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終章 かけがえのない君に告ぐ
かけがえのない君に告ぐ
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自宅の縁側に美美子は座ると、青く澄みわたる空を仰いだ。
公園での闘いから三週間が過ぎたが、いまだ学校には行かずにいた。
ジュエルの精神世界に侵入したため、気力も体力も限界近くまで使ってしまった──それが理由で、しばらくの間、療養生活を送る羽目になったのである。
久永たちが治療に当たってくれたおかげで大事には至らずに済んだのだが、それでも目を覚ますまでに二週間ほどかかった。
朝、自室のベッドで目覚めた美美子が最初に見たのは、涙を浮かべる両親の姿だった。二人とも大粒の涙をぼろぼろこぼしては、
「よかった……!」
と呟き、美美子の体を抱きしめてきた。
部屋には姉の姿もあった。その日も仕事があったそうなのだが、早退して、美美子の看病をしてくれたのだ。
「あんた、無茶しちゃ駄目じゃない」
そう言って、彼女はにこりと笑った。瞳に涙をにじませながら、
「お父さんとお母さんに心配かけたら駄目だよ」
とも告げてきた。
室内をぐるりと見回して、その場にいた人々の顔を確認した。家族の他に、久永と狭霧がいた。
「新町さんも来たがっていたみたいだけれど、急用ができたから来れなくなったの。でも、あなたのことをとても心配していたわ」
と、狭霧は言った。
部屋の中に、ジュエルの姿はなかった。やはり気力と体力を使い過ぎたために、呪宝会系列の医療施設にて治療を受けているとのことだった。
「ありがとう。……それから、ごめんね。嫌な役をやらせてしまって」
家族が部屋を出たあと、久永が言った。
その日の彼は、珍しいことに、白いシャツと細身のジーンズを着ていた。ラフな服装なのに、それでも俳優のようにさまになっていた。
「美人はなにを着ても美人なのね」と美美子は思った。
その久永が言うに、上月巴は学校を休んで実家に戻ったとのことだった。学籍はそのままになっているが、しばらくの間休学するとの話であった。
「親族会議に出席するため、ふるさとに戻ったそうよ」
と、久永は言った。そして、ふ、と息をつき、声なく笑った。
それから、狭霧から一通の手紙を渡された。
「上月さんからよ」
と、彼は言った。
「どうしても、龍源寺さんに読んでほしいんですって」
美美子は浅くうなずいた。
「必ず読むわ。上月さんが書いてくれた手紙だもの」
その言葉に嘘はなかった。
いま、美美子は縁側で手紙を読んでいる。
午後の日射しが暖かに降る空のもと、上月巴の綴った言葉たちに目を通している。
──白い便せんに記されたその手紙には、彼の本音があった。真実があった。
言い回しこそ単純なのだが、彼の書いた文章には、真実を語る者ならではの凄みと重みがあった。上っ面だけを器用に繕った空疎な文は、ひとつとしてなかった。
手紙を読みながら、美美子は思った。「上月さんは大丈夫だわ」と。「ひとりじゃないから、……須藤さんがいるから大丈夫だわ」と。
それに、もしも彼がまた誤った道に行きそうなときは、全力で戻してやればいい。
何度でも声を上げて、彼を引き戻せばいいのだ。
──と。
「なんだか楽しそうだね」
なつかしい声が聞こえた。
美美子はいったん、その響きを幻聴だと思い込み──、そして、次の瞬間、幻聴などではないと思い知る。
手紙を横に置き、顔を上げた。
そこには──、彼がいた。
無地のシャツとハーフパンツを身にまとった恋人が、満面の笑みを浮かべながら立っていた。
「ジュエル……!」
美美子は泣いた。泣きながらサンダルを履き、少し離れた位置に立つ彼に思いっきり抱きついた。
