【完結】新説・惟任謀反記

盤坂万

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雨下しる

毀れていく世界

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 その日、織田家の当主である近衛中将信忠は、本能寺での茶会を終え宿所の妙覚寺に戻るや、ぼんやりと月を眺めていた。
 上空は風が強いらしく、忙しく流れる雲に月が見え隠れする。その度に夜空が明滅するのを眺めていると、背後でひそやかに襖が開く音を聞いた。

「殿、村井様が寝所へ帰られまする」

 振り向くと前日に美濃から入洛した新五郎が板の間に手をついている。
 信州での戦では、この男が側にいなかったおかげで随分と苦労をした。父信長の命で、新五郎は自領の加治田で待命していた。そのことに信忠は大いに不満があったが、口にはもちろん表情にもそれを浮かべたりはしない。この不審は、きっと家中に波風を立てる。
 父上は、と信忠は思いかけてやめた。昨今は、政務や軍事のことを考え出すと、ついつい愚痴が出かかる。
 信忠は叩頭したままの新五郎に、うんと返事をした。

「どれ、見送くるとしよう」

 身軽く立ち上がると新五郎を従えて表へと向かう。
 村井とは、昨年出家して家督を息子の貞成に譲り渡した貞勝のことである。今は春長軒と名乗り隠居の身だが、家中きっての能吏はなかなか楽をさせてもらえそうにないようだ。
 その貞勝の寝所は、信長の宿所である本能寺から、半里ほど東に行ったところにある。茶会のあと、妙覚寺へ引き上げるのに付き従ってきていた。
 そのあと共に酒など呑んで一時を過ごしたが、泊って行けと言うのを固辞して、これから屋敷へと戻るところだった。

「これは殿、わざわざありがとう存じます」

 信忠が姿を現すや、貞勝は頭を下げた。近くにいて同じく低頭しているのは貞勝の次男清次だ。長男の貞成は貞勝から既に家督を譲り受けている身だから、この場にはおらず信長に近侍している。

「月夜とは言え風が強い。気をつけてゆかれよ」
「は……、しかし何やら胸騒ぎのするような雲行きですな」

 貞勝がそう言って夜空を見上げるので、信忠もつられて視線を上げた。雲は今も西から東へと足早に流れていく。

「明日は堺じゃ。朝も早いゆえ、ご老体は早く休まれるがいい」

 信忠がそう気遣うと老人は嬉し気に微笑んだ。

「上様は昔から性急ですからな。ついて行くだけで骨が折れまする。四国征伐も急な決定で、殿もさぞ驚かれたでしょう」
「左様、このように各方面に兵を割いて畿内はすっからかんだ。無論、それが叶うようにこれまで事を運んできたのだが」

「まあ上様のおわすところが御座所ですからな。畿内にあっては上様に敵するような勢力は、もはやお味方内にしかありますまいし」

 貞勝は冗談を言ったのだが、信忠は笑うことができなかった。信忠の胸中には不安が浮かんでいる。
 自分は父信長に比して凡なることは致し方もない。だが、父の先見性と言うものが、時折ただの博打に見えることがあるのは、やはり自分が父を凌駕しえないということを証しているのだろうか。
 しかし、父の天才を差し引いたとしても、その致し方には危うさがかき消せぬ。信長と言う人は、極限の緊張感というものを、その生の内に欲しているように思えてならない。いくら畿内の平定がなったとは言え、五百かそこらの兵だけで身軽く移動をするなど、わざわざ綱渡りをするようなものではないか。

(京洛に配した兵を合わせてもせいぜいが三千……)

 信忠はほんの少し身震いをした。碁を打っているときに、何かとんでもない打ち間違いを犯してしまったような気のすることがある。その時の気分にとてもよく似ていた。
 しかし、ではどこから敵が湧いてくると言うのだ? 堺には四国征伐の三七信孝の軍が一万五千、亀山には中国に援兵する明智軍が二万、外敵に怯えるような情勢ではないはずだ。

(ないはずだが……)

 明滅する月明かりに照らされる信忠に、貞勝が「では、そろそろ」と断りを入れ、すっかり白髪だらけになった頭を下げた。

「ああ、くれぐれも気をつけて」

 重ねて言った信忠は、老身ながら夜半の乗馬に不自由のない貞勝の、南へ下がる後姿を見送った。
 もう一度夜空を仰ぎ見ると、細切れの雲は後ろに大きな塊の雲を連れてきていた。四半刻もすれば月はすっかり覆われて闇夜となるだろう。
 信忠は小さく吐息して寝間に戻ることにした。後ろを黙って新五郎がついてくる。明日は堺、二日後には淡路へ渡る。この先も戦は続くだろう。父と織田家は、どこまで世界を毀して進むのだろうか。
 最後の月明かりに照らされて、信忠は胸の中にまで迫る暗雲を振り払おうと首を振った。
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