Hikaru

tori

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Too Much Love Will Kill You

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 1
 軽い寝息を立てているヒカルの横で、私は天井を見つめていた。体はまだ疼いている。神経を覆っていた被膜が破れて剥きだしになったみたいに私の体は刺激に敏感になっていた。きっとはしたない声をあげ、顔の赤らむような痴態を演じていたのだろう。
 それもこれも隣で眠っている宇宙人のせいだ。
 私はヒカルの小ぶりで硬く締まった乳房に耳を押し当ててみた。心臓の鼓動は私のそれと変わらない。これは綾瀬ひかるの肉体なのだから当然といえば当然なのだが、ならばヒカルはどこに居るのだろう。それはヒカルの言うように複雑に絡みあったネットワーク上に立ち上がった幻のようなものなのだろうか。

 私はさっきのヒカルの告白について考えてみた。自分でも意外なくらいすんなりと彼女の説明を受け入れた。ほんとうはもっと驚くべきことなのかもしれないが、まるでそんな気にはならなかった。
 ヒカルが宇宙人? だからどうだというのだ。彼女はもともと私にとってミステリアスな存在だ。それに宇宙人という属性が加わった、ただそれだけのことだ。大した問題じゃない。
 それに地球外の文明の存在など私の想像を超えた話で、どんなラベルを貼りどこに仕舞えばいいのか見当もつかなかった。
 太陽が地球の周りを回っているのではない、真実はその逆だと耳打ちされても、中世の農民たちは前の日と同じように畑に出かけたに違いない。鍬を振るう手を止めてチラッとお日様を見上げることはあるにしても、きっと彼らは「それが真実だからといって俺たちの暮らし向きが変わるわけじゃない」とため息まじりに呟いたことだろう。
 そして目下の私の関心も未知との遭遇でもコクーンでもインデペンデンスデイでもなかった。ヒカルが私の前から消える日がいつになるかだった。居なくなるという点では遥か銀河の彼方であろうが、ブエノスアイレスであろうが、それがキンシャサであっても同じことだ。
 ヒカルとの別離が避けられない運命だというなら、限られた時間をできるだけ一緒に居ようと私は決めた。

 夏休みに入ると、私たちの関係は加速度を増していった。より緊密に、激しく、危険なものに変化していった。
 私たちはヒカルが店に出勤する二時間前に駅で落ち合い共に過ごした。ヒカルが店に居る間、私はファーストフードや近くの公園で時間を潰して彼女を待った。店のヒカルに携帯でメッセージを送り、彼女も僅かな空き時間を使って返信してくれた。それでも淋しさに耐えかねたときは店に行った。
 私を見つけるとヒカルは顔をしかめたが、私はキャバ嬢をしているときのヒカルも嫌いではなかった。客たちが彼女に注ぐ視線を傍から眺めながら、ヒカルは私のものなのだという優越感はお酒以上に私を酔わせた。

 店がはねた後は、朝までホテルで激しく求め合った。私たちは快楽の奴隷であり、情欲の虜だった。理性が歯止めを掛けようとしても、残された時間が僅かしかないのだというエキスキューズがすべてを正当化した。
 片時もヒカルと離れたくはなかった。
 ホテルを出て、駅前の商店街で見つけた紅茶のおいしい喫茶店でモーニングを食べたあと、お互いの家路につく。夕方になればまた逢えるのに手を振るときは身を切られるような思いだった。

 人を愛するとはどういうことなのか? ヒカルに出会うまでの私にとって、それは永遠に解けない謎のように思われた。それまで、私は切実にだれかを求めた経験は一度もなかった。ひょっとすると、自分には人を愛するという感情が欠落しているのではないかと疑ったほどだ。だが愛する者同士を引きつけ合う引力の秘密は意外なほどあっさりと解けた。要するにキモチガヨイかどうかだ。

 肌を密着させている間、私はヒカルを強く感じることができた。彼女の体温、心臓の鼓動、私の身体を這い回る唇や舌の感触、それらだけがリアルな感覚であり、あとは全部嘘だった。家族や学校、父や母、友達でさえ私の中でどんどん輪郭がぼやけていく。世界は私たちを中心に周り始めていた。
 正確には私たちが本来居るべき場所から背を向け、密室に隠り、鍵を掛けたのだ。

