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ケース3 一条椋谷×健康診断

ケース3 一条椋谷×健康診断(4/8)

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 白夜は勝己の様子を見るため、針間精神科診療所へ来ていた。小規模の入院病棟だが、盆の間ももちろん二十四時間看護師が付いている。
「南、どうだ?」
 予備校で受験生との夏期集中講座が始まっている南だが、事態が深刻を極める今、臨時で来てもらっている。
「今は鎮静剤で眠っています」
 勝己が入れられている特別保護室から出てきた南は、長い睫毛を伏せて自分まで心底辛そうに言う。「起きたらまた自殺を試みると思います……苦しいんですね、きっと、今。注意が必要です」
「……そうか」
 苦しい、のだろう。
 人生を終わらせてしまいたいほどに、耐え難い苦しみの中にいる、と。
 その痛みが、病気ではない白夜には、わからない。
 こんがらがっていた糸の、糸口がすぐ目の前にあって、手を伸ばせば届きそうで、それを引っ張ってみて、きつく結ばれてしまったらまた糸口を見つけ、もっと強い力で解いてみればいいと思ってしまう。その向こうに見える景色を、早く見ようと、思ってしまう。
 しかし勝己は、それに伴う激痛に耐えきれなかった。解離して三日三晩暴れた後、現実から逃げ出すように過量服薬し、緊急入院。苦しみは今も続いていて、今のこの苦しみを取り除くためなら、どんな最悪の結果を招いたってもう構わない、仕方ない、と、心から叫ぶ。過量服薬で一生遺る障害を負ったって仕方がない、死んだって仕方がない――というような内容のことを、叫んでいるのだ。
 こんな状態の彼に対し、白夜ができることとはいったい何だろう。
 医療は、基本的には自然治癒を根底にして成り立っている。医者にできることは、物理的に切って、貼って、繋ぐだけ。あとは人体に宿る力で、自然に元通りになってくれるのを待つ。かさぶた一つとっても、決して医療が作り出すわけではない。
「こうなった以上、時間をかけて自分で受け入れてもらうしかねーわな」
 針間はそう言って、できることは今はもうないと帰っていった。
 できることは今はもうない。
 あとは、本人が痛みを耐え続けるしかないのだ。
 本人の自然治癒を待つしかない。
 
