silvery saga

sakaki

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三話後編

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***
軽い腹ごしらえを済ませてリギィの部屋を出ると、コロネが難しい顔をしていた。カウンターに地図を広げてバツ印を書き込んでいる。
「なにやってんだ?」
ブラムが歩み寄ると、コロネは鼻髭を指で弄った。
「近頃ここら一帯で魔獣が軒並みいなくなっとるんだよ」
バツ印をペン先でトントンと辿りながら答える。
コロネはこの集落の自警団員を兼ねており、ブラム達と山頂で会ったのもパトロールの途中だったのだという。
(客引きに来てたんじゃなかったのか)
ブラムはこっそりそんなことを思った。
「少し前までそこら中にいたんだがなぁ」
と、深い溜息。
確かに言われてみれば、ここに辿り着くまでの間は一度も魔獣に遭遇していない。これほど自然の多い地でそれは不自然だろう。
「けどよ、魔獣がいなくなるならいいことなんじゃねぇのか?」
ブラムは思ったままに疑問を口にする。コロネが思い悩んでいる理由が分からなかった「それはそうなんだが」
コロネは苦笑まじりに頷く。
「だがなぁ、ここまで急激にいなくなると流石に気味が悪い」
何か悪いことが起きる前兆なのではと、不安に感じているらしい。
「まぁ確かに妙な話だな」
ブラムも眉を顰めて同意した。
そうこうしていると、バタバタと忙しそうな足音を立ててコロネの奥さんが駆け寄って来た。体型がほぼ同じの似たもの夫婦だ。
奥さんはコロネを押しのけ、ブラムに詰め寄った。
「ちょいとアンタ、あの子にちゃんと薬飲ませてやらなきゃダメじゃないか!」
薬箱から持ってきてくれたらしい薬をずいっとブラムの眼前に差し示す。
「いや、薬ならちゃんと貰ったヤツを飲んでたはずで・・・」
勢いに押されつつも釈明しようとして言葉に詰まった。その薬にはまるで見覚えがない。
「シスターハンナが持ってきた薬はこれじゃなかったぞ」
ともすれば、ユアンが飲んだあの薬は一体なんだったのか。
(まさか・・・)
嫌な予感が全身を過ぎり、ブラムはすぐにユアンの部屋に向かった。
恐る恐るその扉を叩いてみても何の返事もない。
「ユアン、入るぞ!」
念のため断りを入れてから、力任せに扉を開ける。
部屋の中はもぬけの殻だった。ベッドで眠っていたはずのユアンも、それを献身的に看病しているはずのハンナの姿もない。
開け放たれた窓からは夜風が静かに通っている。
「クソッ!」
ブラムは怒りのままに扉を殴った。大袈裟な音を立てて扉は壊れ、背後ではコロネと奥さんが悲鳴を上げた。
「何かあったのか?」
騒ぎを聞きつけたリギィがやって来てブラムに尋ねる。
「ユアンが連れて行かれた」
ブラムは短く答えると、リギィの首根っこを掴んだ。
「ユアンが!?なんでだよ!?一体誰が、」
「ゴチャゴチャ言ってねぇですぐ追いかけるぞ」
リギィの戸惑いはお構いなしに、そのまま力任せに引き摺る。
「てめぇの鼻が頼りだ、しっかり探せよ」
ブラムの瞳は、いつの間にか金色に変わっていた。

***
陽の落ちた後の山道は鬱蒼として不気味さに満ちている。草木を踏み分け、地面に鼻を押し付けて、小虎姿のリギィは必死に匂いを追っていた。土や草や動物の臭いが混ざった中に、仄かに香る大好きなユアンの匂い。それは何とも微かな手掛かりだ。
「リギィ、まだかよ?」
煙草の煙と共に怒気を振りまきながら、焦れたようにブラムが言った。瞳の色は今は黒に戻っている。
「そんなこと言ったって、匂い辿るの難しいんだぞ」
思わず嘆くが、そんな弱音が聞き入れられるはずもない。ブラムは眉間に皺を寄せ、一際低い声で言い放った。
「いっつも鼻クンクンさせてユアンの匂い嗅ぎまくってんだから、こんな時くらい役立てろ」
「ぬぁ!?」
あまりの言い草にリギィは思わず人間の姿へと戻った。
