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宇津領の件
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大名が一門衆に領地を分けることは特に珍しいことではなく、継嗣問題の保険として分知は有効な手立てである。徳川将軍も、将軍家とは別に御三家や御三卿と呼ばれる下支えを設けているし、諸藩がそうした事例に倣うことは当然のことだったろう。
宇津氏が治める一帯三ヶ村もその例に漏れず、数代前の小田原藩主が自分の兄弟に分知し、旗本として成立させた領地だ。宇津というのはもともと大久保氏が名乗っていた姓で、源流は藤原北家宇津宮氏にあるということになっている。
新三郎は思い出せる限りのことを小筆で帳面につけていた。馬上のことで、器用な人だなと忠馬は思ったが、さきほど釘を刺されていたので無駄口を叩くのは諦めたようだ。
「忠馬、宇津の殿様は確か江戸定府だったな」
「は、そのように確認しております」
「なのになぜ領地へ運ばれたのだろう。小田原の指示かな」
「さて、子細は判りませぬ……。それを検分するためにこうして出張っているわけで」
急によそよそしくなった忠馬に呆れつつ、新三郎は自分の考えに立ち戻る。
領主が急病になり、段取りがあったかのように領地に運び込まれたのちの末期養子届。そこにきてこの領地の荒れようである。禄高四千石の実入りは四半分にも満たない収量となるだろう。
後ろ盾には十二万石の譜代小田原藩があり、藩公は代々幕閣中枢に人材を提供している名流である。たたけばいくらでも埃が出そうだ。
この末期養子の一件、ただ見届けるだけでは済まないきな臭さがある。新三郎は面倒なことになった、と馬上で空を仰いだ。
「いずれにせよ行って話を聞いてみるよりほかないな」
小さな声でぼやくと、少し後ろで足並みを揃えていた忠馬が「なんとおっしゃいましたか」と慌てて追ってきた。
「玄蕃は何をどこまで承知しているのかと思ってな」
主のことを言われて忠馬は姿勢を正す。
「今回はすべて荻野さんの指示通り立ち働くよう命じられておりますが、いずれにしましても版元見届の御役目の範疇でのことと思います」
「まあ、そりゃあそうか……」
どうも難しく考える癖がある。たとえこの末期養子に何かの陰謀があったとしても、手続きに応じて否応を判じ、過不足があればそれこれと指摘して正せばよいのだ。それ以上のことをする必要は端からない。そう思うと途端に気が楽になった。忠馬もなかなか役に立つ。
(まあ面倒は面倒だが、気になるものは気になる)
役目は役目と割り切ったあとからやってきたのは、いつもの興味本位だった。少し調べてみるのも面白そうだ。
ところで新三郎は浄瑠璃や歌舞伎の鑑賞を趣味にしている。そのために両国界隈に寓居を置いたくらいだ。
浄瑠璃や歌舞伎は実際にあった事件などを元ネタにすることが多いく、新三郎が特に好きな仮名手本忠臣蔵などはその最たるものだ。
実際にあった事件を取り上げて、時に面白おかしく、時に感動的に、含蓄をこめて観る者に何かを伝えようとする。それが浄瑠璃や歌舞伎だと新三郎は思う。そしてそれらを隅から隅まで楽しむためには知識と教養が必要だ。この場面のあれそれは、これこれを揶揄したものだ、とか訳知りな話しをている人を見ると、混ざって語りつくし合うこともざらである。
そうして集めた知識や情報が、今回のような仕事の役に立つのは新三郎にとっては皮肉だが、また新しい楽しみにいつか結びつくものだったりするから致し方ない。
もし今回の一件、面白そうな話なら、先日のように芝居小屋や講談師に筋書きを売って演らせてみるのも楽しいだろう。
そう思い直すと新三郎は忠馬に振り返って「急ごう」とせかした。
梅雨前の太陽は少し傾きつつある。少しのんびりしてしまったようで、約束の時刻に間に合うかどうか、少々心許なくなってきていた。
宇津氏が治める一帯三ヶ村もその例に漏れず、数代前の小田原藩主が自分の兄弟に分知し、旗本として成立させた領地だ。宇津というのはもともと大久保氏が名乗っていた姓で、源流は藤原北家宇津宮氏にあるということになっている。
新三郎は思い出せる限りのことを小筆で帳面につけていた。馬上のことで、器用な人だなと忠馬は思ったが、さきほど釘を刺されていたので無駄口を叩くのは諦めたようだ。
「忠馬、宇津の殿様は確か江戸定府だったな」
「は、そのように確認しております」
「なのになぜ領地へ運ばれたのだろう。小田原の指示かな」
「さて、子細は判りませぬ……。それを検分するためにこうして出張っているわけで」
急によそよそしくなった忠馬に呆れつつ、新三郎は自分の考えに立ち戻る。
領主が急病になり、段取りがあったかのように領地に運び込まれたのちの末期養子届。そこにきてこの領地の荒れようである。禄高四千石の実入りは四半分にも満たない収量となるだろう。
後ろ盾には十二万石の譜代小田原藩があり、藩公は代々幕閣中枢に人材を提供している名流である。たたけばいくらでも埃が出そうだ。
この末期養子の一件、ただ見届けるだけでは済まないきな臭さがある。新三郎は面倒なことになった、と馬上で空を仰いだ。
「いずれにせよ行って話を聞いてみるよりほかないな」
小さな声でぼやくと、少し後ろで足並みを揃えていた忠馬が「なんとおっしゃいましたか」と慌てて追ってきた。
「玄蕃は何をどこまで承知しているのかと思ってな」
主のことを言われて忠馬は姿勢を正す。
「今回はすべて荻野さんの指示通り立ち働くよう命じられておりますが、いずれにしましても版元見届の御役目の範疇でのことと思います」
「まあ、そりゃあそうか……」
どうも難しく考える癖がある。たとえこの末期養子に何かの陰謀があったとしても、手続きに応じて否応を判じ、過不足があればそれこれと指摘して正せばよいのだ。それ以上のことをする必要は端からない。そう思うと途端に気が楽になった。忠馬もなかなか役に立つ。
(まあ面倒は面倒だが、気になるものは気になる)
役目は役目と割り切ったあとからやってきたのは、いつもの興味本位だった。少し調べてみるのも面白そうだ。
ところで新三郎は浄瑠璃や歌舞伎の鑑賞を趣味にしている。そのために両国界隈に寓居を置いたくらいだ。
浄瑠璃や歌舞伎は実際にあった事件などを元ネタにすることが多いく、新三郎が特に好きな仮名手本忠臣蔵などはその最たるものだ。
実際にあった事件を取り上げて、時に面白おかしく、時に感動的に、含蓄をこめて観る者に何かを伝えようとする。それが浄瑠璃や歌舞伎だと新三郎は思う。そしてそれらを隅から隅まで楽しむためには知識と教養が必要だ。この場面のあれそれは、これこれを揶揄したものだ、とか訳知りな話しをている人を見ると、混ざって語りつくし合うこともざらである。
そうして集めた知識や情報が、今回のような仕事の役に立つのは新三郎にとっては皮肉だが、また新しい楽しみにいつか結びつくものだったりするから致し方ない。
もし今回の一件、面白そうな話なら、先日のように芝居小屋や講談師に筋書きを売って演らせてみるのも楽しいだろう。
そう思い直すと新三郎は忠馬に振り返って「急ごう」とせかした。
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