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12・初めて失敗したので、 -前-

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「珊瑚ちゃん! 」
 朝身支度を整えていると中庭の方から声が掛かる。
「なぁに? 」
 わたしは窓に駆け寄るとその小さなガラス戸を開け、声の方に顔を向けた。
「この男が、至急お願いがあるんだってさ! 」
 井戸の脇に立った料理人のおばさんが叫んでいる。
 隣には見たことのない、少し身なりの落ちる無精ひげを生やした痩せた男の姿があった。
「ちょっと待っていて」
 アゲートがきてくれないせいでまだ広がったままになっていた髪を無造作に襟元で一つに縛り螺旋階段を下りた。
 跳ね橋の踊り場を潜って外階段を下り中庭に出る。
「朝早くからすまないねぇ…… 」
 いうおばさんの隣で男は被っていた帽子を取り、頭を下げた。
「誰? 」
 わたしはおばさんの顔と男の顔を交互に見ながら訊く。
「わたしの従兄妹なんだけどね…… 
 ほら、自分でお願いしな」
 いっておばさんは男の背中を押し促した。
「すんません、こんなに早くから押しかけちまって」
 男は視線を落としたまま今にも消え入りそうな声で言う。
 その視線の先に目が行くとさっき握り締めた帽子を持つ手が明らかに震えている。
「大丈夫だよ、魔女様っていったって何もあんたをとって喰ったりしないから…… 」
 おばさんがいじれたように言った。
「すまないね、これ小心者で…… 」
 そして済まなそうにわたしに向いた。
 
 男の様子はどう見てもわたしに怯えている。
 最初の頃のアゲートの姿が男に重なる。
 この砦に暮らす人たちは慣れてて全く臆さないからすっかり忘れてたんだけど。
 わたし『魔女』だったんだよね。
 無理もないって言うか。
 わたしは一つ息を吐く。
「平気、平気…… 
 ホント、とって喰ったりしないから。
 何かわたしに頼み事があったんでしょ? 
 気にしないで話してみて」
 男を刺激しないように笑みを浮かべてわたしは言ってみる。
「出来るだけ力になりたいから…… 」
 その言葉にようやく男は顔を上げてくれた。
「実は…… 」
 男は聞き取れないほどの小さな声で搾り出すように言う。
「実は? 」
「おねげぇします。
 家の犬を助けてやってくだせぇ! 」
 次いで男は意を決したように目をぎゅっと瞑ったまま中庭中に響き渡るほどの大きな声をあげた。
「犬? 」
 こんな細い男がどうしてそんな大きな声が出せるのかと言うほどの大声に驚いてわたしは目をしばたかせながら訊く。
「へぃ…… 
 実はオレん家の牧畜犬なんですが、前の犬が歳でうっちんじまったもんで新しい犬を入れたんです。ところが、こいつが莫迦で…… 
 牛を追っている最中にその牛に踏んづけられて怪我をしちまって、牛を追うどころか歩ける状態でなくなっちまったんでさ。
 お願いしやす。
 家の犬を歩けるようにしてくれねぇですか。
 このまま犬なしじゃ仕事に差し障りがでるもんで…… 
 俺んちじゃ首をくくらなきゃならなくなる。
 家にはまだ育ち盛りの子供が五人もいるんだ、でもって年寄りのばぁさんの面倒も見なきゃなんねぇ…… 」
 一度開いた男の口は滑らかだった。
 こっちが口をはさむ暇もないほど一気に喋って、ようやく息をつく。
「それで、犬はどこ? 」
 男の言葉が終わるのを持ってわたしはすかさず言葉を挟んだ。
 このまま黙って聞いていたら、この男自分の家庭の内情全部話尽くすまで言葉を止めない。
 そんな予感がした。
「へい、ちっとでっかい犬なんで抱えて連れてくるわけにいかず、家に寝かせてありますでさ。
 魔女様さえ良ければ今から荷馬車でも借りて連れてきますが。
 何しろ馬車の賃料がこれまたバカにならねぇんで、了解が取れないうちは借りるのも憚られて…… 」
「いいよ。わたしが行く」
 またしても話が止まらなくなりそうな男の言葉の隙をついてわたしは言った。
「え? いいんですかい? 」
 わたしの言葉は男にとって予想外のものだったらしい。男は目をしばたかせ茫然とわたしの顔を見る。
「怪我をしたワンちゃん、強引に動かすのはかわいそうだもん。
 ここはわたしが行くほうがいいでしょ? 」
「珊瑚ちゃん! 」
 わたしの言葉をおばさんが遮った。
「殿下のお許しがなくそんなこと…… 」
「平気よ。
 前に殿下に言われたの。
 縛るつもりはないから節度を守れば砦を出ても構わないって。
 それとも、この人の家って相当遠いの? 」
「いや、砦の前の村はずれですから、歩いてでもいける距離だけど…… 」
 おばさんは困ったように眉根を寄せる。
「だったら尚大丈夫よ、ただ…… 」
 言ってわたしは周囲を見渡す。
 少し距離を置いて井戸の向こうにわたしを見つめる一つの男の影が見えた。
「護衛についてきてくれるんでしょ」
 わたしは男に声を掛ける。
「お出かけですか? 」
 その声に反応して男はわたしの近くに大またで歩み寄ってきてくれた。
 いつか殿下の部屋に集まった年かさの身分の高い難しい顔をした兵士の一人だった。
「うん、ちょっとそこの村まで。
 いい? 」
 背の高い殿下に勝るとも劣らぬ高い位置にある顔を見上げてわたしは訊いた。
「いいですよ。
 殿下にはそう言い付かっていますから」
 男は相変わらず難しそうな不機嫌の顔のまま言う。
「じゃ、お願いします。
 えっと…… 」
「将軍のサードニクスと申します」
 男は一つ頭を下げた。
 
