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第五章 絡み合う思惑の果て

盛大な誤解と騎士の煩慮

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 それは、災害現場視察と言う名の復旧作業に従事した翌日のこと。ミュルダール家の古城に戻ることなく現地で一泊し、現場で指揮をする地方官達を交え、改めて被害状況と復旧作業の進捗確認、見直し等を行い、ここでのキリアンの仕事を終えた時だった。

「――は?」

 自分の口から思いの外低い声が出たことをどこか他人事のように感じながら、レナートは上座に座る己の主の澄ました顔を見た。手にしていた木製のカップに乾いた音を立てて罅が入ったようだが、そんなことは気にしていられない。
 それより、レナートには今耳に入ってきた言葉の意味を確認する方が先決なのだ。これからの予定を確認していた文官の言葉に、訂正を入れる形でキリアンが告げた一言――ミリアムとイーリスは昨日から砦に滞在している為、合流はなし――と言う、衝撃以外の何物でもない内容について。
 口角が勝手に上がり、レナートを自然と笑顔にさせる。だが、その目だけは怒りを孕んで冷え切って、カップを机に叩きつけるように置いた音に、キリアンとレナートの対面に座る文官以外が顔を引き攣らせる気配がした。だが、今はそちらを気にしている場合でもない。

「……殿下。今、何と?」
「聞いた通りだ。二度は言わん」

 キリアンの目を真っ直ぐ射て問えば、彼はレナートの反応を予想していたのか、こちらの怒りにうんざりとした様子で投げやりに答える。その態度に、レナートの怒りが跳ね上がった。
 レナートの与り知らぬ間に、どう言うわけかミリアムが砦に行っていたことだけでも十分許し難いと言うのに、既に昨日の内にイーリスから報告を受けていたであろうキリアンが、レナートにさえ今の今まで黙っていたことが、何より腹立たしいのだから。
 あまつさえ、そのレナートの怒りをいかにも面倒臭そうにあしらわれるとは、これが腹を立てずにいられようか。
 砦訪問は、今回ミリアムがオスタルグへ赴くことになった二つの理由の内の一つ。何故そんな勝手をイーリスが許したのかは、先のキリアンの簡潔な一言からは不明だが、軽々しく単独で向かわせていいわけがないことは、キリアンとて十分承知しているだろうに。

「殿下」

 もう一度レナートが呼び掛けた、その時。

「はいはーい! そんなに怒らないの、レナート君!」

 レナートの言葉に被せるように明るい声が降って来て、背後から誰かに勢いよく飛び付かれた。
 衝撃でレナートの頭ががくりと下がり、爽やかな柑橘の香りが鼻腔を擽る。肩に回るのは程よく鍛えられたしなやかな腕、背に伸し掛かるのは柔らかく小柄な体。最後に視界の端に入り込んだのは、縮れた葡萄色の髪だ。それが、相手の肩口から零れ落ちてレナートの頬に触れた。

「落ち着きましょうね、レナート君。私としては、女の子の話でこんなに沸点が低くなる君を見られたのは嬉しいんだけど、勝手をやったのはうちの人なのよ。だから、キリアン殿下に怒ったって仕方がないの。怒るなら、うちの人に怒ってちょうだい。ね?」

 子供をあやすようにぽすぽすとレナートの頭を叩きながら、会話に割って入った人物が言葉を紡ぐ。だが、その行動も言葉も、どちらもレナートを落ち着かせるどころか、怒りを煽るばかりだった。
 こんな行動を何の遠慮もなくやってしまえる人物は、この場に一人しかいない。

