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それから
坂本城炎上
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「明智方はどうするつもりかな」
湖に張り出した坂本城の本丸を遠くに眺めて、一旦進軍を止めた堀の将である奥田三右衛門は気鬱にため息をつきながら言った。
三右衛門は堀家の家老である。主君秀政の従兄弟にあたる境遇から、左馬助は何かと親近感を感じる相手だった。
「明智様が討たれたのですから、城を枕に全員玉砕なんてことも」
「いやいや、あの左馬助殿がそんな詰まらぬことをするものか」
配下の者が言うのに三右衛門は即座に否定をした。三右衛門の知る左馬助はいつも飄然としていて、見ていて飽きのこない人物だった。思えば明智家中は謹厳そうな雰囲気を持つ中に、いつも妙なおかしみがあったように思うが、それは左馬助がその中に居たからかもしれない。
その左馬助から使者が来たと聞いて、土気色をしていた三右衛門の顔色にいくばくか血の色が戻った。
「もしや降伏の使者では」
「さて、それも左馬助殿らしくない気がするが……」
使者として送られてきた者は素破者で、使者というよりは密使のような風であったが、左馬助の署名の入った手紙を携えていた。中には左馬助の文と、何やら目録のような書付が収まっている。
書状を開いて内容を確認するうちに、三右衛門は目頭が熱くなってき、思わず涙を流した。
「やはり左馬助殿と言うべきだな」
「文には何と?」
これ以上抵抗しても時を奪うだけであるから、自分らは潔く城を燃やし自害する。だが、安土より持ち帰った宝重や、主君の集めた珍品名宝などは燃やしてしまうには甚だ惜しい。これこれの宝重を三右衛門殿にお預けするから、荷造りをする間しばし時をお貸し願えないだろうか。一族自身で身の始末を決したい、という内容だった。
三右衛門は膝を打って強く頷くと、使者にすぐに返事を持たせて返したのだった。
◆◇◆
「なんと言ってきたか」
「は、三右衛門が実直すぎて少々申し訳ないような」
光秀の問いに密書を開いた左馬助がそう言ったので、治右衛門がうれしげに嫌味を言った。
「ふふ、お主でもそのように気の引けることがあるのだな」
「言葉が過ぎるぞ治右衛門殿」
泥を洗い落とした庄兵衛が窘めたが、治右衛門はふんと鼻息を飛ばしたきり痛む足の傷をさすっている。
「一刻ほど時が稼げました。今のうちに退散を始めましょう」
左馬助が言って皆が立ち上がった。一人よろよろと立つ治右衛門を庄兵衛が小言を言いながら支える。
その庄兵衛にさらに文句を言う治右衛門の声が遠ざかっていくのを見送って、光秀は長い息をついた。
「ようやく潮時か」
◆◇◆
「ご主君のこと、心中お察し申す」
荷を引いて堀の陣近くまで出張ってきた左馬助を、三右衛門は出迎えた。馬上で短く挨拶をした後、おおよそ大きな声では言えぬ弔辞を述べる。
「いやいや、武家のならい。お気遣いはご無用」
左馬助は見舞いを言う三右衛門に、神妙な顔で返答するのに苦労した。光秀はすでに討たれたことになっているから、せいぜい心痛を装わねばらなない。それに明智一族は今や逆賊、家老である左馬助は神妙すぎるくらいでちょうどよく映るだろう。
三右衛門は目録と品物を確認し、主人に確認するゆえいましばらくお待ちあれ、と残して一旦去った。この間にも坂本城の退去は始まっている。秀政が始末を検分するために押し出してくるのはこの交渉が終わってからだ。願わくば、彼らの相談が長引くほうが有難かった。
だが堀方は左馬之助の申し出に感じ入ったらしく、思いのほか早くに回答を出した。内心左馬助は舌打ちをしたが、顔に出すわけにもいかず三右衛門から秀政の書状を受けとった。
