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6章 宵の国と狭間の谷底

安穏の神

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丘を見下ろしていたメルルーシェは、テンシアが眠る大樹に手をかけて悪寒の元凶が現れるのを待った。

癒しの魔力が渡った大樹は淡い黄金色の光を放ち、木に実った果実がぼとぼとと地面に落ちる音が響いていた。もう彼の神がここに戻った所で、安穏の神テンシアが目覚めることは止められないはず。


「こんな所まで来て、迷子になってしまったのかい?」


ぞわり、と身が竦む程近くで死の神の囁き声が聞こえた。

振り返るとあたかも元々そこに存在していたかのように、死の神イクフェスが大樹に手を添えて立っていた。

「いいえ、迷ってなんかいないわ」

流動的な瞳を見上げて毅然と答えると、死の神は彫刻のように美しい顔を悲しそうに歪めた。

「どうやらそのようだ。
我がトルカシアの木に何をした」

「彼の神を目覚めさせました。もうすぐ微睡みから覚醒するでしょう」

リエナータを、リメイを、傷つけた死の神をキッと睨みつける。

死の神は落ちた白くて丸い果実を拾い上げて見つめたかと思うと、笑みを浮かべながら握りつぶした。淡い紫の果汁と種子が指の間から零れ落ちる様に、背筋に冷たいものが流れる。

「そなたはとても眠いはずだ。母の胸に抱かれて眠りたいだろう。
さぁおいで、私と共に寝室に戻ろう。いつものように」

ふわふわとした響きの甘く低い声に、意識がはっきりしている今でさえ頷いてしまいそうになる。

「いいえ、私は行かない」

大樹を背に詰め寄られて戦いの姿勢を取ると、次の瞬間には手を掴まれていた。身体を回転させて上体に掌を突き出すも、そこには誰も立っていない。

「不思議だ。何故意識が明瞭なのだ?
何故ルフェナンレーヴェに匹敵する癒しの魔力を持っている?」

地鳴りが続いて大樹の樹皮が剥がれ落ちていく。空間が歪み、そこここに亀裂が入り始めた。宵の国には死の神以外の神は立ち入ることが出来ない。テンシアが完全に目覚めればこの国は崩れ去ってしまうのかもしれない。

死の神は宵の国を守る神。目覚めの近い安穏の神テンシアをこのままこの国においておくことは出来ない。必ず国の外へと移動させるはず。

与えられた使命を果たせたという安堵が胸に染み渡っていく。

死の神は今にも崩れ落ちそうな夜を描く空を眺めて両手を広げた。その顔には何の感情も映していない。自身の問いに答えることのないメルルーシェに、静かに優しく囁いた。

「そうか。では我が番犬はどうだった?」

声音とは裏腹に向けられた視線の冷たさに身震いする。
問いかけられた意図が分からず死の神の視線を辿ると、地面に落ちた何かが光った。それは小ぶりな鉱石の首飾りだった。

記憶が蘇る。

「何故…何故ここにこれが?
これは今ラミスカが身につけているはず」

塵の中からラミスカからの贈り物を拾いあげる。
小ぶりに連なったラミスカテス鉱石とベレス鉱石が美しい首飾り。慌てて自分の胸元にも手を当てるが、交換して身につけているはずのスファラ鉱石の首飾りはそこにはなかった。

死の神が聞かれることを待ち望んでいたように笑みを浮かべて答える。

「奴は我が国にやってきたよ。
この中庭を守っていたはずだ。私がそう命じたのだから。
そなたはここにいた番犬をどうしたのだ?」

死の神がラミスカに何をしたのか、自分が何をしたのかに思い当たって絶句する。

両手を掲げる死の神に絶叫をあげて掴み掛かった瞬間、ぐるりと世界が回って身体が投げ出された。転送魔具を使った時に近い引き回されるような感覚の中、溢れる涙のせいでぐちゃぐちゃになった視界が一気に明るい光を浴びて眩んだ。


「イクフェス!!どういう事だ!!!」

引っかかりのない手触りの良い地面に投げ出されたかと思うと、雷鳴のように激しい怒号が鳴り響いた。

声の主は豪華な赤い衣を身に纏った精悍な男だった。服の端々で黒い煙が靄を描いている。まるで戦火の煙を纏っているようなその姿に、その男の名が思い浮かんだ。


戦神テオヴァーレ


空が落ちてきたような重みで動けないメルルーシェに目もくれず、死の神イクフェスがテオヴァーレに歩み寄る。

「ルフェナンレーヴェにやられたよ。テンシアがもう間もなく目を覚ます。彼が送り込んできた人間によってね。宵の国と我らの身を守るためにここに飛ばすしかなかった」

何とか目を動かすと、自分の左手が届きそうな距離に眩い光を放つ大きな繭のようなものが突き刺さっている。

「我らの負けだよテオヴァーレ」

イクフェスの落ち着いた声とは対照的に、テオヴァーレの表情は険しい。
二柱の神は口論を始めた。


そんな神々の様子さえメルルーシェにとってはどうでも良いことだった。
唯一つ、守りたかったラミスカの命さえ守れなかった。頭の中で、最後に見た塵となる前の化け物の、微睡みの奥に潜む悲しげな藍色が何度も蘇る。何故自分は気付けなかったのだろう。

