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第三章 王城での一月

弟王子の騎士

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 ようやく落ち着いてきた頭が私に先ほどの出来事を正確に理解させ、私は遅まきながら、ライサに対する怒りが胸の内に湧くのを感じた。
 だって、私の視界が遮られてしまうほどにスカートが捲られて、あの場にいた人達に見られていない筈がないのだ。あんな言い合いの直後の出来事だって、ライサの言葉だって、あの声量だ。どれだけの人が見聞きしていたかなんて、考えたくもない。
 いくら散々な扱いを受けた人生を送って来たとは言え、私だって女なのだ。人並みに恥じらう気持ちくらい、持ち合わせている。たとえ、他の人から見れば恥じらう必要のないような貧相な体だったとしても、衆目の前であんなことをされて平気でいられるわけがない。こんなことなら合同訓練なんて見に来なければよかったと、そんな気持ちさえ湧き出てしまう。
 手元に落ちていた視線の焦点を結んだ私は、すっかり地面に座り込んでしまっている自分に気付いてふらつきながら立ち上がり、私に心配そうに寄り添ってくれていたエイナーに、にこりと微笑んだ。

「ミリアム、大丈夫? ごめんね。……ごめんなさい。僕がライサの暴走を止められなかったから、ミリアムにあんなこと……」
「エイナー様は優しいですね。でも、エイナー様が謝罪することではありませんよね?」

 ライサがしでかしたことを、何故だかエイナーがまるで自分の責任のように言うのが無性に腹立たしくて、言葉に棘が生えてしまった。
 途端にエイナーが落ち着きをなくして、私の手を握ってくる。

「……怒ってる?」
「どうしてエイナー様に怒るんです?」
「怒ってるよね、ミリアム」
「ですから、エイナー様には怒っていませんよ」

 私が怒っているのは、あくまでライサに対してだ。エイナーがライサに代わって謝罪してくることに対しては少しばかり苛立つ気持ちはあるけれど、エイナーだってライサの暴走に巻き込まれた側で、私に対しては何一つ謝罪する責任はない。
 なおもエイナーが私に対して謝罪の言葉を口にする気配を感じた時、いくつかの足音がこちらへやって来た。

 現れたのは、騎士団長やレナート達を引き連れたキリアン。そして、いつの間にこの場から逃走していたのか、女性騎士に連行されるように引っ張られている、しょぼくれたライサだった。流石の彼女も自分よりも上の立場の人達に囲まれて、居心地が悪そうに身を縮めている。
 その姿に、私はほんの少しばかり溜飲が下がるのを感じて、息を吐いた。そう言う姿くらい見なければ、こちらの怒りもそう簡単には収まらない。

「ラーシュ達から話は聞いた。……災難だったな、ミリアム」

 いつの間にか見物人が失せ、誰もが手を止めて静まった修練場に、キリアンの声だけが通る。その空気は私に声を発することを躊躇させ、軽い目礼でキリアンの言葉に返事をすれば、ほんの一瞬、キリアンの目元が和らいだ。
 けれど、次の瞬間には厳しさを取り戻し、その紅の瞳は私から逸れてエイナーを捉えていた。口を引き結び、いつになく目元に力を込めたエイナーもまた、そんなキリアンの視線を真正面から受け止めている。
 その姿はこれまで私がよく目にしてきた「キリアンの弟」でも「可愛い第二王子」でもなく、キリアン同様、王子と言う責任ある立場にいる者としての覚悟を持ったもので、私は思わず目を瞠ってしまった。私がエイナーのそんな姿を見たのは、初めてだったから。

「エイナー。分かっていると思うが、これはお前の失態だ。お陰で訓練が中断されてしまった。お前は、彼らの貴重な時間を無駄にしたんだ」
「……分かっています」

 キリアンから瞳を逸らさずにエイナーが答えれば、それをすぐそばで聞いていたライサが初めて顔を青くする。自分の引き起こした騒動がまさかエイナーの失態になるとは思っていなかったことが、その表情からはありありと見て取れた。
 そして私も、驚きを表に出さないように努めなければならなかった。

 確かに、ライサにはもう少し礼節を学ばせる必要はあるのだろう。彼女の言動は、子供だからと言うには流石に不躾に過ぎるのだから。けれど、彼女に学ばせるものはあくまで騎士として必要な範囲でも十分な筈なのだ。一介の騎士として、この先を生きていくのならば。
 それなのにライサは、私に対してわざわざ騎士としては必要のない淑女の礼をしてみせた。ハラルドから学んでいるものの一つとして。いつか彼女が、衆目の前でそうやって膝を折る日が来ると言わんばかりに。
 彼女がそんなことをする理由。そして、第二王子の護衛を担う騎士隊に所属していないライサの行いが、エイナーの評価に繋がる理由。エイナーが、殊更自分の責任であるかのように私に謝罪した理由。これまでになく、エイナーが「王子」であろうと彼自身を律している理由。そして、他人事とは言え心配になるとオーレンが呟いた理由――

