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6章 宵の国と狭間の谷底

堕ちた者

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メルルーシェを残して死んでしまった。


ただその思いだけがラミスカの胸に渦巻いていた。
交戦から時間も経っている。メルルーシェは既に宵の国へと向かっただろうが、リメイが付き添っており宵の国から連れ戻す手筈は整っている。

(自分は……。)

鳩尾を深々と貫いた魔兵器の足の感覚が今も残っている。鳩尾を撫でて視線を落とすと、胸元でメルルーシェの首飾りが青い光を放っていた。辺りは底なしの暗闇に包まれていたものの、青い光のおかげで胸の輪郭だけがぼんやりと露わになっていた。

しばらくしてから身体を動かしてみたが、膝辺りまで生ぬるい泥のようなものに浸かっていて動き辛い。自分の魔力を通しているからなのか、死んでいるはずなのに義脚の感覚があった。

薄気味悪い泥の重みに足を引き摺って進みながら、これが宵の杯人を探す旅なのか、と茫然と虚空を見つめる。

(何もない。ただただ真っ暗だ。)

メルルーシェの魔力を感じようと無意識に首飾りを撫でる。
暖かな魔力を放つ首飾りだけが、この暗闇の中で自分が存在しているという寄る辺だった。

先の見えない闇の中で、何かがこちらを見ているような気がしてならなかった。遠くから奇妙な音が聞こえ始めた。それは数多に重なった呻き声のようだった。

身の毛がよだつ悲痛な囁き声や呻き声が自分に向かって来ているのを感じ、耳を塞いで目を強く瞑った。何故か戦おうという気は起きず、ただ身を縮めてやり過ごすべきだと強く感じたからだった。

メルルーシェの首飾りが光を強めて、ラミスカを守ろうとするかのようにその身体を光で包み込んでいった。

突然轟音が鳴り響いた。
真っ暗闇だった場所に空が現れ、夜を映し出して渦巻き始めた。
ラミスカは雷に打たれたかのような衝撃を受けて、次の瞬間には平らな地面に這いつくばっていた。

何が起こったのか分からずすぐに受け身を取ると、目の前に見知らぬ男が立っていた。顎に手を当てて考え込むようにじっと自分を見つめるその男に見覚えはないが、その夜を映し出す長髪が男が誰であるかを雄弁に物語っていた。

「何故そなたがここに?あの娘の魂の気配がしたから掬いあげたというのに」

死の神イクフェスがラミスカに向かって手を振るった。

立ち上がろうとするも、右の義脚が消えておりバランスを崩して無様に横に倒れた。身体が思うように動かない。

「それのせいか」

顔を上げると、イクフェスの長い指がラミスカの鎖骨の上で光るメルルーシェの首飾りを示した。

色が移り変わる奇妙な瞳でじっと自分を見つめたかと思うと、突然鳩尾の奥が竦むような妙な感覚が身体を襲う。

「そなたは……。そうか、気が付かなかった。我が神殿を尽く潰して回ったあの気の狂った男は……ラミスカテス、またそなたか。そなたにはうんざりだ。邪魔者め」

死の神が何故自分のことをラミスカテスと、魔鉱石の名で呼ぶのかは分からなかったが、自分を見つめる瞳には侮蔑と憎しみのようなものが混ざり合っているのは理解できた。

ラミスカは初めて目にする死の神イクフェスを睨みつけて声を荒げる。

「メルルーシェに会わせろ」

「会わせろ?ふむ、そなたはあの娘が我が国にいると思っているようだな。それは吉報。楽しみだ」

くつくつと喉を鳴らして笑う死の神を見てハッとする。

宵の国では時間の流れ方が異なるとリエナータが言っていたことを思い出す。あの時は聞いてもあまりピンと来なかったが、死の神の反応から察するにメルルーシェはまだこの宵の国には存在しない。そして自分はメルルーシェが宵の国に訪れることを死の神に伝えたことになる。

