かけがえのない君に告ぐ

春原しずく

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第二章 恋に落ちた日

第八話

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──入学式を終えてから数ヶ月が経過した頃。
そんな噂を知るよしもなかった美美子は、机に向かって一心不乱いっしんふらんに絵を描いているともえに話しかけた。出身中学は別だったので、彼女にまつわる話に関してまったく知らなかったのである。

「ねえ、上月こうづきさん。それって、ファイアードレイクでしょ」
去年、夕暮れ時の教室で二人きりになったとき、上から覗き込んでそう告げてみた。どういう経緯けいいでそうなったのかいまとなっては理由を忘れたのだが、夏の迫ったある日の放課後、巴と二人きりになったのである。
あのときは、本当に誰もいなかった。
あらたは担任教師から呼び出しを受けていて職員室に行っていたし、狭霧さぎりは習い事があってとうに下校していたのである。
爽やかな風が開け放たれた窓を抜け、教室内をゆるやかに巡る。
遠くから聞こえるのは、運動部の高いかけ声。そして、烏の太い鳴き声。それ以外にはなにもない。
廊下を通り過ぎる人影もない。
まるで時間が停止でもしたかのように、空気全体が厳かに沈黙している──そんな雰囲気が一年五組の教室の隅々までを、しっかりと支配していた。
「……知ってるの?」
珍しく目線を上げて、巴が問う。
「ええ。私、ファンタジー映画も小説も大好きだもの」
巴がじっと見つめてくる。
黒い両目の奥に、わずかな好奇の色が浮かんでいるのを美美子は認めた。
──チャイムが鳴る。午後五時を告げる鐘のである。
「ねえ、」
奇特きとくにも、巴が先に口を開いた。「私の絵……。気持ち悪くない?」
「気持ち悪いって……。そんなこと、全然ないけど」
「本当にそう思う?」
「ええ。かっこいい絵だなとは思ったけれど。……ほら、うろこのてかり具合とか炎の燃える感じとか、上手く表現できているし」
巴の顔に表情らしきものはない。
「私は絵のことにあまり詳しくないけど、あなたの絵、結構好きよ。モンスターがいまにも動き出しそうで、とってもかっこいいわ」
「……そうかな」
「うん。額縁がくぶちに入れて飾っておきたいぐらいだわ」
「……」
巴が頬を赤らめる。どうやら、いまの言葉に喜びを感じたようだ。
(上月さんって、こんな表情もするのね)
正直に告白すると、美美子はこのとき、強い驚きを心に感じた。
巴が表情を変化させるのをの当たりにしたのは、これがはじめてだったのだ。
薄雲うすぐもが空に流れる。
外で響いていたかけ声が、ぱたりと止む。
烏の鳴き声もぴたりと止む。
静寂の中、二人きりの時間を分かち合う──。
「……ありがとう」
ひどく小さな、けれどとても綺麗な声で、巴が言った。「私の絵を褒めてくれたのは、龍源寺りゅうげんじさんがはじめてだよ」
「え、そうなの?」
巴が軽いうなずきを返す。
「私、怪物の絵しか描かないから……。だから、まわりの皆は私のことを『気持ち悪い』って言うの。中学のときとか、それでちょっと……いじめみたいなものに遭ってたし……」
「そうなの……」
美美子は心底しんそこ同情した。自分もときどき変人扱いされることがあったためだ。
「この年代の女の子はね、大抵たいてい、おしゃれや美容や恋愛に興味を持つのよ。美美子ちゃんみたいに、ゲームやファンタジーに夢中になったりするほうがおかしいの」
「そうだよ。美美子ちゃん、変わってるよ。私たち中学生になったんだし、恋バナのひとつや二つに興味を持ってもおかしくないでしょ」
「ねえ。『好きな人なんていない』と言ってるけど、それって嘘でしょ? 実際は、心に決めた人がちゃんといるんだよね……?」
少し仲良くなった少女たちに趣味を打ち明けたとき、彼女らは美美子のことを変人だと決めつけた。
「中学生にもなって、好きな人すらいないなんて変だよ」と言った。「ファンタジーなんかのどこがいいのよ。物好きだねえ」とも言った。

疎外感そがいかんを感じたことなら、これまでにも何度かある。新と友情を深めているのだって、彼女が恋愛話れんあいばなしをほとんどしないためだ。

新が特に好んでいるのは、格闘技とサバイバルゲームなのである。

【続く】
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