「そんなことしてねぇし!!」
真っ赤な顔をして食い下がるが、図星なので動揺が隠せない。
「ブラムこそ、番犬なんだから鼻が利くんじゃないのかよ」
悔し紛れに言ってのけると、たちまちデコピンが飛んできた。
「獣人族の超感覚に敵うわけねーだろ」
ブラムは吐き捨てるように言い、持っていた煙草を地面に投げ捨てる。
「それにな、こうしてユアンを危険な目に遭わせちまうようじゃ、番犬の資格なんざねぇよ」
自嘲し、八つ当たりでもするように煙草の火を踏み消した。思いがけないブラムの弱音に、リギィはしょんぼりと耳を垂れた。
「あのねーちゃん、ユアンの味方じゃなかったのかな」
甲斐甲斐しくユアンの世話をしていたハンナを思い返す。心から再会を喜んでいるように見えたのに、それは間違いだったのだろうか。
「どうだろうな」
ブラムは素っ気なく言った。
身振りで捜索を続けるように促されたので、リギィは仕方なくまた虎の姿になった。体勢を低くしてユアンの匂いを探し、少しずつではあるが歩みを進め始める。
「ま、この短時間でユアン連れて消えちまうんだ。ただの女じゃねーってことは確かだろ」
リギィの後ろを歩くブラムがぽつりと呟く。鋭い瞳は、また少し金色に変わりつつあるように見えた。
「なぁ・・・もし、ユアンが自分で付いていったんだとしたらどうする?」
匂いを辿りながら、リギィは不意に過ぎった不安を口にする。ユアンが連れ去られたのではなく、これからはハンナと共に旅をすることを選んだのだという可能性はないのだろうか。だとしたら、ユアンのためには・・・「ふわぁあっ!?」
悶々と考え込んでいる最中に乱暴に尻尾を掴み上げられ、リギィは思わず間抜けな声を上げた。
「有り得ねぇだろ」
ブラムはきっぱりと言い切った。怒るわけでも呆れるわけでもなく、真剣な顔をしている。
「ごめん・・」
何となくバツの悪い心地がして、リギィは耳を垂れて謝った。
「ほら、先急ぐぞ」
「ぐぇっ!」
ブラムが突然手を離したのでリギィは急降下して腹を打ち付けた。恨みがましく睨んでみたが、ブラムは意地悪く舌を出してみせるだけだ。
益々暗さを増していく道の中、リギィは再びユアンの匂いを探し始めた。

***
折角の満月は厚い雲で覆われて、月明かりが届くことはない。宛ら闇と化した森の中、ぼんやりとした青白い光を放つ無数の糸が複雑に入り組んで幾何学模様を描いている。
「お目覚めはいかがですか?ロザリア様」
漸く目が慣れてきたところで、ハンナが自分を見上げている事に気付いた。身体中に粘着質な白い糸が絡まっている。ユアンは大きな蜘蛛の巣に捕らえられていた。
「捕食される昆虫の気分です」
掠れた声で答えると、ハンナは満足そうに笑った。
「驚かないのですね。まだ薬でぼんやりしている所為かしら?」
ハンナの瞳が光り、何かを引き寄せるような手振りをする。途端に蜘蛛の巣がたゆみ、ユアンの身体がハンナの目前まで近付いた。
「飲まされたのが毒薬ではないことを祈ります」
ユアンは力なく微笑む。身体が言うことを聞かない。口だけは動くのがせめてもの救いだった。
「ご安心下さい。単なる睡眠薬ですわ」
ハンナはユアンの髪先に触れ、弄ぶようにしながら言う。
「体が動かないのはこの糸の所為。貴方の魔力を吸い続ける特別な仕様ですから」
長い爪の先から蜘蛛の糸が現れる。
ユアンは眉を顰めた。
「随分とおかしな魔法ですね」
少し離れた所で、同じく蜘蛛の巣に捉えられている魔獣が次々と干からびていく。魔力を吸い尽くされたのだろう。
「祝福により授かった力です」
ハンナは恍惚とした表情を浮かべた。ゆっくりとユアンの頬に触れ、鋭い爪を突き立てる。
「こうして貴方を捕えるためにね」
ハンナの瞳が冷たく光った。ウェーブのかかった髪が揺れ始めたかと思うと、見る見るうちにその姿は巨大なクモへと変化を遂げる。
「祝福を受けるなんて・・・」
ユアンは顔を歪めた。その様子に満足したのか、ハンナはまた元の姿へと戻った。
