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9・帰してやろうと思ったけれど、 -1-

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 闇の中に蛍の白い横顔が浮かび上がっている。
 まるで今にも消えてしまいそうな儚いそれを、ひきとめようと俺は手を伸ばした。
 それに答えるようにかすかに身じろいだ後、その頭が俺の胸元に寄せられる。
 剥き出しの素肌を掠めた頭髪の感触が優しく心地いい。
「……お前さ。
 どうしたいと思っている? 」
 胸元に寄せられた頭をそっと抱きしめながら俺は訊いた。
「契約の、こと? 」
 胸の中で蛍が呟くように訊き返してくる。
「どうしたらいいかって、訊いたのはあたしなんだけどな? 」
「大事なのはお前の気持ちだろ? 
 兄上だけじゃない。俺だって、ってかこの国にとって魔女は貴重な存在だからな。
 もし帰る方法がわかっていても簡単に返すなんて言わないぜ」
「でも、フローは訊いてくれるんだよね? 」
「まぁな。
 帰りたいって無気力に泣いてばかりいられちゃ気が滅入るし」
「あたしは…… 」
 考えるように蛍は口を閉ざしてしまった。 
「よく考えろよ。
 契約をしてしまったら、お前もう帰れなくなるかも知れないんだからな」
 とりあえず忠告しておく。
「それを、フローが言う? 
 その前に、もう遅いかもしれないし」
 俺の言葉に蛍がくすりと軽い笑い声をたてた。
「何故だよ? 」
 別に笑われるようなことは言っていないと思う。
「う、ん…… 
 あたしの世界。国は違うんだけど外国の神話にあるんだよね。
 死後の世界に行った人間がその世界の物を食べたせいで生きている人間の世界に戻れなくなっちゃったってお話。
 死後の世界を異世界って考えたら、あたしの場合ここのことでしょ? 
 だったら、ねぇ。
 最初はそんなこと考えていなかったから、もう、思いっきりいろんなもの食べたもん。
 お茶だけじゃなくて、パンやジャムとかお肉とか…… 
 あとは…… 」
「それって、神話だろう? 
 似たような話ならここにもあるぜ」
「そうなんだ。
 あとね、神話じゃなくて御伽噺なんかだと三日以内に帰らないと帰れなくなるとか、着てきた物を取り上げられて戻れなくなるなんてのもあったりして。
 こっちの世界にも同じようなお話が伝わっているんなら、案外信憑性あるのかもね。
 だから、帰れなくなる要因なんてなんだかわからないうちに犯しちゃってるかもしれないんだよね」
 少し淋しそうに蛍は呟いた。
 それに対して俺は慰める言葉すら持たない。
 やっぱり自分の無力さを感じて胸が苛まれた。
「もしかしたらフローとこうなったことだったかも知れないし」
 暗闇に広がる沈黙を破るように、明らかに無理しているとわかる蛍の明るい声が言う。
「嘘だろ? 」
 蛍は冗談のつもりだったかも知れないが、俺の顔からは一気に血が引いた。
「いいよ、気にしないで。
 嫌だったらあたしとっくにフローのこと突き飛ばしてるし」
 今度は本気で笑っている。
 やっぱり蛍のこの笑顔は好きだ。
「その、ね。
 むしろ…… 」
 続きの言葉の代わりに蛍の顔が桜色に染まる。
「ありがとう」
 おもむろに蛍の頭が伸び上がってきて、キスしてくる。
 閉じた瞳の向こうで聞き取れないほどの小さな声で蛍が呟くと身じろぎする気配がした。
 ふと、俺に寄り添っていた体温が離れる。
「まだ、いいだろう」
 再び高まってきた熱を押さえきれる気がしなくて、俺は蛍の腕をとり引き止める。
「ん~ 
 どうしようかな? 」
 ふざけているのか、からかうように言って首を傾げた。
 その躯を俺は強引にベッドに引き戻すと、再び組み敷く。
「もうっ…… 
 じゃあね、明日、乗馬教えてくれる? 」
 そういわれたら頷くしかない。
 こいつの強請りごとなら何でも叶えてやりたくなる。
「そんなんで、いいのかよ? 」
 もう一度繰り返すキスの合間に俺は呟いた。
 