ジュエルだった。
生身のジュエルがそこにいた。
戻ってきたのだ、彼は。死線を越えて、自分のもとに戻ってきてくれたのだ……。
キスをする。唇を触れ合わせるだけの繊細なキスを、彼に与える。
「おかえり、ジュエル」
涙をぼろぼろこぼしながら、美美子は言った。
年上としてのプライドとか、もはやどうでもよかった。ジュエルが戻ってきてくれた──それだけで、なにもかもが報われるような気がした。
「……ただいま、美美子ちゃん」
彼が言う。
それから、ふふ、と軽く笑って、美美子の頬にキスをする。
恋しい人のにおいをいっぱい吸い込みながら、美美子はこの世にはびこる悪徳に思いを馳せた。
今日も誰かが泣いている。終わりなき悲しみが、誰かの上に降り注いでいる。
誰かが泣いている。声を殺して泣いている。
少しだけおびえを感じた美美子の心に、残酷な何者かの「声」が響く。
人は誰かを憎む。
人は誰かを貶める。
人は誰かを恨む。
人は誰かを呪う。
人は誰かを侮る。
人は誰かを殴る。
人は誰かを罵る。
人は誰かを殺す。
人は誰かを裏切る。
──だけど、と美美子は思う。
人は誰かに優しくすることができる。
人は誰かを思いやることができる。
人は誰かを励ますことができる。
人は誰かを導くことができる。
人は誰かを許すことができる。
人は誰かに寄り添うことができる。
人は誰かを助けることができる。
人は誰かと分かち合うことができる。
人は誰かを愛することができる。
人は誰かを笑顔にすることができる。
人の心を持つ限り、人間としての生を選び続けるかぎり、人は誰かを幸せにすることが──できる。
この世には逃れられぬ病がある。「暴力」という名の宿痾は、至るところにはびこっている。
けれど、いまは大丈夫だ。
愛する者を大切に想う気持ちがあるのなら、きっと、ずっと、──未来だって大丈夫だ。
美しく澄んだ青空の下、いとしい恋人に触れながら、美美子は優しく微笑んだ。
世界がまぶしく光って見えた。
【了】
公園での闘いから三週間が過ぎたが、いまだ学校には行かずにいた。
ジュエルの精神世界に侵入したため、気力も体力も限界近くまで使ってしまった──それが理由で、しばらくの間、療養生活を送る羽目になったのである。
久永たちが治療に当たってくれたおかげで大事には至らずに済んだのだが、それでも目を覚ますまでに二週間ほどかかった。
朝、自室のベッドで目覚めた美美子が最初に見たのは、涙を浮かべる両親の姿だった。二人とも大粒の涙をぼろぼろこぼしては、
「よかった……!」
と呟き、美美子の体を抱きしめてきた。
部屋には姉の姿もあった。その日も仕事があったそうなのだが、早退して、美美子の看病をしてくれたのだ。
「あんた、無茶しちゃ駄目じゃない」
そう言って、彼女はにこりと笑った。瞳に涙をにじませながら、
「お父さんとお母さんに心配かけたら駄目だよ」
とも告げてきた。
室内をぐるりと見回して、その場にいた人々の顔を確認した。家族の他に、久永と狭霧がいた。
「新町さんも来たがっていたみたいだけれど、急用ができたから来れなくなったの。でも、あなたのことをとても心配していたわ」
と、狭霧は言った。
部屋の中に、ジュエルの姿はなかった。やはり気力と体力を使い過ぎたために、呪宝会系列の医療施設にて治療を受けているとのことだった。
「ありがとう。……それから、ごめんね。嫌な役をやらせてしまって」
家族が部屋を出たあと、久永が言った。
その日の彼は、珍しいことに、白いシャツと細身のジーンズを着ていた。ラフな服装なのに、それでも俳優のようにさまになっていた。
「美人はなにを着ても美人なのね」と美美子は思った。
その久永が言うに、上月巴は学校を休んで実家に戻ったとのことだった。学籍はそのままになっているが、しばらくの間休学するとの話であった。
