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第1話 泥の中の組紐
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文化十四年の秋。神田お玉が池を吹き抜ける風は、夏の名残をさらりと払い、柳原土手の方角から古着の埃と、使い古された木綿が吸い込んだ人の脂の匂いを運んできた。
かつて不忍池をも凌ぐ広さを誇ったお玉が池も、今や大半が埋め立てられ、わずかに残った藍染川の細い水路が、迷路のような裏長屋の境界をなぞるように流れている。その水面は、秋の陽を弾くことさえ拒むように、どんよりとした泥の匂いを湛えていた。
「てやんでぇ! こちとら神田お玉が池の『徳三(とくぞう)』でぇ! 秋の風は、職人の腕を鳴らすんでぇ!」
九尺二間の、煮炊きの煙で煤けた裏店に、借りてきたような江戸言葉が響いた。店主の徳三が、煤けた半天の胸を張る。だが、その語尾には隠しようのない大坂・船場の訛りがべったりと張り付いていた。
店の奥、三畳の畳の上で算盤を弾いていた十七歳のおめいが、ぴしゃりと音を立てて算盤を置き、顔も上げずに言い放った。
「……おっちゃん、また舌噛んでるで。ええ加減、そのヘタクソな江戸っ子ごっこ、やめたらどない。大坂、和泉屋の徳三郎さんが『てやんでぇ』なんて、反吐が出るわ」
「おめい、それを言うな! 江戸は三音でピシャリと名乗るんが粋なんや。郷に入っては郷に従う、これがあきんどの作法とちゃうんか!」
「作法やなくて『アホ面』晒してるだけや。榊原様に口を利いてもらって、地主の旦那もといお師匠さんからようやく手に入れた『古道具居店株』も、このままやと宝の持ち腐れや。いつまでも近所の源さんの鍋の鋳掛けや、提灯の張り替えなんて小銭稼ぎに精を出しててもしゃあないで」
徳三は、手元の歪んだ真鍮の引手を、慣れた手つきで叩き直しながら苦笑した。
「まずはこの長屋で、手のええ『直しの徳さん』として馴染め言うたんはおめいやろ。」
「馴染むんはええけど、うちらがここへ来たんは、損料貸の真似事で食い繋ぐためやないはずや。長屋の衆に『あの大坂人は腕が良い』と信用を売るんはもう十分や。……そろそろ、藍凪屋の本性、見せたってもええ頃合いちゃう?」
父親譲りの商売人の顔をしていたおめいは立ち上がると、二つ隣の家から漂う醤油の匂いに向かって、ふっと表情を和らげた。
「……源ちゃん、準備できた? 今日はうちも案内してもらおうかな」
路地へ出ると、十四歳の源太が、天秤棒を肩に担いで待っていた。父親の源さんが仕込んだ煮物の桶からは、甘辛い湯気が立ち上っている。おめいを見た瞬間、源太の日に焼けた顔がパッと明るくなった。
「おめいさん、本気で行くのかい? 嬉しいねぇ。江戸の街は広ぇから、俺から離れちゃいけねぇよ!」
「ふふ、頼りにしとるよ、源ちゃん」
おめいが優しく微笑むと、源太は鼻の下をこすって、弾むような足取りで歩き出した。
神田の職人街。槌の音や鉋の音が響く中、源太が「煮染めはどうだい、熱いよ!」と声を張り上げる。その横でおめいも桶を覗き込み、通りがかる職人たちに声をかけた。
「お兄さん、ええ食べっぷりやね! 見てるこっちまでお腹空いてくるわ。源太兄ちゃんの煮物、気に入ってくれたん? 明日の分も、もう一丁包んどこか?」
おめいの柔らかな上方言葉と、花が咲いたような笑顔。無骨な職人たちが「おぅ、粋なこと言いやがるねぇ。じゃあ、明日のおかずにもらうとするかぃ」と次々に足を止める。源太は、かつてない速さで空になっていく桶を見て、目を丸くした。
