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十六話 誘惑
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ハウンドに導かれるまま案内されたのは、屋上の真下、最上階にあたる一室だ。
綺麗に磨かれたガラス越し、飾り窓からは扇状に広がったロドルナを一望できる。ヴィクターのアパルトマンにも引けをとらない佇まいだ。
階下の荒れ具合が嘘のように洗練された部屋に、リアムは薄気味悪さを感じた。
窓のそばに設置された重厚なテーブルセットや、食器棚に収められた茶器類も裏路地街にあれば、一瞬で掻っ攫われてしまうのに。
――このあたりの人たちは知ってるんだ。この人に逆らっちゃいけないって……。
「そんなに固くならないでよ。……温かいうちにどうぞ」
ふわりとやわらかい湯気を立てる紅茶に早朝から張りつめていた気持ちがほぐれるかと思いきや、ここ最近嗅ぎ慣れた甘ったるい香りがカップからただよい、リアムはカップに伸ばした手をピタリと止める。
「あの、これって……」
「報告通り、いい鼻を持ってるね。ますます君と仲良くなりたいな」
ハウンドは頬杖をついて柔らかく笑った。
『いいかい、リアム。よく笑うやつには気をつけな。本心を隠すのには笑うのが一番手っ取り早いからね。誤魔化したいやつほど、笑顔を絶やさないものさ』
たちの悪い客に何度も泣かされるリアムに、ジャズは呆れながら言い聞かせた。そういった輩に遭遇すれば、即、逃げるよう忠告を受けている。
それが正しい判断なのだろう。頭では分かっていてもリアムは自然と疑問を口にしていた。
「ど、どうして、バ、バニシャを街にバラ撒こうとするんですか?」
何を聞かれたか判らないという風に、ハウンドは首を傾げた。
「だ、だって、これを口にした【人狼】は凶暴化するんですよね。ひ、人を襲ってしまったら、あ、あなた達は捕まってしまいますよ……」
焦るリアムにハウンドは目を丸くする。
「……君は勘違いしているね。バニシャは【人狼】に幸福をもたらす万能薬だ。狩猟本能を安定的に引き出してくれるから、狩りが下手だと、シティ育ちの【人狼】が揶揄されることもなくなるんだよ」
ハウンドはベストの懐から野草の束を取り出した。深緑色の束からはバニシャの香りがする。リアムはハンチング帽のなかで耳を逆立てた。
「このまま口にするのが、一番美味しいんだよ」
ハウンドは葉の部分をためらうことなく口に含むと、咀嚼し紅茶で流し込む。
金色と茶色が混じり合った瞳が、とろりと溶け出しそうだ。恍惚とした表情にリアムは言葉を失った。
――あ、危なくないのかな……。
ハウンドが突然、暴れ出す様子はない。それどころか動きが緩慢になっている。
「ほらね。捜査官たちから何を聞いたか知らないけど、彼らはバニシャを取り込んだ【人狼】をきちんと観察したのかな。それに君は、そんな【人狼】を自分の目で確かめたの?」
「いえ……」
すべてヴィクターの受け売りだ。しかし、嘘だと疑う根拠もなかった。
「過剰にバニシャを食べて凶暴化した同志がいた可能性はあるね。けれど、量さえ間違えなければ、俺たちに益しかもたらさない代物なんだよ」
テーブルに肘をついたハウンドは、指を組み、その上に顎を乗せた。金色の瞳は、リアムの反応を楽しんでいるようだ。
「最初の話に戻るけどね。人間たちは恐れているのさ。バニシャを使って俺たちが自分たちよりも上位の存在になってしまうことをね。……過去に犯した過ちの復讐をされるんじゃないかって怯えているんだ」
