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Ⅹ 集まる想い
144. うちの子、どこの子?
しおりを挟むまさに爆弾発言だった。私は自分の耳を疑う。
「奥様、今、なんて……」
「奥様だなんて他人行儀よ。お母様と呼んでちょうだい。うちの子になるのだから」
「うちの子って」
どこの子だろう。
私は貴族じゃない。肉屋だって言っていた。私は町の子だと。
勘違いしてはいけない。私と奥様とは――住む世界が違う。すべての問題が解決したとしても、私はもう「ミュリエル」にはなれない。
「いいでしょう? 一度は家族になったんだもの。寂しいじゃない。前からもう一人くらいほしいと思っていたのよ」
「そういう問題では」
私がベルネーゼ侯爵家の養女になたっところで、侯爵家にはなんのメリットもない。むしろデメリットにしかならないだろう。
ここまでずっと奥様には押し切られていた。けれど、さすがにこれはいただけない。こればかりは、押し切られるわけにはいかなかった。いくら奥様が望んだこととは言え、誰も認めないだろう。私自身、受け入れられないことだ。
「どうして私なんですか? 私はもうミュリエル様のお姿でもないのに」
「そういえばそうね。どうしてかしら。でも、私はもう、マリも自分の子だと思ってしまってるのよね。ヴィンスも」
「ヴィ…若様もですか」
「ええ。あの子が休暇で帰ってきたとき、買ってくるお土産が三倍になっていて困ってるのよ。何とかしてちょうだい?」
奥様の思考回路が理解できなかった。どうしてミュリエル様を苦しめた私を養女にしようなどという突飛な考えが浮かぶのか。
やはり冗談なのかもしれない。現に今もおちゃらけたような口調で若様の奇行を話している。そう、きっと、これは冗談なのだ――。
「っ」
伏せた視線の先。奥様の膝の上に置かれた手が目に入る。
奥様は皺になるのも構わずにドレスを握りしめていた。微かに震える手で――。
私は静かに目をつむる。
奥様は本気だ。これは冗談でもなんでもない。冗談として片付けていいものではない。奥様がなにを思って言い出したのかはわからないけれど、私も真摯に答えなくてはと思った。
もし、自分がベルネーゼ侯爵家の養女になったらどうなるのだろう。そもそも、本当になれるのだろうか。
「そうそう。ミュリエルのことを気にしているのであれば心配無用よ。だって、あの子はもう一番大切なものを取り戻したもの。だからもう、ミュリエルは何とも思ってないわ」
ちょっと驚いた。たとえ私が奥様の申し出に頷いたとしても、ミュリエル様は許さないだろうと思っていたから。
どうやら私はミュリエル様の人となりを見誤っていたようだ。ミュリエル様は、思っていたよりずっと一途で、心が広い。
一番のネックがなくなった。
奥様と侯爵様はきっと私を慈しんでくれるだろう。嫁がれるミュリエル様も今の話からするとおそらく邪険にはなさらない。周囲からの批判は避けられないだろうけれど、陛下のご意思がある以上、表立ってとやかく言える者はいない。
けれど、奥様や侯爵様が亡くなったら? 陛下がお亡くなりになったら?
侯爵家は若様が継ぐだろうけれど、いつまでも私が居座ることはできない。若様がいいと言ったとしてもきっと、若様の奥さんになる女性は嫌がるに違いなかった。
そうしたら家を出なくてはならなくて、でも貴族の身分では市井で働くことも出来なくて。一般的なのは輿入れすることだけれど。
結婚? 私が? そんなのできるわけな――。
「ね、この話、受けてちょうだい。マリだって幸せになっていいのよ」
ふっと思い浮かんだのはベイル様のお姿。このまま調べが進めば、ベイル様は婚約者を失うことになる。ベイル様は公爵家の御子息だ。養女であっても侯爵家の身分ならギリギリ――。
「お断りします」
思いのほかきつい声が出た。奥様も驚いたように目を丸くしている。
私は今何を考えた?
ダメ。絶対にダメだ。
平民上がりの養女なんかがベイル様の婚約者になんてなったら、ベイル様の名前に傷がつく。幸せになってもらうべき対象を傷つけてどうしようというのだ。
わかっている。たとえ侯爵家の養女になったところで、ベイル様の婚約者になることは万が一にもない。ちゃんと理解している。
これは私の気持ちの問題だ。単なる保身だ。貴族の世界に身を置いたら、きっと忘れられないから。永遠に心揺さぶられ続けることになるだろうから。自分がそれに耐えられるとは到底思えないのだ。
「どうしてもか?」
侯爵様も確認してくるけれど、答えは変わらない。
想像でさえわきまえられない私に、侯爵家の養女という身分は重すぎる。
「……申しわけありません」
「そうか」
残念そうな侯爵様の表情は、たぶん本物だ。隣りで不服そうにしている奥様の表情も。
「……わかったわ。マリの意思を尊重するわ。でも、私たちがあなたをうちの子にしたいと思っていること、忘れないのよ。それから、もしうちの子になりたいと思ったら、遠慮なく言ってちょうだい。いつでも歓迎するわ」
私は小さく頷いた。
ただ――きっとそんな日は永遠に来ないだろう。
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