、分かりますとも」
修行の成果だと、鉄柱も嬉しそうに笑い返した。
「あなたには長らく我慢を強いてしまいましたね」
「いいえ、我慢などとは思っていません。全て自分の運命です」
「殿の跡取りとして、光福丸が町田どのの元で養育されております。そなたには辛い思いをさせているのではないですか」
「今は昔です。全て受け入れて、どう生きるかは自分で決めたのですから」
改めて見ると、亡くなった東国丸よりも明らかに体躯がいい。法衣の上からでも鍛えられた筋肉がはっきりと分かる。顔は同じでも、武芸の稽古に悪戦苦闘していた東国丸とは違う。
「父上は、母上に内緒で時折会いに来てくださっていましたから、寂しくはありませんでした」
「まぁ、内緒で」
堪えていたのは私だけかと、福は、いつか氏邦に会えたら文句を言わねばと笑った。
「父上は、今頃どこにいらっしゃるのでしょうか」
「前田の陣に従って、奥州のどこぞを流離っていらっしゃいますよ」
おそらく、先に投降していた支城や砦の家臣達とも再会を果たしているだろう。
「息災でしょうか」
「ご病気とはあまり縁がなかったですから、大丈夫でしょう」
その年末には、信吉が福を訪ねてきた。
「出せる茶もみかんも無いですよ」
と、言ってやったものの、
「使者として訪れた時は、怒ってらしたと聞きました」
しょんぼりした顔をしているのを見ると、
「もう終わったことです」
福は仕方なさげに笑うしかなかった。
「こちらでの仕置きが終わったので、私はこれから北国の軍へ合流しに向かいます。今日はお別れに来ました」
仏間に向かって手を合わせてから、当たり前のようにするりと福の正面に腰をおろした。
「突然鉢形の人たちが助命されるとは、殿……氏邦さまは、一体何を申し出たのでしょうか」
どうにも不承なのか、信吉が福に訊いてきたが、
「誰にも教えて貰えていないのであれば、あなたが知る必要のないことです」
氏邦と同じ答えに、信吉は諦めて口をつぐんだ。
小窓から見える曇天の空を見上げながら、福はあの日、氏邦が囁いたことを思い出していた。
平素から生真面目にものごとを見つめている、彼ならではの提案であった。
──いつか秀吉と家康がことを構えた時、武蔵は秀吉に味方する……。
秀吉と家康の仲は依然安定してるとは言い難いのは、広く知られている。
相模の武士は北条宗家との縁で、家康に接収されるであろう。
もし秀吉が光福丸を保護し武蔵を許すのであれば、その時、武蔵の武士たちは光福丸の下に皆集結するはずだ。
当然このことを秀吉や前田以外に知られれば、北条への裏切り行為と言われるに違いない。
「しかし何も起きなければ、それはそれでいい」
むしろ何も起きない方がいいと、氏邦は笑っていた。
「そうですか……では、もう帰りますが」
信吉の声に、福は、はっとした。
「鉄柱を連れて行ってもよろしいでしょうか」
「え?」
何を言っているのか分からないと、首をかしげる。
「どこへ連れて行くと?」
「上杉さまの元へです」
「は?」
「鉄柱は氏邦さまによく似ています。誰よりもいい武将になるとは思いませんか」
隠していた思いを見透かされたようで、返す言葉が見つからない。
「あの子には、もう……」
辛うじて声をしぼり出した。
「はい」
信吉は真剣な顔でうなずいた。
母上がいいと言えば行く、と答えたという。
「和尚にはお許しを得ています。あとは、姉上さま次第です」
「そうですか」
鉄柱はずっとそばにいてくれると勝手に思い込んでいたが、やはり血は争えないのか。
福は肩を落としたが、思いなおして、すぐに傍らの蒔絵の小箱から真紅の数珠を取り出した。
「兄上さまのものですか」
「えぇ、結局私の元にやってきました」
重連が誂えてくれたものは、自分の手元に置いておくつもりである。
「これを持たせてやってください」
「はい」
「見送りはしませんから、私が気付かないうちに連れ出してください」
分かりましたと、信吉は一礼して、庵を後にした。
翌春、福は四人目の男児を無事に産み落とした。
