江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』

藍舟めいな

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第44話 勝色の砦

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 神田お玉が池の夜は、春の兆しを孕みながらも、まだ底冷えしていた。

 三月二十日を過ぎ、紀州藩主・徳川治宝公より下された「長崎行き」の刻限が、音もなく、しかし確実に近づいている。

「おっちゃん、急ぎまひょ。お師匠さんに話を通しておかんと、枕を高くして船には乗れへん」 

 おめいは、勝色の風呂敷に包んだ書き付けを抱え、叔父の徳三を急かした。新店舗「藍凪屋」の暖簾をくぐり、夜の闇に沈むお師匠さん――八代様の屋敷へと急ぐ。

「わかっとるわい。……それにしても、夜四ツを過ぎて訪ねるなんざ、江戸の作法にゃ反するがな」 

 徳三がぼやきながらも、その足取りは重い。店を空ける不安が、藍甕の底に澱む泥のように彼の胸を重くさせていた。

 屋敷の門を叩くと、中から現れたのは、地主家の女中・おきくであった。 

「まあ! 藍凪屋の女将さんに徳さんじゃない。こんな夜分に、一体何事だい? 不作法にも程があるよ!旦那様はもう、書物の整理を終えてお休みになろうかって時なんだから」 

 おきくは腰に手を当て、火の出るような剣幕で捲し立てた。普段は温厚な彼女だが、主人の休息を妨げる者には容赦がない。

「おきくさん、堪忍だす! 本当に、一刻を争う相談でおます。お師匠さんに、どうしてもお伝えせなあかんことがあって……」 

 おめいが畳に膝をつかんばかりの勢いで頼み込むと、その必死さに毒気を抜かれたのか、おきくは「……仕方のない子だねぇ」と溜息をつき、奥へと取り次いだ。

 通された奥座敷では、お師匠さんが眼鏡を外し、疲れた目をこすっていた。 

「おめいさん、徳三殿。……その顔は、ただ事ではないな」 

 おめいは姿勢を正し、治宝公より長崎への随行を命じられたこと、そして数日後には江戸を発たねばならないことを一気に伝えた。

 お師匠さんは黙って聞き終えると、深く腕を組んだ。 

「長崎……。殿の命とあらば、断る術はあるまい。……だが、残される店はどうする? おさやにおさきと清太郎、まだ幼い子供たちだけでは、夜の守りが薄すぎる」 

 お師匠さんの懸念は、おめいの心臓を鋭く突いた。大徳屋の手下どもは捕縛されたが、藍凪屋の勝色を妬む者は江戸に数多いる。

「見回りは奉公所を通じても強化させよう。だが、住み込みで盾となる者がいなければ、厄介な客や夜間の襲撃は防げん。……おめいさん、用心棒を雇いなさい」 

「用心棒、だすか?」 

「ちょうど良い人材が、この長屋に居てな。……しばし待て」 

 お師匠さんがおきくに合図を送ると、彼女は怪訝な顔をしながらも外へ向かった。

 やがて、部屋の襖が静かに開いた。 入ってきたのは、裏長屋の裏門に一番近い角部屋に住んでいた、あの「謎の浪人」であった。 

 煤けた着物に身を包んでいるが、その背筋は竹のように真っ直ぐで、場を圧するような冷徹な気配を纏っている。

「お師匠さん……あの方は、裏門の守りをしてはるんじゃ?」 

 おめいが目を見開いて尋ねると、浪人は微かに唇の端を上げた。 

「……勝手に八代様についてきて、居座っていただけだ。だが、八代様の命とあれば、藍凪屋の守護をしよう。……名は阪本という」 

 浪人もとい、阪本は短く告げ、一礼した。 お師匠さんが補足するように言う。 

「阪本は腕が立つ。逆に言えば、剣の腕しかないがな。夜間の襲撃や、たちの悪い客を追い払うにはこれ以上の者はいない。……一階に一部屋、用意できるか?」 

「はい! 喜んでお受けいたしますわ!」 