「すげぇや、おめいさん……。おめいさんが笑うと、みんな財布を出しちゃうんだな」
「源ちゃんとこの煮物が美味しいからや。さあ、次は柳原の土手の方案内してくれる?」
神田お玉が池から少し歩けば、そこは江戸最大の古着市場、柳原土手である。外堀に沿って一キロ以上も続くこの場所には、東北や北国から届いた古着の山がうずたかく積まれ、使い古された木綿が吸い込んだ人肌の脂と、乾いた砂埃が混じり合った独特の匂いが鼻を突く。
「うわっ、今日もひどい人だ。おめいさん、はぐれないように俺の袖を掴んでな!」 源太が胸を張って先導するが、おめいの視線はすでに路上のガラクタに向けられていた。「……源ちゃん、江戸の衆はこれを『ゴミ』と呼ぶんやね。もったいない話やわ」 おめいが指差したのは、着物を解いて平らな布に戻した「古解分(ふるときわけ)」や、継ぎ当て用の小さな「熨斗継(のしつぎ)」の山だった。大坂ではこれらの一片までが、誰かの冬を越すための命の欠片として大切に扱われる。
おめいは、ある露店の隅に転がっていた、真っ黒に汚れた「紐の塊」に目を留めた。
「おっちゃん、この泥だらけの組紐、なんぼ?」 店主の男は、鼻をほじりながら面倒そうに応えた。
「あぁ? そんなもん、どっかの名家の掛け軸から千切れやがったカスだ。二文で持ってきな!」
「二文? ……一文にならへん?この泥を落とす手間を考えたら、うちが損するくらいやで?」
おめいが小首を傾げ、困ったような笑顔を向けて、愛嬌たっぷりに交渉する。古着屋の親父も、美人に頼られては悪い気はしない。男は「へっ、勝手にしな」と一文をひったくった。
「おめいさん、そんなドブ色の紐、何に使うんだよ?」 不思議がる源太に、おめいはその紐を大切に懐へしまいながら、不敵に微笑んだ。
「源ちゃん、これは『唐組(からくみ)』いうてね、本来は高貴なお方が使うもんや。この泥の下には、お宝が眠っとるんよ。ええ買い物できたわ」
「へぇー!おめいさんが言うなら、きっとお宝なんだろうな!」
源太は誇らしげに笑い、空になった桶を軽々と担ぎ直した。
夕刻、お玉が池の長屋。
源太を笑顔で見送ったあと、おめいは店の中へ入った瞬間にその「顔」を消した。
井戸水で洗った組紐を、冷徹な目で見つめる。汚れが落ちた紐は、精緻な組み方が施された古色の名品だった。
「おっちゃん、これ。この組紐、『緒締(おじめ)』かなんかに使える?」
徳三は、濡れた紐を一目見るなり、職人の顔になった。
「……ほう。おめい、よう見つけたな。これは正絹の二重組みや。泥を吸って重くなっとるが、わしにかかれば龍の鱗(うろこ)みたいに輝き出すで!」
「……おっちゃん、江戸の奴らは愛嬌一つで簡単に財布を緩めるわ。せやけど、その分、新しいもん好きで飽きるんも早そうやね」
おめいは算盤の横に、洗い上げたばかりの組紐を置いた。
「今日回った武家屋敷の二軒、あそこは門構えの割に家計が苦しそうやったわ。ああいう家は、体面を保つために『安くて、それなりに見える古道具』を常に欲しがってる。源太の煮物で顔は売ったさかい、次は直した金具でも持っていけば、すんなり奥まで通してもらえるはずや。職人街の連中も、ええ道具には目がないはずやし、直しの仕事はなんぼでも入ってくるわ」
徳三が、修理中の引手を叩く手を止めて感心したように頷いた。
「……ほう。煮物売りを偵察に使ったか。さすがやな」
「明日は日本橋まで足を伸ばして、若旦那衆が今、何に飽きて何を欲しがってるんか、腹の底を覗いてくるわ。……おっちゃん。そろそろ、その泥、洗ってもええで。うちが日本橋へ行って、『勝色(かちいろ)』を一番高く売りつけられる相手を、しっかり目利きしてくるさかい」