「教会は一刻も早くロザリア様がお戻りになるのを待ち望んでいるのです」
意味ありげに微笑み、慈しむような仕草でユアンの髪に触れる。けれどすぐにその笑みは絶ち消えた。
「私の望みは違います」
ユアンの髪を乱暴に掴み上げ、低い声で言い放つ。
「私の望みは仇討です」
ハンナの瞳は憎しみに染まっていた。
「・・・・シスターグレイスの仇討ですか?」
ユアンが問う。ハンナの瞼がピクリと動いた。
「ご存じなのですね。シスターグレイスが・・・我らの母が、処刑されたことを」
問いかけにユアンが頷けば、ハンナの顔はより一層憎悪に歪んだ。
「貴方の所為でグレイスが殺されたと知っていて、なぜ貴方は平気な顔をしているのですか?」
怒りに声が震え、噛み締める唇からは血が滲んでいる。
ユアンは黙ったまま、ただ真っ直ぐにハンナを見つめた。
「ロザリアを逃がした魔女だと、焚刑にされたのですよ!?貴方が逃げ出したりしなければ、グレイスは死なずに済んだのに!!」
ハンナの髪がまた徐々に揺れ始める。彼女の怒りに共鳴するように、蜘蛛の糸が鈍い光を放った。爪の先から放出された糸がユアンの首に絡みつく。
「ロザリア様の紛い物が!!」
ギリギリと締め上げられ、ユアンは苦しさに顔を歪める。
このまま絞め殺されるのかとも覚悟したが、ハンナは悲鳴を上げてユアンから離れた。
「ユアンー!!」
何が起きたのか分からないまま咳き込んでいると、ハンナの遥か後方からリギィの声が聞こえた。
見れば、ハンナの腕にはナイフが深く突き刺さっていた。どうやらブラムが投げたものらしい。
「悪い、遅くなった」
「大丈夫か? ユアン」
ブラム、リギィが次々に駆け寄って来る。禍々しい蜘蛛の巣はブラムが一瞬にして切り捨てた。
「白馬に乗った王子様の到着かしら?」
ハンナが嘲るように言い、腕に刺さっていたナイフを引き抜く。
「ナイト様だ。おまけの小虎付き」
「おまけってゆーな!」
負けじとブラムが言い放ち、リギィが慌てて。突っ込んだ。

***
リギィは前だけを見て歩いていた。しきりに後ろを振り返るユアンが歩みを止めてしまわぬよう、その手を引いて村を目指した。
ブラムにユアンを助け出したら自分を置いてすぐに逃げろと言われていたからだ。雲が晴れて月が顔を出す前に、少しでもブラムから離れていろと。
ユアンを蜘蛛の巣から救い出した直後、ハンナは何処からか夥しい数の魔獣を呼び寄せた。こちらに嗾けてくるのかと思ったが、蜘蛛の糸で捕えて一瞬のうちに干からびさせてしまった。
魔獣から魔力を吸い取り、自分の力を増幅させているのだとユアンが言った。魔獣がいなくなっていたのはこの所為だったのかと言ったのはブラムだ。
ハンナは巨大な蜘蛛へと姿を変え、元の姿からは想像も付かないような力で襲いかかってきた。それが祝福を受けたための力なのだとユアンは言ったが、リギィには意味が分からなかった。
8本の脚はどれも強靭で、振り翳される度辺りに瘴気が舞っていた。四方八方からユアンを狙う蜘蛛の糸を幾度となく切り捨ててハンナの攻撃を食い止め、ブラムは言ったのだ。早く逃げろと。
ハンナがユアンを襲う理由をリギィは知らない。ブラムが月が出る前に逃げろと言った理由も分からない。
ユアンを守るためにとにかく早く村に戻る。今のリギィにはそれが全てだ。だから、何度腕を振り払われても、負けじとユアンの腕を掴んで前に進む。
「リギィ、ブラムのところに戻りましょう」
「ダメだ!ユアンはオレがちゃんと連れて帰るってブラムと約束したんだから!」
こうやって同じやり取りをするのは何度目だろうか。
「ブラムなら絶対大丈夫だよ!」
リギィは強気に言って、一段と速足で歩みを進めた。
先程よりも道が明るい。厚く覆われていた雲は徐々に晴れ、少しずつ黄金色の満月が顔を覗かせ始めているようだ
「月が・・・」
声なき声で呟き、ユアンはまた足を止めた。
「リギィ、やっぱりダメです!」
手を引くリギィに抵抗し、少しばかり声を荒げる。
