江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』

藍舟めいな

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第32話 藍の華

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 新店への普請が始まると同時に、藍凪屋の裏長屋は、かつてない活気に包まれていた。

 文化十五年、一月。まだ氷のように冷たい井戸水に、おめい、徳三、藍之助、そしておさきが総出で腕を突っ込んでいる。
 昨日、柳原土手から運び込んだ凄まじい量の「ボロ布」の山。昨晩だけでは洗いきれず、今日も必死に皆で洗っていた。これを洗い切らねば、商売は一歩も前へ進まない。

「……おめいさん、これ見て。こんな綺麗な赤、見たことないです」

 おさきが泥の中から引き揚げたのは、目の覚めるような鮮やかな緋縮緬だった。泥を洗い流すと、重厚なシボが春の日差しを浴びて艶やかに息を吹き返す。その隣では、藍之助が漆黒の光沢を放つ繻子の端切れを、丁寧に濯いでいた。

「おめいさん、こんな高級な絹を何に使うんだい? 洗えば確かに綺麗だが、どれも小さくて着物にはならないだろう」

 藍之助の問いに、おめいは冷たい水を顔に跳ね飛ばしながら、ニヤリと笑った。

「巾着の裏地や。更紗だけじゃ、これからの爆発的な注文にはおっつかへんからな」

「なるほどな。相変わらず、食えねえ女だ」

 藍之助は呆れながらも、その手に持つ繻子の滑らかな感触に、藍凪屋が目指す「新しい価値」の予感を感じ取っていた。

 昼過ぎ、洗い終えた布を干し始めると、長屋の景色は一変した。

 元々狭い裏長屋の物干し場が、藍凪屋の青、緋縮緬の赤、そして様々な端切れの色で埋め尽くされたのだ。風が吹くたび、色とりどりの布が鱗のようにひらめき、湿った布の匂いと、微かな藍の香りが長屋中に充満する。

 だが、その壮観な景色に待ったをかける声が響いた。

「こら、おめいさん! 何だいこれは!」

 現れたのは、お師匠さんの妻・お志乃だった。お志乃は、物干し竿を占領する布の群れを見渡し、静かに眉をひそめた。

「長屋の皆が、ふんどし一本干せやしないじゃないか。商売が上手くいっているのは結構だが、ここは皆の場所だよ。甘えてはいけない」

「あちゃ……お志乃さん、堪忍だす! ついつい夢中になってしもて……」

 おめいは慌てて頭を下げ、藍之助と徳三は、急遽長屋の共有スペースを空け、藍凪屋の入り口の前のわずかな空き地に、余った材木で臨時の物干し竿を組み上げる。

(……新しい店の庭には、日当たりのええ物干場、広めに作らなあかんな。)

 おめいは算盤を弾くように、新店の図面を頭の中で書き換えていた。

 夕刻。布を全て干し終えた後、藍之助は一人、土間に据えられた藍甕の前に座っていた。

 今日は徳三から、藍の調整を一人で任されている。

 藍は生き物だ。少し酷使すれば、すぐに拗ねる。

 藍之助は、暗い甕の底に溜まった藍液を、木の棒で静かにかき回した。

 ツンと鼻を突く、独特の発酵臭。だが、その奥には微かな「甘み」が含まれている。

「……昨日は少し、働きすぎたかな」

 藍之助は指先を液に浸し、それを舌に乗せた。徳三から教わった「藍の味」の識り方だ。

 少しピリリとした刺激。藍の菌が空腹を訴えている。彼は用意していた石灰とふすまを、粉雪を振るうように丁寧に液に混ぜ込んでいく。

「これで……どうだ」

 さらに数分、静かに語りかけるようにかき回すと、液の表面に「藍の華」と呼ばれる力強い泡がプクプクと盛り上がってきた。

 背後に人の気配を感じ、振り返ると、徳三が腕を組んで立っていた。徳三は無言で甕に歩み寄り、藍之助と同じように液をひと舐めした。

 沈黙が流れる。藍之助は、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

「……藍坊。なかなかやるじゃねぇか」

 徳三が、ニヤリと笑った。
「藍が喜んでやがる。いい塩梅だ。……へっ、若旦那の甘ちゃんだったお前が、藍の腹具合を心配するようになるとはな」

 徳三の大きな、節くれ立った掌が、藍之助の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で回す。

「痛いですよ、徳三さん……」

 藍之助は口では抗議したが、その表情は、かつて日本橋でどんな称賛を浴びた時よりも、誇らしげに輝いていた。

 その時だった。長屋の入り口に、一人の年老いた男が立っていた。

 着古した半纏(はんてん)に、藍の汚れが染み付いた前掛け。その姿から、同業者であることが一目でわかる。

 藍之助がおめいの耳元で囁いた。
「……あの人は菊屋の主だ。小さい店だが、腕は確かだ」

 おめいが歩み寄ると、老人は深く、深く頭を下げた。

「藍凪屋の女将さん……。突然の訪問、ご無礼を承知で伺いました。……風の噂で、藍凪屋さんが表に店を出し、丁稚を募集されると聞きました」

 男の声は震えていた。

「私の倅は、今、十二になります。歳食ってからできた念願の我が子ですが……私の不徳の致すところで、店を畳まねばならなくなりました。倅に店を残してやれそうにありません。……そこで、どうか。ご迷惑を承知で、藍凪屋さんにうちの倅を丁稚として置いていただけないでしょうか。藍の匂いを知っている子です。どうか、このまま野垂れ死にさせたくないのです」

 おめいは、男の使い込まれた手を見つめた。職人として生きてきた者の、誠実で悲しい手だった。

「……少し、考えさせてくださいな。うちはまだ、店すら建ってへん未熟な身だすさかい」

 おめいは精一杯の言葉で答えたが、その後も、事態は加速していった。

 夕暮れから夜にかけて、大店・小店問わず、藍染めに携わる紺屋仲間や、他の商家までもが、子供を連れて次々と藍凪屋を訪ねてきたのだ。
「うちの三男を」「頼りない甥を」……。百両という大金を掴み、表店を出すという藍凪屋の噂は、不況に喘ぐ江戸の商人たちの間で、唯一の「希望の光」のように広まっていた。

 客が途切れた深夜。おめいは疲れた顔で藍之助に向き直った。

「藍之助さん……悪いけど、明日お父はんに聞いてきて。今日来た中で、一番人のええ当主は誰や。嘘つかへん、真面目な店はどこや」

「父上に? ああ、それは構わないが……一体何を企んでいるんだい?」

 おめいは、算盤の珠を一弾きした。その音は、冷たい夜の空気の中で、鋭く響いた。

「……ただ丁稚を雇うだけじゃ、芸がありませんわ。藍之助さん。……潰れそうな店を丸ごと『譲り受ける』ことは可能か、お父はんに探りを入れてほしいんや。店も、職人も、そして何より……『紺屋株』を、うちが手に入れるんや。藍凪屋が江戸一番になるには、ただ染めるだけやなく、この業界の『鍵』を握らなあかん」

 藍之助は、おめいのその眼を見て、背筋が冷えた。

 そこにあったのは、女将の優しさではない。
 ただの野心でもない。

――獲物を見つけた者の眼だった。

「……おめいさん。そこまで、やるのかい」

「やるに決まってるやろ」

 おめいは、静かに笑った。

「潰れそうな店を放っておいたら、藍は死ぬ。せやけど、うちが抱えたら、生きる。江戸の紺屋をまとめるんや。そのための表店や」

 月明かりの下、物干し竿に揺れる勝色の布が波打つ。

 それは、ただの布ではない。

 旗だ。

 月夜の江戸に、静かに翻る――勝色の旗。
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