 
 石を積み上げた門を潜ると突然周囲の景色が一変する。
 それまで取り囲まれていた灰色掛かった黒い石積みは姿を消し代わりにどこまでもなだらかに緑色が広がる。
 ほとんど穴倉に近い砦の中からするとそれは全くの別天地にわたしには思える。
 門を出て真直ぐに続いている道の先に茅葺屋根の小さな家が並ぶ集落があった。
「ごめんなさい。
 歩かせたりして…… 」
 わたしの隣一歩後を歩くサードニクス将軍にわたしは声を掛けた。
 わたしの護衛がよりによって将軍だなんて本当は恐れ多くて…… 
 といいたいところだったんだけど。
 誰か代わりに若い人をってお願いしたのに将軍は聞き入れてくれなかった。
 
 ちょっとそこまで、って言ったのに。
 砦から村までは結構な距離があった。
 先日殿下に連れ出してもらった時は馬の脚だったから距離感がよくわからなかったんだけど。
 これといった目印のない一面の牧草地と言うのも考え物だ。
 殿下が馬に乗れた方がいいってあの時言った意味が今更ながらに実感できる。
「魔女殿は馬には乗られないのですか? 」
 遠慮がちに将軍は訊いて来る。
「乗らないんじゃなくて、乗れないの。
 馬なんて実物ここに来て初めて見たんだもん」
「どういう生活なさっていたんですか? 」
「どういうって、ん~ 
 生き物の代わりに機械の力を借りた生活」
 車とか電車とか説明すると長くなるだろうし理解してもらえる可能性のほうが少ないと察してわたしはとりあえず端折りに端折って言った。
「本当はね。
 殿下かキューヴが教えてくれる約束だったんだけど…… 」
 俯いてわたしは小さく呟いた。
 
 待ちに待ってやっと帰ってきたと思ったらすぐに姿を消してしまう。
 次に会えるのは何時になるかさえわからない。
 そう思うと切なさに胸が締め付けられた。
 
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