死の神イクフェスはラミスカには目もくれず、空間に指を滑らせていた。

「ラミスカテス、そなたに礼を言おう。
いつ娘がこの国に訪れるか分かったのだから。
私があの子を迎えに行くとしよう」

さっと血の気が引いていく。メルルーシェの身が危険だ。付き添っているリメイは?自分のせいで清め湯を使って蘇生することが叶わなくなるのでは。


ラミスカは焦りと失意で打ちのめされそうだった。


「お前は何故メルルーシェに執着する?」

歩み出そうとしたイクフェスの、地面に尾を引く長い衣を掴んで手繰り寄せると、夜空を映す長髪の間からうんざりだというような気怠げな表情が覗く。

「あの美しい魂を得るためだ。
私が味わって食し、そして我が伴侶へと生まれ変わる」

憂いを帯びたような表情だが、その口元は薄らと弧を描いている。ラミスカは唇を噛み締めて吐き捨てる。

「俺が何度でもお前の邪魔をする」

目前に迫ったイクフェスが蔑むようにラミスカを見下ろす。

「なに、そなたの妨害癖は今に始まった事ではないだろう。そなたという者は常に私の邪魔をするのだから。今までも、これからも」

首を掴まれて持ち上げられる。力が入らず抵抗することができない。

「メルルーシェは……お前には渡さない」

イクフェスを睨みつけたまま絞り出すように答える。

「ほう、どうやって?人は皆死に我が国へ訪れる。
逃れようとすれば狭間の谷底へ堕ちるだけ。
それともそなたのその汚れた道に、狭間にまであの娘を連れて行くのか?死体で濁った汚物の掃き溜めのようなそなたのいるべき場所へ?」

面白い、とあざ嗤うイクフェスがラミスカの悲痛を映す瞳を覗き込んだ。

「そなたのそれは愛ではない。執着だ。
そなたに他人を愛することなど出来ない」

抑揚のない冷たい声が、ラミスカに突き刺さった。

ふわり、と首を掴まれていた手が離れて地面に倒れ込む。咳き込みながら身体を起こそうと試みるが、願う通りに身体は動かなかった。

「そうだな……そなたには散々苦しめられた。
そなたの民族が作り出した魔法をかけてやろう」

地面から何体もの屍のような者が現れて、ラミスカに向かって這いずってくる。
目をぎらつかせ、呪いの言葉や悔恨の言葉、恨み辛みを囁きながら。

『全てお前のせいだ混ざり者ニアハ。お前が俺を、マルシアを殺した』

最後に囁かれた言葉に理解する。この亡者たちは自分が手を下して来た者たちなのだと。

(こんな所に、こんな姿になって囚われていたのか。)

イクフェスの指がラミスカを指すと、亡者たちはラミスカに覆い被さった。



慟哭が止むと、筋骨逞しい狼と人を足したような顔の化け物が立っていた。胸元には苦しみに喘ぐ者たちの顔が浮き出ている。

首を振って己の身体を掻きむしっている化け物を見てイクフェスは満足そうに頷く。


さて。


一仕事終えた死の神イクフェスはその化け物に命じる。

「そなたは中庭の番犬としよう」

(まさかテオヴァーレが目をつけた男がそなただったとは思いもしなかった。)

かつて同じ神であったラミスカテスは、罪を犯して人間へと堕ちた。
惨めな人生を送るように前もって手を尽くしてやったというのに、この男のせいで自身の力を大きく削がれた。もしくは削がれることになる。

全ては起こったことであり、まだ起こっていないこととも言える。


手を振るって一瞬で不快な化け物を視界から消すと、イクフェスはゆったりと歩み出した。邪魔な者を片付けた上に、花嫁の来る時期まで分かったため彼の表情は穏やかだ。

まずは神殿を整える所から始めよう。本質の形へと戻るまでの僅かな時間ではあるが、身体の小さな彼女のために部屋を作ろう。
美しい彼女の魂にユマの禊ぎは必要ない。時間をかけて元の姿に戻っていけばいいのだから。そして彼女が完全に意識を失った時、至福の食事が待っている。

イクフェスは無意識に舌舐めずりをしながら、自身を象徴する夜空を見上げた。

それからテオヴァーレに進捗を聞きに行かなければ。
テオヴァーレが慈愛の神ルフェナンレーヴェを捕らえた事で、安穏の神テンシアを起こされる心配は無くなったとはいえ、人間界への干渉が過ぎればイクフェス自身も無事では済まない。

はじまりの神に背き罪を犯した神は、人間界へと堕とされ人として生まれ変わる。そしてその有り余る魔力は奪われ魔鉱石となり人間たちの養分となる。

(私はそなたのように人間界の魔力の養分となるのはごめんだ。)

記憶を失ってもなお、死の神たる自分の邪魔をすると豪語し、ただひとりに執着する男。哀れに青く光る鉱石を思い浮かべながら、純白の神殿に足を向けた。
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