「もう、ブラムもユアンも二人して、月がなんだっていうんだよ!?」
リギィは苛立ち露わに言い放った。ユアンが何を言おうと、どんなに困った顔をしていようとも、負けずにブラムとの約束を守るのだと心して振り返る。
だが、
「う・・」
リギィは何も言えずに固まった。ユアンが銀色の瞳に涙をいっぱいに溜めてリギィを見つめていたからだ。
「ブラムを迎えに行きます」
頑なに言い放つ。今にも泣き出しそうな顔をしながら、懇願する訳でも泣き縋る訳でもなく、はっきりと強い意志を示した。
「ずりぃよ。ユアン」
手を離し、リギィはがっくりと項垂れた。ユアンにそんな顔をされて、逆らえるはずがない。
「分かった。ブラムんトコ戻ろう」
耳と尻尾をしょんぼり垂れて、諦めたように言う。
後でブラムからしこたま怒られるだろう。リギィだってユアンを危険な目に合わせるのは嫌だ。けれど、こんなにも必死にブラムを案じているユアンを無理矢理連れ帰ることなど出来ない。リギィはいつでもユアンの味方で在りたいのだ。
「でも!オレも一緒に行くんだからな!」
眉を八の字にしたまま、それでも強い口調で言った。ユアンはホッとしたように微笑んでくれた。
「ありがとう、リギィ!」
「お、おう!」
ユアンに手を握られて、思わず声が裏返る。
自分からユアンの腕を掴んでいたときは平気だったのに、こんな不意打ちには未だにどぎまぎしてしまう。
「い、急ごうぜ!」
赤面しているのを悟られないよう、リギィは元来た道を駆け出した。

***
山道を戻る間に雲は晴れていき、煌々とした満月が辺りを照らした。今まで隠れていたことが信じられない程、黄金色の輝きが絶対的な存在感を示している。
(やな感じだ・・・)
リギィは鼻を塞いだ。先ほどまでいた場所に近づくにつれて、どんどん瘴気が満ちていく。
「な、なんだよ、これ!?」
リギィが驚愕の声を上げた。
木々が軒並み倒されている。まるでその場所にだけ災害でも起こったかのように滅茶苦茶でひどい有様だ。
「ハンナ」
隅で十字架を抱いて蹲っている彼女を見つけ、ユアンが呟く。
ハンナは人の姿に戻っていた。
「ち、血塗られた民が・・・」
ユアンを見るなり、縋るような面持ちになった。その唇は酷く震え、身体中は傷だらけで、ユアンを襲っていた先程までの強靱な姿が嘘のようだ。
魔獣の雄たけびが幾重にも響く。声の方に視線を移せば、魔獣だったと思わしき巨体が数体。一瞬のうちに肉塊へと姿を変えていく。飛び交う血飛沫の合間からは見慣れた男の影が見えた。
「ブラムだ!おい、ブラムー!!」
ユアンよりも先にその姿を捉えたリギィが叫ぶ。人懐こい笑みを浮かべ、嬉しそうに手を振った。
「リギィ、待って!」
いつものように駆け寄ろうとしたリギィをユアンが制止する。
リギィが不思議に思っていると、こちらに気付いたブラムが近づいてきた。駆け寄るのよりもずっと速い、人並み外れた速度で、あっという間にリギィの目前に迫った。
「ブラム、だよな?」
傍に来たことで明確になった、いつもとは違うその風貌に思わず困惑する。
ブラムの瞳は時折目にするそれよりもずっと濃い金色で、空に浮かぶ満月にそっくりだった。彼の頬には見たことのない赤い文様が浮かび、そして何より、唇から鋭い牙が覗いている。血まみれに汚れた長い爪を舌先で舐めるその姿は、もはや人ではなかった。
「うわっ!!」
リギィが驚きを口にする間もなく、ブラムはその強靭な爪を向けた。寸での所で避けると、リギィのすぐ横の地面が思い切り抉られた。
「な、何すんだよっ!?」
当然困惑するが、ブラムは冷たい笑みを浮かべるだけだ。咽返るような瘴気を放っているのは魔獣でも蜘蛛に姿を変えたハンナでもなく、ブラムだった。眼差しが射るように強い。餓えた狼のようにも見えた。
「なんで!?どうしたんだよ!?ブラム!!」
必死に避けながらブラムに問う。いつものじゃれ合いとはわけが違った。手加減などまるでない。ブラムは本気でリギィを殺そうとしている。
(あれ?)