東国で生きると武家の争いに巻き込まれてしまうかもしれないと慮り、京都の寺で静かに過ごさせてやって欲しいと頼んだ。
「縁があれば、寿々子とも会えるでしょう」
これで自分がやれることは、全てやったつもりである。
あとは藤田の嫡女として、北武蔵を愛し、生き、死んでいった者たちのために、残りの人生を祈りに捧げていこうと、荒川を見下ろしながら、そう思った。
「ようやく帰ってきた」
氏邦は、冷たく澄んだ空気を胸にいっぱい吸い込んだ。
海の美しい小田原で生まれ育ったはずなのに、いつの間にか、秩父の山並みも荒々しいこの風景の方がすっかり懐かしいものとなっていた。
「あら、まぁ」
氏邦が戻って来たと知った福は、驚きの表情で迎えた。
「もう戻ってこないかと思っておりましたよ」
籠城する心づもりで、白装束に身を包み、慣れ親しんだ薙刀を握りしめていた。
女あるじらしく、帰城したばかりの家臣一行に出すための膳をあつらえるよう急いで命じた。
「おれが戻ってこないと言ったか?」
「ならば、早飛脚でお知らせくださればよかったのに」
「そんな。その手間すら惜しくて、大急ぎで戻ってきたのに」
氏邦は不貞腐れた顔をした。
「だって、小田原では議論がまとまらないと伺いましたもの……」
確かにもう少し遅ければ小田原も鉢形も敵に囲まれ、戻ることは不可能となっていただろう。
「でも」
福は上目づかいで呟いた。
「嬉しい」
一緒に籠城できるのですねと、人目もはばからずに、薙刀を放り投げて抱きついた。
「ちょっと、危ないでしょう」
「そうですね、申し訳ありません」
「それに籠城するとは決めていません」
「でも小田原へはもう行かないのでしょう」
「だいたい、このような振る舞いはあなたらしくない」
氏邦が諭して、引き離そうとするが、
「いえ、これが本当の私です」
何かを感じとっているのか、福は離れようとしない。
途端に氏邦も、必死で自制心を掲げていた若き日の自分が滑稽に思えてきて、
「しばし二人で籠もる」
その間に荷を解いておくようにと、今まで言ったことのない我が儘な命令を出した。
まだ日は高い。
しかし、嫌な顔をするものは誰もいなく、むしろ悲しげな空気さえあった。
二人きりになり、氏邦は福の肩に唇を這わせ、
「この女はおれしか知らない」と、思った。
もし、おれがいなくなったら。
藤田の血を守るために、光福丸を連れて再婚するのだろうか。だが年齢を考えたら、相手と夫婦としての繋がりを持つことはもうないかもしれない。
しかし、名目上だけの夫婦であっても、自分以外の誰かと微笑み合うのだと思うだけで頭がおかしくなりそうだった。
あぁ、おれは兄上どのと同じなのか。
いつにない夫の激しさに、福は指を噛み、気を失いそうになるのを何度も堪えていた。
本当はこうやってずっと一緒にいて欲しかった。何かを気にすることも無く、野山を駆ける民のように、野放図に抱き合っていられたらどんなに楽であったろうか。
自分が藤田の血を継いでいなければ、地獄へでもこの人について行けるのにと思った。
「ひと月しか離れていなかったのに、こんなに離れがたいのは何故だろう」
大きく息急き切りながら、氏邦が呟いた。
「私もです」
「このまま休みたい」
「寝てしまえばよろしいですよ」
福はそばに放り投げていた袿を引き寄せ、二人の上に掛けた。
外では、木蓮が風に揺れている。
先ほどまでの激しさが嘘のように、お互い憑きものが落ちたような優しい笑顔で見つめあった。
二人が部屋から出てきたのは、夜半も過ぎてからである。
「よくお休みになられましたか」
評定で軽口を言われても、氏邦は臆面もなく、すっきりした、と言った。
「放置してすまなかった」
「鉢形のものは皆、殿が好きです。これからどのように進んでいこうが、一同、殿に付いていく腹づもりだと言っていたところです」
「そなたら……」
氏邦は胸を衝かれた。
自分の判断は間違っていなかったのだと、涙が出そうだった。
せっかく切り取った北関東まで守りきれないことを詫びた上で、
「北武蔵は守りたい」
