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Ⅸ もう後悔なんてしない
126. 奥様はこんな人
しおりを挟む「ただ今戻りました」
「お帰りなさい。早かったのね」
もろもろの報告のために奥様の前へと上がると、奥様は刺繍をしながらくつろいでいた。
「奥様、あの……」
「いいタイミングね。一緒にお茶にしましょう」
奥様の言葉と同時にメイドが動く。私は慌てた。
「いえ、奥様、私は――」
「駄目よ。連れていってあげる条件、忘れてしまったの?」
侍女として奥様の話し相手に、そういう約束だった。けれど、それはあくまでもディダに着くまでのことだと思っていた。まさか奥様まで一緒に滞在するとは思っていなかったのだ。
けれど、忘れてはない。忘れてはないけれど、そうじゃない。今、私がしたいのはそういう話じゃなかった。
先程の外出で肉屋のおやじ――肉屋の店主に見つかってしまった件。これは下手をすると奥様にも迷惑のかかる案件だ。一刻も早く報告して、奥様と別れなければ、と思っていたのに。
そんなやり取りの間に、問答無用で私のぶんのお茶も用意されていた。
「ほら、いつまでもそんなところに立っていないで、座ってちょうだい」
お茶をするつもりではなかったけれど――手遅れか。私は勧められたソファーに腰を下ろし、マナー違反にならないよう、気持ちカップに口をつけた。
「この町はね、あの人と結婚したばかりのころ、湖を見に行ったときに一度、立ち寄ったことがあるのよ」
奥様が楽しげに話す。この国に新婚旅行という風習があるとは聞いたことなかったけれど、どうやらベルネーゼ侯爵夫妻はそれに近いことをしていたようだ。
「それで、あの人ったら、きっといいところを見せようとしたのね」
そんな話を聞いていたら、つい先ほどまでの自分が間違っている気がしてきた。迷惑をかけないようにとばかり考えていたけれど、迷惑をかけられたくないと思っていたのなら、そもそも私のお願いを引き受けてはくれなかっただろう。
ここで別行動を申し出ることは、お二人のご厚意を踏みにじる行為のような気がした。
――そっか。
ふいに心が軽くなった。信用していなかったのは自分のほうだ。すでに帰路についていたのを引き返してまで、私を連れていけるように配慮してくれていたというのに。
そう、あのとき。私が出した手紙がご領主様の家に届いたとき、ご夫婦はすでに帰路についていたのだ。そこにご領主様が早馬を出して私のお願いを伝えたところ、戻ってきてくれた。
「……素敵な旦那様ですね」
「ふふ、そうなの。私はきっと世界一の幸せ者よ」
だいたいからして、この奥様に肉屋と会ってしまったことを話しても、私が孤児で盗みを働いていたことを話しても、大したことではないと一蹴されそうだ。むしろ興味津々に聞いて来るだろう姿まで思い浮かんで――私は自らの考えを改めた。
目的地のディダに到着した。そして、目の前には、リングドル王国の貴族である奥様がいる。この状況で私が話すべきは、きっとそんな後ろ向きな話じゃない。
「奥様」
奥様がカップを置いたタイミングで改めて口を開いた。
思いの外、緊張していた。これが今聞くべきことだと心を定めたのに、まだわずかに躊躇いがあった。奥様に悪く見られたくないと、思ってしまっているのかもしれない。この話をすることは、新たな誤解を生むことになるかもしれないから。それが――たぶん、怖いのだ。
尋ねる機会はいくらでもあった。けれど、それをしなかったのは、移動の途中で気を変えられてしまっては困ると思ったから。だから、ずっと当たり障りない会話だけしてきた。
けれど、今、私に必要なのは情報だ。そのためには恐れずに聞くべきだ。ディダにはきちんとたどり着けたし、もう顔色を窺う必要もないのだから。
「アディーラ公爵家の皆さまは、エイドリアン伯爵は変わらずにお過ごしでしょうか」
奥様の目がすっと細められる。私の真意を探るかのような、これまであまり見ることのなかった眼差しだった。
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