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第35話 六つの衣
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文化十五年、二月中旬。神田お玉が池の新店舗予定地は、まだ職人たちの槌音が響き、削りたての檜の香りが漂っていたが、二階の角部屋だけは、一足早く「別の熱気」に包まれていた。
「おさきちゃん、最後の一針だす。……よし、これで白無垢三着、ようやく形になりましたわ。後はおっちゃんが染めたこの勝色やね。」
おめいが額の汗を拭い、目の前の白一色の塊を見つめた。一月末から一睡もせぬ勢いで進めてきた作業だ。
下着、中着、表着。三枚重ねの白無垢。それは、およねの故郷・庄内の雪のように清らかで、一点の曇りもない。おさきは、自身の指先に刺さった数多の針跡を愛おしむように見つめ、白糸で施した背守りの「麻の葉」模様を撫でた。
「女将さん。お母ちゃん、気づいてないかな。隣の部屋で茂平さんとお布団の刺し子に夢中だけど……」
「大丈夫だす。茂平さんがうまくやってくれてはる。あんたの針の音は、およねさんの耳には届いてまへん」
おめいは、呉服屋の娘としての誇りをかけて、この「隠し仕事」を指揮していた。
一方の一階では、徳三と伝吉、そして藍之助と清太郎が、菊屋から譲り受けた甕を使い、もう一つの奇跡を起こそうとしていた。
「伝吉、引き上げろ! 今だ!」
徳三の鋭い声が響く。土間の隅に設けた仮の仕事場。菊屋から運んだ四つの甕のうち、二つの甕が息づいている。
徳三は、茂平の実家・真岡から届いた極上の綿を、二つの異なる濃度で染め分けていた。
「いいか、これはただの紺じゃねぇ。およねの人生を染めるんだ。薄藍、縹、そして勝色……。この三色が重なって初めて、藍凪屋の『青』になるんだ」
伝吉は、徳三の指示に従い、何度も布を空気に晒しては甕に沈める作業を繰り返した。徳三は藍染だけでなく、およねへの祝言の品として、自ら小刀を振るい、鼈甲を削って簪まで作り始めていた。
「徳三さん……あんた、染めだけじゃなく、こんな細工までできるのか」
伝吉は絶句した。自分も職人として腕には自信があったが、徳三の多才さと、藍に対する異常なまでの執着、そして身内への情の深さには、到底及ばない。
(この人から、すべてを盗んでやる……)
伝吉は悔しさを飲み込み、必死に徳三の動きを追い、藍の温度を計り、灰汁の加減を身体に叩き込んだ。清太郎と藍之助もまた、泥だらけになりながら、その背中を追っていた。
二月末。ようやく新店舗の普請が終わり、内装が整った頃。衣装の作成もいよいよ終盤に差し掛かっていた。
おめいは、およねと茂平を呼び出した。
「茂平さん、およねさん。新店の開店前に、どうしてもしてほしいことがあるんだす。……成田山へ、代参に行ってきてはくれまへんか?」
突然の申し出に、およねは困惑した。
「女将さん、そんな。はる坊もいるし、お仕事も……」
「はる坊は、うちが責任を持って預かります。おさきちゃんもついてる。成田さんへの道中は三歳の子にはきつおす。ここは一つ、これからの店の無事を願って、二人でゆっくり手を合わせてきなはれ」
おめいの有無を言わせぬ勢いと、茂平の「行こう、およねさん」という促しに、およねはついに首を縦に振った。
翌朝、二人が一泊二日の旅路へと出発した瞬間、藍凪屋は「戦場」と化した。
「さあ、野郎ども! あいつらが帰ってくるまでに、すべての段取りをつけるぞ!」
徳三の声が新店の土間に響き渡る。