 私はキリアンの後ろに控えているレナートへ、確かめるように視線を送った。「そう言う」ことなのかと。私の視線にすぐさま気付いてくれたレナートは、ほんの微かに顎を引く。
 それだけで、私には十分だった。
 ライサは、エイナーの騎士候補――そのことに、驚きとも喜びともつかない感情が、私の中を駆け抜けた。そして、今の状況がどれだけエイナーとライサの二人にとって厳しいことなのかも、同時に私に知らしめる。

「――そうか。ならば、私は何も言わない。お前がきちんと始末をつけろ」

 キリアンの一言を合図に、女性騎士の手がライサをエイナーの目の前へと押し出した。一人ぽつんとその場に立たされたライサは途端に心細げに眉を下げ、エイナー様、と縋るように口にする。
 そんな彼女の名を、エイナーが呼んだ。

「ライサ」

 そのたった一言がライサの背筋を伸ばさせ、その場の空気を支配する。ライサよりもずっと背の低い筈の小さなエイナーの存在が、とてつもなく大きなものとなって私の目に映る。

「僕が君を御しきれなかったことを、君の所為にするつもりはないよ。全ては僕の至らなさが招いたことだもの。だから、君がそんな顔をする必要はないんだ」

 ライサの瞳が零れんばかりに見開かれ、ますます顔が青褪めていく。
 もうライサは必要ない――そう言っているとも取れるエイナーの冷たい声は、ライサの頼みを聞いてしまった私自身にも鋭く刺さるものだった。けれど、恐らくエイナーは、それすらも私の言葉に甘えてしまった自分が悪かったと言うのだろう。多くの者の上に立つと言うのは、そう言うことなのだと。
 それが分かるから、私も自分の行動を猛省する。
 ただ見物に来ただけならば、私はオーレンとあんなに言葉を交わすべきではなかった。ラーシュはそれを分かっていたから、ただ私に微笑みかけるだけで去って行ったのだ。そして私は、ライサの要望を聞くのではなくエイナーの咎める言葉にこそ賛意を示すべきで、その私の過ちがライサのとんでもない行動を許したのだとしたら、自業自得。私がライサに対して怒りを抱くなんて、筋違いだ。
 私にも、王城に滞在する者だからと言う思い上がりがあったのだろう。その愚かな考えが今、エイナーとライサの評価を落とす一端を担ってしまっていることに忸怩たる思いを抱く。

 そう。今回の騒動は、少なからずライサとエイナーの評価を落とした。特に、ライサの。共にまだ子供とは言え、それで大目に見てもらえるほど現実は甘くない。
 たとえ、アルグライスほど身分に厳しい国でなくとも、エイナーは王族だ。第二王子であっても、いずれ国を背負う者の一人であることには変わりない。彼を評価する目は、その成長と共に自然と厳しくなるものである。
 一方、ライサは三年後には成人を迎える。そうなれば、エイナーの騎士を希望する彼女には、大人と言う立場からもエイナーを支え、守ることが求められることになる。けれど、その時にも今のままのようでは、到底エイナーの騎士として認められやしない。エイナー以上にライサには、彼の騎士として認められるまでの時間が限られているのだ。
 そのことを、ライサは自覚しなければいけない。

「ライサ。君は、自分があまりにも恵まれているから望めば手に入ると思っているのかもしれないけれど、君が望むものは、ただ望むだけで手に入るものではないんだよ。そのことを君はきちんと理解する必要があるし、理解できなければ、僕は他の者を選ぶ」
「そんなっ!」

 堪らず声を上げるライサの気持ちが、私には痛いほどよく分かった。それでも、私は彼女に同情はできない。エイナーもまた、同情する気はないのだろう。一見穏やかに見えるエイナーの表情だけれど、いつもは温かな感情に溢れる夕日色の瞳は、その暖色にも拘らず、今は酷く冷え切っていた。
 私は静かに、口を引き結ぶライサを窺う。

 ライサはたまたま才能に恵まれて、たまたま手合わせをした騎士を倒せて、たまたま騎士に気に入られて、その結果、たまたま運よく騎士団に入団することができた。その幸運の元で祈願祭に出場するまでに力の面で成長できているのは、ライサの努力の一つの結果だ。それは、誇っていい。
 けれど、ライサにはそれ以上に足りないものがありすぎる。その不足分を十分にライサに学ばせられなかったのは、騎士団全体にも責のあることではある。それでも、ライサ自身が学ぼうとすれば、少なからず変われた筈なのだ。五年もの時間があっていまだに騎士の自覚が薄いのは、ライサ自身が学ぶことを疎かにしてきたからに他ならない。

「騎士団には、君以上に優秀な騎士は多くいるんだもの。わざわざ、取り立てて優秀でもないたかが騎士一人の我が儘を聞く必要は僕にはないし、そもそも、王子である僕にそんなことは許されないんだ。僕には、僕のことを剣で守る以上に、僕をこの国の王子足らしめてくれる、そんな騎士が必要なんだよ。……分かるかな?」

