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6章 宵の国と狭間の谷底

狭間の谷底

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「その首飾りが道標だよ」

テンシアがメルルーシェが手に握っていた首飾りを指した。メルルーシェはラミスカから貰った首飾りを身につけると頷いた。

テンシアによって扉が開かれると、外に向かって突風が巻き起こって身体が急激に吸い込まれる。

唯一自分を繋ぎ止めているのは繋いだテンシアの左手だった。
穏やかな視線が交わって、掴んでいる手がゆっくりと離される。

「行ってきます」

手が離れる瞬間、テンシアに向かってそう叫んだ。
必ずラミスカを見つけて帰ってくるという自分への激励でもあった。


竜巻に飲まれたかのように四肢が四方に引き伸ばされて、自分がどんな状態で回転しているのかも最早分からなかった。次第に気が遠くなって、気がつくと仰向けに倒れ込んでいた。

酷い臭いに咳き込んで起き上がろうとして、自分が寝そべっている場所がぬかるんだ泥のような場所だと気がつく。

自分の身体から淡い光が放たれていて辺りをほんのりと照らしているものの、手の届く範囲から外は殆ど何も見えない暗闇だった。

(ラミスカはこんな暗闇の中で彷徨っているっていうの?)

漠然とした恐怖心と不安を押し殺して、メルルーシェは自分が決めた道を進み出した。

この場所に存在する自分は魂だけの存在であるはずなのに、見える自分の身体は衣服を纏い、限りなく生きていた頃の感覚に近かった。

言わずもがな、沼は歩き辛く歩みを進めるだけでも大変だったが、食事や睡眠を必要としないことだけが救いだった。時間の感覚もなく、ただひたすら何かが見えないか歩き続ける。

メルルーシェは迷いながらも声を出してみることにした。

「ラミスカ!居たら返事をして」

声は反響することもなく、沼に吸い込まれるように消えていく。

ここは一体どんな場所なのか、テンシアも詳しく知らず教えてもらうことは叶わなかった。もっと調べてから来るべきだっただろうか、いやそんな時間はなかっただろう。

頭の中で次々と疑問や後悔、憂い、激励、といった思考が巡っていく。

「ラミスカ」

何度も声をあげ続けていると、近くに何らかの気配を感じた。

真っ先に感じたのは安堵だった。
自分以外の存在を初めて確認できたことへの安堵。

「誰か…いるの?」

次に感じたのは不安。見知らぬ存在への警戒と懸念だった。

目を凝らして暗がりを見つめていると、ずたぼろになった衣から肋が突き出ているのが見えた。ひゅっと息を呑んだメルルーシェが少し後ずさると、骸骨のように骨の浮き上がった青白い顔の男が近づいてきた。

「何故…起こすんだ」

暗い声がメルルーシェに向けられた。

「眠っていたのですね、ごめんなさい」

よく見ると肩から胸にかけて斧が刺さっていて、痛々しい血が流れ続けている。自然と、酷い臭いを放つ男から距離を取れと身体が訴える。酷い衛生状態や怪我などは癒し魔法の使い手である自分は見慣れているはずなのに。

「何故お前は眩いんだ?何故輝いている?」

男は虚ろな目でメルルーシェに尋ねた。

何と答えればいいのか分からず、一定の距離を保つために後ずさっていると足が何かにぶつかって沼につんのめる。

「よこせ」

沼から痩せ細った上半身だけを出した老人がメルルーシェの足を掴んだ。
よろめきながらも必死に立ち上がって2人から離れようとするが、声に釣られたのか周りには既に様々な人が寄ってきていた。

「やめて、私は何も持っていないわ」

震える声でそう答える。

こぞって酷い怪我や身なりの老若男女が、メルルーシェに手を伸ばして怨嗟を囁く。

「足を、足を」

「あぁ、温かい」

「その物が見える目をよこせ」

掴まれた腕を引き離して、喉の奥でむせ返りそうな拒絶の悲鳴を噛み殺す。

「歯をおくれ」

「その美しい顔が憎い」

指を、手を、全てを持っているお前が、何も持っていないなどとほざくのか。

憎い…憎い…お前もここで絶望を味わえ。
全てを持って生きてきたくせに。ただ恵まれていただけのくせに。

なぜお前は眩いのだ。なぜお前だけが神に愛されている?