 都合の良いことに夏休みは渚の家庭教師を引き受けることを前もって母に話してあったから、連日の朝帰りを疑われることもなかった。毎年長い休みには渚の家に入り浸るのはいつものことだ。
 普通、自分の娘が人様のお宅にそう度々泊まりに行けば眉を顰めるものだが、渚の家に行くことに関しては母は何も言わなかったし、むしろそれを好ましいことだと考えていた。渚との付き合いは娘の将来にとって有益だと本気で信じていた。
 皮肉なことに私の信用は私が見捨てようとしている友人に支えられていた。

 2
「三日間、店を休まないといけない。その間、レオナとは逢えない」
 もう夜も白々と明けようとしていた時、私の隣で肘枕をしていたヒカルが思い出したように言った。彼女は私の乳房を弄ぶ手を止めることなく、そんな大事なことをさらりと言った。

「いったいどういうこと?」
 私はヒカルの手を払いのけてにらみつけた。
「父親に手術を受けさせるんだ。身内が立ち会わないといけないらしい」
「お父さん、どこか悪いの?」
「どこもかしこも悪いけど、胆石が痛むらしくてね。それで医者に連れて行ったら手術しようということになったんだ。私が地球にいる間にできる限りのことをしてあげたいんだ」

 アル中のぐうたらオヤジにもかかわらず、ヒカルは父親を大切にしていた。彼女がキャバクラ勤めをしているのも父親の為だといっていい。静かに仲間の迎えを待つだけなら、行政なり民生委員に相談すれば話は済むことだ。そうしないのは何か理由があるのだろうか。

「こんなことを言ってはなんだけど、どうしてそこまでしてあげるの? だって彼は父親の務めを放棄してるわけでしょ」
「私たちは彼から娘と妻を奪ったんだ」
 彼女は言った。
 娘は解るが、妻まで奪ったとはどういうことだろう。
「お母さんはなぜ出ていったの?」と私は尋ねた。
 ヒカルはベッドから出ると、冷蔵庫から缶ビールを一本掴むとぐっと煽るように飲み干した。
「最初から話した方がいいね。あの日、夫婦は一人娘を連れて三人で山に出かけた。鉢伏山、知ってるしょ?」
 市の南郊にある小高い山で市民の間ではハイキングコースとして知られていた。私も小学校の遠足で何度か訪れたことがある。

「頂上の池の畔で持参の弁当を済ませたあと、のんびりしていた夫婦は娘のひかるの姿が見えないことに気づいたんだ。さほど広くない池の周囲を夫婦は必死で探した。日曜日のことで付近は人で賑わっていたから、池に落ちたとも考えにくい。ひょっとするとどこかで迷子になっているのかもしれない。父親は警察に通報し、さっそく山狩りが行われた」
 その頃、綾瀬ひかるは宇宙船の中で肉体の再生手術の真っ最中だったから見つかるはずはない。

 ヒカルはもう一本ビールを手に取ると、ベッドの縁に腰掛けた。
「綾瀬ひかるは二日後、渓流の畔の岩場に全裸で倒れているところを発見された。私は警察官の質問に何も覚えていないとだけ答えた。結局、警察も事件性はないと判断して事件は落着した。しかし、母親だけは娘の異変に気づいていたんだ。彼女は娘の様子がおかしいと夫に訴えた」
「母親の直感というやつかな。それでどうなったの?」
「もちろん夫は取り合わなかったが、あまり妻が煩く言うものだから、病院に連れて行った。ひょっとしたら頭でも打った可能性があると考えたのだろうね。しかし、何も異常など発見されるはずはなかった。日が経つにつれ妻はひかるのことを自分の娘のではない別の何かだという確信を深めていったんだ」
 ヒカルはまるで人ごとのように話した。実際人ごとには違いないのだ。これは綾瀬ひかるの抜け殻に起こった話であり、ヒカルはその抜け殻を擬態として使っただけなのだから。
 私は息を呑んで話の続きを待った。
「彼女はひかるを虐待しはじめたんだ。一切の世話を放棄したのが手始めだった。食事を与えず、着替えもさせなかった。消極的な暴力はより過激なものへとエスカレートしていった」
「お父さんは気づかなかったの?」
「父親は工作機械のメンテナンスを専門にしているエンジニアで、月の半分以上を出張で家を空けていた。それに虐待はバレないように巧妙に行われていたんだ。水風呂に放り込まれたり、父親の居ない日はずっと押し入れに閉じ込められた。髪を掴んで部屋中を引きずり回されたこともある。そんなとき、彼女は決まってこう言った。『私の娘から出ていけ! この悪魔』ってね」
 ヒカルは身の上に起こった虐待を淡々と話した。
「つらくなかったの?」
「彼女の気持ちを考えれば当然の権利だと思ったよ。娘の身体を乗っ取ったのは事実だしね」
「そんなの絶対におかしいよ! お父さんには訴えなかったの?」
「何も話さなかった。話せばどうなるかわかっていたからね。彼は娘のことをすごく愛していたから……でも、結局は虐待に気づいた隣人が父親に報せたんだ。彼は妻を殴り、家から追い出した」
 父親は会社を辞めて、ひかるのために出張のない仕事に就いた。
 それが躓きの始まりだった。高等専門学校を出てから彼は工作機械のメーカーでメンテナンスのエンジニア一筋で生きてきた。彼はその仕事を天職だと考えていた。社交的な性格ではない彼にとって、地道で一つずつ積み上げていくような仕事は性に合っていた。しかし新しい仕事も職場も彼には不向きなものだった。やがて彼はストレスから酒に逃げるようになった。