「……アディーシャ殿」

 こめかみをひくつかせながらレナートが声色低く呼びかければ、「はぁい?」と、これまた間延びした子供のような返事が返ってきて、レナートは眉間の皺を深めた。

「落ち着いた、レナート君?」
「そんなことを聞かされて、私が落ち着くとでも?」
「あらぁ? もしかして、余計に怒っちゃった?」

 手付きだけは丁寧に、だが有無を言わさぬ力でもって自分の体に巻き付く腕を解き、レナートは頭上から降る惚けた声に向かって顔を上げた。

「これが、怒らずにいられると思いますか?」

 そこにあったのは、一見すればレナートと年齢が近しく見える若い女性の顔だ。濃い肌色に映える卵色の瞳が意外そうに瞬き、こてりと首を傾げる様は見た目以上に幼く見える。だが、アディーシャが見た目相応の年齢でないことを知るレナートには、彼女のそんな些細な行動ですら、今は余計に苛立つだけだった。
 何より、今しがたアディーシャの口から告げられた新たな事実が、レナートの怒りに拍車をかけていた。

 彼女――アディーシャ・ワドゥ・エギシュは、国境警備隊隊長ヤーヴァルのだ。
 レナートの母アレクシアと同じ部族の出身であり、母とは幼い頃から共に育ってきた友人でもある。アレクシアの方がいくらか年上とは言え、その差はわずか。どれだけ幼く見えてもレナートより遥かに年上で、なおかつ国境警備隊の副官も務める人物でもあるのだ。
 今は、復旧作業の手伝いの為に現場に入っている国境警備兵の指揮官として、この会議の場に呼ばれていた。
 そんな人物が言う「うちの人」が誰を指すかなど、わざわざ確かめるまでもない。そして、ミリアムが予定外に砦に滞在することになった理由も、レナートはアディーシャの一言で理解していた。
 キリアンの視察に合わせて災害現場にやって来る筈だったヤーヴァルが現場に姿を現さず、代わりにミリアムに対してどんな行動を起こしたのか。アレクシアと同じキスタス人のやることなど、レナートには詳細を聞かずとも容易に想像ができてしまう。アレクシアを通じて幼少の頃から付き合いのある見知った相手ならば、尚更だ。

「……ミリアムは無事なのでしょうね?」

 ヤーヴァルを目の前にして、怯えを見せるミリアムではないだろう。だが、その彼によって突然砦に連れて行かれてしまったとなれば、流石の彼女も平静ではいられない筈だ。たとえイーリスがそばに付いていたとしても、初めての土地に、周りにいるのはミリアムの価値を値踏みしようと待ち構えている者ばかり。今頃ミリアムは、砦でどれだけ心細い思いをしていることか。
 こんなことなら、昨日の出発時、強引にでもイーリスと護衛を交替しておくのだった。今更後悔しても遅すぎるが、レナートがミリアムの護衛についていたならば、ヤーヴァルにみすみすミリアムを連れて行かせるような真似は絶対にしなかったのに。
 思わず出そうになった後悔の呻きを噛み殺せば、アディーシャがぷうと頬を膨らませ、両手を腰に当ててレナートを上から覗き込んできた。

「ちょっと、レナート君。その言い方だと、うちの人が君のお嫁ちゃんを誘拐したみたいじゃない。言っておくけど、私の世界一素敵な旦那様はそんなことしませんからね?」
「そんなことを言って、どうせ誘拐紛いの行動には出て……――は?」

 危うく聞き流しかけた聞き捨てならない言葉にレナートが反応を示すのと、飲み物を口に含んでいたらしいキリアンが咽る音が重なる。続けざまにキリアンが咳き込む音が室内に響く中、レナートは驚愕に目を剥いた。
 先ほどまで抱いていた怒りが吹き飛び、代わりに血の気が引く。
 自分は今、一体何を聞いた? アディーシャは何を口にした? 誰が、誰の、何だって?――そんな思いがレナートの脳内をぐるりと巡り、顔が引き攣り、口が戦慄く。