人間界の戦を止めてラミスカに平和を、安穏を見せてあげたかった。
そんな中で共に生きていきたかった。
自分は多くを望みすぎたのだろうか。

メルルーシェの涙が頬から地面に流れていくのと同時に、花が咲くように開いていく繭の中から小さな滑らかな手が伸びてきて、メルルーシェの手にそっと重ねられた。

「泣かないで、愛しい子」

その声を耳にした途端、荒立っていた心が心地の良い感覚に塗り替えられていく。波のように広がる言の葉に反応したのはメルルーシェだけではなかった。

何かを言い争っていた死の神と戦神も、言い争いをやめて安穏の神テンシアに視線を奪われている。

繭から出て来た安穏の神テンシアは、宵の国の大樹に囚われていた時の姿ではなかった。
見たことのない灰色の肌。幼い少女、少年、どちらともつかない中性的な顔立ちで、くるくると奔放に癖のついた銀髪がふわふわと足元にまで広がっている。

立ち上がったテンシアの足がゆっくりと戦神テオヴァーレの方へと歩み始める。

「テオ、わたしときみは常に中庸でいなければならない。
わたしだけが力を手にしても、きみだけが力を手にしても、均衡は保てない」

テオヴァーレの顔が青ざめていく。

「やめろ、テンシア!それ以上近づくな!」

死の神イクフェスがテンシアの前に立ちはだかる。

「イクフェス、友想いのきみを傷つけたくはない。
きみの国へ帰ってはどうだろう?」

テンシアが穏やかにそう告げると、イクフェスはその声に抗えないのか、見えない力に縛られているようにぎこちない動きで姿を消した。

「これだからそなたが嫌なんだ」

後ずさるテオヴァーレがそう吐き捨てる。

テンシアは1歩進む毎にその身体の大きさが成長しているように見える。対するテオヴァーレは徐々に老いていく。相対する距離にまで近づく頃には、軍神テオヴァーレに最初の面影はなかった。