「だめです、お見舞いは、できません……」
 白夜はもう何度目かになるやりとりを、椋谷と今日もしている。
「なんでよ?」
「勝己様は、今、混迷を極めていますので……」
「でも、俺、あいつんとこ行ってやらないと。……なー。どうして会っちゃダメなの? 理由を教えてくれよ」
「すみません……」
「あいつが俺に会いたくないって言ってるの?」
「そういうわけでは、ありませんが」
「死ぬまで俺に会わねーつもりかよ」
 椋谷はまっすぐ、白夜に要求し続ける。
「……言ってくんない? 白夜。俺にさ、本当のこと。ちゃんと、聞くからさ」
「それは……できません」
「どうして?」
 「勝己」を拠り所としているのは椋谷も同じだ。
 「勝己」の人格は、本当は勝己が作り上げた架空のもので――腹の底では椋谷を恨み、妬み、憎んでいて、その感情を自分とは関係ないところまで解離した上で、行き場のない暴力を振るっていたのだと、椋谷に明かしたら、そんなことをしたら、どうなってしまうだろうか。
「今は……勝己様に、時間が必要なんです」
 今、椋谷の協力を失うわけにはいかなかった。何も知らないままでいいから、勝己の回復をただ待っていてほしい。そして勝己が、自己の葛藤や罪悪感を見つめられるようになってから、何も知らずに愛してあげてほしい。
「椋谷さんも、そういうときが、あったのではありませんか。何かを受け入れられずただひたすらに苦しい、時期が」
 そう問いかけると、
「あったな。たしかに」
 椋谷は頷く。
「でも一番つらい時、俺にはいつも誰かが傍にいてくれた。つらい思いをしているのは、自分だけじゃなかった。家出してホームレス同然の連中や、悪事に手を染める不良なんかもいてな。失ったものも多かったけど、おかげで生きていられた」
 そして、深淵を彷徨った者の瞳で白夜に問うのだ。
「死ぬよりつらいまま生きる時間がもしあるとしたら、白夜ならどうする?」
 白夜は答えに窮した。「……想像も、できません」
「でも、あるんだぜ、そういう時って。たぶんお前の、すぐ近くには」
 そうだ。
「それを乗り越えたら、楽しい人生があるとしてもよ」
 それが自分には、わからない。
「そんな時は、そいつが苦しんでいてほしくないって思う奴が出張って、頑張るしかないじゃん? どんなに時間かかろうが、どんなに面倒なことになろうが、やるしかないんだって。生きてるってそういうことだからさ」
「でも、僕たちにできることはなにもないんです」
 白夜は医療従事者として、説明する。
「勝己様は苦しんでいます。とても、とても苦しんでいます。理由は明かせませんが、本当に死ぬよりも辛いと思います。長い間遠ざけていたものと、向かい合わなくちゃいけなくて、それは、想像もできないほど怪物的な大きさになってしまっているんです」
「そっか。そうなんだな。それは、どうにか、できねーのかな?」
 力なく確認する椋谷に、白夜は言い切った。
「できないです」
 薬の力ではどうにもならない、あまりにも大きな苦しみ。死を選びたくなるような苦しみ。
 すると、椋谷はこんな提案をしてきた。
「じゃあさ、仕方ねぇ、俺のことも傷つけてくれよ」
「えっ」
「勝己の痛みが、わかるくらい、やってくれないか」
「そんなことをして、何になるんです?」
 白夜はその意味も分からず混乱のまま訊くしかなかった。マイナスにマイナスを重ねるような発想。計算式が成り立たない。
「椋谷さんまで傷ついてしまっては、困りますよ!?」
「いや、同じがいいんだ」
 彼は、ただの一人の人間として、立ち上がって言う。
「俺はさ、もう昔の傷も、癒えちまってるからさ。乗り越えちゃってるから。たぶん、今あいつのところへ行っても、苦しめるだけだと思う。あのときは、説教じみたことが、一番嫌いだった。家出した連中とか、不良とかと、なんの生産性もなくつるむことのほうが、ずっと大事だった。なあ、勝己は今、一人で、狭い部屋の中にいるんだろう?」
 白夜は黙って頷く。
「だから、俺を傷つけてくれ。んで、俺も保護室とかいう部屋に入る。で、自殺の方法とか、考える。勝己と。どーだ?」
 何かが解決するわけでもない。
 でも、そんな人がいてくれたら、どんなに救われるだろう。
「苦しくても、俺もだぞバカヤローって、あいつに言ってやる」
 生きようと、思えるだろうか。
「だから、何かよくわからんけど、全部話せ!! 勝己の事情、俺に!」

 ◆

 白夜は、診察室で針間にくどくどと説教されるのをひたすら耐えていた。
「ったく、何してくれるんだよまったく。また勝手なことしやがって。一条勝己には時間が必要だっつったろーが」
「……はい」
「それなのに一条椋谷に勝手にぺらぺらぺらぺらしゃべっちまって、勝己はもっと重症化したし、椋谷まで引きこもりになるわ、屋敷は大揺れだ。味方減らしてどーすんだ、ああ?」
 その通りだ。
「わかってますよ……」
 白夜もそう思っていた。
 あの後、結局白夜は椋谷にありのまま全てを打ち明けた。「憑依」などではなく、勝己の真の姿が、椋谷を羨み、恨み、殴っていたことを、告げた。当然椋谷はショックを受け、春馬の部屋に閉じこもって出てこなくなってしまった。彼が勝己のことを悪く言いふらしたりなどはしないだろうとは思ったが、椋谷を心配する者たちにどんな影響を与えるかはわからなかった。勝己の真実を審らかにされてしまうことは考えられたし、伝言ゲームのように歪んで尾ひれがつく可能性もあった。
 それでも、椋谷に真実を告げたことを白夜は後悔していない。
「椋谷さんなら大丈夫だと思っています」
 白夜は信じていた。
「……そして、一条家には僕がいます」
 どうにもならない真実を、痛みを、一緒に引き受ける覚悟がある。
 あらゆる手を尽くし、可能性を考えて、常識まで超えてみせる。
 だから、白夜は待つ。
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