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3章 わかたれた道

決意

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晩までメルルーシェは高熱を出して寝込んだ。


日が落ちてスーミェの顔にも疲れが浮かんでいるのを見て、ラミスカは口を開いた。

「後は大丈夫。ちゃんと見てる」

スーミェが微笑んで数種類の小瓶を机に置いた。

「これ以上急に体調が悪くなることはないわ。
寝汗をかいていると思うけど、夜に目が覚めたらこれを少しずつ飲んでもらって。メルルーシェさんが見れば分量は分かるわ」

「スーミェ、ありがとう」

スーミェが見えなくなったのを見届けて、小瓶を手に奥の部屋へと向かうと、メルルーシェは寝苦しそうに汗をかいていた。

額の汗を水で濡らした布で拭うと、気持ちよさそうに表情を緩めた。

とりあえず汗をかいている顎や首筋を拭っていく。
しばらく水を含んだ布を額に当てて、穏やかな寝顔を見つめていた。

(水魔法なら身体や髪を洗ってあげられたかもしれない。)

自分がそんなことを感じるなど想像したこともなかった。


どれくらいの時間が経ったのか、椅子に座ったまま眠りかけていたようで、顔をあげるとメルルーシェが自分を見つめていた。

「目が覚めたのか……」

「…ラミスカ、あなた本当に大きくなったわ。12、3歳に見える」

何度か瞬いてまじまじと自分を見つめる視線に居心地が悪くなる。


ラミスカはメルルーシェの額に乗った布を取り払うと、飲み水を手渡した。前髪に癖がついて変な方向に飛び出している。

「声も少し変わったわ」

メルルーシェは身体を起こすと、半分以上水が残ったグラスを隣の台に置いて、眉尻を下げて心配そうにラミスカの顔に触れた。

「少し身体を見てあげる」

メルルーシェが集中しようとするのを慌てて止める。

「体調が悪くなったら困るからだめだ」

触れられた頬が少し熱を持っている気がして背を向ける。

「どこかの褐色系の血が流れているとしても…確かダテナン人は男性は身体が大きいからこんな風に成長するのかしら?」

メルルーシェが背後でぶつぶつと何かを呟いている。

「けれど身体が大きくなったから、この寝台では一緒には寝られないわね」

「別にいつも一緒に寝てない」

ラミスカがふてぶてしい声で答えるとメルルーシェが笑った。

「ふふ、目を覚ましてからこんな風に話をするのは久しぶりね、ラミスカ」

メルルーシェが意識を取り戻してからは、ユンリーやスーミェが代わる代わる治療を行っていたり、アルスベルが訪ねてきたりとせわしなかった。

後はメルルーシェがラミスカに話しかけようとしてもラミスカ自身が避けていたのだった。

家を崩壊させてメルルーシェに傷を負わせた。
自分を責める気持ちで、メルルーシェの優しさを受け取れなかった数日間だった。

兵士を殺し損ねたことは、正直な気持ちとしては今も悔やんでいる。

しかし今日、ラミスカが大人しく従軍しなければ投獄するという内容の警告文が届いた。それに対してラミスカは従軍する意志を示した。

メルルーシェにかけられた重圧に、自分がしたことは全て自分とメルルーシェに返ってくるのだと痛感した。

「あなたが無事で本当に良かった。
ラミスカ、言いそびれていたけれど、助けてくれてありがとう」

胸の奥が酷く苦しい。
この苦しみは何だろう。また魔力が暴れているのかもしれない。

魔力を暴走させたことを思い出して、メルルーシェの顔を見られなかった。背を向けたまま桶の中で布を泳がせる。

「…でも傷つけた」

罵倒された方が幾分か気持ちが楽になる。そう思って呟く。

「それは結果よ。あなたが私を助けようと動いたことには変わりないわ」

返ってきた言葉はいつもどおり暖かかった。
身体を傷つけて、家を壊して、母親じゃないと、何度も言った。

何故メルルーシェは、こんな自分を子どもだと可愛がることが出来るのだろうか?


振り返ると、メルルーシェの穏やかな知性を湛えた瞳と視線が交わった。

「どうして……」

どうして自分のような人間を、と言いかけて怖気づく。

ニアハとして過ごしてきた血で汚れた身体も、怒りに支配された心も、メルルーシェに知られたくない。

「ラミスカ、おいで」

メルルーシェが自分の隣をそっと手で叩いた。

「きっと自分を責めているのね。
でも自分で自分のことを責めすぎるのは良くないわ。
あなたは私を乱暴な男たちから助けてくれた。それだけよ」

メルルーシェの言葉を素直に受け取れなかった。手元の水桶に視線を戻す。しばらくの間の沈黙を、静かな震えた声が破った。

「髪を引っ張られて、服を掴まれて…とても、とても恐ろしかった。
あなたが蹴られて…守れなかった」

すぐに振り返ると、メルルーシェは目に大粒の涙を溜めていた。

戸惑いながらメルルーシェの隣に座って零れ落ちる涙を拭う。
メルルーシェはいつも強くて何にも動じないと思っていたが、それは間違いだったと気づく。

塗れた睫毛が不安げに揺れているのを見て、ラミスカはメルルーシェを抱擁した。まだ自分よりも身体の大きなメルルーシェの脇に手を回して、ぎこちなく抱きしめる。

(今だけは。)