強く言い切った。
燭の火が、瞳の中で揺らめいている。
「だから、要の地である鉢形城を簡単に開けることはできないと思っている」
鉢形が陥落すれば、兵が殺されるだけではない。近隣の民は乱妨取りされ、女たちはなぶられ、飢えきった西国の雑兵たちに掠奪の限りを尽くされるのは明白である。
敵数の規模からして、その凄惨さは、当然上杉や武田の時の比ではない。
西国兵による乱取り禁制を出させるための交渉をしたいという氏邦の願いは、家臣たちに伝わっていた。
「ならば、籠城でしょうか」
結論はすぐに出た。
どれだけ出来るか分からないが、こちらに有利な条件を引き出すための時間は稼げるはずだと、誰もが思った。
そうなるよう願いながら、近隣の領民を城内に避難させて、兵糧を集中させ、さらに堀を深くし土塁を固めた。
「やはり籠城ですね」
福は明るく笑った。
「私の薙刀も上達したから戦力になります」
「怖くはないのですか」
いいえと、福は氏邦を見つめ返した。
「とうに覚悟しています。ただ……」
「光福丸のことか」
「はい」
「ならば、光福丸を町田に預けて近くの寺にやろう」
敵に見つからないうちに、家臣に託して鉢形領の隣村まで逃がすことにした。
「小田原も籠城することになったようだ」
「他の支城も皆、倣うのでしょうね」
城主たちは小田原へ行き、妻や代官が残った守備隊を率いる。福もこの前までは、そのつもりで準備をしていた。
「私は思いがけず、新太郎さまが帰ってきてくださいましたが」
脳裏に、比佐が浮かんだ。
氏照は当然小田原にいるだろうが、比佐はどうしているだろうか。
最後まで一人で城に残るのだろうか。その場合、城内のものたちは心がひとつになれるのだろうか。あるいは、先手を打って落ち延びるのだろうか。
わずかながらも気持ちが寄り添い、また会いたいと思っていただけに、気にかかった。
「小田原ではな、あなたの言っていた織田の生き残った姫たちの話もしていたよ」
「そうですか」
「親兄弟、養父まで殺した仇に囲われたと聞き、さらに忌み嫌っておったよ」
「そうですか」
福は上目づかいで訊いた。
「八王子の兄上さまは、どのようなお顔をなさってましたか」
あっと、何かに気付いた顔で、氏邦は、
「どうだったかな」
と、首をかしげた。
「どうだったかなぁ」
もう一度言い、二人で顔を見合わせた。
そんな中、とうとう鐘が領内一帯に響き渡った。
高根山の半鐘が鳴ったのは、武田信玄の襲来以来であろうか。
黒い土煙をたてながら怒濤の勢いで迫ってくる黒い塊が、山からはっきり見えた。途中、鉢形城の物資補給用に点在していた砦もあらかた潰され、すぐに高根山の半鐘も、敵に奪われた。
しかし鉢形城に籠もったものは、皆よく守った。
本丸の櫓から見渡すと、荒川沿いで水浴びをする鳥たちが集い、緑が濃く映える気持ちのいい眺めである。
対岸に陣取る軍勢の総大将の旗印は、秀吉の腹心である前田であった。他には氏邦たちの弟景虎を殺した上杉や、浅野といった幟が見える。
沼田では、猪俣が真田と対峙しているようだが、そちらもじきに秀吉の援軍に囲まれるだろう。
数はいつぞやの武田の比ではないが、時折氏邦自ら夜襲をかけ、籠城軍の士気を落とすことはしなかった。
返り血を浴びて戻って来ても、もう冷静さを失うこともなく、むしろ遠くを見るような静かな目をしていた。
やがて東海道から進軍した連中が、氏政の言っていたとおり、兵糧不足で焦りを見せ始めていた頃、東山道から鉢形城を囲みに来た者たちも、ひと月ほど続く睨み合いに苛立ちをみせていた。
鉢形城の補給用物資を奪ってもなお兵糧は足りず、近隣の村から奪おうにもすでに鉢形城内に運び込まれた後であり、じっとりとした暑さに身も心も堪えた表情を隠せなくなっている。
陣の所々、味方同士で諍いを起こしているのが、こちら側からも見えた。
「潮時か」
六月に入り、氏邦の首を差し出す代わりに、いまだに残っている五つの武蔵の城、岩付、鉢形、八王寺、忍、津久井を助命してやって欲しい、という使者を前田の陣へ向かわせた。
数日後、回答がきた。
降伏は認められない、とあった。
秀吉は、「首などいらぬ。とにかく、備中高松城のように徹底的に囲んで、威圧しろ」と言っているという。
秀吉はかつて、備中高松城を無残な目に合わせ、己の力を見せつけ毛利を屈伏させたと伝え聞く。
氏邦は福の部屋へ来て、ため息をついた。
「この鉢形を見せしめにし、小田原の士気を落とそうというつもりのようだ」
「どうなさるおつもりで?」
福が手ずから、みかんを搾って果汁を差し出すと、
「まだ手はある」
氏邦はひと息で呷り、気持ちを落ち着けた。
「これなら……という案はある。たださすがに評定では言えない。あなただけに打ち明けたい。聞いてもらえるだろうか」
秀吉の腹心である前田に内密に申し入れるつもりだと、膝を進めて、うなずく福の耳元で囁いた。
・・・・。
「へぇえ?」
思わずおかしな声が出た。
「もしも、ですよ。それが聞き入れられたなら、北条へ対しての裏切り行為となるのでは」
不安そうな顔の福に、氏邦は強いまなじりで言い切った。
「たとえ北条への裏切りとなっても、この地の者たちが助かるなら、おれが罪を被ってもいいと思っている」
「……」
「最後は北条ではなく、やはり藤田の当主としての責任を全うしたい」
「そうですか」
そのために鉢形へ戻る決意をしたのだと言う氏邦を、福はまぶしそうに見つめた。
「あなたが罪を背負う覚悟なら、私も共に背負いましょう」
灯燭の翳で、氏邦の睫毛が揺らいだように見えた。
「その時が来たら光福丸に託したいと、あの子の保護を願い出る」
武蔵の武士は義理堅い。藤田の跡取りを保護しておけば、必ずその下に集まるであろう。
「責を負うためにおれの首は差し出すが、後のことは頼んでいいね」
「承知しました」
「おれに寄り添って生きてくれたのが、あなたでよかった」
「とうに覚悟はできておりますもの」
福は小さく笑った。
そうこうしている間にも、近くの車山から大砲が打ち込まれ、城内にも被害が出るようになっていた。
もう時間はない。
前田に使者を遣わすと、思いがけず前回よりも早く回答が届いた。
その使者として、藤田信吉が来た。武田滅亡後、上杉で禄を食んでいるという。
「まぁ、どの面を下げて来れたものか」
これを聞いた福は腹を立てたが、氏邦は、
「そう叱ることもない。弥六郎の立場も考えてやろう」
悟ったように、庇ってみせた。
「氏邦さま、お久しぶりでございます」
拝謁の場に出てきた氏邦に対して、感情を殺すようにできるかぎり平坦な声で、信吉は、前田からの書状を差し出した。
楽しかったここでの思い出は、遠い昔である。
「前田さまは、すぐに返事が欲しいとのことです」
前田自ら秀吉の陣に参じ、内々に相談をしたという。
おかげで氏邦の提案は受け入れられることになったが、勝手に自らの陣を離れたと叱責されたらしい。
「催促するために、身内のそなたを寄越したのだな」
言いながら、その場で書状に目を通すと、氏邦は大きな声で笑いだした。
「そなたは、殺したいほどおれを憎んでいるのかもしれないが」
「いえ、そのようなことは」
「遠慮するな。でなければ、あの状況で裏切るはずもない」
氏邦は近侍に筆を持ってこさせ、書状の裏に、了解するという旨を簡単に書き込んだ。
「しかし、残念だったな。鉢形城は開城となったよ」
「え?」
「おれも、質として前田どののお預かりだと」
突然の秀吉の軟化に、信吉は驚きを隠せなかった。
「一体何を申し入れたのですか?」
「そなたが上杉どのから聞かされていないのであれば、おれの口から教える必要はないし、そもそも前田どの以外は知らぬだろう」
「はぁ…」
「明朝さっそく青龍寺にて髷を落として、前田本陣に参ろう。そのように伝えておいてくれ。後の手配はこれから評定で決めて、追って伝える」
信吉をさっさと帰してから、氏邦は評定で、決定事項として鉢形城の開城を伝えた。
家臣一様に、
「どのように交渉なさったのだ」
と、驚いたが、
「それは聞いてくれるな」
