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プロローグ
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プロローグ
とある春の日の午後である。
旅装束の若者がD街道を南に向けて歩いていた。名を「アハスエルス」とも「ルタピルス」とも「ヨセフ」とも、文献によって異なるが、ひとまずここでは「ヨセフ」という名前にしておく。
また年齢に関してはどの資料を繰っても記述がないため、ここでは仮に十七歳と見積もっておこう。
ヨセフ、今年で十七歳。
麗しきローマはユダヤ州カイサリアの生まれ、カイサリアの水道で産湯を使ったちゃきちゃきのカイサリアンすなわち俗に言うサリアっ子である。
当時のローマでは十四歳で一人前とみなされるから、十七歳といえばもう大人としての分別を負ってもいい頃合である。しかし実家は至って裕福な市民、彼はその次男坊のため、神への信仰も程々に、のらりくらりと趣味芸事に精を出し日々のんきに暮らしているのだった。
今こうして街道を歩いているのも仕事や業務といった類では一切なく、実は物見遊山が目的なのである。商業都市ぺトラまで足を伸ばすつもりだった。
全ての道はローマに通ず。
あまりにも有名なこの言葉が示す通り、ローマ人は、広大な帝国領内に舗装道路を四通八達させ、道路に沿って宿場を設け旅を容易にした。
それは単に道路の面積が広いという事実のみをあらわすのではない。
全道路の補備修繕と治安維持。
この二点を安定して供給できるほどの力を帝国が備えているということである。
偉大なるローマの恩恵に首元までぬくぬくと漬かりながら、ヨセフは与太郎然とした顔でてくてく歩いていく。
観光所巡りと旨い物漁り、それが彼の目下最大の関心事である。彼は食道楽だった。
エルサレムにまで差し掛かったとき、熱狂したそぶりの群集と行き会った。何人かが大声で叫び、怒鳴り、興奮して走り回っている。
ヨセフには何の騒ぎかわからなかったので、彼の傍らを走りぬけようとした八歳ほどの子供を捕まえて聞いてみた。
「よお、坊主。蜂の巣つついたよりもひでえ騒ぎだが、この先でいってえ何が起きてるんだ? おいらに教えちゃくれねえかい」
すでに述べたようにヨセフ自身は上流階級の出であるが、同世代の悪友たちと頻繁につるむためその言葉遣いは下町風であり当世風に染まっている。
少年は一瞬足を止めると、彼に向かって両手を広げ首を傾けて見せた。そしてすぐに走り去った。
だがそれだけでヨセフは察した。処刑である。
盗賊か殺人者か、法を破った罪人が磔にされるために処刑場へ運ばれているところなのだろう。
いつの間にか街道は人が密集して進むことさえままならないほどだ。人々の狂熱はとどまることを知らず、それはもはや殺気と表現してもさしつかえがない。
公開処刑は少なからず娯楽の一面を持つ。しかしこれほどまでに人を集める罪人とは一体何者なのか。
ちらとそんな考えがヨセフの頭をよぎったが、それはすぐ片隅に追いやられてしまった。
なんと言っても彼は今朝出発してからずっと歩きづくめだったのだ。
そろそろ疲れ始めていた。
足は棒のようになっていたし、それに空腹だった。
早く予定の宿に着いて一風呂浴びたい。食事をして、眠りたい。
後ろから前へ行く誰かに肩を突き飛ばされてヨセフは顔をしかめた。
「おいら、磔の見世物なんか拝みたくねえんだがな。さて、どうしたもんかな……」
彼は懐から包みを取り出すと、その中の物を口に放り込んでくちゃくちゃと噛み始めた。
これはもちろんチューインガムやキャンディの類ではない。この時代にそれらのものは原型さえもまだ存在していない。
彼が口に含んだのは通人の尊ぶ雄鹿の歯である。道中これをなめることでちょっとした餓えや渇きを癒やしてきたのである。
歯の軟骨部分をわやわやと噛みしめ、染み出る滋味を堪能しながら、彼は思案した。
そして決心した。
多少無理矢理にでもすり抜けてしまおう。
なじみの薄い土地で殺気だった群衆に囲まれるというのはあまり愉快な経験ではない。たとえ彼らの殺気が自分には向けられていないにしても。
このような場所はさっさと離れてしまうに限る。街道の向こう側に渡ってしまえば、このばかげた騒動とおさらばできるだろう。
「はい、ごめんなさい。通してくださいよ。御前を失礼。はい、ごめんなさい、ごめんなさい。あいすいません……」
時折思いがけない方向から突かれたり押されたりしながらも、ヨセフは身体をひねらせ、逸らし、群集の隙間をたくみについてじわじわと前に出ていった。
タイミングが悪かった。
実にこのとき、まさにこの瞬間、この騒ぎを引き起こした張本人が姿を現したのだから。
パリサイ人の兵士と祭司に守られて、自らを磔にするための巨大な十字架を背負わされた男がよろめきながら歩いてきた。
そして男は足をもつれさせ、ヨセフは大きな力で後ろから押された。
まるで図ったような間の呼吸で、男の抱えた十字架が、ヨセフの頭を直撃した。
二人はもつれ合って倒れ、下敷になったヨセフは苦痛の声を上げた。弾みで鹿の歯が口から飛び出ると、その男の右目の下にぴしりと当たった。
思わず知らずヨセフは悪態をついていた。
「痛ってえ! 何しやがるこの野郎!」
旅の疲れもあった。空腹でもあった。
しかしそもそも元来ヨセフは激高しやすい性格なのだった。
彼は頭をなでさすりながら食ってかかった。
「おめえのおかげで街道ふさがれちまってえれえ迷惑なんだぜ、このどサンピンが。なんだってこんなにひどくおいらの頭をぶちやがるんだ。おめえ、何をしでかしたんだか知らねえが、その有様じゃどうせ碌な人間じゃあるめえ。その大仰な棒っきれ抱えてさっさと行くとこ行っちまいなってんだ。わかったか、ウンテレガン!」
