花嫁と貧乏貴族

寿里~kotori ~

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ふたりのイリス

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ラン・ヤスミカ家別邸の厨房は朝から忙しい。

専属シェフ不在なので執事のシオンが事実上のシェフも兼ねている。

そもそも領主で貴族様なのにラン・ヤスミカ家には使用人が少ない。

本邸にも執事トーマスと半隠居の下働き顧問のヨゼフ爺さんに数名の下働きしかいない状態であり、炊事洗濯、針仕事にリネンの管理は当主ラクロワと嫡男エセルの奥方であるリーサとフィンナが担当している。

領主の奥様と嫡男の若奥様が家政の即戦力としてバリバリ働いている。

本邸がそんな感じなので次男ユーリと嫁の少年リンが暮らす別邸はさらに従業員が少ない。

執事のシオンと下働きが2人いるだけだ。

この下働き2名はシオンと同じ裏賭場から採用された元ゴロツキさんである。

下働きの仕事は薪割りや掃除に庭木の手入れに屋敷の修繕にシオンの補佐など、ありったけの雑用だった。

元ゴロツキさんの下働きは気が良い男たちで田舎だが立派な貴族のお屋敷に就職できて嬉しい。

だが、彼らには目下心配なことがあったのだ。

「なぁ、モリス?大丈夫かな……シオンの兄貴?」

厨房からシオンがいなくなった隙に下働きの元ゴロツキさんのダンテは同僚のモリスに囁きかけた。

「エドガー様が人間離れしたしつこさでストーキングするせいでシオンの兄貴は常にキレてる。俺らにキレることはねーが。シオン兄貴はストレス溜めてるぜ?ありゃ……」

「ダンテ。俺もそれ心配してた。シオンは賭場を仕切ってたときは滅多にキレない奴だったのにエドガー様の執拗なストーカー行為でピリピリしてる。そのうち殺傷事件が起きねーか怖い」

ダンテとモリスにとってシオンは兄貴分でゴロツキさん時代から頼れる存在で尊敬している。

ならず者にしては小綺麗な容姿のシオンはミステリアスで賢く優しい兄貴分だったが現在のシオンはミステリアスでなくバイオレンスである。

シオンが変わってしまったそもそもの悪因はリンの異母兄のひとりエドガーが唐突にシオンに恋をしてシオンが拒否してるにも関わらずストーキングしてアプローチして迫るからだ。

最初はエドガーの身分や立場を考えて遠慮していたシオンもエドガーのしつこさにキレてきて徐々に行動がバイオレンスになった。

この前はついにティーポットでエドガーの脳天を殴り、ポットを粉砕してみせたのだ。

殴られたエドガーは無傷で優雅にお茶のお代わりを要求していた。

「エドガー様は身分は最高!顔だって超絶イケメン!大金持ちの坊っちゃん!多少は……いや、かなりの変態さんだが性格も悪くねーぞ?求愛したのが女の子なら大喜びなのに」

「おいおい!エドガー様はそりゃ悪い人じゃねーがあんな執拗にストーカーしてくる貴族様!女でも嫌だろ?シオンの兄貴。もとから痩せてるのに最近はさらに細くなってる」

おそらくシオンの少し中性的な雰囲気と色気もエドガーの性癖に刺さるのだろうとダンテとモリスは考えていた。

なんとか執事で元は兄貴分であるシオンをストレスから解放してやりたいとダンテとモリスが思案しているとシオンが戻ってきた。

「ダンテ、モリス。ユーリ様とリン様に紅茶を運んできた。もうすぐ食堂に来るから用意をするぞ」

エドガーは夜に大好きなエロ小説を熟読して寝坊しているとのこと。

マジで働かず、好きなことして贅沢に優雅に暮らす高等ニート様だ。

「シオン!エドガー様のお食事はお部屋にご用意するのか?嫌なら俺らが行くけど?」

シオンを気遣ったダンテが申し出るとシオンは苦笑いして首を横にふった。

「すまない。気を遣わせて。主人夫婦と客人の寝室には執事が食事を届ける決まりだ。俺が行ってくるよ」

「でもよ~?あんまりエドガー様と接近したくねーだろ?」

ダンテとモリスからしたら寝起きにエドガーがシオンを襲ったら今度こそ殺人に発展しそうで怖い。

多少はルール違反をしてもユーリとリンの若夫婦なら優しく許すだろう。

しかし、シオンは一応はラン・ヤスミカ家の執事の仕事だからと言って断っている。

それならダンテとモリスは心配だが口を挟めないので黙るしかない。

相当気がかりだが2人にも仕事があるので厨房の支度が整うと別の雑用をするために退出する。

厨房を出たところで別邸の主人ユーリがいたのでダンテとモリスはお辞儀をした。

するとユーリは左右を見回して2人に小声でお願いしてきたのだ。

「エドガー義兄上はまだお休みだ。目覚めの紅茶は俺が届けるから用意をシオンに伝えてくれ。ついでに朝食も俺が届ける」

屋敷の主人ユーリが客人のもとに行くならルール違反ではない。

多分、ユーリはシオンの心情を気遣って申し出てくれたのだ。

そして、主人が直々に客人の部屋に出向くには単に紅茶や食事を運ぶ以外の重要な意味がある。

客人とさしで大切な話をするという意思の表れだ。

ダンテは声を潜めてユーリに訊いてみた。

「ユーリ様。シオンの件をエドガー様にお話するのですか?」

シオンへの執拗なストーカー行為を屋敷の主人として禁ずるとユーリが主張すればエドガーだって自粛するかもしれない。

ダンテの問いかけにユーリは少し困った顔で口を開いた。

「それがな……エドガー義兄上はシオンにポットで頭を殴られたときからインスピレーションが閃いたと仰せだ。なにやら書き物を夜更けまでなさっている。何をしているのか気になって」

