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2章 ふたりの生活

夢の話

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柔らかな胸から伝わる穏やかな鼓動が、暖かい吐息が、メルルーシェの匂いが、悪夢にうなされていたラミスカの心を徐々に落ち着かせていった。

石鹸と、薬屋の独特の匂いと、甘い花の蜜が混ざったような匂いがする。
ラミスカはメルルーシェの匂いが好きだった。

昼間ベルへザード兵と接したせいだろう。ラミスカはニアハだった頃の夢を見た。ぬかるんだ地面の感覚、手に掴んだ兵士の頭の感触がまだ残っている。

早鐘を打つラミスカの心臓の音が聞こえているかのように、メルルーシェが優しく髪を撫でる。

「どんな夢だったの?」

メルルーシェの淡い紫色の瞳が心配そうにラミスカを見つめる。

ラミスカは答えることを躊躇った。

(自分がただの赤子ではなかったと知ったら、メルルーシェは自分を蔑むだろうか。自分の元から離れるのかもしれない。)

「大丈夫、無理に話さなくてもいいのよ。
楽しいことでも考えましょうか」

「楽しいこと?」

「これからどんな風に過ごしたいか、とか。楽しい想像をしましょうか」

少し身体を起こしたメルルーシェが、子どもっぽい笑顔になった。

「メルルーシェと一緒に暮らす」

考えてから素直な気持ちを口にすると、少し面食らったように目を開いたメルルーシェが困ったように頬を掻いた。

「まぁ、そうね。しばらくは…一緒に暮らすでしょう。
けれどあなたが大きくなる頃には、あなたにも大切な人が出来てその人と一緒に家庭を築くことになるのよ」

メルルーシェが諭すような口調で続ける。

「あなたは優しい子だし顔立ちも素敵だから、きっと沢山の中から相手が選べるわ」

火傷の痕があった所に触れながらメルルーシェが微笑んだ。

火傷痕はすっかり分からなくなった。火傷がかかっていた右目も腫れぼったくなくなり、痛みもなくなった。
ニアハだった頃は鏡など殆ど見たことはなかった。醜い顔だと嫌悪していたことも原因のひとつだ。

ラミスカとして過ごす内に鏡に映る自分も見慣れた。
顔の火傷痕が治ったことで、これほど日々の苛立ちが薄れるとは思ってもみなかった。

「あら?ラミスカ、照れているの?」

メルルーシェが耳に触れるので、寝返りをうってそっぽを向いた。

「照れてない。楽しいことは分からない。相手もいらない」

「今だけよ。そんな風に言うのは」

くすくすと笑うメルルーシェに、口をへの字に引き結ぶラミスカ。

最近何故かは分からないが、メルルーシェと話したり近くにいるとむずむずする。身体がくすぐったいような、そんな病気があるか聞いたほうがいいかもしれない。

ラミスカがそんなことを考えていると、窓の外を見つめているのだろうメルルーシェが言葉を紡ぐ。

「私はそうね…穏やかな気候の土地で…美しい湖があって、そんな所に家を建ててのんびりと暮らすの。動物も何種類か飼って、後はあなたがたまに顔を出してくれればいい」

子守歌のようなメルルーシェの声を聞きながら寝返りを打つ。

「それがメルルーシェの楽しいこと?」

「うーん。どこかの国の大貴族が偶然私に目を留めて、楽な生活をさせてくれるのもいいかもしれないわね」

「どこの国の人?」

メルルーシェが笑いながら「冗談よ」とラミスカに返した。

「あとはリエナータに会いたいわ。お母さんにも」

眉尻を下げたメルルーシェの呟きは消え入りそうに小さかった。


ラミスカは神殿で拾われた頃の記憶は殆どない。
けれどメルルーシェがたまに“リエナータ”の話をするので、ラミスカも名前は知っている。モナティの神殿にいるメルルーシェの親しい友だ。

メルルーシェにも母がいて、その母に会いたいと思うのだな、とぼんやりと考える。
ニアハにも母がいたはずだが、ラミスカは母に会いたいと思ったことなどなかった。


「だから、そうね……。
リエナータと一緒に死の神イクフェス様にお会いして、お母さんに会わせてもらったあとにどこかの国の大貴族が私に目を留めて、湖の近くに家を建ててくれるの。そこでゆっくりと過ごすわ」

気を取り直したメルルーシェは、楽しそうに自分の夢を宣言した。

「こんな感じで自分の好きな未来を想像するのよ。楽しくなってきちゃった」

(メルルーシェの母親は既に死んでいるのだな。)

楽しそうなメルルーシェを見つめながら口を開く。

「何をすれば、楽しいと感じるのか分からない」

それがラミスカの本心だった。
メルルーシェは穏やかな表情に戻るとラミスカの頬に触れる。

「そうよね、あなたはまだ6年しか生きていないんだもの。
これから楽しいことは沢山あるわ。見つけていけばいいの」

メルルーシェが優しい笑顔をラミスカに向けた。

「時々あなたがまだ幼いということを忘れてしまうことがあるの」

ラミスカは、自分が隠していることがあるということが、胸になにかが引っかかったような、奇妙な感覚になることに初めて気が付いた。

メルルーシェに自分が6年以上、それどころかメルルーシェを遥かにしのぐ年数を生きていること。そして自分が以前どんな風に生きていたか、知られるのが恐ろしかった。

(恐ろしいとはこんな感情なのか。)