そのとき、奇妙なことが起こった。
いや、ヨセフには起こったように感じられた。
周囲の雑音がふいっと遠ざかり、まるで水に潜ったかのように場が静まり返ったのだ。
その静寂の中で男はヨセフの顔をじっと見つめている。
青く澄んだ瞳。そこには悲しみも悦びもなく、淡々とした表情をたたえている。
激高しやすいが冷めやすいヨセフは気圧されて目を逸らそうとし、なぜか自分が身動き一つできないことに気付いた。
男を突き飛ばすことも、その場を後にすることもできず、ただ男の目を見つめ返した。深い水底のごとき静けさに包まれてヨセフと男は対峙し続けた。
「行けというのなら、私は行くが――」
おもむろに男は口を開いた。穏やかな口調。だがそれでいて聞く者をぎくりとさせる声音だった。荒涼とした虚空に吹きすさぶ風のようだった。
「お前は待っておれ」
そう言ってゆっくりと立ち上がり、十字架を背負い直すと、ヨセフに背を向けだ。
次の瞬間、ヨセフは雑踏の中で立ちすくんでいる自分に気付いた。
男は兵士たちに追い立てられて何事もなかったかのようにヨセフから遠ざかっていく。
血を待ちかねて熱狂する群集たちを従えて。
夕方、ヨセフは予定していた宿へ無事に到着した。
ここではナッツ入りのアレクサンドリア風のオムレツを朝食に出すと評判であった。
ヨセフは清潔なベッドに潜り込むと、昼の出来事を思い返して、ほんの少し胸がざわめくような心持ちがした。
だがそれ以外には特にどうということもなく、やがて彼は安らかな眠りについた。
そして翌朝のオムレツを食べることなく――そのまま頓死した。
「おい、おい、おい、おい」
と、死んでから三日目にヨセフは言った。
「ひ、ひ、ひ、ひ」
悪魔が低い声で答えながら、威圧的な表情をした。
「信じられねえや。おいら本当に死んじまったってのかよ。どうもえれえ急な話じゃねえか」
ヨセフはあっけにとられた顔のまま周囲に目をやった。
どこかおかしい。死んだ彼に居場所があるというのなら、そこはローマ式のあの世でなければならない。なぜならユダヤには死後の世界という概念がないからだ。
だがここはそもそも地獄なのだろうか。
ただ殺風景な石造りの小部屋である。中央に無骨な事務机が設置され、その上に「受付」と書かれた三角塔が置いてある。
「ひ、ひ、ひ、ひ……」
机の向こうで笑いこけていた悪魔が急に口を閉じて真顔になると、手元の紙束を繰り、ひそひそと小声で言った。
「えーと。書類によるとですね、あなた様はただ死んだのではなく、呪われたために死んだようですな」
「呪われたって? おいらがかい」
ヨセフは途方に暮れた顔になった。
「脅かすのはよしとくれよ。呪われて死ぬとどうなるんだい」
「未来永劫、亡者となって地上をさまようことになりますな。最後の審判のときが訪れるまで」
「なんだか面倒なことになっちまったぜ」
ヨセフはつぶやいた。
「まあ、呪いですからな」
悪魔は鹿爪らしくうなずいた。
「呪いとは面倒なものと決まっております」
「けどよ、おいらを呪った野郎ってなぁ誰なんだ? そんなのには心当たりが全くねえ」
「あ、なるほど。そこがご不明でしたか。失礼、説明いたします」
悪魔は虚を突かれたらしく目を見開いて言った。
「あなた様を御呪いされた方は、ナザレのイエス様でございますよ。ほら、エルサレムのゴルゴダで十字架を背負われたあのお方にお会いしたでしょう」
「たまげたね。オノロイサレタと来たぜ。けったいな言葉を使いやがる」
ヨセフは悪態をついたが、少し語調が弱くなったのは、あの時の出来事を詳細に思い出したからに他ならない。
ナザレのイエス。
その噂はヨセフの耳にも届いていた。
いわく、ガラリヤの伝道者。
いわく、バプテスマのヨハネの直弟子。
いわく、ローマ帝国の反逆者。
まさかあの男がイエスその人だったとは。
そしてあろうことかあるまいか本物の聖人だったとは。
悪魔はおごそかに言った。
「それに、あなた様は食物を用いてイエス様を侮辱なされました。これが悪うございましたな」
「食物だと?」
「雄鹿の歯でございますよ」
ヨセフは黙った。
「古来食べるとは賜ると申します。また、食べることは、与えられた愛を受け取ること。人は食べることで人の愛に応え、また愛を与える側へと成長していきます。しかるに、食物を口に含んで面体に吹きつけるとは、人に対する侮辱であるばかりか、食物それ自体に対する侮辱であり、この世の理そのものに対する侮辱でもあるのです。呪いを受けるに相応しい所業といえるでしょう」
ヨセフは頭を抱え込んだ。
「参ったな。おめえの説明聞いたら、聞く前よりも余計わかんなくなっちまった」
「お気を落とさずに。あなた様はイエス様直々の御呪いを受けた世にも稀なお方でございますから、当方としましても精一杯のVIP対応をつとめさせていただきたいと存じます」
悪魔は慰め顔でヨセフの肩に手を置いた。
ヨセフはわかにかっとなってそれを払いのけた。
「ふざけんない。余計なお世話だよ、この野郎。だいたいおめえみてえな顔色の悪い唐変木につきまとわれたってちっとも嬉しかねえや」
「あら、それでしたら」
悪魔は微笑んでしなを作った。
「これでいかが」
褐色の肌を持つ妖艶な美女が目の前に立っていた。
「ひえっ」
ヨセフは仰天してへなへなとその場にしりもちを着いた。
悪魔の変異の力を目の当たりにし、「どこぞの誰かが手間暇かけて自分を担いでいるのではないか……」という心中密かに抱いていた疑念あるいは希望は完全に費え去った。この悪魔は本物であり、すなわち彼の身にふりかかった災難も本物である。
おおヨセフ。
汝呪われし者よ。
己が罪を地獄に落ちて語るべし。
「あーあ。人間生きてると何が起きるかわからねえやな。もう死んじまったけどよ」
とうとうヨセフは泣き声をあげた。
「さあ、そこが肝ですよ」
なにやら妙になれなれしい雰囲気になった悪魔がヨセフの両手を優しくとってその場に立たせた。
ヨセフは恐ろしくて先ほどのように払いのける勇気がない。
「あなた様は呪われて死んだとお話ししましたが、実はそうとも言い切れないのです」
悪魔は言った。
「より正確には、生きていると言えるし、死んでいるとも言える。生きていないとも言えるし、死んでいないとも言える。それが今のあなた様の状態であり、すなわち『呪われている』という状態なのです」
「おいら、やっぱりおめえの言ってるこたぁさっぱりわからねえ」
ヨセフは弱弱しくかぶりを振った。
悪魔はその美しい顔一杯ににたにた笑いを浮べると、ヨセフの傍らに立ち、彼の背にそっと手を当てた。
「まあまあ、おいおいわかっていきますよ。あわてる必要はございません。さしあたって当座のことなどをこれからごゆるりと相談いたしましょうか。ええ、あなた様にはぜひしていただきたい事があるのですよ。さあさ、こちらへどうぞ」
ヨセフが案内されたのは薄暗い部屋だった。扉には「書庫」と手書きのプレートが下がっていた。
広さは受付とほぼ同じである。
四方を壁一杯の巨大な本棚に囲まれ、各棚には様々な本がぎっしりと詰め込まれている。
そして驚いたことには、本棚の高さには際限がなかった。
天井そのものがなく、見上げる限り上方に向かって延々と本と本棚の山が積み上げられているのだった。
部屋の構造がどうなっているのか目で見ても理解できない。やはりここは現世とは違う場所であるに違いない。
今さらのように背筋にぞっとしたものを感じていると、悪魔が咳払いした。
彼女の手には一抱えほどもある大きな本が抱えられていた。分厚いハードカバーだ。表紙も裏表紙も背表紙も全て雪のように白い。
「なんだ、それあ」
「バイブルまたはビブリアと名付けようと考えています。我々の教典となる書物でございますよ。できたてのほやほやです」
悪魔は答えた。
「イエス様の教えを中心に据えて、それ以降それ以前の思想やルールなどを編集したものです」
「ふうん。律法(トーラー)みてえなもんかい」
ユダヤの聖典の名を挙げると、悪魔は意を得たとでもいうように大きくうなずいた。
「然り。まさしくその通り。律法の内容も実はここには含まれているのですよ」
悪魔に促され、ヨセフは書庫の隅に設置されたテーブルに向かい合って座った。
「念のためにいくつか確認いたします」
と、悪魔は言った。
「あなた様はユダヤ教徒でいらっしゃる?」
「おう。まあな」
と、ヨセフは答えた。
「ご両親は敬虔なユダヤ教徒であらせられる」
「そうだよ」
「ですが、あなた様ご自身は、熱心ではない。むしろローマの教えのほうがご趣味である、と」
返事がなかった。
「ヨセフ様?」
「あああああ。そういうことかあ」
ヨセフは深く嘆息した。
「おいら、確かにユダヤ教は堅苦しくてどうもいけねえって思ってたよ。そりゃ良いこと言うときもあるけどよ。ああいう辛気くせえのは性に合わねえ。それよか最新のローマ式の方が派手でイカすって感じてた。それでよく親父やおふくろに説教されたっけ。おいらが今、こんな目に遭ってるのもそれが原因かよ。やっと合点がいったぜ、こんちくしょう」
「いいえ。それは全く関係ございませんので」
悪魔はあっさりと否定した。
「大海に何気なく投じた石がたまたま超大物に命中したと、まあ、このようにお考えください。もっとも、あなた様の場合は石ではなく雄鹿の歯ですが。おっとこれは余談」
「じゃあ、なんだってユダヤがどうのローマがどうのってしつこく聞きやがるんだ」
「そのような人材を求めているからです」
悪魔は居住まいを正して言った。
「私はこのバイブルの完成度を高めたいと思っています。それが私に与えられた職務だからです。そのためにあなた様のご助力をいただければと」
「ご助力?」
「本のチェックをしていただきたい。つまりデバッガーですな。しかしもちろん誰でも良いというわけではない。適正というものがございます。それなりの基礎教養すなわちユダヤ教の知識をお持ちの人物ではなければいけない。かといってガチガチの保守派であっても都合が悪い。柔軟な思考を持ち、新旧の思想に対してわけへだてなく適切な批判を行える方。そして最後に、デバッグの繰り返しに耐えうるだけの頑強さを備えたお方。つまり、あなた様はこのお仕事に最適な条件を備えていらっしゃるのでございます」
「何言ってやがるんだ。おいら、別に頑強ってわけじゃねえ。まあ病弱でもねえけどよ、せいぜい十人並ってところだぜ」
「いえいえ、あなた様は呪われていらっしゃる」
悪魔は上目遣いでヨセフを見た。
「ゆえに生死を超越し、いつまでも無限にデバッグし続けることができるのです。そう、生きていようと死んでいようと(デッドオアアライブ)――」
悪魔は美しい顔のまま歯をぞろりとむき出しにして笑った。
「ひ、ひ、ひ、ひ」
それは歯というよりも爬虫類のように尖った恐ろしげな牙だ。
少し身を引いてヨセフは尋ねた。
「……なんか今の言い方だと、危ねえ目に遭うかも知れねえって感じだな」
「まさしく。ご明察でございます」
ぴしゃりと膝を叩いて悪魔がにじり寄ってきたのでヨセフはますます身を引いた。
「これは途方もない力を秘めた大聖典でございますから、ただごく普通に読むだけではチェックしきれません。そこであなたがデバッグをされる際には、この本の中に飛び込んでいただくことになります」
「飛び込む? 本の中に?」
「そう、全身でもって、実際に、本の中の世界を彷徨し、ストーリーを追体験していただきます。本の中には多少の危険がございます。その結果、あなた様に何らかの被害が発生することもございます。それはあらかじめご了承頂きたいのです」