ここは皆で苦しむ場所だ。
苦しんでいない者は存在してはならない。
幸せな者は許さない。
その輝きは許されない。

(なんて暗い場所なんだろう。希望もなく、希望という存在すら許されない。)

必死の思いでその場から逃げ出して、しばらくは恐怖に息を潜めて歩いた。


メルルーシェは怨嗟に取り憑かれた者たちを、心の中で亡者と呼ぶことにした。
亡者たちはどこにでも現れて、メルルーシェを羨み妬み、心無い言葉を投げかけてその心を打ち砕こうとした。

穢れを知らぬ、絶望を知らぬ娘。
お前は何も知らないだけ。見てもいない。

優しさなどまやかしだ。
ただの自己満足を相手に押し付けるだけの、偽善者め。

歩き続けてもどれだけ進んでいるのかも分からず、辟易と鬱憤が溜まっていくのが自分でも嫌になった。自分も終ぞあんな姿になって怨嗟を投げかける存在になるのか、と恐れた。

メルルーシェから放たれる光が弱まった頃、果てしない時間を歩き続けたように感じる中、孤独に耐えかねて亡者に声をかけることもあった。自分が何をしているのか、いつからここにいるのかも分からなくなりそうで、ただひたすら心の中で“ラミスカ”と繰り返した。

ラミスカとの思い出はメルルーシェの胸に温かさを灯すよすがだった。

途方も無く感じる時間を谷底で過ごしたメルルーシェには、拾い育て始めた頃のラミスカが理解できた。

全てを憎み、常に怒りで身を焦がしながら、全てを諦め切れずどこかに愛を求めている、悲しみでできた暗い瞳をしたラミスカが。

亡者たちに幼いラミスカの姿を重ねた。


そして亡者たちを救おうと試みたこともあった。


上から手を差し伸べようとする。自分が上に存在していると、そう感じていることが傲慢なのだと。頭では分かっていても。

こんな場所で、存在を忘れ去られて、悲しみに浸かる彼らを癒してあげたい。悲しみから解放してあげられればと。

光に集まる虫のように亡者たちはメルルーシェの光を求め、奪おうとした。

奪おうとする者に、奪われるまま渡したこともあった。
目を欲する者に目を、痛みを和らげたい者に癒しを。

涙に暮れ、膝に身を預ける老人をただ受け入れて撫で続けることもあった。乱暴だけは受け入れなかったが、それ以外は自分に与えられる全てを与えた。

メルルーシェが失ったものは時間が経てば元通りに戻った。
身に纏う物、目や腕や足といったものもだ。

だがいくらメルルーシェが施しても、彼らや彼女たちが満たされることはなかった。

時折満たされ、安らかな表情で長い眠りにつく者もいたが、それは砂漠で魔鉱石を見つけるほどごく僅かな可能性だった。


そしてそのうちメルルーシェは理解した。


亡者たちは奪おうとはしても、与えようとすることはない。

辛いことを反芻し、己を嘆き悲しんでいる方が。
全てを他者の責任にして、自分を憐れんでいる方が。
立ち止まって悲痛に暮れている方が落ち着くことに、気付いてしまった。

こんなにも辛い現実に身を置いている自分が可哀想で、哀れで、ある意味で愛おしいと感じることに。理解者などは必要なく、ただ憐れまれたいのだ。


考える時間だけは膨大にある中で、メルルーシェにもその感覚が理解出来た。

この場所から出ようと、足掻く者はここには居ない。
救いなど必要としていないのだから。
ここはそういう者の行き着く果てだと、やっと理解した。


ラミスカもそうなのだろうか?


メルルーシェはその顔の輪郭も思い出せなくなっていた。

(私の大切なラミスカ。)

そして次第に目を閉じることが増えていった。
けれど歩くことだけは止めなかった。

何故自分はラミスカが大切なのだろうか。
同情心か、またはそう思い込んでいるだけなのか。

そんなことを考えることもすぐになくなった。
強く念じてきた“ラミスカ”という言葉の意味を忘れかけ、言葉を話さないあまりに声の出し方を忘れかけた頃、鎖骨のあたりにぶら下がった何かが淡く青色に光った。

ぼんやりとそれを見つめていたメルルーシェは、それが首飾りだと思い出した。


何故か、存在しないはずの心臓が強く鼓動した。

『その首飾りが道標だよ』

そう告げた誰かの声が蘇る。


とうの昔に光を失っていた瞳に、青い光が映り込む。
俯いていた顔をあげると、遠くがぼんやりと青く光っているように見える。ずっと、長い間下を向くばかりで前を向いていなかった。