曰く、左馬助の申し出を受け、宝重の一切を預かり明智一族の自裁を見届けるという内容だった。
「左馬助殿」
三右衛門はほとんど感極まっていた。いずれにせよ今生の別れ、左馬助はこれから自害をほのめかして立ち去る。
遺骸は確認できまいが、いずれにせよ明智は滅びるのだ。預けた宝重には明智家伝来のもの、光秀が足利将軍や朝廷、信長から賜ったもの、自ら集めたものまでもが含まれている。坂本落城の報せと、この品々を届ければ秀吉は納得せざるを得ないだろう。
秀吉は山崎で、ほかならぬ光秀に勝利を譲られたのだ。それは秀吉自身が一番理解していることだ。
「では三右衛門殿、いずれまた」
冥府にて、と三右衛門は都合よく受け取ってくれただろう。馬鞭を振るうと左馬助は後も見ずに坂本城へと向かう道を急いだ。
三右衛門が帰陣するや堀の一万五千は坂本城を囲むために動き出す。退去はどこまで進んだか、と気がかりで駆け戻ったが、左馬助が到着するとすでに城はもぬけのからだった。
よし、と一人頷いて、最後の手下たちに指示を飛ばし、打ち合わせていた通りに建物へ火を放った。それからここで離散する兵らに金品を配る。いずれ彼らの口からこの陰謀が露見するだろうが、ここを凌げればそれでよい。
火が回るのを見届けて、左馬助は一心に馬を走らせた。途中で堅田に寄るつもりだ。内蔵助が恐らくそこに隠れている。彼を説得できたなら連れ出し、丹後へ向かおう。
火の手の回りは思うよりも早く、振り向くともう小天守が燃え始めている。油をかなり使ったからよく燃えるはずだ。灰のほかには何も残らないほどしっかりと燃えてくれるだろう。
前方に向き直った時、背後で凄まじい爆発音が響いた。聴覚が麻痺するほどの轟音は、明智家が金品よりも大事に貯めていた火薬に火が付いたものと見える。気が付けば左馬助は嗤っていた。気が狂ったのではないか、と自分で疑うほど嗤った。
愉快でもなんでもなかったが、こんなに嗤うのは生涯で後にも先にもこの時だけだろうと、左馬助は嗤いながら馬を走らせた。
湖に張り出した坂本城の本丸を遠くに眺めて、一旦進軍を止めた堀の将である奥田三右衛門は気鬱にため息をつきながら言った。
三右衛門は堀家の家老である。主君秀政の従兄弟にあたる境遇から、左馬助は何かと親近感を感じる相手だった。
「明智様が討たれたのですから、城を枕に全員玉砕なんてことも」
「いやいや、あの左馬助殿がそんな詰まらぬことをするものか」
配下の者が言うのに三右衛門は即座に否定をした。三右衛門の知る左馬助はいつも飄然としていて、見ていて飽きのこない人物だった。思えば明智家中は謹厳そうな雰囲気を持つ中に、いつも妙なおかしみがあったように思うが、それは左馬助がその中に居たからかもしれない。
その左馬助から使者が来たと聞いて、土気色をしていた三右衛門の顔色にいくばくか血の色が戻った。
「もしや降伏の使者では」
「さて、それも左馬助殿らしくない気がするが……」
使者として送られてきた者は素破者で、使者というよりは密使のような風であったが、左馬助の署名の入った手紙を携えていた。中には左馬助の文と、何やら目録のような書付が収まっている。
書状を開いて内容を確認するうちに、三右衛門は目頭が熱くなってき、思わず涙を流した。
「やはり左馬助殿と言うべきだな」
「文には何と?」
これ以上抵抗しても時を奪うだけであるから、自分らは潔く城を燃やし自害する。だが、安土より持ち帰った宝重や、主君の集めた珍品名宝などは燃やしてしまうには甚だ惜しい。これこれの宝重を三右衛門殿にお預けするから、荷造りをする間しばし時をお貸し願えないだろうか。一族自身で身の始末を決したい、という内容だった。
三右衛門は膝を打って強く頷くと、使者にすぐに返事を持たせて返したのだった。
◆◇◆
「なんと言ってきたか」
「は、三右衛門が実直すぎて少々申し訳ないような」