 
「だからね、ステップ! 
 違うの、右、右なんだってば! 」
 早朝の中庭に元気な声が響く。
 厩から鞍をつけ引き出してきた若い斑の牝馬の背にまたがる蛍が悲鳴にもにた叫び声をあげている。
 俺はその様子を冷ややかな目で見つめていた。
 確かに以前蛍の言っていたとおり馬は乗り手の思う方向には歩いてくれないようだ。
「手綱を引く方向が違うんだよ」
「うそっ、ちゃんと引いてる筈…… 」
 俺の言葉に蛍が突っかかってくる。
 本人はそのつもりなのかも知れないが、慣れない馬上でバランスを取るのが精一杯で無駄なところに力が入っている。
「貸せよ」
 馬が側にきたところを見計らって俺は手綱を取る。
「蛍、時間だよ! 」
 見本を見せようとしたところに、兄上の声が割って入ってきた。
「あ、ごめんなさい! 」
 蛍は声をあげると慌てて馬を下りる。
「なんだよ? 」
 楽しんでいた時間を突然中断されてしまったことで俺は不満の声をあげた。
「ユークレース王子にね、字を教えてもらう約束してたの。
 ほら、前にも言ったよね。
 あたし、ここの文字何故だか読むことはできるんだけど、書くほうはさっぱりだって。
 だから少しでも書けたら、フローの仕事とか手伝えるかなって」
「それがどうして兄上なんだよ? 
 だったら俺が教えてやるよ」
 蛍の最後のひと言は嬉しかったが、それ以上に兄上にと言うところに腹が立つ。
「だって、フローいつも忙しいじゃない。
 仕事邪魔しちゃ悪いし…… 
 あ、ユークレース王子待っててね。
 今馬を置いてくるからっ」
 上機嫌で馬の手綱を引いてゆく。
「あんた、さ。
 蛍に自分と契約しろって提案したんだってな? 」
 その後ろ姿に視線を送りながら、俺は隣に立つ兄上に声を掛けた。
「それが一番誰のためにもいいと思ったんだよ。
 悪い話じゃないだろう? 
 私は自分の魔女を手に入れられるし、蛍嬢は命を狙われる心配がなくなる。
 そしてお前は…… 」
「どうして蛍の能力のことそこまで信じられるんだよ? 」
 これ以上は聞かなくても判る予想した通りの答えを俺は遮った。
「最初に蛍の能力判定したの、あんただろう? 
 ひらめき型の当てにならない予言だって」
 この男に限って、過小評価した人間を手元に置こうと思う等考えられない。
「蛍嬢の評価が変わったとでも言っておこうか? 」
 兄上はそっと視線を落す。
「もう、気がついているんだろう? 
 私の呪いが解けたことに」
 本人すら気がついていないと思っていたから、よもや間違いでは済まされないと口を閉ざしていたことを突きつけられた。
「王女がキープに来た時、蛍嬢に言われたんだよ。
 王女が私の運命の鍵を握っていると。
 そんな大事な人に礼を欠くと後々私自身が不利になるとね。
 言われなければきっと、私はこの姿を恥じて自室に閉じこもり、王女が帰るまで誰にも姿を見せなかったと思うよ。
 そうなれば呪いが解けることもなかったし、私は一生子供の姿のままだった筈だ」
 もし、その言葉がなかったら、このままの姿で生涯隠遁生活を送ることになるはずだった男の運命を、要は蛍のひと言が変えた? 
 呪いが解けただけではなく、弟に奪われた王太子の座を取り返し、美しい理想の妻と、後に片腕となるはずの魔女。
 それら全てを手に入れたのだ。
 蛍に対する兄上の評価が上がったのも無理はない。
「それに、私の呪いを解く手がかりになった魔女ということになれば蛍嬢にも箔がつく。
 いい話だろう? 」
 兄上はかつて見せたことのないような満足そうな笑みを浮かべた。
「ユークレース王子。
 お待たせしました! 」
 わざわざ迎えにきた兄上を待たせてはいけないと思ったのだろう。
 息を切らして蛍が駆け寄ってくる。
「じゃ、行こうか? 」
 兄上は蛍の手をとると、当たり前のように腕を貸しエスコートして歩き出す。
 慣れてきたのだろうか? 
 最初に俺を拒否したときと違って蛍の反応はごく自然だった。
 その姿に無性に腹が立つ。
「まてっ! 」
「フロー様、こんなところにいらっしゃったのですか? 」
 二人を引きとめようとした俺の声はパライバの怒りを含んだ声に遮られた。
 
 日の傾きだした室内では手にした書類の文字が見えにくくなってきた。
 何度か瞬きをしていると、手元に明かりが差し出される。
「なぁ、パライバ。
 もう今日はいいだろう? 」
「駄目です! 」
 うんざりしてうめき声をあげるとそれすら押さえ込まれる。
「全てご自分のしでかしたことではありませんか? 
 昨日は全く身が入らずに、おまけに夜半には散歩に出かけたまま戻らなかったのはどなたですか? 」
 嫌味をたっぷりと込めて訊いてくる。
「なぁ? 
 もし、兄上の呪いが解けたら、王太子の地位ってどうなるんだ? 」
「恐らくは、ユークレース殿下に戻ることになるでしょね。
 国王陛下はそのつもりで幼い頃からユークレース殿下に徹底した帝王学を施していたと聞きますし」
「今でも技量は兄上の方が上だもんな」
「良かったではありませんか? 
 そもそもご自分は向いてないとひたすら言い張っていらっしゃったのですから」
 パライバは苦笑いをうかべた。
「気付いていたのか? 」
「もちろん。
 お相手は恐らくシトリン王女でしょう。
 王女様がこのキープにいらっしゃってから突然目に見えてユークレース様の身長が伸びはじめましたから。
 この様子ですと、二・三年で歳相応のご容姿に戻られるのではないかと思いますが」
 頷きながらも容赦なく次の書類を俺に差し出してくる。
「だったら、これ、もう俺がしなくてもいいんじゃないか? 」
「駄目ですよ。
 まだ正式に王太子交代の宣旨が下りたわけではありません。
 それに残った山ほどの仕事を引き継いでもらって無能呼ばわりされたいのですか? 」
 嫌味を込めて言われるとぐうの音も出ない。
 俺はしぶしぶもう一度書類に視線を向けた。
 だが、頭の中を占めるのは蛍のことばかりだ。
 今朝方兄上にエスコートされた後ろ姿が頭から離れない。
 兄上の呪いを解く鍵となった王女が側にいる以上、妙なことにはなっていないとは思うが、それでも嫌な妄想が頭の中に湧き上がる。
「仕方がありませんね。
 今日はこの辺りに致しましょう」
 何度となく頭を振っていたら、呆れたようにパライバがため息をつく。
「ただ、蛍様には、あちらの世界に、その…… 
 婚約者というか、それに近いお方がいらっしゃるといつか仰っていたことをお忘れくださいませんように」
 何もかもを見透かしように言われた。

 
 
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