忘れていた感情の波がせり上がってきて、膝ほどまでの高さの泥をかき分けるようにして進む。

顔が見たい。声が聞きたい。
どんな顔で笑ったのか、どんな話し方だったか。

あれ程忘れまいと、何度も何度も思い出を頭の中で繰り返したのに、顔も声ももう思い出せなくなってしまった。

自分よりも背が高くて見上げていたことは覚えている。
優しかったことも覚えている。

ただ情報として、そう覚えているだけだった。


進むほどにぼんやりとした青い光は広がって、首飾りも鈍い光を強めた。

光を求める亡者の数が増えて、怨嗟のこもったささやき声がさざなみのように広がっても、メルルーシェには意味のない音の響きのように聞こえていた。彼女の目には青い光しか映っていなかった。

所々に深い藍色の結晶が点在しており、亡者たちが覆いかぶさるようにその光に集っている。メルルーシェは沼から突き出た結晶の間を抜けて、中心に向かっていった。

亡者たちの手の届かない高さにまで突き出た巨大な結晶を見上げると、結晶と殆ど同化した人間が見えた。結晶から出ている部分は、左肩から顔の半分にかけてだけだった。

結晶に手をかけてゆっくりと登っていく。
俯いて目を閉じている男の顔を見上げると、その面影が分かった。

「ラ、ラ…ミスカっ」

足場の悪い結晶を渡って登り続け、咽び泣きだしそうな感情の波を抑え込んで叫ぶ。

「ラミスカ!」

その頬に手が届く距離までたどり着いた。
背伸びをして閉じられた瞳を、輪郭を指でなぞっていく。

「目を覚まして、ラミスカ」

掠れた声で切実に呟くと、その青色に照らされた睫毛がふるふると揺れる。ゆっくりと開かれて露わになった瞳がメルルーシェを捉えた。

虚ろだった目に光が灯り、左右に小刻みに振れる。その結晶と同じ深い藍色の瞳が水分を帯びてメルルーシェの姿を反射する。

「一緒に帰りましょう」

結晶で覆われている口元をなぞり、頬を寄せて額と額を触れ合わせたとき、結晶に触れた首飾りが一際大きな光を放って砕けた。ラミスカの身体を覆っていた深い藍色の巨大な結晶にひびが入っていく。

結晶が砕けて自由になったラミスカの口元が、唇が何度も自分の名前を形作る。胸にこみ上げる温かな感情を、結晶ごと抱きしめて開放する。

ラミスカと抱き合うメルルーシェから発される光の強さが増して、辺り一帯を照らし出した。

「本当に…メルルーシェなのか?」

ずっと聞くことのなかった自身の名の音の羅列を、ずっと聞きたかった耳さわりの良い低い声が囁いた。久しく作ることのなかった笑顔を浮かべて頷く。きっとぎこちなく不自然だろう。

結晶の細かい屑が何かに引き寄せられるように頭上へと登っていく。

「何故こんな場所に、君がいるんだ」

消え入りそうに掠れた声でラミスカが呟いた。
切なそうに歪められた顔に胸が痛む。
欲しいと願いながら、失うことを恐れて拒絶する。
その胸の苦しさが痛いほど伝わってきた。

「俺には……君と共に生きる資格などないんだ」

ラミスカの言葉の真意は分からない。彼が何を知って、何を感じてそう結論付けたのか、想像することも出来ない。ただ自分の気持ちを伝えた。

「私が、貴方を必要としているの。ラミスカ」

結晶を破って出たラミスカの腕がメルルーシェを強く掻き抱いた。静かに押し殺すように泣くラミスカと、目を閉じて身を寄せるメルルーシェの髪がふわりと浮かび始める。

「俺はもう死んでしまったんだ。約束を守れなくてすまない。
君は戻れるはずだ。神の力を借りて」

離したくないと、抱きしめる腕がそう物語っているのに、咽び泣きながらメルルーシェだけでも人間界へ戻そうとするラミスカに、首を横に振る。

「貴方も戻れるわ。帰りましょう、ふたりで」

メルルーシェがそう微笑むと、上空から温かい光の柱が降り注いだ。
驚きと戸惑いにラミスカが目を見開くのと、結晶が完全に砕けるのは同時だった。

(慈愛の神ルフェナンレーヴェの心地の良い魔力。)

心地の良い光に包まれると、髪だけではなく完全に体ごと上空に引き寄せられていく。足場を失ったメルルーシェとラミスカは、上空へと落ちていく互いの身体を抱きしめた。

頭上に広がる沼地に、手をのばす亡者たちの姿が見えた。

(どうか、この狭間の谷底にも癒しを。安穏をお与えください。)

粉々に砕け散ったラミスカテス鉱石の結晶が星のように降り注ぎ、光の柱とふたりは狭間の谷底から跡形もなく消えた。


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