「…………今、何と?」

 どうか否定してほしい。聞き間違いであったと安心させてほしい。そう願ったものの、見上げた先のアディーシャはきょとんとした顔で、あっさりレナートの希望を打ち砕いた。

「……あらぁ? もしかして、レナート君のお嫁ちゃんのことってまだ秘密だった?」

 愕然とするレナートと咳き込み続けるキリアンとを交互に見、呑気に首を傾げたアディーシャの口から再び同じ単語が出てきて、レナートは衝撃のあまり一瞬気が遠くなる。
 聞き間違いではなかった。
 その事実に、レナートは大いに頭を抱えた。
 真っ先に頭を過るのはミリアムのことだ。何がどうなってそんな馬鹿げた話になっているのか知らないが、アディーシャの口振りから察するに、レナートとミリアムがそう言う関係にあると言う勘違いは、既に手遅れなほど国境警備隊の共通認識になっているのだろう。
 そうであるなら、昨日から砦にいるミリアムは既にそう言う前提で兵士達に見られ、様々に話を振られている筈で。

 急にそんな話を聞かされたミリアムは、果たしてどう思っただろう。
 真に受けず、場を和ませる冗談だと笑って流しただろうか。それとも、話を信じて戸惑い、大いに困惑しただろうか。はたまた、迷惑な話だと突き放しただろうか。即座に嫌悪し、どう言うことだとイーリスに詰め寄っただろうか。
 どんな反応を見せたにせよ、気分のいいものではない。
 考え得るミリアムの反応を一通り想像して気を滅入らせたところで、唐突に、薄っすらと頬を染めて顔を綻ばせるミリアムの姿が脳裏に浮かび、レナートは一人大いに慌てた。
 それは昨日、視察へ出る前にレナートがミリアムの礼服姿を褒めた時に彼女が見せたものだ。だが、この話の流れで思い浮かべるには一番あり得ない表情でもある。

 いくら何でも、ミリアムがレナートとの関係を誤解されて喜ぶと安易に考えるほど、自分はおめでたい頭はしていない。ミリアムがレナートに向かって口にする好きも大切も、そこに込められているのは家族や友人に抱く愛情であって、それ以上でも以下でもないことくらい、理解している。
 即座に馬鹿な考えを振り払い、レナートは自身の荒れる気持ちと、何故か顔に集まってしまった熱を落ち着かせる為に深く深く息を吐いた。
 だが、アディーシャはそれをレナートの怒りの表れと取ったらしい。机に肘を付いて項垂れるレナートの背中に、先ほどまでの調子とは一変したアディーシャの萎れた言葉が落ちて来る。

「その……ごめんね、レナート君。私達が勝手をしちゃったみたいで。あとで、二人で一緒に私達のことは目一杯怒ってくれていいから……」
「――違います」

 恐らく、眉尻を下げて反省しているだろうアディーシャに向かってはっきりと言い放ち、レナートはゆるりと顔を上げた。そして、もう一度はっきりと、今度はアディーシャの顔を真っ直ぐ見ながら「そうではありません」と、勘違いされないように否定の言葉を告げる。
 そうすれば、アディーシャはわずかに表情を明るくさせて瞳を瞬き、それから今度は困惑をその顔に滲ませた。
 その変化を静かに見つめて、レナートは小さくため息を吐く。

「一体、どこで話が捻じ曲がったのか知りませんが、私とミリアムはアディーシャ殿が考えているような関係ではありません」
「……そうなの?」
「そうですよ。私としてはむしろ、どこからそう言う話が出て来たのか知りたいくらいなのですが」

 とは言え、落ち着いた頭で考えれば大方の予想はつく。元凶はどうせ、アレクシアだ。彼女がアディーシャへ宛てた手紙に、アディーシャが勘違いしてしまうような紛らわしい書き方でミリアムのことを綴ったのだろう。
 その日を待ちきれずに城に乗り込み、ミリアムが屋敷にやって来た翌日には金に糸目をつけずに彼女の為に物を買い漁り、更にその翌日には部屋の改装、その後しばらくはミリアムと一緒に寝るなど、近年稀に見るはしゃぎっぷりを披露していたアレクシアだ。高揚した気持ちのままで友人へ筆を執っていたとしても、おかしくはない。

