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第三章 王城での一月

弟王子の決意

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 夜の城内。
 硬質な靴音を響かせながら堅牢な石造りの通路を歩く人影は、全部で四つ。
 ランタンを手に先頭を歩くのは、兄の騎士の一人であるイーリス。彼女に続くのはその兄、キリアン。その後ろを、エイナーは裾を引きずるほどの大きな暗色のローブを纏って続き、最後尾を、外套を羽織り腰に剣を佩いたラーシュが歩く。
 エイナーを含め、全員、一様にその表情は硬い。

 建物の地下、見張りが立つ木製の頑丈な扉の前で、一行は一旦足を止めた。降り続く雨の所為か、いつも以上に夜の湿った空気が肌に纏わり付く。これから行うことを思い、尻込みしそうになる気持ちを奮い立たせるように、エイナーはローブの中で両手をぎゅっと握り締めた。
 胸の奥に大切な友人の顔を思い浮かべ、自分が彼女に対して宣言した言葉を繰り返す。自分が兄の役に立てる人間になる為に、頑張るのだと。

 兄の姿を認めて扉の鍵を開けようとする見張りに対し、兄は一旦、制止を掛けた。そして、エイナーへと向き合い、片膝を付いて顔を見上げる。

「……本当に、いいんだな?」

 この場に来るまでにも兄とはたくさん話し、互いに納得の上で今ここにいるけれど、最後の最後に兄が改めてエイナーの意志を確認してくる。だから、エイナーは決意を込めて一度口を引き結び、はっきりと頷いた。

「はい。決めたんです。僕が、僕自身で」

 エイナーは、自分がクルードから授かった力に一つの可能性を見たのだ。
 幼い頃は力の制御ができずに、向けられる視線全ての感情を視てしまっていた。ようやく制御することを覚えても、自分に授かった力は、ただ向けられる視線に宿る感情を視るだけのものだと思っていた。けれど、どうやらもっと、使えるかもしれないのだ。
 その切っ掛けは、先日の祈願祭。ミリアムと共に、強い憎悪のこもった視線を向けられた時だった。

 この力は、視線を向けた相手をエイナーにはっきりと視認させてくれる。感覚としては、向けられた感情の出所へと、向けられた視線の軌跡を辿っていくのに近い。相手がどれほどの人混みの中にいても、どれだけ距離があっても、たとえ一瞬でその視線を逸らしたのだとしても、エイナーにはそれら遮蔽物も距離も時間も無にして、目の前に感情を視た人間の姿を捉えることができるのだ。
 あの祭りの時も、そうだった。あまりに強烈な憎悪に驚きはしたけれど、あの誘拐された日、荷馬車が崖から落ちた時に一人馬に乗ってあの場を逃走した男の姿が、目の前にはっきりと視えた。
 普段であれば、それで終わる筈だった。ところがその時、エイナーの方がその男の、あまりに強い感情の宿る視線に吸い寄せられたのだ。そして、その両の瞳の奥に、視た。

 ――男の、記憶を。

 断片的にエイナーの中へと流れ込んできた男の記憶は、エイナーとミリアムの姿を見たことで呼び起こされたものらしく、その殆どがあの日の出来事で埋め尽くされていた。
 ただ、いくつかはあの場から一人逃げた男のその後、男だけが経験し、記憶した出来事だった。
 逃げた男は、どうやら彼のことを遠方から監視していたと言う、彼に荷運びを依頼した者に捕まり連れ去られ、どこかの立派な屋敷で依頼人の依頼人と顔を合わせていた。その相手も更に別の誰かに依頼を受けたらしく、その受けた依頼により、男は身包みを剥がされ地下の一室に監禁された。
 その間、男が考えていたことは、ミリアムやエイナー、騎士達への尽きることのない怒り、恨み、憎しみ、そして、捕らえられた妻のこと――

 あの時エイナーが咄嗟にできたのは、これらの記憶をミリアムには絶対に見せないよう、自分の力を制御することだけだった。感覚だけで、男の記憶を自分の中だけに必死に留める。
 そうする内、男達が去って記憶の奔流が止まり、エイナーは力の行使を止めた。ただ、あまりにも制御だけに必死になってしまった所為で、その間に流れ込んできた男の記憶は、実のところあまりよく覚えていない。
 加えて、この時はあの誘拐の日にまつわる記憶と男の体験した記憶の断片が、エイナーに流れ込むまま視ることしかできなかった。すっかり、クルードから与えられた力に翻弄されてしまったのだ。

 だから、エイナーは男の死体が上がったと聞いた時に、兄に申し出たのだ。これから向かう場所にいる者を相手に、この力を試させてほしいと。
 今度はエイナーの意志で、流されることなく、力に翻弄されることなく、相手の記憶をしっかりと視ることができるかもしれない。いや、視てみせると。

「分かった。だが、決して無茶だけはしないと誓ってくれ」

 エイナーの揺るがない決意に、兄がほんのわずか寂しそうに笑む。
 けれどそれも一瞬で、すぐに逸らすことを許さない強い意志が、エイナーに誓いを立てさせるべく、硬い声を発した。

