28 / 103
第二章 恋に落ちた日
第八話
しおりを挟む
──入学式を終えてから数ヶ月が経過した頃。
そんな噂を知るよしもなかった美美子は、机に向かって一心不乱に絵を描いている巴に話しかけた。出身中学は別だったので、彼女にまつわる話に関してまったく知らなかったのである。
「ねえ、上月さん。それって、ファイアードレイクでしょ」
去年、夕暮れ時の教室で二人きりになったとき、上から覗き込んでそう告げてみた。どういう経緯でそうなったのかいまとなっては理由を忘れたのだが、夏の迫ったある日の放課後、巴と二人きりになったのである。
あのときは、本当に誰もいなかった。
新は担任教師から呼び出しを受けていて職員室に行っていたし、狭霧は習い事があってとうに下校していたのである。
爽やかな風が開け放たれた窓を抜け、教室内をゆるやかに巡る。
遠くから聞こえるのは、運動部の高いかけ声。そして、烏の太い鳴き声。それ以外にはなにもない。
廊下を通り過ぎる人影もない。
まるで時間が停止でもしたかのように、空気全体が厳かに沈黙している──そんな雰囲気が一年五組の教室の隅々までを、しっかりと支配していた。
「……知ってるの?」
珍しく目線を上げて、巴が問う。
「ええ。私、ファンタジー映画も小説も大好きだもの」
巴がじっと見つめてくる。
黒い両目の奥に、わずかな好奇の色が浮かんでいるのを美美子は認めた。
──チャイムが鳴る。午後五時を告げる鐘の音である。
「ねえ、」
奇特にも、巴が先に口を開いた。「私の絵……。気持ち悪くない?」
「気持ち悪いって……。そんなこと、全然ないけど」
「本当にそう思う?」
「ええ。かっこいい絵だなとは思ったけれど。……ほら、鱗のてかり具合とか炎の燃える感じとか、上手く表現できているし」
巴の顔に表情らしきものはない。
「私は絵のことにあまり詳しくないけど、あなたの絵、結構好きよ。モンスターがいまにも動き出しそうで、とってもかっこいいわ」
「……そうかな」
「うん。額縁に入れて飾っておきたいぐらいだわ」
「……」
巴が頬を赤らめる。どうやら、いまの言葉に喜びを感じたようだ。
(上月さんって、こんな表情もするのね)
正直に告白すると、美美子はこのとき、強い驚きを心に感じた。
巴が表情を変化させるのを目の当たりにしたのは、これがはじめてだったのだ。
薄雲が空に流れる。
外で響いていたかけ声が、ぱたりと止む。
烏の鳴き声もぴたりと止む。
静寂の中、二人きりの時間を分かち合う──。
「……ありがとう」
ひどく小さな、けれどとても綺麗な声で、巴が言った。「私の絵を褒めてくれたのは、龍源寺さんがはじめてだよ」
「え、そうなの?」
巴が軽いうなずきを返す。
「私、怪物の絵しか描かないから……。だから、まわりの皆は私のことを『気持ち悪い』って言うの。中学のときとか、それでちょっと……いじめみたいなものに遭ってたし……」
「そうなの……」
美美子は心底同情した。自分もときどき変人扱いされることがあったためだ。
「この年代の女の子はね、大抵、おしゃれや美容や恋愛に興味を持つのよ。美美子ちゃんみたいに、ゲームやファンタジーに夢中になったりするほうがおかしいの」
「そうだよ。美美子ちゃん、変わってるよ。私たち中学生になったんだし、恋バナのひとつや二つに興味を持ってもおかしくないでしょ」
「ねえ。『好きな人なんていない』と言ってるけど、それって嘘でしょ? 実際は、心に決めた人がちゃんといるんだよね……?」
少し仲良くなった少女たちに趣味を打ち明けたとき、彼女らは美美子のことを変人だと決めつけた。
「中学生にもなって、好きな人すらいないなんて変だよ」と言った。「ファンタジーなんかのどこがいいのよ。物好きだねえ」とも言った。
疎外感を感じたことなら、これまでにも何度かある。新と友情を深めているのだって、彼女が恋愛話をほとんどしないためだ。
新が特に好んでいるのは、格闘技とサバイバルゲームなのである。
【続く】