ヨセフはめまいがするような心持ちになってきた。相手が何を言っているのかよくわからない。いや、言っていることはわかるが、そのようなことが本当に可能なのか。しかし目の前の女が悪魔であり、ここが人外の領域であることは確かである。
これはもうそういうものだと理解するしかない。
「あなた様はイエス様の呪いを受け、世界を『さまよう運命』。畏れ多くもイエス様が決定されたことですから、私ごときにはどうすることもできせん。私は神に従う一匹の悪魔に過ぎません。しかし――」
悪魔は続けた。
「今なら、『さまよう世界』の選択をご提示することができるのですよ。あなた様がこれまで生きてこられた現世か。それともこのバイブルの中に創造された世界か」
そう言いながらふところを何やら探っていたかと思うと、悪魔は一枚のチラシを取り出した。
「もしバイブルダイブを選んでいただけましたなら、なんとこのような三大特典がついてきます」
差し出されたチラシを受け取りながらもヨセフは首をかしげた。
「バイブルダイブってなぁなんだ?」
「失礼、説明しておりませんでした。バイブルの中に潜ってデバッグしていただくことを『バイブルダイブ(聖書体験)』と称しているのです」
「そうかい。初めての単語をおめえがしれっと当たり前みたいに使うから、おいら、何か聞き漏らしたんじゃねえかと思って不安になったじゃねえか」
「そう、それです。それでございますよ、ヨセフ様。私があなた様に求めるのは」
おもねるような表情で悪魔が三度にじり寄ってきた。
「そういった『おかしいな?』とか『よくわからないよ?』といった疑問をどんどん挙げてほしいのですよ。さすがヨセフ様、デバッグの前にその素質の片鱗をあらわしてしまうとは。私が見込んだ通りのお方です」
あからさまな追従の言葉である。ヨセフは顔をしかめた。
「……バイブルダイブねえ。そりゃなんだか格好よさげな名前で結構なこった」
もちろん皮肉で言っているのだが悪魔にはそのような機微は通じない。
ヨセフは仕方なく手渡されたチラシに目を通した。
バイブルダイブを選ぶともれなくついてくる!
三大特典をゲットしよう!
○特典その一。悪魔が誠心誠意サポートいたします。
初めてのバイブルダイブには不安が一杯。でもご安心を。担当の悪魔が懇切丁寧にあなた様をフォローいたします。
○特典その二。がんばり次第で恩赦がもらえるかも。
バイブルダイブは奉仕行為ですが、全くの無報酬というわけではありません。実績を積むことで恩赦が与えられ、呪い(ペナルティ)の期間が短くなるかも?
○特典その三。バイブルにあなた様の意見が反映されるかも。
デバッガーの意見は全て確実に目を通し、何らかのコメントを必ず返します。内容次第で採用されるかも? 実績として加算されるかも?
「おいおい、おいおいおい。『かも』が多いよこれ」
チラシから顔を上げるとヨセフは呆れて言った。
「結局よく読んだらおめえがついてくるってことしかはっきり書いてねえじゃねえか」
「これが精一杯なのでございます」
悪魔は哀れっぽい声を出した
「ですが、あなた様ご自身にとっても、大変実のあるご提案だと思うのですが……」
ヨセフは腕を組んで思案した。
考えるまでもなく普段から住み慣れた現世がいいに決まっている。得体の知れない恐ろしげなバイブルの世界に飛び込むなどとんでもない話だ。
だが呪いの期間が短くなるかも知れない、という二つ目の特典にヨセフは抗いがたい魅力を感じた。
「なあ、ちと聞きてえんだがな」
「何でございましょう」
「おいらが死んじまったってことは、もう故郷には伝わってんだよな。親父とおふくろも知ってるんだよな」
「はい。そうですな。葬式までお済みになった状態です。すでに三日経っておりますからな」
少し間があった。
「もし、最後の審判が来る前に、おいらの呪いがとけたんなら、そこから先はどういうことになるんだい」
悪魔はかすかに眉をひそめた。
「それは『神のみぞ知る』ということになります」
「そうかい。畜生、うまいこと返しやがる」
「ですが、私見を申しあげますと」
悪魔は言った。
「おそらくあなた様の時が巻き戻されます。あなた様はエルサレムのゴルゴダで、イエス様が処刑されるところへ再び行き合うことになるでしょう。そうして、ただそれだけ、何事もなく終わります。あなた様は本来の旅を続け、そしてお家に帰ることができるのではないかと」
ヨセフはうつむいた。
「ちっとばかし、考えさせてもらっていいかい」
「もちろんでございますとも。今後を左右する大きなご決断でございますから」
悪魔はうなずいた。
「それでは私、一度席を外しますので。ご決心されましたら、こちらのベルを鳴らしてお呼びください」
悪魔はバイブルを抱えて書庫から出て行った。
ヨセフは故郷のことを想った。
家族のことを、老いたる両親のことを想った。
考えてみれば自分はつくづく親不孝者だった。
せめてもう一度、両親の顔を拝みたい。
現世の彷徨を選べは、それは一旦は叶うだろう。
だが同時に自分は不浄にして不老のこの身体を彼らに晒すことになる。
なんといって説明すればいいのか。聖人に受けたこの身の呪いを。
こんな自分が戻ったところで彼らを無意味に苦しめるだけではないのか。
そして彼らに寿命が訪れ、皆が死絶えても、自分だけは浅ましく地上に囚われ、醜く生き続けなければならないのだ。
ヨセフは考え続けた。どれほどの時が経ったのか。もっともこの場所では時間など意味を成さないのかも知れないが。
ヨセフはベルを鳴らした。
まるでずっと外に立って待っていたかのように、間を置かずに悪魔がやってきた。
「いいぜ。わかったよ」
ヨセフは言った。
「おいら、バイブルダイブとやらを引き受けるよ」
かくして「さまよえるユダヤ人」の伝説はその新しい幕を開けるのであった。
「あーあ、人を呪うようなのが聖人様を名乗るとは世も末だぜ」
「何をおっしゃいます」
悪魔はその場に正座すると、深々とお辞儀した。
「世紀はまだ始まったばかりでございます」
(続く)
とある春の日の午後である。
旅装束の若者がD街道を南に向けて歩いていた。名を「アハスエルス」とも「ルタピルス」とも「ヨセフ」とも、文献によって異なるが、ひとまずここでは「ヨセフ」という名前にしておく。
また年齢に関してはどの資料を繰っても記述がないため、ここでは仮に十七歳と見積もっておこう。
ヨセフ、今年で十七歳。
麗しきローマはユダヤ州カイサリアの生まれ、カイサリアの水道で産湯を使ったちゃきちゃきのカイサリアンすなわち俗に言うサリアっ子である。
当時のローマでは十四歳で一人前とみなされるから、十七歳といえばもう大人としての分別を負ってもいい頃合である。しかし実家は至って裕福な市民、彼はその次男坊のため、神への信仰も程々に、のらりくらりと趣味芸事に精を出し日々のんきに暮らしているのだった。
今こうして街道を歩いているのも仕事や業務といった類では一切なく、実は物見遊山が目的なのである。商業都市ぺトラまで足を伸ばすつもりだった。
全ての道はローマに通ず。
あまりにも有名なこの言葉が示す通り、ローマ人は、広大な帝国領内に舗装道路を四通八達させ、道路に沿って宿場を設け旅を容易にした。
それは単に道路の面積が広いという事実のみをあらわすのではない。
全道路の補備修繕と治安維持。
この二点を安定して供給できるほどの力を帝国が備えているということである。
偉大なるローマの恩恵に首元までぬくぬくと漬かりながら、ヨセフは与太郎然とした顔でてくてく歩いていく。
観光所巡りと旨い物漁り、それが彼の目下最大の関心事である。彼は食道楽だった。
エルサレムにまで差し掛かったとき、熱狂したそぶりの群集と行き会った。何人かが大声で叫び、怒鳴り、興奮して走り回っている。
ヨセフには何の騒ぎかわからなかったので、彼の傍らを走りぬけようとした八歳ほどの子供を捕まえて聞いてみた。
「よお、坊主。蜂の巣つついたよりもひでえ騒ぎだが、この先でいってえ何が起きてるんだ? おいらに教えちゃくれねえかい」
すでに述べたようにヨセフ自身は上流階級の出であるが、同世代の悪友たちと頻繁につるむためその言葉遣いは下町風であり当世風に染まっている。
少年は一瞬足を止めると、彼に向かって両手を広げ首を傾けて見せた。そしてすぐに走り去った。
だがそれだけでヨセフは察した。処刑である。
盗賊か殺人者か、法を破った罪人が磔にされるために処刑場へ運ばれているところなのだろう。
いつの間にか街道は人が密集して進むことさえままならないほどだ。人々の狂熱はとどまることを知らず、それはもはや殺気と表現してもさしつかえがない。
公開処刑は少なからず娯楽の一面を持つ。しかしこれほどまでに人を集める罪人とは一体何者なのか。
ちらとそんな考えがヨセフの頭をよぎったが、それはすぐ片隅に追いやられてしまった。
なんと言っても彼は今朝出発してからずっと歩きづくめだったのだ。
そろそろ疲れ始めていた。
足は棒のようになっていたし、それに空腹だった。
早く予定の宿に着いて一風呂浴びたい。食事をして、眠りたい。
後ろから前へ行く誰かに肩を突き飛ばされてヨセフは顔をしかめた。
「おいら、磔の見世物なんか拝みたくねえんだがな。さて、どうしたもんかな……」
彼は懐から包みを取り出すと、その中の物を口に放り込んでくちゃくちゃと噛み始めた。
これはもちろんチューインガムやキャンディの類ではない。この時代にそれらのものは原型さえもまだ存在していない。
彼が口に含んだのは通人の尊ぶ雄鹿の歯である。道中これをなめることでちょっとした餓えや渇きを癒やしてきたのである。
歯の軟骨部分をわやわやと噛みしめ、染み出る滋味を堪能しながら、彼は思案した。
そして決心した。
多少無理矢理にでもすり抜けてしまおう。
なじみの薄い土地で殺気だった群衆に囲まれるというのはあまり愉快な経験ではない。たとえ彼らの殺気が自分には向けられていないにしても。
このような場所はさっさと離れてしまうに限る。街道の向こう側に渡ってしまえば、このばかげた騒動とおさらばできるだろう。
「はい、ごめんなさい。通してくださいよ。御前を失礼。はい、ごめんなさい、ごめんなさい。あいすいません……」
時折思いがけない方向から突かれたり押されたりしながらも、ヨセフは身体をひねらせ、逸らし、群集の隙間をたくみについてじわじわと前に出ていった。
タイミングが悪かった。
実にこのとき、まさにこの瞬間、この騒ぎを引き起こした張本人が姿を現したのだから。
パリサイ人の兵士と祭司に守られて、自らを磔にするための巨大な十字架を背負わされた男がよろめきながら歩いてきた。
そして男は足をもつれさせ、ヨセフは大きな力で後ろから押された。
まるで図ったような間の呼吸で、男の抱えた十字架が、ヨセフの頭を直撃した。
二人はもつれ合って倒れ、下敷になったヨセフは苦痛の声を上げた。弾みで鹿の歯が口から飛び出ると、その男の右目の下にぴしりと当たった。
思わず知らずヨセフは悪態をついていた。
「痛ってえ! 何しやがるこの野郎!」
旅の疲れもあった。空腹でもあった。
しかしそもそも元来ヨセフは激高しやすい性格なのだった。
彼は頭をなでさすりながら食ってかかった。
「おめえのおかげで街道ふさがれちまってえれえ迷惑なんだぜ、このどサンピンが。なんだってこんなにひどくおいらの頭をぶちやがるんだ。おめえ、何をしでかしたんだか知らねえが、その有様じゃどうせ碌な人間じゃあるめえ。その大仰な棒っきれ抱えてさっさと行くとこ行っちまいなってんだ。わかったか、ウンテレガン!」
そのとき、奇妙なことが起こった。
いや、ヨセフには起こったように感じられた。
周囲の雑音がふいっと遠ざかり、まるで水に潜ったかのように場が静まり返ったのだ。
その静寂の中で男はヨセフの顔をじっと見つめている。
青く澄んだ瞳。そこには悲しみも悦びもなく、淡々とした表情をたたえている。
激高しやすいが冷めやすいヨセフは気圧されて目を逸らそうとし、なぜか自分が身動き一つできないことに気付いた。
男を突き飛ばすことも、その場を後にすることもできず、ただ男の目を見つめ返した。深い水底のごとき静けさに包まれてヨセフと男は対峙し続けた。
「行けというのなら、私は行くが――」
おもむろに男は口を開いた。穏やかな口調。だがそれでいて聞く者をぎくりとさせる声音だった。荒涼とした虚空に吹きすさぶ風のようだった。
「お前は待っておれ」
そう言ってゆっくりと立ち上がり、十字架を背負い直すと、ヨセフに背を向けだ。
次の瞬間、ヨセフは雑踏の中で立ちすくんでいる自分に気付いた。
男は兵士たちに追い立てられて何事もなかったかのようにヨセフから遠ざかっていく。
血を待ちかねて熱狂する群集たちを従えて。
夕方、ヨセフは予定していた宿へ無事に到着した。
ここではナッツ入りのアレクサンドリア風のオムレツを朝食に出すと評判であった。
ヨセフは清潔なベッドに潜り込むと、昼の出来事を思い返して、ほんの少し胸がざわめくような心持ちがした。
だがそれ以外には特にどうということもなく、やがて彼は安らかな眠りについた。
そして翌朝のオムレツを食べることなく――そのまま頓死した。
「おい、おい、おい、おい」
と、死んでから三日目にヨセフは言った。
「ひ、ひ、ひ、ひ」
悪魔が低い声で答えながら、威圧的な表情をした。
「信じられねえや。おいら本当に死んじまったってのかよ。どうもえれえ急な話じゃねえか」
ヨセフはあっけにとられた顔のまま周囲に目をやった。
どこかおかしい。死んだ彼に居場所があるというのなら、そこはローマ式のあの世でなければならない。なぜならユダヤには死後の世界という概念がないからだ。
だがここはそもそも地獄なのだろうか。
ただ殺風景な石造りの小部屋である。中央に無骨な事務机が設置され、その上に「受付」と書かれた三角塔が置いてある。
「ひ、ひ、ひ、ひ……」
机の向こうで笑いこけていた悪魔が急に口を閉じて真顔になると、手元の紙束を繰り、ひそひそと小声で言った。
「えーと。書類によるとですね、あなた様はただ死んだのではなく、呪われたために死んだようですな」
「呪われたって? おいらがかい」
ヨセフは途方に暮れた顔になった。
「脅かすのはよしとくれよ。呪われて死ぬとどうなるんだい」
「未来永劫、亡者となって地上をさまようことになりますな。最後の審判のときが訪れるまで」
「なんだか面倒なことになっちまったぜ」
ヨセフはつぶやいた。
「まあ、呪いですからな」
悪魔は鹿爪らしくうなずいた。
「呪いとは面倒なものと決まっております」
「けどよ、おいらを呪った野郎ってなぁ誰なんだ? そんなのには心当たりが全くねえ」
「あ、なるほど。そこがご不明でしたか。失礼、説明いたします」
悪魔は虚を突かれたらしく目を見開いて言った。
「あなた様を御呪いされた方は、ナザレのイエス様でございますよ。ほら、エルサレムのゴルゴダで十字架を背負われたあのお方にお会いしたでしょう」
「たまげたね。オノロイサレタと来たぜ。けったいな言葉を使いやがる」
ヨセフは悪態をついたが、少し語調が弱くなったのは、あの時の出来事を詳細に思い出したからに他ならない。
ナザレのイエス。
その噂はヨセフの耳にも届いていた。
いわく、ガラリヤの伝道者。
いわく、バプテスマのヨハネの直弟子。
いわく、ローマ帝国の反逆者。
まさかあの男がイエスその人だったとは。
そしてあろうことかあるまいか本物の聖人だったとは。
悪魔はおごそかに言った。
「それに、あなた様は食物を用いてイエス様を侮辱なされました。これが悪うございましたな」
「食物だと?」
「雄鹿の歯でございますよ」
ヨセフは黙った。
「古来食べるとは賜ると申します。また、食べることは、与えられた愛を受け取ること。人は食べることで人の愛に応え、また愛を与える側へと成長していきます。しかるに、食物を口に含んで面体に吹きつけるとは、人に対する侮辱であるばかりか、食物それ自体に対する侮辱であり、この世の理そのものに対する侮辱でもあるのです。呪いを受けるに相応しい所業といえるでしょう」
ヨセフは頭を抱え込んだ。
「参ったな。おめえの説明聞いたら、聞く前よりも余計わかんなくなっちまった」
「お気を落とさずに。あなた様はイエス様直々の御呪いを受けた世にも稀なお方でございますから、当方としましても精一杯のVIP対応をつとめさせていただきたいと存じます」
悪魔は慰め顔でヨセフの肩に手を置いた。
ヨセフはわかにかっとなってそれを払いのけた。
「ふざけんない。余計なお世話だよ、この野郎。だいたいおめえみてえな顔色の悪い唐変木につきまとわれたってちっとも嬉しかねえや」
「あら、それでしたら」
悪魔は微笑んでしなを作った。
「これでいかが」
褐色の肌を持つ妖艶な美女が目の前に立っていた。
「ひえっ」
ヨセフは仰天してへなへなとその場にしりもちを着いた。
悪魔の変異の力を目の当たりにし、「どこぞの誰かが手間暇かけて自分を担いでいるのではないか……」という心中密かに抱いていた疑念あるいは希望は完全に費え去った。この悪魔は本物であり、すなわち彼の身にふりかかった災難も本物である。
おおヨセフ。
汝呪われし者よ。
己が罪を地獄に落ちて語るべし。
「あーあ。人間生きてると何が起きるかわからねえやな。もう死んじまったけどよ」
とうとうヨセフは泣き声をあげた。
「さあ、そこが肝ですよ」
なにやら妙になれなれしい雰囲気になった悪魔がヨセフの両手を優しくとってその場に立たせた。
ヨセフは恐ろしくて先ほどのように払いのける勇気がない。
「あなた様は呪われて死んだとお話ししましたが、実はそうとも言い切れないのです」