 おめいは、喉の奥に詰まっていた塊がスッと消えていくのを感じた。

 話し合いの末、三日後から阪本が藍凪屋の用心棒として住み込むことが決まった。 

「……おおきに、阪本様。よろしくお頼もうします」 

「……任せろ。暖簾は汚させん」 

 その低い声には、確かな鋼の響きがあった。

 次の日から、藍凪屋は凄まじい熱気に包まれた。 長崎行きまでの十日間、店を存続させるための火を吹くような仕込みが始まったのである。 

 藍の世話を完璧にするため、伝吉と、その奥方・お鶴にも二階に住み込んでもらうこととなった。 

「女将さん、私は元々呉服屋で女中をしておりました。接客も家事も、お任せください」 

 お鶴さんはすぐにも役に立つ働き手として、おさやと共に店先を切り盛りし、慣れた手つきで家事をこなしていく。

「ええか、伝吉! 藍之助! 清太郎! これから教えるんは、長崎で学んだ『セイミ』の理や!」 

 徳三の声が、土間の藍甕に反響する。 徳三は、藍液の味、温度、石灰の滴下による微妙な変化を、自らの舌と五感で三人に叩き込んでいった。 

「藍は生きてる! 言葉は喋らんが、味で腹具合を教えてくれるんや!」 

 徳三の「セイミ」の勝色技術――それは単なる勘ではなく、物質の理に基づいた異国の技だ。 

 伝吉は、自分と同じ年齢でありながら遥か高みにいる徳三の技術を目に焼き付け、身体で、そして藍を舐める舌で覚えていく。 

(長崎でさらに腕を上げてくるであろうこの男に、負けてたまるか……。留守の間に、この技をすべて盗んでやる) 

 伝吉の職人としての意地が、藍凪屋の質を支える大きな柱となっていた。

 一方、帳場ではおめいが鬼となっていた。 

「おさや! 勘定の間違いは藍凪屋の恥や。お鶴さん、江戸の客は愛嬌だけやなく、品物の『格』を説明せなあきまへんえ。清太郎、あんたは藍と勘定、どっちも頭に叩き込みなはれ!」 

 おめいの鋭い声に、おさやとお鶴、そして清太郎が算盤を弾き、台帳を読み上げる音が重なる。 

 清太郎は、土間での藍の修行の合間に帳場に入り、頭と体の両方で商売のいろはを刻み込んでいった。

 店の奥では、柳原様から注文された「勝色布団」の仕上げが夜を日に継いで進んでいた。

 二十組という膨大な注文に対し、在庫の足りない分を、おさきとおよねが精緻な刺し子で埋めていく。 

 職人たちは、最高級の真岡綿に徳三の勝色を被せるその工程に、畏怖の念を抱いていた。 

「これは……紀州藩の殿様がお使いになる布団なんだすな」 

 おさきが針を動かす手にも、自然と力が入る。 大名屋敷の布団を作るという事実は、彼らにとって誇りであると同時に、一分の隙も許されないという、身の引き締まる思いであった。

 夜が更けても、藍凪屋の灯は消えない。 土間からは、布を叩き締める「バチッ! バチッ!」という砧の音が、心臓の鼓動のように響き続ける。 

 おめいが算盤を弾くパチパチという乾いた音。 

 徳三が清太郎たちに「セイミ」を語る低い声。 

 それらが混ざり合い、お玉が池の夜に一つの大きなうねりを作っていた。

「……おっちゃん、ええ顔になってきたな、みんな」 

 二階の窓から、庭に干された勝色の反物を見下ろしながら、おめいが呟いた。 月光を吸い込んだ青は、昼間よりも深く、静かな光を放っている。

「ああ。伝吉の目が、俺を喰ってやろうってギラついてやがる。あれなら大丈夫だ」 

 徳三が満足げに笑い、自らの手のひらを見つめた。藍に染まり、節くれ立った、職人の手だ。

「江戸の暖簾は、この子らに任せよ。うちらは海の向こうの、もっと深い青を掴みに行く」

 お玉が池を抜ける春の風が、藍の匂いを乗せて西へ吹き抜けていった。

 庭には、勝色の反物が静かに揺れていた。

 その暖簾は、――もう簡単には折れない。
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