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1章 死と出会い

悪い予感

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メルルーシェは赤ん坊を抱きながら途方に暮れていた。リエナータに事情を説明したものの、ふたりの見解は同じだった。

このままではこの子は孤児院に預けるしかない。
神殿はあくまでも神に祈る場所であり、子どもの面倒を見ながら働けるような場所ではなかった。

すっかり暗くなってしまった森を抜けて裏門まで戻ったふたりは、並び立てかけられている灯り杖からひとつ適当に手にして光を灯す。

「とりあえずこの子にお乳を飲ませないとよね?どうしよう、私お乳なんて出ない」

「そうね…産んでないのだからそれは仕方ないわ。どうするか姉さんに聞けば…」

リエナータがはっと顔を輝かせた。

「姉さんにお乳をあげてもらいましょう」

リエナータいわく、彼女の姉マルマラータは2人目を出産したばかりでお乳が出るそうだ。


ふたりは赤ん坊を預け合い交互に服を着替えに戻って準備を終えると、リエナータの姉マルマラータの住む自宅へと向かった。幸いなことにマルマラータの夫は隣町のハッセルへと赴く仕事に就いているため、自宅はハッセル方面に建つ神殿からはそう遠くない場所だった。


「それにしてもこの子、ベルへザード人ではなさそうよね。どうしてこんな酷い怪我を…」

リエナータがヴェールに包まれた赤ん坊の額を痛ましそうに眺める。

「額の火傷はこれから治せるかもしれない。けれど脚は…」

灯り杖に照らされて頬に長い睫毛の影を落とした。

口ごもったメルルーシェを勇気づけるように、リエナータが背中にそっと触れた。

「脚を失うことも珍しくはないわ。
魔具技師に脚を作ってもらえば不便なく生活出来るようになる。大丈夫よ」

そうする内にリエナータがある方向を指した。

「見えにくいけれどあの辺よ」


****

家の木扉を数回叩くと、背の高い男性が顔を出した。

「今晩は。アルファス兄さん、遅くにごめんなさい。姉さんに少し会いたいの」

メルルーシェもリエナータに倣ってお辞儀をする。穏やかそうな男性は、リエナータの顔を見ると微笑んで家の中へと通してくれた。

「遅くに来るのは珍しいねリエナータ。ご友人も今晩は。マルマラータを呼んでくるから少し待っていておくれ」

アルファスはメルルーシェの胸に収まった赤子を一瞥しただけで、何も尋ねることなく別室へと向かった。


少ししてから扉の静かな開閉音と共に女性が現れた。リエナータと顔立ちが似ているが、紺色の髪のリエナータと違ってマルマラータは水色の髪を緩くまとめている。

「どうしたの?リエナ、遅くに」

マルマラータは大きな瞳をすぐにメルルーシェに向けた。メルルーシェはすぐに挨拶と、遅くに訪ねた謝罪を行った。夜は夫婦の時間であり、家族以外が邪魔をすることは無礼とされているからだ。


マルマラータは微笑んでメルルーシェの抱く赤ん坊に目をやった。

「どうやら大変みたいね」

ぐずり出した赤ん坊をメルルーシェが持て余している様子に苦笑した。

リエナータが簡単に事情を説明すると、マルマラータはメルルーシェから赤ん坊を受け取って横抱きにすると、火傷の後に驚いた様子を見せながらもお乳を与え始めた。

最初は嫌がるように弱々しく抵抗していた赤ん坊も、すっかり大人しくマルマラータの胸に収まっていた。

マルマラータは赤ん坊がお乳を飲む間、隣に座ることを快く許してくれた。マルマラータの両脇を挟むように座ったふたりは赤ん坊の様子にほっと一息ついた。

マルマラータが授乳している間、ふたりは神の庭での出来事を詳しく話して聞かせた。

「うーん、本当に不思議ね。瞳を見る限りはベルへザード人の血を引いてそうだけれど、肌の色は…ダテナン人なのか、アレハンビア人か分からないわね」

小麦色の肌にそっと触れながらマルマラータが呟いた。メルルーシェも覗き込むように色素の薄い茶色の柔らかな髪に優しく触れてみる。

頬を撫でたメルルーシェの指を小さな手がぎゅっと握った。一緒に胸も掴まれたような、泣きそうな気持ちになる。

(一体誰がこの子をこんな目に合わせたのだろう。)