精悍な男はついに腰の曲がった老人の姿に変わり果て、自身の目の前に立つテンシアを恨めしそうに見上げていた。

「わたしの友ルフェナンレーヴェをどうしたか教えてくれるかい?」

美しく透き通る声が波紋のように広がる。成長しても性の判断がつかない不思議な響きの声だった。テオヴァーレがしゃがれた声で、嫌々といった様子で答える。

「リュントヘルヴェラの洞窟に閉じ込めた」

メルルーシェにはどこを指しているのかは分からなかったが、テンシアが小さく頷いたように見えた。

その時、扉の開く音が聞こえてぱたぱたとした足音が響いた。

「まぁ!まぁ!テオ様、いたわしいお姿に。
テンシア様、どうしてテオ様をお虐めになるの?」

慌ただしく走ってきてテオヴァーレの身体を支える女性の姿に納得する。メルルーシェもよく知る出産の女神フィランティーナ。軍神テオヴァーレの妻である神だ。

「やぁ、フィランティーナ。
しばらくは罰さ。彼が自分で引き起こしたことだよ」

小さくなったテオヴァーレの肩を優しく抱いて心配そうに顔を歪めるフィランティーナ。

「テオ様、体に障るわ。寝室へ戻りましょう」

フィランティーナの肩を借りて、よろよろと歩き出した力ない後ろ姿に毒気が抜かれる。

「お客様はもう帰ってくださいまし!」

振り返ったフィランティーナが、目に涙を浮かべて恨めしそうにテンシアを睨みつける。そして扉が大きな音を立てて閉められた。

静寂に包まれると、後ろ姿しか見えなかったテンシアがメルルーシェの方へ歩いてきた。そっと手を重ねられると、重みが消えて身体の自由が利くようになった。

立ち上がって安穏の神に首を垂れる。

「おいで、我が友の娘。
わたしを救い出してくれてありがとう」

テンシアが微笑んで腕を広げた。

戸惑いながらもその腕の中に身を寄せる。背中に手を回すと、ふわふわとした雲のような髪が手を包み込んだ。

安堵と、後悔、深い悲しみに涙が溢れ出る。

「私がラミスカを…殺してしまった」

テンシアは泣き出したメルルーシェの背中を優しく撫でる。

「きみがわたしの元に来た時のことは見ていたよ」

テンシアはゆっくりと言葉を紡ぐ。

「魂は消滅したりはしない。きみは混ざり合った魂の結合部分を浄化したに過ぎない。あの幾つもの魂は宵の国で眠りについているはずだ」

はっと顔をあげて、テンシアの深い青が波立つような瞳を覗き込む。

「では、ラミスカも宵の国に?魂は失われていないのですか?」

「あの子はイクフェスを怒らせたようだ。狭間の谷底で彷徨っているだろう」

胸に小さな明かりが灯る。

「狭間の谷底とはどこにあるのですか?」

恐る恐る、言葉を形作るテンシアの唇を見つめる。

「宵の国だよ。
あの子の肉体は今もまだ人間界に繋がっている。もしも狭間の谷底で魂を見つけられたなら、きみと共に人間界に帰ることが出来るかもしれない」

大きく目を見開いたメルルーシェの唇に、そっと指を添えてテンシアが言葉を続ける。

「でもよく聞いて欲しいんだメルルーシェ。
狭間の谷底は恐ろしく広く、苦悩に満ちた魂の終着点だ。
そして何よりわたしの力が及ばない場所でもある。
きみまで戻ってこられない可能性が高い。それでも行くというなら止めはしない。わたしもイクフェスに助力を乞おう」

言葉を区切ったテンシアは、メルルーシェの頬を包んで親指を滑らせる。

「でもきみには他の道もある。それは神となる道だ。
ルフェの娘であり、わたしを救い出したきみには神となる資格がある。
その守護の力も、神としての素質だ。
人間はいつか死に、その魂は宵の国へと誘われる。イクフェスの元にね。
それでもきみは人間に戻りたいと思うのかい?」

昼の空の青さから夜明け前の藍色に移ろう青い瞳を見つめて、しばらく黙り込んだメルルーシェが力強く頷いた。

「テンシア様、教えてくださってありがとう。忠告も。
けれど、それでも私はあの人を助けに行きたい。
人間として、あの人と共に生きたいのです。
共に料理を作って食卓を囲んで、他愛のない言い合いをしたり、薬草を摘みに森を散歩して、寂しさを胸にこんな時間が一生続けば良いと願う。
友人たちに囲まれ、子どもを愛で、共に老いて、その刹那とも感じられる命の繋がりが愛おしいのです」

涙ぐんだテンシアが、メルルーシェの額に優しく口づける。
答えはテンシアの想定通りだったのだろうか。

「わたしはきみが、人間が羨ましい。
きみはルフェにも、レーシェにもよく似ているね。愛おしい子」

安穏の神から深い愛情を感じて喉が詰まる。
きっと、危険な場所に送り出すのは苦渋に満ちた決断になるだろうに。

しばらく黙ってメルルーシェを見つめていたテンシアは、低くも高くもない不思議な響きの声で囁いた。

「わたしはまず先にルフェを、きみの父であるルフェナンレーヴェを助けにいかなくては」

そう呟いたテンシアの表情は少し険しい。
慈愛の神が囚われているリュントヘルヴェラの洞窟という場所は危険なのかもしれない。

「そしてそれが終わったら人間界の争いを収めなければならない。
メルルーシェ。もし良かったらきみの肉体を貸してくれるかい?」

戦神や死の神と対峙していた時の言葉のように強制力はないらしく、本当に判断を委ねられているようだった。

神々は人間界に姿を顕すことは出来ない。自分を奉る神殿の庭でのみ人間界と接する事ができる。自分の身体一つで争いを止められるのなら、協力しない理由はない。

「えぇ。構いません」

肉体が存在するということは、死ぬ直前に襲われていたリエナータとリメイは無事だという事だろう。少しだけほっとして頷くと、メルルーシェの手を取ってテンシアが歩き始めた。


天まで届く扉の前で立ち止まると、テンシアが繋いだ手をぎゅっと握りしめた。

「ここはテオヴァーレの領域だ。
ここから出るときみは宵の国へと引き戻されていく。
わたしがきみに細工をしよう。狭間の谷底に送るのは簡単だ。
ただ出てくるのはとても、とても難しい。イクフェスに声をかけるが、彼が宵の国から出てこなければ強制することも出来ない」

テンシアがメルルーシェの鳩尾の辺りに手をかざした。
自分以外の魔力で包まれたような少しくすぐったい感覚が襲う。

「いいかい?きみにとってはとても長く辛い旅になる。
あの子を見つけたら、君の父に、ルフェに強く願うんだ。
きみと彼の魔力の繋がりがあれば宵の国から出してあげられるだろう」

お礼の言葉を述べようと顔をあげると、悲しそうに微笑むテンシアが穏やかに呟いた。

「きみの無事を、わたしが祈ろう」

メルルーシェは力強く頷いて、扉に手をかけるテンシアに身を委ねた。


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