 エイナーは、声を荒らげることもなく淡々と言葉を紡ぐ。それは、ともすれば幼子に言い聞かせるように優しい口調ではあったけれど、吐き出される言葉はどれも辛辣だ。
 けれど、それはエイナーのライサへの信頼の裏返しでもある。そのことを、ライサは気付いているだろうか……いや、すっかり顔色を蒼白に転じさせてしまったライサは、そのことに全く気付けていないだろう。気付く余裕もないかもしれない。
 それでも、エイナーは変わらぬ態度のまま、ライサに語り続ける。容赦のない言葉を浴びせ続ける。ライサに、彼女が望むものがどれほど大きなものであるのかを理解させる為に。

「ライサ。今の君に、それが十分備わっていると思う? 大切な訓練の場で王子である僕の行動を邪魔して、言葉を無視して、強引に自分の欲求を叶えた挙句、王家の客人であり僕の友人でもある女性に多大な恥をかかせた君に。……そんな騎士を、僕が本当に必要とすると思うの?」

 ――ねえ、ライサ?
 優しく語りかけるエイナーの声は、優しいが故にいっそ凍えるような冷たさを伴って響いた。
 エイナーにこの場を任せた筈のキリアンでさえ、エイナーのあまりに容赦のない言葉の数々に、止めに入るべきか否か迷っているようでもある。周囲でこの様子を見ている訓練参加者の中には、これまでキリアンの陰に隠れてばかりいて頼りない第二王子だと思われていたエイナーが、これほどのことを言ってのけるとは思っていなかった者もいるようで、特に兵士に、驚きを露わにする者が多くいた。
 と。エイナーがそこで初めて、表情を緩めた。わずかに弧を描いた口が、でもね、と優しい音を奏でる。

「僕が今、僕の騎士として隣に立ってほしいと思うのは、ライサだけなんだ」

 途端に、ライサの肩が震えた。それまでも一杯に開いていた筈の瞳がこれでもかと見開かれて、エイナーの微かな笑みを信じられない思いで見つめている。

「僕が今君に伝えたいのは、それだけ」

 期待しているとも、信じているともエイナーは言葉にはしなかった。けれど、その気持ちはライサに十分届いただろう。ライサの蒼白だった顔が一気に引き締まり、瞳に強い意志が戻って来る。

「――はい」

 絶対にエイナーの思いに応えてみせると言う決意が、その一言に込められていた。その返事に満足気に頷いたエイナーは、再び表情を改める。

「……それでは、ライサ。それに、マルタ。君達には、今回の騒動を起こした罰として、これよりライサには十日、マルタには三日の謹慎をそれぞれ言い渡す。すぐに剣を置いてこの場を去りなさい」

 マルタと呼ばれたのは、先ほどライサをこの場に連れてきた女性騎士だ。恐らくは、ライサの所属する隊の隊長なのだろう。今回の訓練で指導役だったのか、明らかに訓練用ではない剣を持っていたマルタは、近くにいた騎士に剣を預けるとエイナーへ向かって腰を折り、去って行く。
 それにライサも続くかと思ったところで、彼女は逆に一歩、エイナーへと足を踏み出していた。

「エイナー様。一つだけ……エイナー様のご友人への謝罪を、お許しいただけますか?」
「ミリアム、いいかな?」

 申し訳なさそうな気配を滲ませたエイナーに私は小さく頷いて、ライサと相対する。

「……ミリアム様。先程は大変失礼をいたしました。申し訳ございません」

 一歩前へ進み出たライサの表情は硬いながらも強い決意に溢れて、私を真っ直ぐに見据えていた。私に許されることがなくとも、これは彼女にとってとても大事なことなのだと、一層の覚悟に溢れたその眼差しに、私の口元に自然と笑みが浮かぶ。

「ライサさんの謝罪を受け入れます。私も、配慮が足りませんでしたから。……ですが、エイナー様の友人として、一つだけ約束をしていただけますか? エイナー様は、私にとっても大切な友人です。その友人の喜びは、私の喜びでもあります。ですから、ライサさんには、エイナー様が胸を張って誇れる騎士になることを、約束していただきたいのです」

 今のライサに対して、もしかしたら私の言葉は、酷く意地の悪いものだったかもしれない。けれど、エイナー以外にも、ライサがエイナーの騎士となることを望んでいる人がいるのだと言うことを、どうしても今この場でライサには知ってもらいたかった。
 それに、負けん気の強いライサには、大勢の前で約束させて発破をかける方がきっとやる気に繋がる。勝手ながら、私にはそんな気もしたのだ。
 果たしてライサは瞳に力を漲らせ、挑むような強さで私の瞳を見返してきた。

「お約束します……!」

 その顔に決して笑顔はなかった筈なのに、その時私には、確かにライサが笑ったように見えた。そして、言うべきことは言ったとばかりに、ライサはエイナーへ頭を下げると、マルタの後を追うように宿舎へ向かって駆け去って行く。
 その姿がすっかり見えなくなると、ようやくその場に弛緩した空気が漂い始めた。

 小さな嵐が、完全に去ったのだ。
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