「確かに……はっきり『伴侶ができた』とも『嫁が来た』とも書いてなかった……ような?」

 案の定、頬に指を当てながら視線を上へやったアディーシャからは、レナートの予想を確かなものにする言葉が零れ出た。

「でもでも! 身寄りがないから保護したって言っても、娘が増えたってはっきり手紙にあったのよ? それに、ヴィシュヴァが国にいない間にレナート君がその娘と一緒に過ごしててけしからんって怒ってもいたんだもの。そんなことを書かれてたら、とうとうレナート君に伴侶ができたんだなぁって思うじゃない? 保護して一緒に暮らしてるなら、近い内に夫婦になるんだなぁとも思うでしょ? だったら、その前にお嫁ちゃんの顔を見ておきたい! って思うのは、友人として当然だと思うの!」
「あのクソ獅子……!」

 あまりに予想通り過ぎる手紙の内容に、落ち着かせた筈の怒りが一瞬、再燃する。だが、これでようやく今回の事態が起こった理由がはっきりとした。
 レナート達が頭を痛めるほどしつこくミリアムを連れて来いと彼らが言い続けたのは、英雄に無条件で保護された子供に対するくだらない嫉妬は勿論のこと、その英雄の、これまで浮いた話一つなかった息子にようやくできた伴侶に対する下世話な興味が理由だったわけだ。
 むしろ、アディーシャの言葉と現状を鑑みるに、後者への興味が勝っているのだろう。そんなことの為にわざわざミリアムをこの土地へ連れてくることを望んだとは、呆れて物も言えない。

 では、それが分かったところでレナートが次に成すべきは、何か。
 速やかに砦へと向かい、アディーシャやヤーヴァルが砦の者達へ伝えた誤解を正すこと。そして、ミリアムをミュルダール家へ連れ帰ることだ。
 砦に一泊できたのであれば、既に昨日の内にミリアムはキスタス人に認められ、彼らの興味を十分に満たしたと考えられる。ならば、成すべきことを成したミリアムがこれ以上砦に長居する理由はない筈だ。
 そうと決まれば、いつまでもここでぐずぐずしてはいられない。

「殿下。私は先に砦へ向かいます」

 言いながらも既に席を立ったレナートは、キリアンの了承を待たずに部屋の入口へと足を向けた。
 その足がアディーシャの前を横切った時――レナートの腕が強い力で掴まれる。

「レナート君、待った!」

 同時に発されたのは、アディーシャの制止の声。

「まだ何か?」

 ミリアムよりは上背はあるものの十分小柄な部類に入るアディーシャの、見た目にそぐわぬ力の強さはレナートの足を完全に止めさせ、苛立つ感情のままにレナートは彼女を睨み付けた。
 だが、アディーシャは彼女を見下ろすレナートに対して怯むどころか、思いの外真剣な眼差しをしている。

「レナート君は、君の伴侶じゃなくても娘ちゃんのことが大事なのよね?」
「当然でしょう」
「だったら、悪いことは言わないから、ここにいる間は娘ちゃんは君の伴侶ってことにしておきなさい」
「は? 何を言っているのです、アディーシャ殿?」

 あまりに馬鹿らしい助言にレナートの中で腹立たしさが増し、アディーシャを見下ろす瞳に力が入った。だがアディーシャの方も引く気はないようで、レナートの腕が解放される気配もなければ、簡単に振り解けそうにもない。

「レナート君こそ何を言ってるの? 君はここにいる誰よりも、キスタス人わたしたちのことを知ってるでしょ?」

 アレクシアを母に持つレナートならば分かる筈だと訴えかけるアディーシャの視線に、レナートは彼女の手を振り解こうとしていた腕から力を抜いた。
 キスタス人。彼らはその身に流れる彼らの祖、騎馬戦士キスタスの血に何より高い誇りを持つ民族であり、それ故に血の繋がりや同族意識も非常に強いことで有名だ。
 その意識の強さは、各々が属する部族は勿論のこと、家、家族、兄弟、友人、夫婦……様々な形で呼称される人との繋がり、絆を大切にしていることからも見て取れる。
 中でも、唯一愛称で互いを呼ぶことが許される伴侶の存在は特別で、その関係を壊す行為――例えば、伴侶に手を出す、伴侶を奪う、伴侶がいながら他者と交わる、など――は万死に値する罪とされ、犯した者は例外なくその命を持って贖わされるほどだと聞く。