氏邦が深く長く頭を下げると、皆大人しく従った。
全てのお膳立てを終えた氏邦は、福の部屋に行くと、
「やぁ、終わった、終わった」
解放されたように、ごろりと横になって、福の膝の上に頭を乗せた。
ことの仔細を話し終えると、
「韮山の兄上さまに負けず、きちんと西国と交渉いたしましたね。しかも豊臣ですよ」
しかも開城に際して、兵たちの乱暴無道の禁制も約束させている。
福は、よう頑張りなされたと、優しく氏邦の頬を撫でた。
「あなたは今いくつだ」
ふいに氏邦が訊いた。
「今年で四十になりましたが」
「そうか。ではぎりぎり間に合うかな?」
「え?」
首をかしげる福に、氏邦は、
「最後にもう一度、女の博打を打っては貰えないだろうか」
小田原で勝千代が生まれたのが羨ましかった、と素直に打ち明けた。
「……」
福は、驚いたように丸い瞳を見開いたが、しばらく考えて、
「はい、がんばります」
と、うなずいた。
氏邦は身体を起こし、白い歯をこぼした。
「あら、何がおかしいのでございますか」
「いや、かわいいなと思って」
「私は真剣に答えたのですよ」
「いや、おれはいつでも真剣だよ」
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この三十年で初めて見た妻の仕草に、氏邦は少年のように胸が高鳴り、両手で顔を覆った。
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小田原の人々が忌み嫌っていた、二度の落城をした織田の姫である。
もしかして見下されるのが屈辱で……いや、生まれたばかりの我が子を置いてまでとは思うが、それほどまでに嫌っていたのだと言われたら、否定する気にもなれない。
鉢形城を許した代わりに八王子城が見せしめの標的にされ、凄惨な目に合い、非戦闘民の子女たちまで首を晒されたと聞いた。比佐の行方も聞こえてこない。
北条が頼みにしていた東北の雄、伊達も秀吉の元へ参上してしまい、槍も太刀も折れ、矢玉も枯れ果てた小田原城はとうとう力尽き、開城となった。
秀吉はこの度の戦さの責として、北条家から氏政、氏照、重臣も上位席次の二人にそれぞれ切腹を命じた。
──見知った人たちは、粗方いなくなってしまった……。
鉢形城を出た福は青龍寺の片隅に小さな庵を結び、仏を拝んで過ごしていた。菊名も見守るように、燐家に控えていてくれている。
地元の民が何くれと世話をしにきてくれているので、暮らしに困ることはない。
全ては氏邦がこの地を安寧に治めていたからこそだと、福は信じている。
わずかに目立ち始めたお腹も、
「お殿さまが残していった宝」
として、誰もがいたわってくれた。
少しでも気が緩むと、あの日、氏邦が城門を出て行った光景が瞼に浮かぶ。
わずかな供回りのみを連れて去ってゆく後ろ姿は、今思い出しても堂々としており、清々しいような気さえする。
爽やかな風の吹き抜ける早朝、
「では、達者でな」
朝露を踏みしめながら手を振る後ろ姿を、絶対泣くまいと決めて送りだしたが、胸の奥が夕べの名残りで疼き、それがこの上なく辛かった。
「母上」
氏邦とよく似た声で呼びかけられ、我に返った。
「また父上のことを思い出してましたね」
「まぁ、鉄柱」
福がここに来てから、頻繁に顔を出しにきてくれている。
「ずっと離れて暮らしていたのに、なぜいつも分かるのですか」
聡い子ねと、福が笑うと、
「私は離れていてもみなのことを考えておりましたから、分かりますとも」
修行の成果だと、鉄柱も嬉しそうに笑い返した。
「あなたには長らく我慢を強いてしまいましたね」
「いいえ、我慢などとは思っていません。全て自分の運命です」
「殿の跡取りとして、光福丸が町田どのの元で養育されております。そなたには辛い思いをさせているのではないですか」
「今は昔です。全て受け入れて、どう生きるかは自分で決めたのですから」
改めて見ると、亡くなった東国丸よりも明らかに体躯がいい。法衣の上からでも鍛えられた筋肉がはっきりと分かる。顔は同じでも、武芸の稽古に悪戦苦闘していた東国丸とは違う。