徳三と伝吉は、染め上がったばかりの「薄藍・縹」のニ着を二階へ運び込んだ。
おめいとおさきは、それを受け取るやいなや、一分一秒を惜しんで縫製にかかった。
衣装の構成はこうだ。
まずは白三着。これは純潔の象徴。
そしてお色直しに、薄藍・縹・勝色の三枚重ね。
内側の「薄藍」は、夜明けの空のように淡く、中着の「縹色」は、裾にかけて深い青へと移ろう、そして表着の「勝色」は、藍凪屋の魂そのもの。
「おさきちゃん、襟を見て。薄藍、縹、勝色……三つの襟が重なった時、お母ちゃんの首元に『藍の虹』がかかるんだす」
おめいの指先からは血が滲んでいたが、針を休めることはなかった。おさきも、お母ちゃんが庄内から守り抜いてきた刺し子の技を、そのすべての襟に、魔除けの祈りとして込めていく。
階下では、清太郎と藍之助が、祝言の振る舞い酒や膳の準備に奔走していた。菊屋の当主も合流し、「これは江戸で一番の祝言になるぞ」と、かつての自分の店を思い出すように目を細めていた。
三月一日の夕刻。成田から戻ったおよねと茂平は、新店舗の静けさに驚いた。
「女将さん、ただいま戻りました」
「おかえりなさい。お疲れさんだしたな。はる坊も元気にしてましたえ」
おめいは平然とした顔で出迎えた。衣装はすでに、二階の最も奥、厳重に鍵をかけた長持の中に隠されている。およねには、まだ何も見せない。
「三月三日、明後日は桃の節句。新店舗の門出と、お二人の門出……。江戸で一番の、勝色の祝言を挙げまひょ」
徳三も、伝吉も、泥のように疲れていたが、その瞳は輝いていた。伝吉は徳三から教わった「染め」以外の数々の技術――簪の磨き方、綿の入れ方――を思い返し、この藍凪屋という家の一員になれたことを、静かに誇っていた。
土間の藍甕からは、発酵する藍の、芳醇で力強い匂いが立ち上っている。
真岡の綿が、徳三の藍に染まり、おめいとおさきの祈りに縫い固められ、今、その時を待っている。
およねがその「奇跡の六着」を目にするのは、明後日の、祝言の鐘が鳴るその瞬間である。
「おさきちゃん、最後の一針だす。……よし、これで白無垢三着、ようやく形になりましたわ。後はおっちゃんが染めたこの勝色やね。」
おめいが額の汗を拭い、目の前の白一色の塊を見つめた。一月末から一睡もせぬ勢いで進めてきた作業だ。
下着、中着、表着。三枚重ねの白無垢。それは、およねの故郷・庄内の雪のように清らかで、一点の曇りもない。おさきは、自身の指先に刺さった数多の針跡を愛おしむように見つめ、白糸で施した背守りの「麻の葉」模様を撫でた。
「女将さん。お母ちゃん、気づいてないかな。隣の部屋で茂平さんとお布団の刺し子に夢中だけど……」
「大丈夫だす。茂平さんがうまくやってくれてはる。あんたの針の音は、およねさんの耳には届いてまへん」
おめいは、呉服屋の娘としての誇りをかけて、この「隠し仕事」を指揮していた。
一方の一階では、徳三と伝吉、そして藍之助と清太郎が、菊屋から譲り受けた甕を使い、もう一つの奇跡を起こそうとしていた。
「伝吉、引き上げろ! 今だ!」
徳三の鋭い声が響く。土間の隅に設けた仮の仕事場。菊屋から運んだ四つの甕のうち、二つの甕が息づいている。
徳三は、茂平の実家・真岡から届いた極上の綿を、二つの異なる濃度で染め分けていた。
「いいか、これはただの紺じゃねぇ。およねの人生を染めるんだ。薄藍、縹、そして勝色……。この三色が重なって初めて、藍凪屋の『青』になるんだ」
伝吉は、徳三の指示に従い、何度も布を空気に晒しては甕に沈める作業を繰り返した。徳三は藍染だけでなく、およねへの祝言の品として、自ら小刀を振るい、鼈甲を削って簪まで作り始めていた。