そんな噂を知るよしもなかった美美子は、机に向かって一心不乱に絵を描いている巴に話しかけた。出身中学は別だったので、彼女にまつわる話に関してまったく知らなかったのである。
「ねえ、上月さん。それって、ファイアードレイクでしょ」
去年、夕暮れ時の教室で二人きりになったとき、上から覗き込んでそう告げてみた。どういう経緯でそうなったのかいまとなっては理由を忘れたのだが、夏の迫ったある日の放課後、巴と二人きりになったのである。
あのときは、本当に誰もいなかった。
新は担任教師から呼び出しを受けていて職員室に行っていたし、狭霧は習い事があってとうに下校していたのである。
爽やかな風が開け放たれた窓を抜け、教室内をゆるやかに巡る。
遠くから聞こえるのは、運動部の高いかけ声。そして、烏の太い鳴き声。それ以外にはなにもない。
廊下を通り過ぎる人影もない。
まるで時間が停止でもしたかのように、空気全体が厳かに沈黙している──そんな雰囲気が一年五組の教室の隅々までを、しっかりと支配していた。
「……知ってるの?」
珍しく目線を上げて、巴が問う。
「ええ。私、ファンタジー映画も小説も大好きだもの」
巴がじっと見つめてくる。
黒い両目の奥に、わずかな好奇の色が浮かんでいるのを美美子は認めた。
──チャイムが鳴る。午後五時を告げる鐘の音である。
「ねえ、」
奇特にも、巴が先に口を開いた。「私の絵……。気持ち悪くない?」
「気持ち悪いって……。そんなこと、全然ないけど」
「本当にそう思う?」
「ええ。かっこいい絵だなとは思ったけれど。……ほら、鱗のてかり具合とか炎の燃える感じとか、上手く表現できているし」
巴の顔に表情らしきものはない。
「私は絵のことにあまり詳しくないけど、あなたの絵、結構好きよ。モンスターがいまにも動き出しそうで、とってもかっこいいわ」
「……そうかな」
「うん。額縁に入れて飾っておきたいぐらいだわ」
「……」
巴が頬を赤らめる。どうやら、いまの言葉に喜びを感じたようだ。
(上月さんって、こんな表情もするのね)
正直に告白すると、美美子はこのとき、強い驚きを心に感じた。
巴が表情を変化させるのを目の当たりにしたのは、これがはじめてだったのだ。
薄雲が空に流れる。
外で響いていたかけ声が、ぱたりと止む。
烏の鳴き声もぴたりと止む。
静寂の中、二人きりの時間を分かち合う──。
「……ありがとう」
ひどく小さな、けれどとても綺麗な声で、巴が言った。「私の絵を褒めてくれたのは、龍源寺さんがはじめてだよ」
「え、そうなの?」
巴が軽いうなずきを返す。
「私、怪物の絵しか描かないから……。だから、まわりの皆は私のことを『気持ち悪い』って言うの。中学のときとか、それでちょっと……いじめみたいなものに遭ってたし……」
「そうなの……」
美美子は心底同情した。自分もときどき変人扱いされることがあったためだ。
「この年代の女の子はね、大抵、おしゃれや美容や恋愛に興味を持つのよ。美美子ちゃんみたいに、ゲームやファンタジーに夢中になったりするほうがおかしいの」
「そうだよ。美美子ちゃん、変わってるよ。私たち中学生になったんだし、恋バナのひとつや二つに興味を持ってもおかしくないでしょ」
「ねえ。『好きな人なんていない』と言ってるけど、それって嘘でしょ? 実際は、心に決めた人がちゃんといるんだよね……?」
少し仲良くなった少女たちに趣味を打ち明けたとき、彼女らは美美子のことを変人だと決めつけた。
「中学生にもなって、好きな人すらいないなんて変だよ」と言った。「ファンタジーなんかのどこがいいのよ。物好きだねえ」とも言った。
疎外感を感じたことなら、これまでにも何度かある。新と友情を深めているのだって、彼女が恋愛話をほとんどしないためだ。
新が特に好んでいるのは、格闘技とサバイバルゲームなのである。
【続く】
0
あなたにおすすめの小説
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる