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25・帰ってこられたので、 -後-

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 身支度を整えて外に出る。
 井戸端で動くものに視線を向けると、キューヴにティヤがじゃれていた。
 わたしの視線に気がつくとティヤが一気にかけてくる。
「おはようございます。珊瑚様」
 膝を折っていたキューヴが立ち上がるとわたしに向かい軽く頭を下げた。
「おはよう、キューヴ」
 それに応えてわたしは階段を下りる。
「殿下はまだお休みですか? 」
「うん」
 うっかり答えてわたしは思わず顔を赤らめる。
「殿下はきっと、珊瑚様がまたどこかに行ってしまうんではないかと、不安だったんだと思いますよ。
 ああ見えて随分心配性の寂しがりやなんです」
 そう言ってキューヴはふんわりと笑うけど、その言葉にわたしの顔はますます血が上る。
「ティヤ、昨日はありがとうね」
 それをごまかそうと、足元に擦り寄る犬の前に膝を折りその顔を両手で包んで撫でまわしながらお礼を言った。
「本当にお手柄だったね」
 キューヴがティヤの顔に目を細めた。
「そういえば、どうしてあそこに居たの? 」
「ああ、それは殿下が…… 
 あの前日の夜、殿下は珊瑚様の馬でお戻りになったんです。
 お疲れのご様子ではありましたがお怪我もなく、僕たちもほっとしたのですが」
「そっか、殿下本当に自力で帰ってきたんだ」
 アゲートと同じキューヴの言葉にわたしは息をつく。
 
 一応あの女は約束を守ったってことなんだ。
 
「翌日、ご自分が監禁されていた小屋と、珊瑚様の馬が見つかった場所があのあたりだから、きっと珊瑚様も同じところにいらっしゃるんじゃないかと殿下が仰りまして。
 それで何人かを連れて向かい、あのあたりを捜索していたのです。
 ですが、珊瑚様を見つけることができなくて…… 」
 
 ティヤが突っ立ったまま会話をしていたわたしに「あそぼ」というようにドレスを軽く銜えて引っ張る。
「うん」
 声を掛けるとその頭を撫でてゆっくりと歩き出した。
「まさかティヤがお迎えにきてくれるなんて思わなかったんだよ」
 その顔を見て言う。
「それは、ですね。
 連れて行ったわけではないんですが、勝手についてきてしまいまして。
 一通り探して、後は聖域の中しかないかという結論になったわけなんですが、聖域の空にはっきりとロク鳥の姿があったものですから、僕たちは足を踏み入れることができずにいたのです。
 そうしたら、突然この犬が飛び出して走っていってしまって…… 」
 キューヴが苦笑いをする。
「あとで珊瑚様にどう謝ろうかと頭を抱えましたよ。
 ロク鳥は人間だけでなく、犬でも熊でも聖域の生き物でないものは皆襲いますから。
 珊瑚様こそよくご無事で…… 
 あの鳥から逃げられたなんて話今まできいたことがなかったですから」
「それは、これのおかげかな? 」
 わたしは胸元に下がったペンダントヘッドをつまみあげると目の高さまで持ち上げた。
「あの鳥に、襲われて。あと少しで駄目かなって思ったら、これが光ったって言うか反射したの。
 そしたらあの鳥一瞬ひるんでくれて…… 」
 
 鳥が光るものが苦手だったのか、それともこの角自体が苦手だったのかはわからないけど。
 とにかく、鳥がこれに怯えていたのは確か。
 
「陛下の魔女様のおかげ、だよね」
 
「陛下の魔女様といえば…… 」
 ふいに思い出したようにキューヴが口を開く。
「国王陛下は近いうちに正式に王位を退くことを決めたようですよ」
「なん、て? 」
 わたしは目をしばたかせる。
「今回のことで、国王陛下は殿下が王都とこちらを足しげく行き来することに危惧を感じたようでして。
 どうせなら退位してご自分が王都を出るほうが良いのではないかとお考えになったようです」
 
 あの時、あの女の言っていたこと、嘘でも妄想でも願望でもなくて本当のことだったんだ。
 
「正式な日にちとかまではまだはっきり決まったわけではありませんが、忙しくなりますよ。
 珊瑚様」
 キューヴがわたしに笑いかける。
「わた、し?
 殿下じゃなくて? 」
 その意味がわからなくてわたしは首を傾げた。
「もちろんです。
 殿下が王位につけば珊瑚様は、国王付きの魔女殿と言う、国王に次いだ立場になるわけですから」
「ちょっと、まって…… 
 それって…… 」
 それって、やばいって言うか、なんていうか。
「どうかされましたか? 」
「あのね、それ…… 
 まだ…… 」
 なんて言っていいのか言葉が出てこない。
 
 そもそもそんな重要なポストわたしに勤まるわけがなくて。
 というか、そんなことかけらも考えていなかったから、心の準備の準備さえできていない。
 
 わたしはただ、殿下の側にいられれば良かっただけ。
 側にいて殿下の笑顔を見られてその声が聞ければそれでよかった。
 そんな身分とか地位とか責任とかなんて、全く考えていなかった。
 