「徳三さん……あんた、染めだけじゃなく、こんな細工までできるのか」
伝吉は絶句した。自分も職人として腕には自信があったが、徳三の多才さと、藍に対する異常なまでの執着、そして身内への情の深さには、到底及ばない。
(この人から、すべてを盗んでやる……)
伝吉は悔しさを飲み込み、必死に徳三の動きを追い、藍の温度を計り、灰汁の加減を身体に叩き込んだ。清太郎と藍之助もまた、泥だらけになりながら、その背中を追っていた。
二月末。ようやく新店舗の普請が終わり、内装が整った頃。衣装の作成もいよいよ終盤に差し掛かっていた。
おめいは、およねと茂平を呼び出した。
「茂平さん、およねさん。新店の開店前に、どうしてもしてほしいことがあるんだす。……成田山へ、代参に行ってきてはくれまへんか?」
突然の申し出に、およねは困惑した。
「女将さん、そんな。はる坊もいるし、お仕事も……」
「はる坊は、うちが責任を持って預かります。おさきちゃんもついてる。成田さんへの道中は三歳の子にはきつおす。ここは一つ、これからの店の無事を願って、二人でゆっくり手を合わせてきなはれ」
おめいの有無を言わせぬ勢いと、茂平の「行こう、およねさん」という促しに、およねはついに首を縦に振った。
翌朝、二人が一泊二日の旅路へと出発した瞬間、藍凪屋は「戦場」と化した。
「さあ、野郎ども! あいつらが帰ってくるまでに、すべての段取りをつけるぞ!」
徳三の声が新店の土間に響き渡る。
徳三と伝吉は、染め上がったばかりの「薄藍・縹」のニ着を二階へ運び込んだ。
おめいとおさきは、それを受け取るやいなや、一分一秒を惜しんで縫製にかかった。
衣装の構成はこうだ。
まずは白三着。これは純潔の象徴。
そしてお色直しに、薄藍・縹・勝色の三枚重ね。
内側の「薄藍」は、夜明けの空のように淡く、中着の「縹色」は、裾にかけて深い青へと移ろう、そして表着の「勝色」は、藍凪屋の魂そのもの。
「おさきちゃん、襟を見て。薄藍、縹、勝色……三つの襟が重なった時、お母ちゃんの首元に『藍の虹』がかかるんだす」
おめいの指先からは血が滲んでいたが、針を休めることはなかった。おさきも、お母ちゃんが庄内から守り抜いてきた刺し子の技を、そのすべての襟に、魔除けの祈りとして込めていく。
階下では、清太郎と藍之助が、祝言の振る舞い酒や膳の準備に奔走していた。菊屋の当主も合流し、「これは江戸で一番の祝言になるぞ」と、かつての自分の店を思い出すように目を細めていた。
三月一日の夕刻。成田から戻ったおよねと茂平は、新店舗の静けさに驚いた。
「女将さん、ただいま戻りました」
「おかえりなさい。お疲れさんだしたな。はる坊も元気にしてましたえ」
おめいは平然とした顔で出迎えた。衣装はすでに、二階の最も奥、厳重に鍵をかけた長持の中に隠されている。およねには、まだ何も見せない。
「三月三日、明後日は桃の節句。新店舗の門出と、お二人の門出……。江戸で一番の、勝色の祝言を挙げまひょ」
徳三も、伝吉も、泥のように疲れていたが、その瞳は輝いていた。伝吉は徳三から教わった「染め」以外の数々の技術――簪の磨き方、綿の入れ方――を思い返し、この藍凪屋という家の一員になれたことを、静かに誇っていた。
土間の藍甕からは、発酵する藍の、芳醇で力強い匂いが立ち上っている。
真岡の綿が、徳三の藍に染まり、おめいとおさきの祈りに縫い固められ、今、その時を待っている。
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