おめいの不敵な微笑みに、徳三が力強く応え、袖を捲り上げた。
「……合点承知!こっちは任せとき。江戸の衆が腰抜かすような肌に仕上げてやるわ」
お玉が池の跡地を抜ける風が、少しだけ熱を帯びたように感じられた。日本橋という江戸の商いの心臓部へ向け、藍凪屋の逆襲が、今ここから始まろうとしていた。
かつて不忍池をも凌ぐ広さを誇ったお玉が池も、今や大半が埋め立てられ、わずかに残った藍染川の細い水路が、迷路のような裏長屋の境界をなぞるように流れている。その水面は、秋の陽を弾くことさえ拒むように、どんよりとした泥の匂いを湛えていた。
「てやんでぇ! こちとら神田お玉が池の『徳三(とくぞう)』でぇ! 秋の風は、職人の腕を鳴らすんでぇ!」
九尺二間の、煮炊きの煙で煤けた裏店に、借りてきたような江戸言葉が響いた。店主の徳三が、煤けた半天の胸を張る。だが、その語尾には隠しようのない大坂・船場の訛りがべったりと張り付いていた。
店の奥、三畳の畳の上で算盤を弾いていた十七歳のおめいが、ぴしゃりと音を立てて算盤を置き、顔も上げずに言い放った。
「……おっちゃん、また舌噛んでるで。ええ加減、そのヘタクソな江戸っ子ごっこ、やめたらどない。大坂、和泉屋の徳三郎さんが『てやんでぇ』なんて、反吐が出るわ」
「おめい、それを言うな! 江戸は三音でピシャリと名乗るんが粋なんや。郷に入っては郷に従う、これがあきんどの作法とちゃうんか!」
「作法やなくて『アホ面』晒してるだけや。榊原様に口を利いてもらって、地主の旦那もといお師匠さんからようやく手に入れた『古道具居店株』も、このままやと宝の持ち腐れや。いつまでも近所の源さんの鍋の鋳掛けや、提灯の張り替えなんて小銭稼ぎに精を出しててもしゃあないで」
徳三は、手元の歪んだ真鍮の引手を、慣れた手つきで叩き直しながら苦笑した。
「まずはこの長屋で、手のええ『直しの徳さん』として馴染め言うたんはおめいやろ。」
「馴染むんはええけど、うちらがここへ来たんは、損料貸の真似事で食い繋ぐためやないはずや。長屋の衆に『あの大坂人は腕が良い』と信用を売るんはもう十分や。……そろそろ、藍凪屋の本性、見せたってもええ頃合いちゃう?」
父親譲りの商売人の顔をしていたおめいは立ち上がると、二つ隣の家から漂う醤油の匂いに向かって、ふっと表情を和らげた。
「……源ちゃん、準備できた? 今日はうちも案内してもらおうかな」
路地へ出ると、十四歳の源太が、天秤棒を肩に担いで待っていた。父親の源さんが仕込んだ煮物の桶からは、甘辛い湯気が立ち上っている。おめいを見た瞬間、源太の日に焼けた顔がパッと明るくなった。
「おめいさん、本気で行くのかい? 嬉しいねぇ。江戸の街は広ぇから、俺から離れちゃいけねぇよ!」
「ふふ、頼りにしとるよ、源ちゃん」
おめいが優しく微笑むと、源太は鼻の下をこすって、弾むような足取りで歩き出した。
神田の職人街。槌の音や鉋の音が響く中、源太が「煮染めはどうだい、熱いよ!」と声を張り上げる。その横でおめいも桶を覗き込み、通りがかる職人たちに声をかけた。
「お兄さん、ええ食べっぷりやね! 見てるこっちまでお腹空いてくるわ。源太兄ちゃんの煮物、気に入ってくれたん? 明日の分も、もう一丁包んどこか?」
おめいの柔らかな上方言葉と、花が咲いたような笑顔。無骨な職人たちが「おぅ、粋なこと言いやがるねぇ。じゃあ、明日のおかずにもらうとするかぃ」と次々に足を止める。源太は、かつてない速さで空になっていく桶を見て、目を丸くした。
「すげぇや、おめいさん……。おめいさんが笑うと、みんな財布を出しちゃうんだな」
「源ちゃんとこの煮物が美味しいからや。さあ、次は柳原の土手の方案内してくれる?」