不意に攻撃の手が緩んだため、リギィは恐る恐るブラムの様子を伺う。ブラムの視線は今度はユアンを捉えていた。リギィの時と同じく、目にも止まらぬ速さでユアンに近づく。
「ブラム!やめろ!!」
標的がユアンに変わったのだと悟り、リギィは泣声に近い声で叫んだ。
ブラムが鋭爪を向けても、ユアンは怯える様子無くブラムの前にただ立っていた。
「ユアンー!!」
頼むから逃げてくれ。そう願ってただ叫ぶ。
だがユアンはふわりと微笑み、ブラムに向かって両手を広げた。
「ブラム、おいで」
まるで飼い犬を迎えに来たかのような、実に穏やかな仕草。リギィは唖然とした。
「なにやってんだよ!早く、」
逃げろと言い切る前に、リギィは言葉を閉ざした。
ブラムがユアンを襲うことはなく、ただ立ち尽くして戸惑うようにユアンを見つめていた。その瞳からは、先ほどまでの狂気は微塵も感じられない。
「もう大丈夫ですよ」
ユアンがブラムを抱き寄せる。背伸びをして、宥めるようにブラムの髪を撫でた。ブラムを取り巻いていた禍々しい瘴気が消えて、いつの間にか頬の紋様も消えていた。
「ユアン・・」
ブラムもユアンの背に腕を回し、その首筋に顔を埋める。そうする頃には長い爪も牙も消え、金色だった瞳は夜空の色に戻っていた。
(なんか・・・すっげぇ)
息を飲んで二人を見つめていたリギィはへなへなとその場に座り込む。安堵と共に腰が抜けていた。
「許さない」
傍らにいたハンナが呟く。
よろめきながらも立ち上がり、ユアンに向かって走り出した。手には十字架を握り、雄たけびにも似た声を上げて勢いよく振りかざす
「危ねぇ!!」
咄嗟にブラムがユアンを庇う。
受け止めた十字架は、ブラムの腕に深く突き刺さって血に塗れた。仕込み刃になっていたらしい。
「余計なことを・・」
ハンナは苦々しく言い放つ。怯えていたのが嘘のように、またも憎悪に満ちた瞳でユアンを見据えていた。
徐々にその身を蜘蛛の姿へ変えながら、爪先から噴出した蜘蛛の糸でユアンを狙う。
だが、その糸が届く前に、ハンナの腕は力を失った。ブラムが自分の腕から抜いた刃をハンナの胸に突き立てていた。
「・・ぅ・・・血、塗ら・・れた民・・・」
血を吐きながらブラムを睨む。
「このっ・・化け物がぁ・・・」
最後の抵抗とでもいうように、絶え間なく血の流れるブラムの腕を掴んで爪で抉った。
「確かに俺は化け物だな」
痛みに顔を顰めながらも、ブラムは唇の端を上げて不敵に笑う。ナイフを握り直し、更に奥深くへと突き刺した。
「今のお前も化け物だけどな」
刺さったままナイフを思い切り横に引けば、ハンナの体は大きく裂けた。人間とも蜘蛛とも魔獣とも言える異質な体。それでも流れる血は赤かった。
返り血を浴びたブラムがつい先ほどまでの狂気に満ちた姿と重なり、リギィは自分の手が震えているのに気が付いた。目の前の光景を、ブラムのことを、怖いと感じている自分に気付いて、戒めた。
ブラムは血まみれの十字架を投げ捨てた。息絶えたハンナを見つめるその瞳は、満月が雲で覆われていた時の空のように真っ暗だ。
「ブラム」
ユアンが呼びかけ、ブラムの胸に飛び込むように抱きつく。
「ユアン、血が・・・お前まで汚れるぞ」
ブラムは抱き返すことはせずに、戸惑ったように言った。遠慮がちに肩に触れ、押し戻すような仕草をする。
ユアンは首を振り、再びブラムに身を寄せた。ユアンがブラムを抱きしめているのか、ブラムに縋って泣いているのか、リギィには分からなかった。

***
山奥の村が迎える朝は実に清々しい。鳥たちが囀り、眩しい日差しに木々たちが青々と照らされる。雲一つ無い青天は、まさに絶好の旅立ち日和だ。
けれど、ブラムは出発は先延ばしにすると決めていた。
「37度8分」
体温計の示す数字を読み上げながら、ブラムが眉を顰めた。コロネの奥さんから借り受けた看病グッズの中から氷枕を取り出してせっせと準備する。
「もうただの微熱ですから、そこまでしなくても・・・」
ベッドに寝かされていたユアンが体を起こし、困ったように言う。
昨夜、村に戻る途中でユアンが倒れた。元々体調が優れなかった上、薬を盛られ、魔力を吸い取られ、そんな中でハンナや魔獣たちの亡骸の残っていたあの場所を魔法によって浄化させたのだから、いい加減無理が祟ったのだろう。
村に戻ってからはブラムの部屋にユアンを運んだ。ユアンの部屋の扉をブラムが壊してしまっていたからだ。ブラムが扉の無い部屋で眠り、今朝起きてすぐに修理を申し付けられた。
「無理すんなって言ってんだろ」
ベッドに腰掛けたブラムは、ため息を付きながらユアンを寝かせようとする。
「過保護ですね」
ユアンは拗ねたような顔をして不満そうに呟いた。かと思えば、少し考えるような仕草をした後で、悪戯な笑みを浮かべる。
「こうやってブラムに支えてて貰います。それならいいでしょ?」
言いながら、ふわりとブラムの肩に寄り掛かった。そんな可愛いことをされたら拒めるはずがないではないか。
(甘え上手なヤツ)
ブラムは口元を掻きつつ、ユアンが凭れやすいようにと体勢を変えた。
「・・・お前、俺のこと怖くないのか?」
満足そうに身を預けているユアンに、ブラムはポツリと問いかける。ユアンが不思議そうな顔をしたため、頭を抱えるようにしながら更に続けた。
「満月の度に、あんな風になるんだぞ」
金色の瞳を持つ種族・・・俗称、血塗られた民は、月が満ちる晩に血の巡りが変化する。全身に強大な魔力が溢れ、人の身では抱えきれないその力に姿すら変えられてしまう。そしてその変化によってもたらされるのは、凄まじいほどの渇望だ。喉の渇きを癒やすため、ただ一心不乱に血を求める。人であれ魔物であれ動物であれ、目の前のもの全てを紅で染めろと本能が言う。
これこそが、血塗られた民が危険視され、遥か昔に滅ぼされた所以である。
「俺は・・・俺が怖い」
初めて口にする本音は、驚くほど擦れた声で紡がれた。
昨夜も、正気を取り戻すまでのことは全く覚えていない。けれど、傷だらけだったハンナや、夥しいほどの魔獣の残骸を見れば、自分のしたことは明らかだった。
「意識がぶっ飛んで、自分が自分でなくなるんだ。いつか、リギィやお前のことも、」
殺してしまうかもしれない・・・そう口にする前に、ユアンが首を振った。
「僕は怖くありません。ブラムが守ってくれますから」
きっぱりと言いながら、ブラムの腕に慈しむように触れる。今は回復魔法のお陰で痕すらないが、ハンナに刺されて傷を負った箇所だ。
「昨夜だって、ちゃんと戻ってきてくれましたよ」
ブラムに向き合うようにして、ユアンが微笑む。
この笑顔を見て、あの時も喉の渇きが消えたことを思い出した。今までは一度だって満月の下で正気を保っていられたことなどなかったのに、ユアンに抱きしめられたあの瞬間から、もう自分を失うことはなかった。
「だから大丈夫なんです」
ユアンはブラムの手を取り、触れるだけのキスをする。柔らかい微笑みが、何より揺るぎ無いものに見えた。
「勝てねぇな」
ため息交じりにブラムが呟く。
ユアンの手を握り直し、仕返しとばかりに唇を寄せた。指先に、手の甲に。
そして、いつもとは違った意図を含んでユアンの髪に触れる。徐々に顔を近付けると、ユアンも自然と瞳を閉じていた。
が、
「いい加減昼飯行こうぜー」
タイミング良くリギィが登場。2人は慌てて体を離した。
「ノックくらいしろよ!」
リギィに掛け寄り、力任せにふわふわの耳を引っ張ってやる。邪魔をされた腹いせだ。
「痛い痛い!!なんでそんな怒るんだよ!?」
涙目で抗議するリギィだが、頬を染めて俯いているユアンを見てハッとした。
「なんかしてただろ?」
怪訝な顔をしてブラムを問い詰める。
「何っっっっにもしてねーよ」
ブラムは苦々しく言い放った。
(これからだったんだっつーの!!)
お預けを喰らった犬のような気持ちになるブラムだった。
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