哀れだよね、とハウンドはくすくす笑った。
「過ち」
ハウンドの話の大半が理解できず、リアムは同じ言葉を繰り返す。
「人に囲まれて生きていたら真相には辿り着けないか。……百年前、大森林の【人狼】がロドルナに移り住んだのは、知っているかい?」
頷くリアムに、「その後何があったかは?」と教師然としてハウンドは言った。
「え、えっと……さ、最初【人狼】は食べ物をもらってシティで働いていたんですけど、ふ、不満があって、ロドルナに住む人間と、せ、戦争になったんでしたっけ?」
確か、食料の配分を巡って【人狼】が反乱を起こし、戦争に発展したのだとヴィクターは言っていた。ロドルナの待遇に不満を募らせた【人狼】たちの声は、ヴィクターの父たちによって沈静化された。その偉業は、ロドルナに住む者で知らない者はいない。
そうしてロドルナ警察の前身が成立する。
「じゃあなぜ【人狼】は人間と争おうとしたのかな。君の話だと、【人狼】は自らの選択で大森林からシティ・ロドルナに移住したんだよね。多少苦労していても自分たちで選んだ道だ。……誰かのせいにするほど、俺たちは地に落ちていないよ」
「そ、それはじゅ、充分な食べ物を渡してたのに、じ、人狼側がもっと寄越せって、あ、暴れ出したって……」
「君の飼い主さんはあくまで『人狼が悪』だと決めつけているようだけれど……もし、移住した【人狼】が強制的に連れてこられた者たちだったら、どうだい?」
「えっ」
どういうことだ。リアムはテーブルの下で拳を握りしめた。
「【人狼】は強い。大森林の王だ。けれど、人間は知恵が回る。特にユフラスコ人は銃器を巧みに操る民族だ。……ここまで言えばわかるかい?」
組んだ長い指に顎をのせているハウンドは笑みを絶やさない。
しかし、その瞳は笑っていなかった。
「火を吹く凶器で大森林を蹂躙したユフラスコ人は思いついたのさ。
強靭な肉体を持っていてその上、意思疎通ができる。『これはいい奴隷を見つけた』ってね」
「そんな……」
「信じる信じないは自由にしたらいいよ。俺も自分の知っていることを話すだけだからね。……彼らは俺たちの祖先に何をしたと思う? 【人狼】の子供を盾に、脅したんだよ。そして、成人した【人狼】をロドルナに連れて行き、餓死寸前の食料しか与えずに使い倒したのさ。食べ物がなければ、人を襲うに決まっているじゃないか。自分たちで蒔いた種なのに、いざ身の危険を感じたら駆逐しようとする。……愚かで浅ましいことこの上ない」
「だ、だから、人間を殺しているんですか……」
ヴィクターが【狩り】に向かうきっかけとなったのは、大森林近辺で人が連日襲われているせいだ。ハウンドは人間に復讐しているのか。
「か、過去を恨んでも、な、何も変わらないのに……」
機嫌を損ねるかと思いきや、ハウンドは鷹揚に頷いた。
「その通りだ。だから俺は復讐なんて考えていないよ」
リアムは混乱した。散々ロドルナの人々を貶しておきながら、恨んでいないとはどういうことなのか。
「わからないって顔をしているね。愚かな人間を受け入れて、俺たちは彼らと共存しようとしているだけだよ」
残ったバニシャの束を弄ぶハウンドは、嘘を言っているようにはみえない。
――人間を喰べているのに、共存って……。
「そうそう俺は君の母親を知っているよ」
「えっ」
話題が思わぬ方向に逸れ、落ち着こうとしてカップの取っ手を握った指が震える。相変わらず口許に薄い笑みを浮かべるハウンドに、リアムは戸惑うばかりだ。
――この人は一体……?
