【完結】新説・惟任謀反記

盤坂万

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十一日間

天正十年六月三日のこと(後)

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 本能寺に変があり、今日は明けて六月三日。京洛の町は嘘のように何もなかった風を装っている。
 町人たちは日々の営みに勤め、役人たちは税を徴収したり、市中の警邏を行ったり、何でもなかったように、それを信じるように立ち回る。ただ、三条から二条にかけて、鴨川の西岸だけが燻ぶった空気をいつまでもぶすぶすと吐き出していた。

「左馬助、例の手配はどうだ」

 問われて辞儀を正した左馬助は、口を開こうとして笹をくわえたままなのを思い出し、ぷっとそれを取り出した。すぐ隣にいてその様子を、庄兵衛が無表情の中に呆れを浮かべて見ている。

「各所への遣いは昨日未明に既に放っております。一番遠い滝川様の陣へは明日になるでしょうが、他は本日中に受領するでしょう」
「そうか、御苦労」

 は、と短く応えて左馬助は座したまま後ろに下がる。手にした鬼笹をどうするのかと見ていたら、何の気なしにそれを再びくわえたので庄兵衛が長いため息をついた。

 光秀は本能寺を襲うにあたって、各所に書状を送っていた。内容は、六月二日、本能寺にて織田信長を討つ、と簡潔なものだ。これを送るにあたって光秀が心配をしたのは、受け取った者らが信じるかどうかだった。
 あて先は、先に左馬助が延べた信州在陣の滝川一益、北陸方面に上杉を攻めている柴田勝家、三河の徳川家康、中国攻め真っ最中の羽柴秀吉、堺で四国渡海の準備にある丹羽長秀および信孝。ほかに北伊勢の織田信雄、大和の筒井順慶、丹後の細川藤孝、摂津衆の主だった城主らにも知らせた。
 事実を知らせるだけに留めたそれには、与力を求めたり何かを約束するような内容は添えられておらず、受け取った者によっては性質の悪い流言と捉えるかもしれない代物だった。

「諸大名にはいかが致しますか」

 声を発したのは内蔵助で、彼の言う諸大名とは、織田家と協調、もしくは敵対する各国の大名のことである。知って事実と判ずれば、織田家に圧迫されていた各大名は旧領を復するために蠢動するだろう。
 戦乱はさらに大きくなり、日ノ本の混乱は更に増すのは火を見るより明らかだ。

「そちらは捨て置くのがいいだろうな。後がやりにくかろう。死んで後に恨まれるのは性に合わん」

 光秀は誰に、とは言わずそう応えた。

「長曾我部にも、そのようにされますか」

 なおも問う内蔵助に光秀は黙って頷いた。内蔵助は目礼をするとようやく下がる。

「禁裏へは?」

 しばしの沈黙の後、それを破ったのは声まで無表情な庄兵衛である。直前には二条城を攻めて、東宮をはじめ多くの若宮や公卿衆を驚かせている。何らかの説明が必要ではないか、という意味だったが、光秀はさして考えるまでもなく「静観だ」と応えた。

「お膝元を騒がせたのだ。呼ばれもせぬのに参内する訳にはいかぬ。もし当方から伺候すれば、朝廷に対しても弓引くものと、見るものからは見えるだろう。仇にはなっても朝敵にはなりたくない」

 そう光秀が言うと、書院に詰めた二十名からの家臣らはみな、しんと静まり返った。

「さて、皆は誰が最初に京へ辿り着くと思う?」

 打って変わって光秀が陽気に言ったので、場の空気が途端に和んだ。「そりゃあ」と口火を切ったのは常の通り左馬助だ。

「信孝公と丹羽様ではないですかね。大坂に居て兵数も四国征伐のために揃っている」
「権六殿はどうだ」

「柴田様はああ見えて慎重なお方ですからな。近江までは返してくるでしょうが……」

 左馬助の見立てに光秀が口を挟むと、そう答えたのは内蔵助である。

「警戒すべきは信孝公の四国軍と、柴田様の北陸方面軍が共闘する場合」

 そう語ったのは庄兵衛だ。光秀はどうやらこの軍議を楽しんでいるきらいがあった。上席より身を乗り出すようにして諸将との問答を面白がっている。

「なるほど、そうなると二正面作戦となるか。面白いな」
「殿、面白くなどありませぬぞ」

 すぐ脇にいる伝五に釘を刺されても光秀はにやにやと嗤ってはばからない。

「伝五、地図をこれへ」
「……かしこまりまして」

 やがて伝五が地図を用意すると、主だったものがぐるりと囲み、その外側から若い貞興、旧幕府衆や近江衆、丹波衆と呼ばれる部将らが取り囲んだ。
 碁石を兵に見立てて地図の上にそれをばらまく。内蔵助と庄兵衛がせっせと碁石を配置し、白石が自軍、黒石が敵軍で分けられた。

「二正面作戦の肝は、敵方の攻撃に時間差を生ませることだ」
「では先に四国軍を叩くか?」
「おそらく、北陸軍が到着するまで仕掛けてはこぬだろう。丹羽様は計算高いが小心だ」
「ならば四国軍を牽制しつつ、先に北陸軍を討ってしまうのが妙案だな」

 となると、やはり安土城は早い段階で押さえておく必要がありそうだ、と相談が決まった。

「どれほどの時がかかるか」
「まあ、普通に考えれば半月ほどはかかるのではありませぬかな。四国軍はともかく、他の勢力はどこも交戦中です。敵に背中を向けるのはなかなか難しいことで」

 左馬助の考察に光秀は頷いた。それだけの時間があれば、いろいろと準備ができる。それにその間、畿内の平穏を保つ必要があるだろう。
 光秀は小競り合いなど望んでいない。最後の一戦は、次代のため、覇者の名乗りのために必要な儀式なのだ。せいぜい派手に、できうるならばこの国の歴史に残る戦をせねばならない。
 光秀は地図の上、安土城に手にした馬鞭を突き立てると凛と言い放った。

「では手配りを致す。まず、安土は左馬助」
「は」

「四千でこれを制圧せよ。次に、畿内の与力大名らへ遣いを送る。丹後へは庄兵衛、大和には伝五、それぞれ頼む」

 呼ばれて庄兵衛と伝五は揃って「ははっ」と応じた。これへは合力を依頼するのではない。御手出し無用、とそのことを伝えに行くのである。なまなかのものには任せられない肝のいる仕事だった。庄兵衛と伝五なら、それぞれ存分に任に堪えてくれるだろう。

「内蔵助、お主は山崎へ赴き名主と談合せよ。丹波衆を中心に四千を率いて勝竜寺、淀の二城を抑えてくれ。ここを四国軍との戦場にする」
「承知」

 その他諸将の配置も着々と決め、この日の軍議は終了となった。その後小さく酒宴を開き、解散したのは酉の刻に至る。

「どれ、次右衛門を見舞っていくとしようか」

 光秀はそう言い残すと軽装で発ち、次右衛門のいる知恩院を回ってから東山を越えて領地の坂本へ帰ったのだった。

 ◆◇◆

 夜半に至るその頃、京から五十里離れた備中の山奥では慌ただしく事が運ばれていた。目まぐるしさの渦中の人物は羽柴秀吉、のちに言う中国大返しが始まるのだった。
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