「アル中になるまで、あっという間だった。中学に入った頃には仕事も辞めて昼間から飲んでいた。彼がそうなった原因は私たちにある。でも、私ができることはせいぜい水商売で稼いだお金を残してあげることくらいしかないけどね」
 ヒカルはしみじみと言った。
 私たちはいつもの喫茶店でモーニングを食べ、駅で別れた。

 3
「おはよう」
 改札を抜けたところで出し抜けに声を掛けられて、ギョッとした。
 そこには渚が立っていた。彼女に会うの終業式以来だ。十日ぶりに会った渚はまるでミイラのようだった。頬はそげ落ち、肌はカサカサで、髪の毛からはすっかり艶がなくなっていた。黒目がちの大きな瞳がその容貌をさらに陰惨なものにしていた。
「こんなに朝早くからどうしたの?」
「玲於奈を待っていたの」
「それなら連絡をくれたら良かったのに」
「したわよ! 今日だけじゃない。昨日も一昨日も、ずっとずっと毎日。でも玲於奈はほとんど返事を返してくれないじゃない」
 渚が声を荒げたので、駅員が驚いて振り返った。
 私はこの幼なじみに対してあまりにも冷淡でありすぎた。しかし、もうどうしようもないのだ。ヒカルでいっぱいの心に彼女を受け入れるスペースなどどこにもないのだから。
「ごめん。いろいろと手が離せなくて」
 私は顔を背けて言った。
「家庭教師の約束忘れてないよね?」
 夏休みに入る前にいつから始めてくれるのかとせっつかれ、八月なら大丈夫だと適当なことを言って逃げた。そして今日は八月の最初の日なのだ。
 今の私には暢気に渚の勉強を見てあげる余裕はなかった。
 はっきりさせておいた方がいい。
 きっと渚は興奮して喚き散らすだろう。それでもケリをつけるなら今しかない。
「そのことなんだけど、忙しくて引き受けることができなくなったんだ」
 私の言葉を聞いても渚は意外なほど冷静だった。
「そうよね。毎日朝帰りするほど忙しいんだもんね。よっぽど楽しいことを見つけのかしら?」
 落ち窪んだ眼窩の奥から光る視線が私のやましさに突き刺さり、返す言葉に詰まった。
「お母さんから電話があったよ」
 渚は薄笑いを浮かべた。

 私はあわてて携帯を取り出した。母からの着信が昨日から四回入っていた。
 迂闊だった。渚からのメッセージ爆弾が煩わしくて携帯をバッグの中に入れたままにしておいたのだ。
「その様子だと私のメッセージにも目を通してないみたいね。でも安心して、ちゃんと口裏を合わせておいたから。だって、私たち親友でしょ?」
 ぎこちなく向けられた微笑みに私は反射的に頷いた。
「だから、私にも少し時間を割いてよ」
「分かった」と私は答えた。
 どうせ三日間はヒカルに逢えないのだ。
「なんなら今からでも家に行こうか?」と私は言った。
 渚の表情がパッと明るくなった。
「あっ、でも一度家に帰った方がいいわ。お母さん、同窓会に出かけるからお父さんが帰ってくるまで家に居て欲しいって言ってたから。それに玲於奈が来てくれるなら、私も帰って準備しないといけないからね。夜に迎えに行く」
 渚は私の返事も聞かずにタクシー乗り場に駈けだした。
 私はその後ろ姿をぼんやりと見つめていた。

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