「か、母さんを知っているんですか?」
「ああ、だって同じ施設で暮らしていたからね」
「し、施設」
「ロドルナ警察曰く、俺たちは彼らに見つかると保護される。その施設さ。彼女、よく子どもの話をしていたよ。『自分と同じ黒髪で名前はリアム。どちらも珍しいでしょ?』って」
「か、母さんはまだそこに……」
「いや、もう死んでるよ」
はじめからこの男のペースに飲まれている。リアムはこの部屋に足を踏み入れる前に逃げていればよかったと後悔した。
「し、死んで……」
「保護とは名ばかりの研究施設だからね。百年前の人狼戦役からこっち、俺たちは彼らの実験動物だ。ジグザも一緒に入っていたから、母親が施設でどう過ごしていたか、様子が知りたければ彼に聞くといい」
実験。
研究。
なんだそれは。
ヴィクターからは一言も聞いたことがない。
「う、嘘だ」
「どうしてそう思うんだい? ヴィクター•ルージェンドは君に嘘はつかないのかい?」
「ヴィ、ヴィクターさんを知っているんですか?」
「……まあ、親子揃って凄腕の狩人だって言うのは人喰い狼のなかでは有名かな。できれば遭遇したくないけどね」
顎に指先を当て、首を傾けるハウンドは、言葉ほど困っていないようだ。
彼の真意は、やはり読み取れない。
「見方によれば、君は母親をロドルナに殺されたようなものだ。それでも、人間を憎まないのかい?」
「ぼ、僕は……」
考えたくない。ほうっておけば憎しみが溢れてきそうで、リアムは唇を噛み締めた。
「う、恨んでも、か、母さんは帰ってこない……」
そうだ。そもそもはリアムがいなければ、母は今でも人狼の群れで生きていたはずだ。
すべては自分のせいである。リアムに他人を恨む資格などない。
「君は、優しくて、……傲慢だね」
それでこそ、同志にふさわしいとハウンドは嬉々とした。
――僕が、なんだって?
「ご、傲慢? ぼ、僕が、ですか」
「自覚がないのかい。自分を過小評価しているように見せかけてその実、君はその価値を多大に評価しているよ」
ハウンドの言葉は難解すぎる。
「あ、あの、よくわからないんですけど、傲慢っていうのは、わ、わがままだってことであってますか?」
「そうだね。君は思い上がっている。……君のせいで母親が命を落としたわけではないよ」
「え」
「君を産んだのも、住処をロドルナに決めたのも、彼女の選択だ。君はその一要素に過ぎない。……君は自分が他者を導く神か何かだと思っているのかな?」
「……! そんなこと」
「なら君は君の選択に責任を持つだけでいい。君自身が選べる道を」
何年も抱え込んできた罪悪感を捨ててしまっていいのだろうか。
【人狼】でありながら、肉を食べることができない。
そんな出来損ないであることも、母のそばを離れてしまったことも、すべてリアムには何も落ち度がないと、開き直っていいのだろうか。
「やあ……、ずいぶん説教臭くなってしまったね。またジグザに年寄りくさいって怒られちゃうよ」
額をピシャリと叩き、ハウンドは乾いた笑いをこぼした。
「君は弱さを知っている。【人狼】こそが人間を導く存在になるためには、彼らの過ちを、脆弱さを理解できる君が必要なんだ。……彼らと寄り添える存在がね」
どう頑張ってもハウンドの言っていることの大半は理解できない。リアムは窓から街の様子を窺い、追手の気配がないことを確認し、立ち上がった。
ヴィクターはやはり【人狼狩り】を優先したのだ。安堵すべきだが、落胆してもいる。リアムは自身の身勝手さに嫌気が差した。
「す、すみません……。匿って頂いてありがとうございます。でも、もう……」
「長々と申し訳ない。……ロドルナから出たいのであれば、手助けするよ」
「い、いえ……」
「行くあてはあるのかい?」
柔らかい物言いだが、間髪入れずハウンドはリアムの先手を打ってくる。
――悪い人ではないんだろうけど……。
「……帰る場所がないなら、しばらくはこのあたりの廃屋に隠れているといい。俺の知人だと知って、襲ってくるものはいないよ」
