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16・家庭教師がきたので、 -後-

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「ありがとう。連れ出してくれて」
 城門を潜ると、わたしは将軍に礼を言う。
「いいえ、だいぶお疲れのようでしたので…… 」
 将軍は頬を緩ませた。
「わかる? 」
「ええ、目の下くまができてますよ」
「ホント? 」
「ですから、私でも魔女殿がだいぶお疲れの様子がわかったといいますか」
「う~、体力には自信があったんだけどな」
 わたしはゆっくりと馬を歩かせながら首を傾げる。
 青毛の馬の首越しに見る光景は何時の間にか一面の緑から、一部の区分が黄金色に変わっていた。
 乗りなれてしまった馬の背中からの視界は、別段珍しいものではなくなってしまったけど、頬を撫でるかすかな風が心地いい。
 やっぱり、馬に乗るのは好きだなって思う。
「慣れない環境ですし、お疲れが溜まっていらっしゃるのでしょう。
 実は、殿下から戻ったら魔女殿に兵法についての講義をと言われていたのですが、当分見合わせたほうがよさそうですね」
 将軍はやんわりとした笑みを浮かべた顔をわたしに向ける。
「殿下が、そんなことまで? 」
「はい、魔女殿のお能力ですと、前戦に出ることはほぼありえないと思いますが、知識として戦法も頭の片隅に入れて置かれたほうがこの先いいだろうと…… 」
「はあ…… 」
 将軍の言葉にわたしは思わず大きなため息を隠さずについた。
「当分先にしますよ」
 将軍は声を出して笑う。
「いいの? 」
「もちろん。
 魔女殿はこの先ずっと陛下と一緒ですし、私はその陛下と行動を共にするのが常ですから、時間なら相当、余るほどあるはずですから…… 」
 わたしの顔を見ながら答えると、将軍は一気に馬を走らせた。
 ついて来いって言っているみたいに時々振り返ってわたしに視線を送る。
「……なにが、時間があるから見合わせるよ」
 わたしはその後ろ姿を目に呟く。
 かろうじて乗れるようにはなったものの、まだ早駆けは苦手だ。
 それを承知でついて来いといいながら先に行くって、やっぱり乗馬の訓練じゃない。
 わたしは誰も見ていないのをいいことにもう一つあからさまに大きくため息をついて、馬に拍車をかけた。
 
 
 結局、休むなんてとんでもない話で、砦に戻った時にはもう日が暮れていた。
 くたくたに疲れて戻ってくると白髪のおじいちゃんが待っている。
「随分長い休憩でしたな? 」
 ツァボラ先生は半ばお冠の様子で言う。
 結局、このあと。
 蝋燭の明かりを頼りに、深夜まで授業を受ける目に遭った。
 経済学といいつつ、こっちも領民からどうやって気持ちよく納税してもらえるかとか、資金運用とか、挙句には荘園のいさかいの治め方とか、多岐にわたりすぎ説明不能。
 
 
「お疲れの模様ね」
 翌朝、眠い目をこすりながら朝食をしにホールへ向かうとカイヤ夫人がわたしの顔を覗き込んで言ってくる。
「ダンスや、お作法入る余裕あるかしら? 」
 夫人は手にした扇を広げると、その影でくすくすと軽い笑い声をあげる。
「ダンス、も? 」
 わたしは顔を引きつらせた。
 決められたとおりに身体を動かすのは正直苦手。
「ええ、殿下からそうお願いされていてよ。
 完璧とまではいかなくていいので、恥をかかない程度のステップが踏めるように仕込んでくれと。
 ここじゃ、あまり必要はないけど、いずれあなたが王城に上がった時には必要不可欠になるからって」
 
 それって…… 
 ここにきてからずっと、この砦の中だけで生活していて、主も使用人も皆で一緒に食事をしてマナーとか何とか、ややこしいこと誰も言わなかったから、そんなもんだと思っていたんだけど。
 それが通じるのって、この砦だけの話だったってことだよね。
 
 わたしは眉根を寄せて唸りたいところを抑える。
 先日もキューヴに感情丸わかりだって言われたばかりだし。
 
 すでに『ダンス』って言われた時点で凄い顔しているはずだから一緒なんだけど。
 
「ダンスは次の機会にしておきましょうか? 
 それで安心しないでね。
 お辞儀の角度からドレスの捌き方、覚えることはたくさんあってよ」
 華やかな笑みをこぼしながら夫人は続けた。
 なんともそれが色っぽくて、どうしてこんな人が礼儀作法を教えに来てくれたのかと、わたしは頭を傾げた。
 
