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第三十二話

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「桜、これを」 
 と炎ちゃんが差し出した一冊の通帳。
「これはね、松本さんの遺産分けに頂いたお金だから、これで大学卒業までの学費と生活費はまかなえるでしょう」
「え、そんなの貰えないよ。これから炎ちゃん達に生活にもお金は必要だし。あたしは大学辞めて働くよ」
 あたしの言葉に炎ちゃんも愛さんも未稀さんもが困ったような顔をした。
「大丈夫だよ。私達はそれほど困っていない。桜はちゃんと大学は卒業しなさい。生きていく為に学歴はそれほど重要ではないけれど、湊さんとの将来を考えるなら必要になるでしょう」
「え?」
「上流の家にはそれなりな経歴の嫁が必要って事よ。湊グループの嫡男なのよ? 将来は一切合切を任せられて最高責任者になるはずの男。そりゃあ、大学中退の娘なんか嫁にもらってくれるはずがないじゃない」
 と鼻息荒く言ったのは未稀さんだった。
「そ、そうなの?」
「静さんが猫かわいがりしてる美登利さんを嫁にやってもいいと思った男よ? ちなみに美登利さんって英語、フランス語がぺらぺらなんですって。お茶もお花も舞踊も、ちなみに着付けの免状も持ってるそうよ」
「え! ちょ、ちょっと、どうしてあの時、湊を止めてくれなかったの! そんなの絶対あたしに無理じゃん!」
「何を言ってるのよ。あんたがしっかりしてくれないと、あたし達の老後が困るのよ! これからは収入がなくなるだから、あんたがしっかり湊グループのお財布を掴んでくれないと困るのよ!」
 と未稀さんがあつかましい事を言い出した。
「無理だよ~~そんなの」
 あたし、頭を抱える。
「大丈夫、せっかく美人に産んでやったんだから、それでうまくやりなさい。静さんの手前、あたし達は姿を消すけど、とりあえず現金に出来る物は全部換金したしね。あたし達の心配はいらないわ。城内のお父さんがマンションを一室、買ってくれたのがあるから、桜はとりあえずそこで暮らしなさいよ。あー、あのとき、お母さんが遠慮して返そうとするのもらっといて良かった~ねえ、お母さん」
 と未稀さんがあっけらかんと言い放ったので、愛さんが苦笑した。
「そうね、桜の為になるなら良かったわ」
「でも、あの時、静さんに頂いた物は一切合切置いていきます、とか言ってなかった?」
 とあたしが言うと、未稀さんが「は?」という顔をした。 
「そんな事言った? 可愛い娘と離れて暮らさなくちゃいけないのに、むしろ餞別にもっと欲しいくらいだわ。だいだい、静さんに湊さんと桜の事をあれこれ言われる筋合いはなくない?」
 未稀さんて強いなぁ。

 
 あたしは部屋の中を見渡した。
 家中、すっかり綺麗に掃除してある。
 家具やなんかはほぼ置いたまま、旅行用にバッグが三つだけ。
 明日にでもこの家を出て、おばあちゃん達は静さんの知らない土地へ行く。  
 あたし、ひとりぼっちになるんだ。
 
「桜、どうしても無理だったらいいのよ? いつだって連絡してちょうだい」
 と未稀さんが言った。
「どういう意味?」
「だから、湊さんとあんまり住む世界が違うってなったらよ」
「う、うん」
「あたし達は妾の地位で満足だった。好きになった人に奥さんがいたってだけの話。でもあんたは違う、あんたは正妻を目指すのでしょ。あんたの好きになった人が普通のサラリーマンなら正妻もそれほど苦労しないんだけどね」
「え、でも、未稀さん、あたしにお見合いさせたじゃない。社長の息子とか、そんなのばっかり」
「そうねぇ、そりゃ出来たら金持ちの男が良かったけど、湊は出来すぎでしょ」
「もーやめてよ~~この先、不安しかないわ」
「だから、どうしても無理だったら連絡ちょうだい」
「うん」
 未稀さんはあたしの頭を撫でて、優しく笑った。
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