「はい、兄上。絶対に無茶はしません」

 少しの無理は覚悟の上だけれど、無茶をして、兄や父を心配させたくはない。何より、無茶をしてまで兄の役に立つことを、ミリアムは決して喜ばないだろう。
 真っ直ぐに誓えば、兄は納得したように頷き、立ち上がった。その背を見ながら、エイナーはローブの大きなフードを目深に被り、自分の姿をすっぽりと覆い隠す。
 今回は、エイナーの姿が相手に見えては、視たいものが視られない可能性がある。エイナーの存在を極力消し、兄の目を借りて、兄へ向けられた感情から相手の記憶を視るのだ。

 蝶番の軋む音と共に扉が開かれ、現れた短い階段を、やはりイーリスの先導で下る。
 反響する靴音に鎖の擦れる硬質な音が微かに混じるそこは、片面に鉄格子の嵌められた地下牢。死を待つ罪人の為の最後の部屋だ。
 これまでの人生で関わりのなかった空間へ初めて足を踏み入れた緊張に、エイナーは強い喉の渇きを覚えた。握り込んだ両手にはじわりと手汗が滲み、腹の底がぞわりとする。
 けれど、不思議と恐怖はない。それは目の前に兄がいるからか、自分の強い決意が恐怖を凌駕させているからか。
 フードの奥でしっかりと前を見据え、一つ息を吸う。閉鎖空間独特のこもった空気が、エイナーの歩む足を自然と慎重にさせた。

 いくつもの小部屋に仕切られた牢の、最奥。鉄格子の向かいの壁に、芯を油に浸しただけの小さな明かりが灯るそこに向かって、歩を進める。微かに漂う排泄物の饐えた臭いが、確かにそこに罪人がまだ生きて存在していることを示していた。
 最奥へと辿り着いた時、鉄格子の奥の暗がりから、兄の足元へと何かが投げつけられた。瞬時にイーリスとラーシュが兄とエイナーを庇うように身構えたけれど、兄はそれを手を挙げて制し、靴先に当たったものを一瞥する。
 エイナーもフードの隙間から見たそれは、からからに乾いた肉片が所々にこびり付いた、小さな鶏の骨だった。芽吹きの祈願祭当日に、特別に罪人に対しても振る舞われたと聞いた、肉料理の慣れの果てだろう。

「……随分と元気そうだ」
「はんっ。元気なもんかね。久々に肉が食えたと思ったら、大勢でのお越しとは……。言っとくけどね! あれっぽっちの肉を食わせたくらいであたしが何か喋るとでも思ったら、大間違いだよ! とっとと失せて、弟のでも替えてな、王子様!」

 品のない濁声が、地下牢中に響き渡る。ランタンの明かりに照らされた牢内に捕らえられているのは、あの日、荷馬車でエイナーとミリアムを運んでいた二人の内の一人。ジェナと言う名の女性。
 捕らえた当初は随分とふくよかだった体も、この数か月の間にすっかりその体積を減らして、一目見ただけでは同一人物かと疑う有様だ。ただ、獰猛な光を宿す瞳は一度も陰ることなく敵意を剥き出しにして、そこだけはあの日の記憶のまま、全く変わらない。むしろ、痩せたことでその眼光の鋭さは、逆に増しているようにも見えた。

 エイナーが捕らえられたジェナのその後を兄から聞かされたのは、ちょうど、ミリアムを正式に客人として迎え入れたその日。エイナーを誘拐した者について初めて兄から詳細に聞かされ、これからのことについてを教えられた中でのことだった。
 たいした情報を持たないだろうジェナを長く生かしておく利点はないけれど、逃げた男のこともあり、念の為に祈願祭までは地下牢に繋いでおくことにした、と。
 誰もが、生かすだけ無駄だと考えていただろう。エイナーでさえ、ミリアムの為にも早々にその命で罪を償わせるべきだと考えたほどだ。それがまさか、意外な形でこれから大いに役立つことになるとは、誰が予想しただろうか。

 囚われていると言うのに全くもってふてぶてしい態度のジェナを見て、エイナーもまた、兄から話を聞いた祈願祭翌日のミリアム同様に、少しだけこの犯罪者に感謝をした。

「ここまで生きがいいとは……慈悲が過ぎたか?」

 普段聞き慣れない、威圧感のある冷淡な兄の声が、地下牢に響く。
 それは、これまで極力エイナーの前では見せないようにしていた、この国の第一王子としての非情な一面だった。それを、兄がエイナーのいる前で、初めて堂々と晒している。
 その事実を目にして、ジェナから兄へと意識を戻したエイナーの内に、場違いに嬉しさが込み上げた。
 これは、兄がエイナーを、過度な庇護の必要のない、同じ王子と言う立場にある者としてきちんと認めてくれている証だ。同時に、そんな姿を見せてもいいと、エイナーが兄に信頼されている証でもある。