メルルーシェは赤ん坊を刺激しないように小声で尋ねた。

「私もお乳が出るようになりますか?」

不安げに自分を見つめるメルルーシェの様子に、抑えられなかったのかマルマラータの笑いが溢れる。

「笑ったりしてごめんなさいね。あなたがとても深刻な顔をしているから」

マルマラータは微笑みながら続ける。

「あなたのお乳は残念ながら出ないけれど、大丈夫よ。これからは代わりにヤギの乳をもらってきて飲ませるといいわ」

マルマラータは、産後でもお乳が出ない女性はいるのだと教えてくれた。横で静かに話を聞いていたリエナータが戸惑ったようにメルルーシェを見る。

「メル、あなたこの子を自分の子として育てるの?」

「まだ分からない…けれど、このまま放っておくことは出来ないわ」

「孤児院に預ければいいじゃない。連れたまま神殿勤めなんて無理よ」

胸がきりきりと締め付けられるような感覚に襲われる。リエナータは正しい。

ふたりのやり取りを黙って聞いていたマルマラータが、気遣わしそうにメルルーシェを見つめる。

「メルルーシェちゃん、子どもを育てるのはとても大変よ。ましてや自分の産んだ子どもでなければもっと大変だと思う。一度孤児院に預けてゆっくり考えてみるのはどう?」


「そう…ですね」

メルルーシェは自分がどうしたいと思っているのか、はっきりと分からなかった。酷い傷を癒してあげたいと思う気持ち、漠然とした将来への不安、仕事への責任感、胸の中に様々な感情が渦巻いていて答えることが出来なかった。


「今日はもう孤児院を訪ねられるような時間じゃないわね。明日まで家でこの子を預かっても良いか、少しアルファスに聞いてくるわ」


マルマラータは静かな声でそう告げると、授乳を終えて寝息をたてる赤子をメルルーシェへとそっと渡した。

浮かない表情のまま頷いたメルルーシェは赤ん坊に視線を落とした。大きな瞳は閉じられていて、握りこまれた手が小さな胸に乗っている。


ぎゅっと握られた手の感触を思い出して胸がちくりと痛む。


「リエナータ、やっぱり私この子を孤児院に預けるなんて出来ないわ」

潤んでいく視界に自分でも動揺しながら、必死に涙が零れ落ちないように瞬きを止める。一体何の涙なのか自分でも分からないのだ。

「メル…」

リエナータがメルルーシェの肩を抱いた。

零れ落ちた涙はヴェールに吸い込まれるように消えていった。

「じゃあ神殿司にお話しなければならないわね。
もし追い出されるようなことになったらこの親友を置いて神殿を出るの?私と神殿を捨てていくなんて、死の神イクフェス様のバチが当たるわよ」

軽口を叩きながらも協力する姿勢を見せてくれるリエナータに、涙ぐみながらも笑ってしまう。

「どちらにしても、今日は姉さんに預かってもらった方がいいわ。神殿司に話をするのは明日よ」

リエナータの言葉に頷いた。貰い泣きをしたリエナータを笑っているところにアルファスを伴ったマルマラータが戻ってきた。

「アルファス兄さん、迷惑をかけてごめんなさい」

リエナータが謝り、メルルーシェも一緒に頭を下げる。

「事情はマルマラータから聞いたよ。大丈夫だから安心してお帰り。さぁ、これ以上遅くなると危険だ」

夜泣きすると大変だろうに、ふたりは快く引き受けてくれた。

「明日、緑の時に迎えに来ます」

(ふたりに数多の神の祝福を)