悪魔は言った。
「より正確には、生きていると言えるし、死んでいるとも言える。生きていないとも言えるし、死んでいないとも言える。それが今のあなた様の状態であり、すなわち『呪われている』という状態なのです」
「おいら、やっぱりおめえの言ってるこたぁさっぱりわからねえ」
ヨセフは弱弱しくかぶりを振った。
悪魔はその美しい顔一杯ににたにた笑いを浮べると、ヨセフの傍らに立ち、彼の背にそっと手を当てた。
「まあまあ、おいおいわかっていきますよ。あわてる必要はございません。さしあたって当座のことなどをこれからごゆるりと相談いたしましょうか。ええ、あなた様にはぜひしていただきたい事があるのですよ。さあさ、こちらへどうぞ」
ヨセフが案内されたのは薄暗い部屋だった。扉には「書庫」と手書きのプレートが下がっていた。
広さは受付とほぼ同じである。
四方を壁一杯の巨大な本棚に囲まれ、各棚には様々な本がぎっしりと詰め込まれている。
そして驚いたことには、本棚の高さには際限がなかった。
天井そのものがなく、見上げる限り上方に向かって延々と本と本棚の山が積み上げられているのだった。
部屋の構造がどうなっているのか目で見ても理解できない。やはりここは現世とは違う場所であるに違いない。
今さらのように背筋にぞっとしたものを感じていると、悪魔が咳払いした。
彼女の手には一抱えほどもある大きな本が抱えられていた。分厚いハードカバーだ。表紙も裏表紙も背表紙も全て雪のように白い。
「なんだ、それあ」
「バイブルまたはビブリアと名付けようと考えています。我々の教典となる書物でございますよ。できたてのほやほやです」
悪魔は答えた。
「イエス様の教えを中心に据えて、それ以降それ以前の思想やルールなどを編集したものです」
「ふうん。律法(トーラー)みてえなもんかい」
ユダヤの聖典の名を挙げると、悪魔は意を得たとでもいうように大きくうなずいた。
「然り。まさしくその通り。律法の内容も実はここには含まれているのですよ」
悪魔に促され、ヨセフは書庫の隅に設置されたテーブルに向かい合って座った。
「念のためにいくつか確認いたします」
と、悪魔は言った。
「あなた様はユダヤ教徒でいらっしゃる?」
「おう。まあな」
と、ヨセフは答えた。
「ご両親は敬虔なユダヤ教徒であらせられる」
「そうだよ」
「ですが、あなた様ご自身は、熱心ではない。むしろローマの教えのほうがご趣味である、と」
返事がなかった。
「ヨセフ様?」
「あああああ。そういうことかあ」
ヨセフは深く嘆息した。
「おいら、確かにユダヤ教は堅苦しくてどうもいけねえって思ってたよ。そりゃ良いこと言うときもあるけどよ。ああいう辛気くせえのは性に合わねえ。それよか最新のローマ式の方が派手でイカすって感じてた。それでよく親父やおふくろに説教されたっけ。おいらが今、こんな目に遭ってるのもそれが原因かよ。やっと合点がいったぜ、こんちくしょう」
「いいえ。それは全く関係ございませんので」
悪魔はあっさりと否定した。
「大海に何気なく投じた石がたまたま超大物に命中したと、まあ、このようにお考えください。もっとも、あなた様の場合は石ではなく雄鹿の歯ですが。おっとこれは余談」
「じゃあ、なんだってユダヤがどうのローマがどうのってしつこく聞きやがるんだ」
「そのような人材を求めているからです」
悪魔は居住まいを正して言った。
「私はこのバイブルの完成度を高めたいと思っています。それが私に与えられた職務だからです。そのためにあなた様のご助力をいただければと」
「ご助力?」
「本のチェックをしていただきたい。つまりデバッガーですな。しかしもちろん誰でも良いというわけではない。適正というものがございます。それなりの基礎教養すなわちユダヤ教の知識をお持ちの人物ではなければいけない。かといってガチガチの保守派であっても都合が悪い。柔軟な思考を持ち、新旧の思想に対してわけへだてなく適切な批判を行える方。そして最後に、デバッグの繰り返しに耐えうるだけの頑強さを備えたお方。つまり、あなた様はこのお仕事に最適な条件を備えていらっしゃるのでございます」
「何言ってやがるんだ。おいら、別に頑強ってわけじゃねえ。まあ病弱でもねえけどよ、せいぜい十人並ってところだぜ」
「いえいえ、あなた様は呪われていらっしゃる」
悪魔は上目遣いでヨセフを見た。
「ゆえに生死を超越し、いつまでも無限にデバッグし続けることができるのです。そう、生きていようと死んでいようと(デッドオアアライブ)――」
悪魔は美しい顔のまま歯をぞろりとむき出しにして笑った。
「ひ、ひ、ひ、ひ」
それは歯というよりも爬虫類のように尖った恐ろしげな牙だ。
少し身を引いてヨセフは尋ねた。
「……なんか今の言い方だと、危ねえ目に遭うかも知れねえって感じだな」
「まさしく。ご明察でございます」
ぴしゃりと膝を叩いて悪魔がにじり寄ってきたのでヨセフはますます身を引いた。
「これは途方もない力を秘めた大聖典でございますから、ただごく普通に読むだけではチェックしきれません。そこであなたがデバッグをされる際には、この本の中に飛び込んでいただくことになります」
「飛び込む? 本の中に?」
「そう、全身でもって、実際に、本の中の世界を彷徨し、ストーリーを追体験していただきます。本の中には多少の危険がございます。その結果、あなた様に何らかの被害が発生することもございます。それはあらかじめご了承頂きたいのです」
ヨセフはめまいがするような心持ちになってきた。相手が何を言っているのかよくわからない。いや、言っていることはわかるが、そのようなことが本当に可能なのか。しかし目の前の女が悪魔であり、ここが人外の領域であることは確かである。
これはもうそういうものだと理解するしかない。