 だけど…… 
 それだけじゃ殿下の側にこの先ずっとはいられないんだって、改めて思い知る。
 殿下の側にこの先もよりそっているためには、それなりの覚悟が必要なんだって…… 
 
 無意識にわたしの身体から血の気が引く。
 
「珊瑚様? 」
 キューヴがわたしの顔を覗き込んできた。
「何でも…… 
 なんでもないの」
 わたしは首を横に振る。
 
「こんなところにいたのか? 」
 少し不機嫌そうな声に顔を上げると殿下が大またで歩み寄ってくるところだった。
「ごめんなさい。
 よく寝ていたから、起こしちゃ申し訳ないかなって思って…… 」
 隣に立ち止まった殿下の顔を見上げた。
「キューヴ、用意はできているか? 」
「はい」
 言われたキューヴは厩の方に駆けてゆく。
 それを追ってティヤもじゃれるように走ってゆく。
「……また、どこかに行ってしまったのかと思った」
 ため息混じりに殿下は言うと乱暴な手つきでわたしの腰を引き寄せる。
「殿下っ…… 」
 呼びかけた唇を塞がれる。
 それも触れるだけじゃなくて、深く。
 
 やだ。
 こんなどこで誰が見ているかわからないところで。
 
 わたしはその唇から逃れようと、腕に力を込めて押しやってみるけど全く効果なし。
 むしろ面白がるように腰に回された腕に力が篭る。
「っ…… ゃ…… 」
 呼吸すらままならなくなりそうな深いキスの合間にようやく少し息をつく。
 次第にわたしの力が抜けてゆく。
 このまま立っていられなくなりそうな予感に晒されたのと同時に頭の後ろでかすかに馬の鼻息と蹄の音がした。
 それを合図のように殿下の唇が離される。
 腰に回されていた手が緩み、名残惜しそうに解かれる。
 
「皆さん、直ぐに参りますから」
 キューヴの声と共に馬の息遣いが直ぐ側にあった。
「もう行くの? 」
 馬具を着けた馬の姿を目に殿下に問い掛ける。
 殿下の服装も、いつもの旅支度だ。
「ああ、所用が溜まってしまって、今度は少し長くなるかも知れない」
 言っている間に何人かの護衛や旗持ちの人が集まってきた。
 
「行ってらっしゃい。
 気をつけてね」
 いつものように名残惜しい気持ちを抱えて、わたしは砦の外門で殿下を送り出す。
 ここ数日の日が嘘だったような変わらない日々のような気がする。
「相変わらずせわしないですこと。
 珊瑚さま、戻ったばかりですのに」
 護衛の人数の増えた殿下一行の後ろ姿を見送りながら何時の間にか側にきていたアゲートが呟いた。
「ホント、どうせなら暫く向こうに行ったままにして、まとめて仕事を片付けてから来ればいいのに…… 」 
「いいんですか? そんなこと言って? 」
 珍しくあとに残ったキューヴが言った。
 殿下の顔が見られないのは寂しくないわけがないけど、さすがに三・四日置きに馬で通ってくる殿下の姿をみていると体力とか健康面が気に掛かる。
 
「日によって殿下のいる場所が違うんじゃ、訪ねてくる皆だって大変じゃない? 」
「そうでもないんですよ。
 皆それぞれ近くの方へ出向きますから、この周辺の役人は近くなったって喜んでいるはずです。
 それに、半分は珊瑚さまの為でもあるんですよ」
 キューヴがいつもの意味ありげな笑顔をわたしに向ける。
「わたしの? 」
「ええ、殿下のお仕事を間近で見るのはこの先の珊瑚さまにとって大事なことですから」
 その言葉に胸が痛む。
 
 あの時キューヴはああいったけど、わたしを気遣ってか殿下からその話が出たことはない。
 
 いつもと変わらない毎日が続いている。
 
「そうそう、新しいマナーの教師を手配しましたから」
 また、あの笑顔をキューヴはうかべる。
「う…… 」
 マナーはともかく立ち居振舞いは苦手だ。
 だけど、ここが一番お里が知れるところで…… 
 最初ここでしくじったようなものだから。
 わたしがもう少し上流の産まれで上品だったら、あんなことにならなかったのかもしれない。
 そう思うと、がんばらなくちゃって思う反面、新しい教師に会うのが少し怖い。
「心配ありませんよ。珊瑚様。
 今度の教師はきちんと身元を調べますから。
 それから、例の誘拐犯、国外へ逃げる途中を国境付近で捕まったそうです」
「そう、なんだ? 」
「詳しい事情はまだわからないみたいですけど、これで少しは安心できますよね」
「そうだね」
「横領の件はべつにして、殿下とわたしを誘拐した件、あんまりお咎めにならないといいな」
「珊瑚様、何を! 」
「だって、ほら。
 一応わたし達無傷だったんだし。
 わたしのせいで誰かが罰を受けるんだっておもうと気持ち悪いもん」
 わたしは城門から向こうに広がる光景を目に呟いた。
 
 
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