シオンへの恋文とも異なる様子なのでユーリは気になるらしい。

ダンテとモリスもそういえばシオンがティーポットで殴ってからエドガーが前にも増して物静かになったと気づいた。

頭の打ち所が悪すぎて言語能力まで破滅したのかとリンが心配しているのでユーリは勇気を出して寝室の様子を見に行く。

シオンは殴った自責の念があるのか、正当防衛でもエドガーの身体が心配なのかユーリの申し出に頭を下げた。

「申し訳ございません。ユーリ様とリン様にご心配おかけして。エドガー様はリン様の兄君なのに……俺がカッとなって殴ったから」

「誰もシオンを責めてない。そんな大袈裟にしないでくれ」

ユーリはそれだけ言うと笑って用意された紅茶と朝食を持ってエドガーの私室に向かった。

シオンは少し迷っていたが決意したようにダンテとモリスを見て頼んできた。

「俺もエドガー様のお部屋に行ってくる。リン様のお食事の給仕を任せてもいいか?」

ダンテとモリスは驚いたがすぐに笑って快諾した。

エドガーの私室にユーリが入ると当人はまだベッドで眠っていた。

机には無数のエロ小説が積まれている。

「ご自分も小説をお書きになるのか?ご趣味で?」

ユーリがそんなことを考えながら紅茶をベッド近くに置こうとしたら床に手紙が落ちていた。

送り主はモモである。

封筒から出ていたのでユーリは遠慮しながらも落ちている手紙を拾って何気なく目を通すと驚愕した。

手紙にはモモが調べあげたシオンの過去が記されていたからである。

「こんな大事な手紙を隠さずにいるなんて…!」

しかし、今はラン・ヤスミカ家別邸の執事であるシオンの経歴を知ることは主人であるユーリの権利であり責任でもある。

見るか見ないかユーリは迷った挙げ句、手紙から目をそらした。

「エドガー義兄上。おはようございます。目覚めの紅茶をお持ちしました」

ユーリが声をかけるとエドガーはパチリと目を覚まして起き上がる。

「ベッドに落とした手紙は見たのか?」

エドガーの問いかけにユーリは首をふって微笑んだ。

「シオンが自ら明かしたわけでないことを詮索はしません」

「ユーリ殿。貴殿はやはり優しい。リンの婿殿にピッタリの男だ」

「モモ殿は隣国の貴族社会まで調査済みなのですね?この手紙……シオンに見せるのですか?」

ユーリが問いかけるとエドガーはユーリの背後に立っているシオンを見て口を開いた。

「おはようシオン……紅茶を注いでくれ。ユーリ殿はリンが待っているから戻ってくれまいか?」

ユーリは素直に頷くとシオンに笑みを向け無言で部屋を出ていった。

残されたシオンが紅茶をカップに注ごうとしたらエドガーがポツリと言った。

「シオンは偽名だったのだな?シオンはお前の亡くなった奥方の名だった。本当の名前は……」

エドガーが言い終わらないうちに紅茶を用意したシオンと名のる執事が告げた。

「イリス……イリス・アンバー・ライラック。アンバー・ライラック伯爵家は俺のせいで断絶。爵位も剥奪されていまは存在しない。よく調べたな」

「イリス……私の名もエドガー・イリスだ。同じで嬉しかった。それだけだ」

純粋にエドガーはシオンの本名がイリスだという事実が嬉しいのだろう。

なんでシオンが偽名なのを察したのか不明だが深い詮索の意味はなくシオンはシオンでないことを突き止めたのだ。

モモが無神経にエドガーにシオンの過去を教えるとも思えない。

ユーリは手紙で知ってしまった真実を口外しないだろう。

今まで通り執事のシオンとして接してくれる。

「どうして俺が妻の名前を騙ってると分かった?」

シオン改めてイリスが呟くとエドガーは優雅に紅茶を飲みながら言ったのだ。

「私の正式名がエドガー・イリス・シルバー……真ん中にイリスが入ると知ったとき、お前は瞳を見開いていた。そして、シオンは隣国の貴族階級の娘にはポピュラーな名前だ」

「あんた、バカなようで鋭いな。でも、シオンってことにしてくれ。イリスはもう死んだんだ。罪を重ねた存在として」

イリスの絞り出すような願いにエドガーは息を吐くと紅茶カップをおいた。

「私はお前がシオンでもイリスでも関係ない。少なくともイリスは死んでいない。私のなかでは」

偽名のままシオンとして生きたいならシオンと呼ぶし、イリスという名前を決して出さないとエドガーは言い切った。

「こういうことは内緒にして悦ぶ方が良いのだ。私とシオンの本名が同じなんて運命だ。秘密の方が味わいがある」

「勝手に人の本名で悦に入るな。何年も何年も死んだ妻を引きずって未練がましいと思うだろ?」

「固執するのは私も同じだ」

そう言ってエドガーが少し笑うとシオンは涙を堪えながら言った。

「ポットで頭を殴って本当にごめんなさい。下手したら大怪我させてた。執事なのに客人にキレるなんて」

「私はただのラン・ヤスミカ家の客人でなくシオンの恋人だから殴られても大したことない」

「はは……都合のいい解釈するな。バーカ!」

泣きながら笑うシオンの背中をエドガーはソッと撫でていた。

痩身の背中は薄くて、この身体にどれだけの悲しみと無念が詰まっているのかはエドガーにも計り知れない。

シオンがエドガーの私室から出てこないのでリンはユーリに、コソコソ相談していた。

「すでにシオンがエドガー兄様を殺害してたらどうしましょう?すぐに部屋を確認したいです」

先日のティーポット粉砕事件がリンにはトラウマであった。

冷静なシオンが殺害までおよばないと信じたいが過失致死という可能性もある。

顔を曇らすリンにユーリは笑顔で諭した。

「安心しろ。争うような声も大きな音もない!大事には至ってねーよ!」

部屋を覗くのも失礼だから少し様子を見ようとユーリが提案していたらエドガーの私室から笑い声が聴こえた。

久方ぶりに聞いたシオンの楽しそうな声と一緒にエドガーの声がしたのでリンはホッと胸を撫で下ろしたのだ。

「私の考えすぎでした。よかった。シオンがエドガー兄様に怒らなくなって」

リンは微笑むとユーリと一緒に本邸の手伝いに向かった。

別邸の庭の掃除をしていたダンテとモリスは屋敷の窓をチラリと眺めて目配せをした。

「シオンの兄貴。お部屋から出てこないな」

「あぁ!これはもうエドガー様の粘り勝ちだ。シオンもついに根負けしたんだな」

シオンの真の名前がイリス・アンバー・ライラックであることはラン・ヤスミカ家ではユーリとエドガーのみ知る秘密となった。

もっともリンはモモと同じく隣国の貴族社会を学んで知っているのでシオンが偽名なのは気付いているが詮索はしない。

二度と大好きなエドガー兄様がストーキングの果てに殴り殺されなければいいとだけ願っていた。


end

















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