ハウンドはリアムの背に手のひらを添え、前かがみになってリアムの顔を覗き込んだ。眼鏡の縁に金色の髪が一房かかり、ハウンドの目元が見えなくなる。リアムは余計に不気味さを感じた。
「ちょうどいい休憩場所があるから、案内しよう。……俺が何を求めているか、考えてくれると嬉しいな」
隣に並ぶ青年は、終始穏やかだ。けれどその身に纏う血の臭いは消しきれていない。
――この人はたくさん人間を食べているんだな。
人喰い狼にとって、人を襲うことはただ生きるための食事に過ぎない。
決して相容れることのない二者が分かり合える日なんて来るのだろうか。
――その活動に僕が、役に立てたとしたら……。
リアムは上の空で、螺旋階段へと歩を進めた。
泥濘んだ廊下を抜けると、眩しくもない陽光でも目に染みる。
午後も遅くなりかけた気だるい日差しのなかへ戻り、リアムは額に手をかざした。
「……どうやら計算違いをしたみたいだ」
耳を真っ直ぐに立てたハウンドを、リアムは振り返り、訝しんでいると、
「リアム!」
聞き慣れた、けれども今は聞きたくない深みのある声が狭い路地に響いた。
綺麗に磨かれたガラス越し、飾り窓からは扇状に広がったロドルナを一望できる。ヴィクターのアパルトマンにも引けをとらない佇まいだ。
階下の荒れ具合が嘘のように洗練された部屋に、リアムは薄気味悪さを感じた。
窓のそばに設置された重厚なテーブルセットや、食器棚に収められた茶器類も裏路地街にあれば、一瞬で掻っ攫われてしまうのに。
――このあたりの人たちは知ってるんだ。この人に逆らっちゃいけないって……。
「そんなに固くならないでよ。……温かいうちにどうぞ」
ふわりとやわらかい湯気を立てる紅茶に早朝から張りつめていた気持ちがほぐれるかと思いきや、ここ最近嗅ぎ慣れた甘ったるい香りがカップからただよい、リアムはカップに伸ばした手をピタリと止める。
「あの、これって……」
「報告通り、いい鼻を持ってるね。ますます君と仲良くなりたいな」
ハウンドは頬杖をついて柔らかく笑った。
『いいかい、リアム。よく笑うやつには気をつけな。本心を隠すのには笑うのが一番手っ取り早いからね。誤魔化したいやつほど、笑顔を絶やさないものさ』
たちの悪い客に何度も泣かされるリアムに、ジャズは呆れながら言い聞かせた。そういった輩に遭遇すれば、即、逃げるよう忠告を受けている。
それが正しい判断なのだろう。頭では分かっていてもリアムは自然と疑問を口にしていた。
「ど、どうして、バ、バニシャを街にバラ撒こうとするんですか?」
何を聞かれたか判らないという風に、ハウンドは首を傾げた。
「だ、だって、これを口にした【人狼】は凶暴化するんですよね。ひ、人を襲ってしまったら、あ、あなた達は捕まってしまいますよ……」
焦るリアムにハウンドは目を丸くする。
「……君は勘違いしているね。バニシャは【人狼】に幸福をもたらす万能薬だ。狩猟本能を安定的に引き出してくれるから、狩りが下手だと、シティ育ちの【人狼】が揶揄されることもなくなるんだよ」
ハウンドはベストの懐から野草の束を取り出した。深緑色の束からはバニシャの香りがする。リアムはハンチング帽のなかで耳を逆立てた。
「このまま口にするのが、一番美味しいんだよ」
ハウンドは葉の部分をためらうことなく口に含むと、咀嚼し紅茶で流し込む。
金色と茶色が混じり合った瞳が、とろりと溶け出しそうだ。恍惚とした表情にリアムは言葉を失った。
――あ、危なくないのかな……。
ハウンドが突然、暴れ出す様子はない。それどころか動きが緩慢になっている。
「ほらね。捜査官たちから何を聞いたか知らないけど、彼らはバニシャを取り込んだ【人狼】をきちんと観察したのかな。それに君は、そんな【人狼】を自分の目で確かめたの?」
「いえ……」
すべてヴィクターの受け売りだ。しかし、嘘だと疑う根拠もなかった。
「過剰にバニシャを食べて凶暴化した同志がいた可能性はあるね。けれど、量さえ間違えなければ、俺たちに益しかもたらさない代物なんだよ」