メルルーシェは心の中で感謝を述べた。



****


礼拝堂2階の、礼拝者からは見えない場所で厳格そうな女性神官から叱責を受けて俯くふたりの姿があった。

内容は勿論、昨晩の外出に関してだった。

「一体何時まで外出していたの。夜外に出ることは危険です。清め湯から戻ってないと聞いてどれだけ探したか」

「それには理由があって…」

「セティス=リエナータ、言い訳はおやめなさい。
セティス=メルルーシェ、貴女もです。礼拝堂の掃除に体調の不良で出席していないと思えば夜遅くに戻ってきて…」

神官指導官かつ女性寮監のエリザベートは、これでもかと目を吊り上げてふたりを叱責していた。

エリザベートは厳格でやや物言いに尖った所がある神官指導官だが、メルルーシェはエリザベートのことを尊敬していた。リエナータは彼女を大の苦手としているが。

「事実だけを認めなさい。貴女たちは淑女なのですよ、自分の行動には責任を持ちなさい」

「「はい…」」


癒しの必要があり途中で抜けたメルルーシェとは違ってエリザベートの説法叩きを完走したリエナータはげっそりとしていた。

そわそわと礼拝堂中央天井にそびえる6色の色ガラスを確認しているメルルーシェを見て呆れたように呟く。

「メル、まだ緑の時まで鐘2つ分はあるのに。そんな状態で死の神イクフェス様に仕えて…宵の国でバチが当たっても知らないわよ」

ばつが悪そうに項垂れたメルルーシェが、子犬のような目をリエナータに向ける。

「でも心配で仕方がないわ。ねぇリエナータ、神殿司に話すとき近くに居てくれる?」

リエナータはため息をつきながら「勿論よ」と答えた。


神殿に勤める3人の癒し手の内、神殿に住み込みで働いているのはメルルーシェだけだった。

基本的には神に仕える神官は住み込みで、男女共に神殿2階部分に分かれて生活している。しかし癒し魔法の使い手である癒し手の内、治療を行える程に熟達した人材は貴重であるため、住み込みではなく家から通っている者が多い。

メルルーシェは貯めたお金で家を借りて、通いで働けるように交渉するつもりだった。


母が亡くなってから隣の老夫婦に世話になっていたメルルーシェは、母が死後宵の国で安らかに過ごせるように、死の神イクフェスを奉るこの神殿に通うようになった。

神殿司が幼かったメルルーシェに声をかけ引き取ってくれたのは、隣町ハッセル神殿の癒し手だった母の才能を買っていたからだった。

「うまく交渉出来るかしら」

「大丈夫よ、貴重な癒し魔法の使い手だもの。手放すはずないわ」


緑の時が迫ると、ふたりは食事で離れることを告げて姉夫婦の自宅へと向かった。

マルマラータの家は夜見たときと違ってはっきりと見えた。白い外壁で質素な作りながらも所々取り入れられた青い飾りが精巧で美しく、木扉に至っては小花と小鳥のシンボルが彫られていて舌を巻いた。

見惚れているメルルーシェに気付いたリエナータがくすくすと笑った。

「アルファス兄さんは腕の立つ細工師なのよ。姉さんも本当に良い人を捕まえたわよね、羨ましい」

ふたりが数回扉を叩くと、しばらく慌ただしい足音が聞こえてマルマラータが現れた。

「待たせてごめんなさい。どうぞ中に入って」

柔らかそうな水色の髪を不規則に散らしたマルマラータが、恥ずかしそうな笑みを浮かべて扉を開けた。

「マルマラータ様、本当にありがとうございます…」

メルルーシェは少ししか眠れていなさそうなマルマラータの様子に心を痛めた。

「いいえ、うちの子が夜泣きが酷いの。気にしないでちょうだい」

そう言って微笑んだマルマラータは、ふたりに何か飲むかを尋ねた。

「お邪魔するのも申し訳ないので、あの子を連れてすぐに戻ります」

メルルーシェの言葉にリエナータも頷いた。

「姉さん、ありがとう。神殿司がいる内に話をしに行かないといけないの。すぐに出るわ」

マルマラータは察したように何も聞かずに頷くと、赤ん坊を連れに別室へと向かった。


「兄さんによろしくね」

玄関口でリエナータが元気に言うと、マルマラータがまるで軽口を叩くときのリエナータそっくりに微笑んだ。

「アルファス、あなたのお相手が居ないことを心配していたわよ」

「要らないお世話だわ!」

少し赤くなったリエナータを笑いながら、マルマラータが布袋を手渡した。赤ん坊で手が塞がっているメルルーシェの代わりにリエナータが受け取る。

「中に今日の分のその子のお乳を入れてあるわ」

ふたりで中を覗くと、見慣れない形の瓶に乳が入っていた。簡単に使い方を教えてもらうと、ふたりはマルマラータに手を振りながら神殿への帰路についた。

「お姉さん本当に素敵な女性ね。雰囲気はリエナータにはあまり似てないけれど」

(相手に気を遣わせない優しさや、からかうときの表情がそっくりだったわ)

胸の暖かな温もりに顔を緩めたメルルーシェに、自身の顎に手をかけたリエナータが真剣そうに声を作って言葉を返す。

「そうね。そんなに私の方が魅力的に見える?あなたは本当に私が好きね」

ふたりが笑い声をあげながら歩いていると、後ろから馬車の音が聞こえてきた。道を空けながら、近付いてきた神殿への門に緊張を感じていると、妙に見覚えのある馬車がふたりを追い越した。


ふたりが神殿の門をくぐると同時に、馬車からロナードが降りてきた。

「ややこしい、今はややこしい」

一瞬目が合ったメルルーシェが固まっていると、リエナータが小声で悪態をつきながらメルルーシェを隠すように間に立って腕を引っ張った。

リエナータの努力は虚しくロナードはメルルーシェを覗き見るように上体を横に捻った。

「待ちたまえ」

リエナータの悪態に異論はなかった。
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