「父上は、母上に内緒で時折会いに来てくださっていましたから、寂しくはありませんでした」
「まぁ、内緒で」
堪えていたのは私だけかと、福は、いつか氏邦に会えたら文句を言わねばと笑った。
「父上は、今頃どこにいらっしゃるのでしょうか」
「前田の陣に従って、奥州のどこぞを流離っていらっしゃいますよ」
おそらく、先に投降していた支城や砦の家臣達とも再会を果たしているだろう。
「息災でしょうか」
「ご病気とはあまり縁がなかったですから、大丈夫でしょう」
その年末には、信吉が福を訪ねてきた。
「出せる茶もみかんも無いですよ」
と、言ってやったものの、
「使者として訪れた時は、怒ってらしたと聞きました」
しょんぼりした顔をしているのを見ると、
「もう終わったことです」
福は仕方なさげに笑うしかなかった。
「こちらでの仕置きが終わったので、私はこれから北国の軍へ合流しに向かいます。今日はお別れに来ました」
仏間に向かって手を合わせてから、当たり前のようにするりと福の正面に腰をおろした。
「突然鉢形の人たちが助命されるとは、殿……氏邦さまは、一体何を申し出たのでしょうか」
どうにも不承なのか、信吉が福に訊いてきたが、
「誰にも教えて貰えていないのであれば、あなたが知る必要のないことです」
氏邦と同じ答えに、信吉は諦めて口をつぐんだ。
小窓から見える曇天の空を見上げながら、福はあの日、氏邦が囁いたことを思い出していた。
平素から生真面目にものごとを見つめている、彼ならではの提案であった。
──いつか秀吉と家康がことを構えた時、武蔵は秀吉に味方する……。
秀吉と家康の仲は依然安定してるとは言い難いのは、広く知られている。
相模の武士は北条宗家との縁で、家康に接収されるであろう。
もし秀吉が光福丸を保護し武蔵を許すのであれば、その時、武蔵の武士たちは光福丸の下に皆集結するはずだ。
当然このことを秀吉や前田以外に知られれば、北条への裏切り行為と言われるに違いない。
「しかし何も起きなければ、それはそれでいい」
むしろ何も起きない方がいいと、氏邦は笑っていた。
「そうですか……では、もう帰りますが」
信吉の声に、福は、はっとした。
「鉄柱を連れて行ってもよろしいでしょうか」
「え?」
何を言っているのか分からないと、首をかしげる。
「どこへ連れて行くと?」
「上杉さまの元へです」
「は?」
「鉄柱は氏邦さまによく似ています。誰よりもいい武将になるとは思いませんか」
隠していた思いを見透かされたようで、返す言葉が見つからない。
「あの子には、もう……」
辛うじて声をしぼり出した。
「はい」
信吉は真剣な顔でうなずいた。
母上がいいと言えば行く、と答えたという。
「和尚にはお許しを得ています。あとは、姉上さま次第です」
「そうですか」
鉄柱はずっとそばにいてくれると勝手に思い込んでいたが、やはり血は争えないのか。
福は肩を落としたが、思いなおして、すぐに傍らの蒔絵の小箱から真紅の数珠を取り出した。
「兄上さまのものですか」
「えぇ、結局私の元にやってきました」
重連が誂えてくれたものは、自分の手元に置いておくつもりである。
「これを持たせてやってください」
「はい」
「見送りはしませんから、私が気付かないうちに連れ出してください」
分かりましたと、信吉は一礼して、庵を後にした。
翌春、福は四人目の男児を無事に産み落とした。
東国で生きると武家の争いに巻き込まれてしまうかもしれないと慮り、京都の寺で静かに過ごさせてやって欲しいと頼んだ。
「縁があれば、寿々子とも会えるでしょう」
これで自分がやれることは、全てやったつもりである。
あとは藤田の嫡女として、北武蔵を愛し、生き、死んでいった者たちのために、残りの人生を祈りに捧げていこうと、荒川を見下ろしながら、そう思った。
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