テーブルに肘をついたハウンドは、指を組み、その上に顎を乗せた。金色の瞳は、リアムの反応を楽しんでいるようだ。
「最初の話に戻るけどね。人間たちは恐れているのさ。バニシャを使って俺たちが自分たちよりも上位の存在になってしまうことをね。……過去に犯した過ちの復讐をされるんじゃないかって怯えているんだ」
哀れだよね、とハウンドはくすくす笑った。
「過ち」
ハウンドの話の大半が理解できず、リアムは同じ言葉を繰り返す。
「人に囲まれて生きていたら真相には辿り着けないか。……百年前、大森林の【人狼】がロドルナに移り住んだのは、知っているかい?」
頷くリアムに、「その後何があったかは?」と教師然としてハウンドは言った。
「え、えっと……さ、最初【人狼】は食べ物をもらってシティで働いていたんですけど、ふ、不満があって、ロドルナに住む人間と、せ、戦争になったんでしたっけ?」
確か、食料の配分を巡って【人狼】が反乱を起こし、戦争に発展したのだとヴィクターは言っていた。ロドルナの待遇に不満を募らせた【人狼】たちの声は、ヴィクターの父たちによって沈静化された。その偉業は、ロドルナに住む者で知らない者はいない。
そうしてロドルナ警察の前身が成立する。
「じゃあなぜ【人狼】は人間と争おうとしたのかな。君の話だと、【人狼】は自らの選択で大森林からシティ・ロドルナに移住したんだよね。多少苦労していても自分たちで選んだ道だ。……誰かのせいにするほど、俺たちは地に落ちていないよ」
「そ、それはじゅ、充分な食べ物を渡してたのに、じ、人狼側がもっと寄越せって、あ、暴れ出したって……」
「君の飼い主さんはあくまで『人狼が悪』だと決めつけているようだけれど……もし、移住した【人狼】が強制的に連れてこられた者たちだったら、どうだい?」
「えっ」
どういうことだ。リアムはテーブルの下で拳を握りしめた。
「【人狼】は強い。大森林の王だ。けれど、人間は知恵が回る。特にユフラスコ人は銃器を巧みに操る民族だ。……ここまで言えばわかるかい?」
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しかし、その瞳は笑っていなかった。
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強靭な肉体を持っていてその上、意思疎通ができる。『これはいい奴隷を見つけた』ってね」
「そんな……」
「信じる信じないは自由にしたらいいよ。俺も自分の知っていることを話すだけだからね。……彼らは俺たちの祖先に何をしたと思う? 【人狼】の子供を盾に、脅したんだよ。そして、成人した【人狼】をロドルナに連れて行き、餓死寸前の食料しか与えずに使い倒したのさ。食べ物がなければ、人を襲うに決まっているじゃないか。自分たちで蒔いた種なのに、いざ身の危険を感じたら駆逐しようとする。……愚かで浅ましいことこの上ない」
「だ、だから、人間を殺しているんですか……」
ヴィクターが【狩り】に向かうきっかけとなったのは、大森林近辺で人が連日襲われているせいだ。ハウンドは人間に復讐しているのか。
「か、過去を恨んでも、な、何も変わらないのに……」
機嫌を損ねるかと思いきや、ハウンドは鷹揚に頷いた。
「その通りだ。だから俺は復讐なんて考えていないよ」
リアムは混乱した。散々ロドルナの人々を貶しておきながら、恨んでいないとはどういうことなのか。
「わからないって顔をしているね。愚かな人間を受け入れて、俺たちは彼らと共存しようとしているだけだよ」
残ったバニシャの束を弄ぶハウンドは、嘘を言っているようにはみえない。
――人間を喰べているのに、共存って……。
「そうそう俺は君の母親を知っているよ」
「えっ」
話題が思わぬ方向に逸れ、落ち着こうとしてカップの取っ手を握った指が震える。相変わらず口許に薄い笑みを浮かべるハウンドに、リアムは戸惑うばかりだ。
――この人は一体……?