「あなた様はイエス様の呪いを受け、世界を『さまよう運命』。畏れ多くもイエス様が決定されたことですから、私ごときにはどうすることもできせん。私は神に従う一匹の悪魔に過ぎません。しかし――」
悪魔は続けた。
「今なら、『さまよう世界』の選択をご提示することができるのですよ。あなた様がこれまで生きてこられた現世か。それともこのバイブルの中に創造された世界か」
そう言いながらふところを何やら探っていたかと思うと、悪魔は一枚のチラシを取り出した。
「もしバイブルダイブを選んでいただけましたなら、なんとこのような三大特典がついてきます」
差し出されたチラシを受け取りながらもヨセフは首をかしげた。
「バイブルダイブってなぁなんだ?」
「失礼、説明しておりませんでした。バイブルの中に潜ってデバッグしていただくことを『バイブルダイブ(聖書体験)』と称しているのです」
「そうかい。初めての単語をおめえがしれっと当たり前みたいに使うから、おいら、何か聞き漏らしたんじゃねえかと思って不安になったじゃねえか」
「そう、それです。それでございますよ、ヨセフ様。私があなた様に求めるのは」
おもねるような表情で悪魔が三度にじり寄ってきた。
「そういった『おかしいな?』とか『よくわからないよ?』といった疑問をどんどん挙げてほしいのですよ。さすがヨセフ様、デバッグの前にその素質の片鱗をあらわしてしまうとは。私が見込んだ通りのお方です」
あからさまな追従の言葉である。ヨセフは顔をしかめた。
「……バイブルダイブねえ。そりゃなんだか格好よさげな名前で結構なこった」
もちろん皮肉で言っているのだが悪魔にはそのような機微は通じない。
ヨセフは仕方なく手渡されたチラシに目を通した。
バイブルダイブを選ぶともれなくついてくる!
三大特典をゲットしよう!
○特典その一。悪魔が誠心誠意サポートいたします。
初めてのバイブルダイブには不安が一杯。でもご安心を。担当の悪魔が懇切丁寧にあなた様をフォローいたします。
○特典その二。がんばり次第で恩赦がもらえるかも。
バイブルダイブは奉仕行為ですが、全くの無報酬というわけではありません。実績を積むことで恩赦が与えられ、呪い(ペナルティ)の期間が短くなるかも?
○特典その三。バイブルにあなた様の意見が反映されるかも。
デバッガーの意見は全て確実に目を通し、何らかのコメントを必ず返します。内容次第で採用されるかも? 実績として加算されるかも?
「おいおい、おいおいおい。『かも』が多いよこれ」
チラシから顔を上げるとヨセフは呆れて言った。
「結局よく読んだらおめえがついてくるってことしかはっきり書いてねえじゃねえか」
「これが精一杯なのでございます」
悪魔は哀れっぽい声を出した
「ですが、あなた様ご自身にとっても、大変実のあるご提案だと思うのですが……」
ヨセフは腕を組んで思案した。
考えるまでもなく普段から住み慣れた現世がいいに決まっている。得体の知れない恐ろしげなバイブルの世界に飛び込むなどとんでもない話だ。
だが呪いの期間が短くなるかも知れない、という二つ目の特典にヨセフは抗いがたい魅力を感じた。
「なあ、ちと聞きてえんだがな」
「何でございましょう」
「おいらが死んじまったってことは、もう故郷には伝わってんだよな。親父とおふくろも知ってるんだよな」
「はい。そうですな。葬式までお済みになった状態です。すでに三日経っておりますからな」
少し間があった。
「もし、最後の審判が来る前に、おいらの呪いがとけたんなら、そこから先はどういうことになるんだい」
悪魔はかすかに眉をひそめた。
「それは『神のみぞ知る』ということになります」
「そうかい。畜生、うまいこと返しやがる」
「ですが、私見を申しあげますと」
悪魔は言った。
「おそらくあなた様の時が巻き戻されます。あなた様はエルサレムのゴルゴダで、イエス様が処刑されるところへ再び行き合うことになるでしょう。そうして、ただそれだけ、何事もなく終わります。あなた様は本来の旅を続け、そしてお家に帰ることができるのではないかと」
ヨセフはうつむいた。
「ちっとばかし、考えさせてもらっていいかい」
「もちろんでございますとも。今後を左右する大きなご決断でございますから」
悪魔はうなずいた。
「それでは私、一度席を外しますので。ご決心されましたら、こちらのベルを鳴らしてお呼びください」
悪魔はバイブルを抱えて書庫から出て行った。
ヨセフは故郷のことを想った。
家族のことを、老いたる両親のことを想った。
考えてみれば自分はつくづく親不孝者だった。
せめてもう一度、両親の顔を拝みたい。
現世の彷徨を選べは、それは一旦は叶うだろう。
だが同時に自分は不浄にして不老のこの身体を彼らに晒すことになる。
なんといって説明すればいいのか。聖人に受けたこの身の呪いを。
こんな自分が戻ったところで彼らを無意味に苦しめるだけではないのか。
そして彼らに寿命が訪れ、皆が死絶えても、自分だけは浅ましく地上に囚われ、醜く生き続けなければならないのだ。
ヨセフは考え続けた。どれほどの時が経ったのか。もっともこの場所では時間など意味を成さないのかも知れないが。
ヨセフはベルを鳴らした。
まるでずっと外に立って待っていたかのように、間を置かずに悪魔がやってきた。
「いいぜ。わかったよ」
ヨセフは言った。
「おいら、バイブルダイブとやらを引き受けるよ」
かくして「さまよえるユダヤ人」の伝説はその新しい幕を開けるのであった。
「あーあ、人を呪うようなのが聖人様を名乗るとは世も末だぜ」
「何をおっしゃいます」
悪魔はその場に正座すると、深々とお辞儀した。
「世紀はまだ始まったばかりでございます」
(続く)
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