神田お玉が池から少し歩けば、そこは江戸最大の古着市場、柳原土手である。外堀に沿って一キロ以上も続くこの場所には、東北や北国から届いた古着の山がうずたかく積まれ、使い古された木綿が吸い込んだ人肌の脂と、乾いた砂埃が混じり合った独特の匂いが鼻を突く。
「うわっ、今日もひどい人だ。おめいさん、はぐれないように俺の袖を掴んでな!」 源太が胸を張って先導するが、おめいの視線はすでに路上のガラクタに向けられていた。「……源ちゃん、江戸の衆はこれを『ゴミ』と呼ぶんやね。もったいない話やわ」 おめいが指差したのは、着物を解いて平らな布に戻した「古解分(ふるときわけ)」や、継ぎ当て用の小さな「熨斗継(のしつぎ)」の山だった。大坂ではこれらの一片までが、誰かの冬を越すための命の欠片として大切に扱われる。
おめいは、ある露店の隅に転がっていた、真っ黒に汚れた「紐の塊」に目を留めた。
「おっちゃん、この泥だらけの組紐、なんぼ?」 店主の男は、鼻をほじりながら面倒そうに応えた。
「あぁ? そんなもん、どっかの名家の掛け軸から千切れやがったカスだ。二文で持ってきな!」
「二文? ……一文にならへん?この泥を落とす手間を考えたら、うちが損するくらいやで?」
おめいが小首を傾げ、困ったような笑顔を向けて、愛嬌たっぷりに交渉する。古着屋の親父も、美人に頼られては悪い気はしない。男は「へっ、勝手にしな」と一文をひったくった。
「おめいさん、そんなドブ色の紐、何に使うんだよ?」 不思議がる源太に、おめいはその紐を大切に懐へしまいながら、不敵に微笑んだ。
「源ちゃん、これは『唐組(からくみ)』いうてね、本来は高貴なお方が使うもんや。この泥の下には、お宝が眠っとるんよ。ええ買い物できたわ」
「へぇー!おめいさんが言うなら、きっとお宝なんだろうな!」
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夕刻、お玉が池の長屋。
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「おっちゃん、これ。この組紐、『緒締(おじめ)』かなんかに使える?」
徳三は、濡れた紐を一目見るなり、職人の顔になった。
「……ほう。おめい、よう見つけたな。これは正絹の二重組みや。泥を吸って重くなっとるが、わしにかかれば龍の鱗(うろこ)みたいに輝き出すで!」
「……おっちゃん、江戸の奴らは愛嬌一つで簡単に財布を緩めるわ。せやけど、その分、新しいもん好きで飽きるんも早そうやね」
おめいは算盤の横に、洗い上げたばかりの組紐を置いた。
「今日回った武家屋敷の二軒、あそこは門構えの割に家計が苦しそうやったわ。ああいう家は、体面を保つために『安くて、それなりに見える古道具』を常に欲しがってる。源太の煮物で顔は売ったさかい、次は直した金具でも持っていけば、すんなり奥まで通してもらえるはずや。職人街の連中も、ええ道具には目がないはずやし、直しの仕事はなんぼでも入ってくるわ」
徳三が、修理中の引手を叩く手を止めて感心したように頷いた。
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「明日は日本橋まで足を伸ばして、若旦那衆が今、何に飽きて何を欲しがってるんか、腹の底を覗いてくるわ。……おっちゃん。そろそろ、その泥、洗ってもええで。うちが日本橋へ行って、『勝色(かちいろ)』を一番高く売りつけられる相手を、しっかり目利きしてくるさかい」
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