光秀の問いに密書を開いた左馬助がそう言ったので、治右衛門がうれしげに嫌味を言った。
「ふふ、お主でもそのように気の引けることがあるのだな」
「言葉が過ぎるぞ治右衛門殿」
泥を洗い落とした庄兵衛が窘めたが、治右衛門はふんと鼻息を飛ばしたきり痛む足の傷をさすっている。
「一刻ほど時が稼げました。今のうちに退散を始めましょう」
左馬助が言って皆が立ち上がった。一人よろよろと立つ治右衛門を庄兵衛が小言を言いながら支える。
その庄兵衛にさらに文句を言う治右衛門の声が遠ざかっていくのを見送って、光秀は長い息をついた。
「ようやく潮時か」
◆◇◆
「ご主君のこと、心中お察し申す」
荷を引いて堀の陣近くまで出張ってきた左馬助を、三右衛門は出迎えた。馬上で短く挨拶をした後、おおよそ大きな声では言えぬ弔辞を述べる。
「いやいや、武家のならい。お気遣いはご無用」
左馬助は見舞いを言う三右衛門に、神妙な顔で返答するのに苦労した。光秀はすでに討たれたことになっているから、せいぜい心痛を装わねばらなない。それに明智一族は今や逆賊、家老である左馬助は神妙すぎるくらいでちょうどよく映るだろう。
三右衛門は目録と品物を確認し、主人に確認するゆえいましばらくお待ちあれ、と残して一旦去った。この間にも坂本城の退去は始まっている。秀政が始末を検分するために押し出してくるのはこの交渉が終わってからだ。願わくば、彼らの相談が長引くほうが有難かった。
だが堀方は左馬之助の申し出に感じ入ったらしく、思いのほか早くに回答を出した。内心左馬助は舌打ちをしたが、顔に出すわけにもいかず三右衛門から秀政の書状を受けとった。
曰く、左馬助の申し出を受け、宝重の一切を預かり明智一族の自裁を見届けるという内容だった。
「左馬助殿」
三右衛門はほとんど感極まっていた。いずれにせよ今生の別れ、左馬助はこれから自害をほのめかして立ち去る。
遺骸は確認できまいが、いずれにせよ明智は滅びるのだ。預けた宝重には明智家伝来のもの、光秀が足利将軍や朝廷、信長から賜ったもの、自ら集めたものまでもが含まれている。坂本落城の報せと、この品々を届ければ秀吉は納得せざるを得ないだろう。
秀吉は山崎で、ほかならぬ光秀に勝利を譲られたのだ。それは秀吉自身が一番理解していることだ。
「では三右衛門殿、いずれまた」
冥府にて、と三右衛門は都合よく受け取ってくれただろう。馬鞭を振るうと左馬助は後も見ずに坂本城へと向かう道を急いだ。
三右衛門が帰陣するや堀の一万五千は坂本城を囲むために動き出す。退去はどこまで進んだか、と気がかりで駆け戻ったが、左馬助が到着するとすでに城はもぬけのからだった。
よし、と一人頷いて、最後の手下たちに指示を飛ばし、打ち合わせていた通りに建物へ火を放った。それからここで離散する兵らに金品を配る。いずれ彼らの口からこの陰謀が露見するだろうが、ここを凌げればそれでよい。
火が回るのを見届けて、左馬助は一心に馬を走らせた。途中で堅田に寄るつもりだ。内蔵助が恐らくそこに隠れている。彼を説得できたなら連れ出し、丹後へ向かおう。
火の手の回りは思うよりも早く、振り向くともう小天守が燃え始めている。油をかなり使ったからよく燃えるはずだ。灰のほかには何も残らないほどしっかりと燃えてくれるだろう。
前方に向き直った時、背後で凄まじい爆発音が響いた。聴覚が麻痺するほどの轟音は、明智家が金品よりも大事に貯めていた火薬に火が付いたものと見える。気が付けば左馬助は嗤っていた。気が狂ったのではないか、と自分で疑うほど嗤った。
愉快でもなんでもなかったが、こんなに嗤うのは生涯で後にも先にもこの時だけだろうと、左馬助は嗤いながら馬を走らせた。
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