メルルーシェに背を向けたままシーツをぎゅっと掴んだ。

「さぁラミスカ、もう眠れるかしら?今日は一緒に寝る?」

背中から聞こえるメルルーシェの声に目を閉じた。

「…うん」




****


数日後、メルルーシェとラミスカは薬草の束を手に魔具工房へ向かっていた。

昨日の帰りに、薬草を扱う旅の行商人がやってきたので沢山買い込んだのだった。
薬屋にスーミェが来てから、ユンリーの体調が良い日はメルルーシェは早く帰ったり、休むことができるようになった。

朝の清々しい空気をたっぷりと吸い込みながら歩くふたりに、すれ違う町の人から様々な声がかかる。

ラミスカも控えめな挨拶を交わすようになったが、眉間によった皺が彼の機嫌が麗しくないことを表していた。

「ラミスカ、思っていることがあるなら話して」

わずかな変化だが足取りの重いラミスカに、メルルーシェが困った顔で尋ねる。
このままアルスベルに預けても無礼を働かないか心配だ。

「別にアルスベルじゃなくてもいい…」

ラミスカは手一杯に抱えた薬草に顔を埋めながらぼそっと呟いた。

「でもアルスベル様は精密に魔力を扱える優秀な方よ。
快く引き受けてくださったし、魔力の扱いを学ぶのにこれ以上の方はいないじゃない」

そう、メルルーシェはラミスカに魔力の扱いを学ばせようとしている。
ラミスカとは対相性である水魔法の使い手であり、魔力量と技術共に高い能力を持つアルスベルに白羽の矢が立ったのだった。

じとーっと自分を見つめるラミスカに首をかしげるメルルーシェ。

(アルスベル様に教わるのは嫌なのかしら。)

メルルーシェ自身が教えようとも考えたのだが、ラミスカの魔力が暴走してもメルルーシェには自分の身しか守ることが出来ない。
前回の暴走でそれを痛感したので、水魔法の使い手であるアルスベルであれば、子どものラミスカの炎魔法はある程度抑えることが出来るだろうと考えたのだった。

前回の魔力の暴走は初めての発現だった故に属性の影響が少なかったが、次からはそうもいかないだろう。メルルーシェは、本を読み魔力の扱い方を学ぼうとしているラミスカの姿を見てアルスベルに相談したのだった。

本来ならば、魔力量の多い者はその扱い方を学ぶために首都の教育機関へ通うことを推奨されるが、ラミスカを首都へ行かせる気にはどうしてもなれなかった。

「本当に嫌なら言ってね、無理にでも行かせようと思っているわけではないから」

近づいてきた魔具工房の扉を叩く前に、メルルーシェが小声で告げた。

「うん」

扉を開けると、顔を上げたアルスベルがふたりを見て表情を緩める。

「いらっしゃい。今日は大荷物だね」

「ラミスカの持ってる分は、茶葉にできる香りのいいものを4種類ほど持ってきたの。いつものお礼です」

メルルーシェがラミスカに薬草束を渡すように目くばせする。

「ありがとうラミスカ、メルルーシェ。
ありがたく頂戴するよ」

ラミスカから束を受け取ったアルスベルが嬉しそうに笑った。

「台所の風の通る場所などに吊るして保管してくださいね」

「あぁ、そうするよ。少し待っていてね」

アルスベルが薬草束を手に工房奥へと向かった。

アルスベルの姿が見えなくなって束の間、すぐ背後の扉が開いた。新しい客のためにラミスカの手を引いて端に寄る。

「どうも、失礼する」

金に近い明るい茶髪を短く刈り揃えた男の緑の瞳と視線が交わる。ベルへザード人らしい切れ長の冷たい印象の瞳に、何となく視線をさ迷わせる。

丁度奥から戻ってきたアルスベルが、入口に立つ男を見て表情を曇らせた。

「クライン…今日は工房には来ないようにと言っただろう」

「そう言うなよ兄さん、寂しいじゃないか」

メルルーシェは驚いた顔で、おどけた口調の男を見上げる。
体格が良いこの男はアルスベルの弟らしい。

「こちらは弟のクラインです。少しエッダリーにいることになって…
クライン、こちらはメルルーシェとラミスカ。うちのお得意様だ」

メルルーシェは違和感を感じながらも、手を差し出したクラインの挨拶に応じた。

「アルスベル様、私は薬草を薬屋に持って行ってしばらく作業を行うので、ラミスカのことをよろしくお願いいたします」

「今日はやっともらえたお休みなんだろう?
ゆっくりした方がいいんじゃないかい?」

アルスベルは少し呆れたように笑う。

「えぇ、でも久しぶりにユン様の具合がいいみたいだから」

メルルーシェは微笑んでアルスベルに迎えの時間を伝えると、クラインに会釈をして工房を後にした。


アルスベルの弟クラインは、どこか聞き覚えのある声だった。首を捻りながら薬屋へと向かうメルルーシェだった。


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