「か、母さんを知っているんですか?」
「ああ、だって同じ施設で暮らしていたからね」
「し、施設」
「ロドルナ警察曰く、俺たちは彼らに見つかると保護される。その施設さ。彼女、よく子どもの話をしていたよ。『自分と同じ黒髪で名前はリアム。どちらも珍しいでしょ?』って」
「か、母さんはまだそこに……」
「いや、もう死んでるよ」
はじめからこの男のペースに飲まれている。リアムはこの部屋に足を踏み入れる前に逃げていればよかったと後悔した。
「し、死んで……」
「保護とは名ばかりの研究施設だからね。百年前の人狼戦役からこっち、俺たちは彼らの実験動物だ。ジグザも一緒に入っていたから、母親が施設でどう過ごしていたか、様子が知りたければ彼に聞くといい」
実験。
研究。
なんだそれは。
ヴィクターからは一言も聞いたことがない。
「う、嘘だ」
「どうしてそう思うんだい? ヴィクター•ルージェンドは君に嘘はつかないのかい?」
「ヴィ、ヴィクターさんを知っているんですか?」
「……まあ、親子揃って凄腕の狩人だって言うのは人喰い狼のなかでは有名かな。できれば遭遇したくないけどね」
顎に指先を当て、首を傾けるハウンドは、言葉ほど困っていないようだ。
彼の真意は、やはり読み取れない。
「見方によれば、君は母親をロドルナに殺されたようなものだ。それでも、人間を憎まないのかい?」
「ぼ、僕は……」
考えたくない。ほうっておけば憎しみが溢れてきそうで、リアムは唇を噛み締めた。
「う、恨んでも、か、母さんは帰ってこない……」
そうだ。そもそもはリアムがいなければ、母は今でも人狼の群れで生きていたはずだ。
すべては自分のせいである。リアムに他人を恨む資格などない。
「君は、優しくて、……傲慢だね」
それでこそ、同志にふさわしいとハウンドは嬉々とした。
――僕が、なんだって?
「ご、傲慢? ぼ、僕が、ですか」
「自覚がないのかい。自分を過小評価しているように見せかけてその実、君はその価値を多大に評価しているよ」
ハウンドの言葉は難解すぎる。
「あ、あの、よくわからないんですけど、傲慢っていうのは、わ、わがままだってことであってますか?」
「そうだね。君は思い上がっている。……君のせいで母親が命を落としたわけではないよ」
「え」
「君を産んだのも、住処をロドルナに決めたのも、彼女の選択だ。君はその一要素に過ぎない。……君は自分が他者を導く神か何かだと思っているのかな?」
「……! そんなこと」
「なら君は君の選択に責任を持つだけでいい。君自身が選べる道を」
何年も抱え込んできた罪悪感を捨ててしまっていいのだろうか。
【人狼】でありながら、肉を食べることができない。
そんな出来損ないであることも、母のそばを離れてしまったことも、すべてリアムには何も落ち度がないと、開き直っていいのだろうか。
「やあ……、ずいぶん説教臭くなってしまったね。またジグザに年寄りくさいって怒られちゃうよ」
額をピシャリと叩き、ハウンドは乾いた笑いをこぼした。
「君は弱さを知っている。【人狼】こそが人間を導く存在になるためには、彼らの過ちを、脆弱さを理解できる君が必要なんだ。……彼らと寄り添える存在がね」
どう頑張ってもハウンドの言っていることの大半は理解できない。リアムは窓から街の様子を窺い、追手の気配がないことを確認し、立ち上がった。
ヴィクターはやはり【人狼狩り】を優先したのだ。安堵すべきだが、落胆してもいる。リアムは自身の身勝手さに嫌気が差した。
「す、すみません……。匿って頂いてありがとうございます。でも、もう……」
「長々と申し訳ない。……ロドルナから出たいのであれば、手助けするよ」
「い、いえ……」
「行くあてはあるのかい?」
柔らかい物言いだが、間髪入れずハウンドはリアムの先手を打ってくる。
――悪い人ではないんだろうけど……。
「……帰る場所がないなら、しばらくはこのあたりの廃屋に隠れているといい。俺の知人だと知って、襲ってくるものはいないよ」
ハウンドはリアムの背に手のひらを添え、前かがみになってリアムの顔を覗き込んだ。眼鏡の縁に金色の髪が一房かかり、ハウンドの目元が見えなくなる。リアムは余計に不気味さを感じた。
「ちょうどいい休憩場所があるから、案内しよう。……俺が何を求めているか、考えてくれると嬉しいな」
隣に並ぶ青年は、終始穏やかだ。けれどその身に纏う血の臭いは消しきれていない。
――この人はたくさん人間を食べているんだな。
人喰い狼にとって、人を襲うことはただ生きるための食事に過ぎない。
決して相容れることのない二者が分かり合える日なんて来るのだろうか。
――その活動に僕が、役に立てたとしたら……。
リアムは上の空で、螺旋階段へと歩を進めた。
泥濘んだ廊下を抜けると、眩しくもない陽光でも目に染みる。
午後も遅くなりかけた気だるい日差しのなかへ戻り、リアムは額に手をかざした。
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