 
 一週間ほどして三人が引き上げた翌朝。
 何か妙な痛みにわたしは眠りから覚めた。
「……なんだろう? 」
 額の辺りを抑えつつ、起き上がろうとしてわたしは息を吐く。
 頭を何かが締め付けている。
 そんな感じの頭痛に襲われ、もう一度枕に引き戻される。
 そのまま動くこともままならないでいると、やがていつもの時間にアゲートが現れた。
「珊瑚さま? 
 どうしました? 」
 ベッドの中で枕を抱えたまま身動きのできないでいるわたしを覗き込んでアゲートが訊いてくる。
「ごめん、少し、このまま寝かせておいてくれるかな? 」
 頭痛薬をお願いしたいところだけど、そんなものあるかないかわからないし、あまりの痛さに説明するのも辛い。
 何よりアゲートに余計な心配をかけさせたくなくて、わたしはうめくように言った。
 
「大丈夫ですか? 
 これを飲んでください」
 結局、わたしの様子から症状を察したアゲートが大慌てで手配してくれたカップを手渡してくれる。
「何? 」
 カップの中では真っ青な到底口にする意欲を萎えさせる色をした液体が揺れている。
「頭痛に効く薬湯です。
 少し苦辛いですけど、よく効きますから。
 午後には起きられるようになると思いますよ」
 そう言って飲むのを促す。
「少し、根を詰めすぎたんですよね。
 教授方がいる間は珊瑚さま本当に夜中まで何をする暇もなかったですから…… 」
 言われるままにカップの中のものを喉の奥に流し込み、わたしは再びベッドに突っ伏した。
 そのまま動けないわたしの頭に濡れたタオルを乗せながらアゲートが言ってくれる。
「でも、駄目ですよ。
 お辛い時にはちゃんとそう言ってくださらないと。
 もし珊瑚さまに何かあったら殿下に叱られるのはわたし達なんですからね」
 言葉はきついがその声はものすごく優しい。
「うん、ごめん。
 一日も寝ていれば治るから…… 」
 うめくように言ってわたしは目を閉じた。
「殿下には言わないでね、心配かけさせたくないから」
 枕を抱えて側にいるはずのアゲートに言う。
「わかっています」
 そっと囁くように言って、アゲートは優しくわたしの頭を撫でてくれた。
「もうすぐ、麦の収穫祭なんですよ。
 楽しみにしていてくださいね」
 そう言ってアゲートは部屋を出て行った。
 
 楽しみってなんだろう? 
 
 痛みが酷くて、その上さっき飲んだ薬が効いて来たのか強い眠気にも襲われ、わたしはそれ以上何も考えられないまま、眠りに引き込まれていった。
 綴じた瞼の裏側に殿下の顔が映っている気がして、なんだか凄く幸せな気分だった。
 
 
「大体無理をさせすぎなんですよ。
 一度に三人もの家庭教師を送り込むなんて…… 」
 枕もとで誰かの話声がする。
「それは私の責任では…… 
 そこまで徹底しろとは言わなかったのだが」
 一つの声は殿下に似ている。
「……確かに珊瑚様の覚えのよさに、面白がって詰め込んだのは教授たちですけどね。
 教授達が言ってました。
 珊瑚様はこの国の水準では比較にならないほど高度な教育を受けてきた可能性があると。
 読み書きどころか計算もかなりの難易度のものを簡単にやってのけたそうですよ、殿下…… 」

 その言葉の端にわたしの意識は一気に現実に引き戻された。
 そこにはあんなに焦がれていた顔がある。
 
 嘘、まさか? 
 
 そんな思いで飛び起きる。
「珊瑚さま! 」
 アゲートが声をあげた。
「あ…… 」
 ぼんやりとした目で周囲を見渡す。
 午後の日差しに熱を持つ部屋の空気の中にいたのはアゲートだけ。
 ずっとついていてくれたのか、膝の上には途中の針仕事が乗っていた。
「お加減は? 」
 訊いてくれるアゲートにベッドに座ったまま額に手をやりこぼれ落ちた前髪をかきあげながら確認して答える。
「うん、もう大丈夫みたい。
 心配かけてごめんね」
「良かった……」
 そうそう、珊瑚さまにいいお知らせです。
 殿下が二・三日のうちにお戻りになるそうですよ」
 アゲートは花が開くときのように華やかな笑みを浮かべる。
 
 と、言うことはもしかして…… 
 わたし、殿下恋しさに幻でも見るようになったのかな? 
 いくら何でも我ながら重症かも? 
 
 まだ少しだけぼんやりとした頭で考える。
 確かに枕もとで殿下とキューヴの会話しているのをきいていたような気がしたんだけど? 
 
「どうしました? 」
「ね? キューヴは? 」
「キューヴも殿下と一緒だそうです。
 それが何か? 」
「ううん、なんでもない」
 アゲートの問いにわたしはその妄想を振り払うように頭を振った。
 
 
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