自分が悪夢を見たときメルルーシェはこうして落ち着かせてくれた。


「ありがとうラミスカ。大丈夫よ」

鼻にかかった声で小さく笑いながら、ラミスカの背中を撫でる。


「家だってまた建てればいいし、庭にいたルーは…逃げてたらいいけれど」

ルーはラミスカが可愛がっていた鶏だ。火事に巻き込まれて死んでしまったことを耳に入れようか口ごもっていると、メルルーシェが何かを察したように黙り込んだ。

暖かい体温が柔らかい肌から伝わってくる。

「今日、どうしてあんなことを言ったの?…軍に入るだなんて」

「別に、そうしたいだけ」

「責任を感じているのなら、そんなことはやめて。
今アルスベル様も動いてくださってるわ、きっと…」

“婚約”という言葉が頭を過って、胸がつっかえたように一瞬息が出来なくなった気がした。

(この暖かさも自分のものではなくなる。)

首筋に埋めていた顔をもたげて端に座りなおす。

「ここから、離れたいんだ」

思ったよりも荒だった声が出て自分でも驚く。メルルーシェは寂しげに眉尻を下げてラミスカを見つめていた。

自分が側にいることは、メルルーシェとアルスベルの邪魔になってしまうだろう。このままではメルルーシェは自分を気にかけ続ける。言わなければならない。最後にもう一度。

「メルルーシェはお母さんじゃない」

そしてメルルーシェが離れやすくなるように言葉を紡いでいく。

「話さなければいけないことがある」

気味悪がられても嫌われても、それは仕方がない。
メルルーシェの顔は見れなかった。寝台の縁に座ったまま自分の手を見つめながら重い口を開いた。


「前の人生の記憶がある。
正確には、死んだ後どういうわけか、赤子に戻っていた。
身体は前の人生と全く同じだ」

声が震えないようにゆっくりと一言ずつ確かめながら、ラミスカは話し始めた。

「ニアハと呼ばれていた。
よく知らないが母親は娼婦だったらしい。
生まれてすぐ、特攻隊に組まれるべく軍で育てられた」

ニアハだった頃を思い返しながら言葉を選ぶ。

「魔力の才を認められ、前線の魔法部隊に配属された。
それからは…人を大勢殺して、生きてきた。
同胞であるダテナン人も、ベルへザード人も、見境なく殺した」

そのために鎖の魔具を身体に装着され、部隊の撤退後にひとり、戦場に出されるようになった。敵を殺せば上々、そのまま死ねば扱いにも困らないといった具合だったのか、ラミスカにも自分が殺されない理由が分からなかった。

「殺すのは気楽だ。息の根を止めれば、目も物を言わなくなる。
今もそうだ。話をして分かり合うよりも、殺すことが気楽だと感じる」

正直な気持ちだった。メルルーシェ以外の人間を大切にしようと考えるのはとても難しい。殺すという選択肢があるのは、自分にとってどれほど気楽だったのか。

メルルーシェは殺しを厭う。こんな自分のことを、どんな目で見つめているのだろう。

「戦場が自分の居場所だ」

ラミスカは、殆ど自分に言い聞かせるように力強く呟いた。


しばらく考え込むように黙っていたメルルーシェが口を開く。

「けれど……そうね。
あなたは小さな頃から触られるのを嫌がったわ。
身の回りの世話は手のかからない子だったけれど、とても気難しい子だった」

メルルーシェがラミスカとの思い出を語り出した。


「あなたはニアハだったのかもしれないけれど、今は紛れもなくラミスカよ」

メルルーシェの言葉に、胸に何かがつっかえたように言葉が出なかった。


「今身体が急に成長していることは、赤ん坊に戻ったことと何か関係しているの?」

メルルーシェの戸惑った声に「分からない」と答えたが、身体の成長が早くなった心当たりを思い出して口にする。

「あれから……、あの魔力の爆発を起こしてから身体が痛いんだ」

ユンリーに貰った薬が効いているのか、今はそこまで痛まないけれど、言われてみると身体の急激な成長を自分でも感じていた。

ユンリーから関節の痛みを抑える薬をもらってることを伝えて、スーミェから薬を受け取っていたことを思い出してメルルーシェに渡す。

「もしもこのまま成長の速度が変わらないようなら、ここにはいられなくなるわね」

メルルーシェが小瓶から数滴の薬を舌に落として、苦いのか顔をしかめた。

「ふたりでこの国から去りましょうか」

冗談めかしたようなメルルーシェの声に顔をあげると、言葉とは裏腹に酷く悲しそうに顔を歪めていた。

「軍に入る。気持ちは変わらない」

メルルーシェを投獄させたりはしない。アルスベルに任せるのも嫌だった。

自分につき合わせるのは、もう十分だろう。
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