 エイナーが誘拐を経ても変われず引きこもったままでいたならば、きっと兄はこんな姿を自分に見せてくれることはなかっただろう。そう思うと、こんな時だと言うのにエイナーは頬が緩みかけてしまった。
 けれど、はっ、と相手を小馬鹿にした笑いが鉄格子の向こうから漏れて、エイナーは慌てて気を引き締めた。今は、兄からの信頼に喜んでいる場合ではない。

「慈悲? あの、豚の餌以下の屑飯が慈悲だって? 笑わせんじゃないよ! こっちが、どんな思いで生き恥晒してると思ってんだい、このくそったれが! 殺すならさっさと殺しゃあいいだろうに! 澄ました顔でこっちを見下しやがって! このクソ王子が!」

 すっかり痩せてしまった体のどこにそんな力があるのか、ジェナは勢いよく鉄格子に駆け寄り、格子の隙間から兄へ向かって腕を突き出そうとしてくる。けれど、それらは実現する前に、壁に打ち付けられ足枷に繋がれた短い鎖によって阻まれて、耳障りな鎖の不協和音と共に、牢の中ほどでその進行を止めていた。
 ジェナは悔しそうに顔を歪め、せめてとばかりに兄の足元目掛けて唾を吐きかける。濁った黄色の痰が、鉄格子に当たって濡れた音を立てた。

「生き恥か。ならば、貴様が死にたくなるよう、慈悲をくれてやろうか?」
「ふんっ。やっと最後の晩餐でも用意してくれるってのかい? だったら、鶏の丸焼きを出してもらいたいね! あたしゃ、あれから鶏が食いたくって仕方ないのさ! 勿論、あの汚い娘みたいな痩せこけた鶏じゃなく、でっぷり丸々太った奴をね!」

 兄が脇に控えていたラーシュに合図し、哄笑を響かせるジェナに向かって、ある物を投げ入れさせる。
 それは、ラーシュが雨除けの外套の下にずっと携えていたもの。そして麻袋に入ったそれは、何の偶然か、丁度ジェナが口にした鶏の丸焼きと同じほどの大きさがあった。
 中身が何かを知るエイナーは、一瞬震えそうになった体を、拳を握ることで留める。
 四人が無言で見る前で、開いた扉から重たい音を立てて手元まで転がった麻袋を、ジェナが訝しみながら手に取った。

「はっ! まさか、本当に鶏の丸焼きなんて言うんじゃないだろうね!」
「……開けてみれば分かる」

 ジェナが麻袋へ視線を落とすと同時、兄の背後に立っていたエイナーの前に、兄の片手が差し出された。その手をエイナーはしっかりと握り、フードの奥の瞳を閉じて自分の内にある力へと集中する。
 短い時間ではあったけれど、兄やラーシュを含め、信頼している何人かに頼んで、この力の行使の訓練に付き合ってもらった。その中で見つけた、新たな使い方。

 エイナーは、ゆっくりと己の意識の中にある「眼」を開いた。そうすれば、自分の目で見ていたのとはやや異なる感覚で、薄ぼんやりと兄の背中が見えてくる。次に、その「眼」の意識を繋いだ手から兄へと移し、兄の視界に自分の「眼」を重ねる。そうすれば、エイナーには兄と同じものが見えた。

 今の自分よりも、ずっと高い視点。すっかり見下ろす位置にあるジェナの、麻袋の中を漁る姿。
 兄が瞬き、ジェナの口から「あ?」と間の抜けた音が零れるのとが同時だった。
 ぱさりと麻袋が床に落ち、ジェナの手にした中身が露わになる。牢の中へと届くランタンの明かりが、それをはっきりジェナに見せていた。

「あ……あぁ……ああああああああ!!」

 地下牢に、絶叫が響き渡る。
 ジェナの指に絡まるのは、濡れて乱れたジェナとは違う色の髪。収まるべきものが失せ、ぽっかりと空洞が覗く二つの眼窩、折れた鼻、腫れた唇――すっかり変わり果てた人の頭部が、ジェナの手の中にあった。

「バ……バルテ! バルテェエエエエエエ!!」

 ジェナの限界まで見開いた目が、それまで以上の鋭さと怨嗟を持って兄を睨め付ける。

「くそったれがぁあああああ!! 殺してやる! 殺してやるっ! 絶対、殺してやるからなっ!! 貴様もあのガキもあの娘も、あの時あの場にいた騎士連中も! あたしらの仕事の邪魔をしくさりやがった奴ら全員! その首へし折って目玉をくり抜いて晒してやる!」

 手枷の鎖を引き千切らん勢いで兄へと手を伸ばし、あらん限りの大声で叫びながら、いきり立ったジェナが手にしたバルテだったものの生首を、鉄格子に向かって勢い任せに投げつけた。
 鈍い音を立てて床に落ちた生首は、ごろごろと転がることなく首の断面をこちらに晒した状態で静止する。それを一瞥したのち、兄は鼻息荒く息をつくジェナを見下ろした。

「勘違いしてもらっては困る。慈悲だと言っただろう」
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