七ツ国戦記

盤坂万

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コルトケロヌスの異変

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 大地の各所には光の届かぬところがかなりの箇所存在する。それは探索に無関心な神たちの明らかな怠慢によるものだ。
 光の届かぬ場所は魔性に染まりやすい。時折そこから災厄とも謳われるような強大な魔獣が生み出されることがあった。神たちは娯楽を欲している。すなわち面白ければ何でも受容するのだ。凶悪な魔獣の発生や天変地異は、神々に一時の享楽をもたらす。
 人々が災いに苛まれつつも復興へと力強く|頭〈こうべ〉を上げる姿は、彼らの感動を強烈に掻き立てる。その感情は純粋なものだったが、その激しい情感を得るために、神々は無闇に厄災を放置するのだった。対処可能な小さなうちは気付かぬふりをして、大きく成長し国々を揺るがすような状態になるのを待つのだ。
 困難に立ち向かう人の強さに、神たちは千年もの間ずっと惹かれていた。打ち克つ人の姿を見て得られる感動のために、彼らは人々を困難に突き落とすのである。



 再誕した男は魔性に染まった森林の奥地で、かつての彼の神が語った世の摂理を思い出していた。
 そうだ、身体に魔性が宿ったのも、父王に殺されようとすることも、何もかも神の望んだ娯楽に違いない。失望してみせたり、嘆いたりしてみせたりする必要はないのだ。思し召しはすべて理解している。しかし理解はしているが容認も納得もしているわけではない。ただ、すべきことだけが胸に灯されていた。

「ふむ……」

 確かに自分のものですあるのに、まったく自分の物のように感じられない右手を伸ばしたり屈めたりしながら、目覚めた魔王は一人嘆息した。満足を表すでもなく、絶望を抱いたりすることもなく、魔王は自分を確かに感じて息を漏らす。好むと好まざるとに関わらず、彼が再臨した理由はただ一つ。それゆえ魔王は嘆息せざるを得なかった。



 魔王の噂が噂でなくなったのは、クンヌート聖王国とシャガリカーラ国の国境で、三千もの兵とともにメルレイン王子が雷光に撃たれて姿を消してから二年が過ぎた頃だった。
 その頃この消えた王子と魔王を結びつける証は何もなく、その兆しも一部の人の幻想でしかなかった。なぜなら、魔王現るの一報が大地諸国を巡ったのは、クンヌートからはるか北方にある最果ての国、ツハルスァルル連合王国が震源だったからである。
 ツハルスァルルは北限の国家で、只人族と妖人族が治める二つの種族の国だ。この国は特殊な成り立ちをしている。連合王国の名は書いて字のごとく、かつて存在したツハルスとアルルという二つの部族が融合して生まれた国だった。
 王は二つの部族から一人ずつ選ばれるが、いずれも世襲ではなく、諸侯と呼ばれる貴族の中から選ばれる。そしてそれぞれの部族からは必ず男と女が王位に就いた。どちら側かが男で、もう一方が女であればよく、それ以外を制約するような大きな決まりはない。王と女王は婚姻をし、国は共同統治される。それがツハルスァルル連合王国の名の由来だった。

「エゼリアス、兄王がお呼びだ」

 一人中庭で特大の長剣を振るっていた男は、同僚に呼ばれてそれを草地の上に突き立てた。大男と言っていいエゼリアスの身長よりも少し長いそれは、並の男なら二人がかりで何とか持ち上げることができるほどの獲物である。エゼリアスを呼びにやってきた男は呆れたように細く息を吐いた。この寒いのによくもまあ精が出るものだ。

「……イスコルか、例の件だな」
「ああ、コルトケロヌスへ探索に出た五百ほどの部隊が全滅したらしい」

 汗を拭いながら王弟であるエゼリアスは、同僚の男から視線を外さぬまま居住まいを正した。着痩せをする性質らしく、服を着るとそれほど大きな人間には見えない。

「指揮官は誰だったか」
「紅熊公だ」

「死んだのか?」

 エゼリアスの問いかけにイスコルは肩をすくめてみせた。こちらも長身で宮廷では女人らの秋波を一手に引き受けるほどには美男子である。

「全滅したと言っただろう」
「コスラン卿がな……、もったいない話だ。しかしコルトケロヌスに巣食っているというのは本当に魔王なのか」

「神が申されるには、そうだ」

 腕を組み沈思するエゼリアスの背中を押すように、イスコルはそのいかめしい肩に腕を回して歩き出した。

「さあ、とにかく王のお召しだ。正装に着替えて王宮へ行くぞ」
「なんだ、女王にも会うのか」

「それがこの国のしきたりだろう。王弟殿下ともあろう方が今さら何を言う」
「殿下はやめてくれ。兄上が王に選ばれただけで俺自身は一介の軍人に過ぎない」

 わかったわかったと躱すイスコルに促されて、エゼリアスは大剣を鞘に収めて背に担ぐや、連れ立って中庭を後にした。
 コルトケロヌスは広大な針葉樹の森だ。一年の大半が雪に覆われているこの国において、未開の地の一つである。伝承では知性を持つ巨大な狼が守る森だと言われているが、その魔狼を目撃したものはいない。
 そのコルトケロヌスを監視する砦が一夜にして陥落した。森から突如湧き出た軍勢が易々と砦を陥れたのだが、占拠には至らず再び森の深淵に引き返したという。紅熊公と称されたコスラン卿が精鋭の私兵を率いて探索に向かったのだが、往ったきりついに戻らなかったのである。
 王は色を失った。その様子を観察するかのように静観していたこの国の神は、まるで子供が新しい遊びを思いついたかのような無邪気な声で王に囁いた。コルトケロヌスにいるのはきっと魔王だろうと。
 
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