「親族会議に出席するため、ふるさとに戻ったそうよ」
と、久永は言った。そして、ふ、と息をつき、声なく笑った。
それから、狭霧から一通の手紙を渡された。
「上月さんからよ」
と、彼は言った。
「どうしても、龍源寺さんに読んでほしいんですって」
美美子は浅くうなずいた。
「必ず読むわ。上月さんが書いてくれた手紙だもの」
その言葉に嘘はなかった。
いま、美美子は縁側で手紙を読んでいる。
午後の日射しが暖かに降る空のもと、上月巴の綴った言葉たちに目を通している。
──白い便せんに記されたその手紙には、彼の本音があった。真実があった。
言い回しこそ単純なのだが、彼の書いた文章には、真実を語る者ならではの凄みと重みがあった。上っ面だけを器用に繕った空疎な文は、ひとつとしてなかった。
手紙を読みながら、美美子は思った。「上月さんは大丈夫だわ」と。「ひとりじゃないから、……須藤さんがいるから大丈夫だわ」と。
それに、もしも彼がまた誤った道に行きそうなときは、全力で戻してやればいい。
何度でも声を上げて、彼を引き戻せばいいのだ。
──と。
「なんだか楽しそうだね」
なつかしい声が聞こえた。
美美子はいったん、その響きを幻聴だと思い込み──、そして、次の瞬間、幻聴などではないと思い知る。
手紙を横に置き、顔を上げた。
そこには──、彼がいた。
無地のシャツとハーフパンツを身にまとった恋人が、満面の笑みを浮かべながら立っていた。
「ジュエル……!」
美美子は泣いた。泣きながらサンダルを履き、少し離れた位置に立つ彼に思いっきり抱きついた。
ジュエルだった。
生身のジュエルがそこにいた。
戻ってきたのだ、彼は。死線を越えて、自分のもとに戻ってきてくれたのだ……。
キスをする。唇を触れ合わせるだけの繊細なキスを、彼に与える。
「おかえり、ジュエル」
涙をぼろぼろこぼしながら、美美子は言った。
年上としてのプライドとか、もはやどうでもよかった。ジュエルが戻ってきてくれた──それだけで、なにもかもが報われるような気がした。
「……ただいま、美美子ちゃん」
彼が言う。
それから、ふふ、と軽く笑って、美美子の頬にキスをする。
恋しい人のにおいをいっぱい吸い込みながら、美美子はこの世にはびこる悪徳に思いを馳せた。
今日も誰かが泣いている。終わりなき悲しみが、誰かの上に降り注いでいる。
誰かが泣いている。声を殺して泣いている。
少しだけおびえを感じた美美子の心に、残酷な何者かの「声」が響く。
人は誰かを憎む。
人は誰かを貶める。
人は誰かを恨む。
人は誰かを呪う。
人は誰かを侮る。
人は誰かを殴る。
人は誰かを罵る。
人は誰かを殺す。
人は誰かを裏切る。
──だけど、と美美子は思う。
人は誰かに優しくすることができる。
人は誰かを思いやることができる。
人は誰かを励ますことができる。
人は誰かを導くことができる。
人は誰かを許すことができる。
人は誰かに寄り添うことができる。
人は誰かを助けることができる。
人は誰かと分かち合うことができる。
人は誰かを愛することができる。
人は誰かを笑顔にすることができる。
人の心を持つ限り、人間としての生を選び続けるかぎり、人は誰かを幸せにすることが──できる。
この世には逃れられぬ病がある。「暴力」という名の宿痾は、至るところにはびこっている。
けれど、いまは大丈夫だ。
愛する者を大切に想う気持ちがあるのなら、きっと、ずっと、──未来だって大丈夫だ。
美しく澄んだ青空の下、いとしい恋人に触れながら、美美子は優しく微笑んだ。
世界がまぶしく光って見えた。
【了】
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