 ただし、正式に夫婦の契りを交わす前や、成人前であればその限りではない。
 勿論、この場合でも同意なき行為は御法度だが、伴侶の心変わりを画策したり、伴侶を賭けて決闘を申し込んだりすることは許されていると言う。
 つまりミリアムは、現在レナートの伴侶と言うことになっているが、レナートから奪おうと思えば合法的に奪える状態にある、と言うわけで。

「……待ってください。それは、ミリアムを自分の伴侶にと考えている者がいると……?」
「ヴァヤンがその場で気に入って、砦にご招待しちゃうような娘ちゃんなのよ? そんな珍しい子、うちの男共が気に入らないわけないじゃない。君がいないのをいいことに、若いのが娘ちゃんの気を引こうとしててもおかしくないでしょ?」

 そんなところにレナートが急ぎやって来て、ミリアムに近付こうとする男達を牽制するどころか、伴侶の話は誤解で二人はそのような関係ではないと告げればどうなるか。考えるまでもなく、ミリアムは歓喜する男達にたちまち遠慮なく囲まれるだろう。
 青味のある白を基調とし、高位の女性神官が纏う服にも似た、リーテの愛し子の礼服。それを纏ったミリアムの姿は、彼女を見慣れている筈のレナートでさえ思わず見入ってしまうほどだった。普段目にするのが腕っ節の強い女ばかりのキスタス人の男達ならば、なおのこと彼女の姿に目を奪われておかしくない。
 加えて、ヤーヴァルに即座に気に入られ、彼ら自身も認めるだけの何かを示してみせた度胸の持ち主のミリアムだ。珍しさも手伝って、どれだけの数の男が彼女に言い寄ることか。

 大勢の男がミリアム一人を取り囲み、下心を隠すことなく次々に話し掛ける――そんな場面を想像してしまった瞬間、レナートは苛立ちを覚えて拳を握り締めていた。キリアンやアディーシャに対して抱いたのとはまた別の、形の定まらないむかつきが胸の内を支配する。
 そして、無性に苛立つ感情のままに、レナートは一つの思いを強くする。ミリアムをこんな辺境の荒くれの伴侶になど、冗談ではない、と。

「――分かりました。そう言うことであれば、誤解を解くことはやめておきましょう」

 ミリアムには多大な迷惑をかけることになるが、彼女の身の安全の為と思って、タルグ砦にいる間だけ我慢してもらう他ないだろう。レナートが彼女の下へ行くことで更に注目されることにはなるだろうが、くだらない雑音は全てレナートが払ってやればいいだけのこと。これ以上、ミリアムを変なことに巻き込ませてなるものか。

 それにしても、このキスタス人夫婦は本当にろくなことをしない。いや、ここのキスタス人達は、と言うべきだろうか。混血であるレナートを差別しないでくれることには感謝しているが、彼らの行動にも思考にも、もっと冷静さが欲しいところだ。
 彼らにそれが足りない所為で、これから砦へ向かいミリアムと再会したとしても、レナートの気が休まる時間は恐らくないのだから。
 自分を待っているだろう面倒事の数々に対して、レナートの口から深いため息が漏れ出た。

「キリアン殿下も、そう言うことにしておいてくれる?」
「ああ、問題ない。お前達が大人しくなるならば、私は何でも構わん」

 レナートとアディーシャが会話する間に咳が治まったキリアンから、微かに呆れの混じった投げやりにも聞こえる一言が返され、それを最後に会議が終了する。
 引き続き復旧作業に従事する為にこの場に残る者が殆どの中を、レナートとキリアン、それにアディーシャは合流する相手がいなくなった為、すぐさまそれぞれ馬に跨り、地方官達に見送られながら砦へと向かった。

 だが、そうして逸る気持ちを押さえて砦へと急いだレナートを待っていたのは、人の気も知らずに陽気に歓迎する大勢の兵士と――

「レナート君、あれ……」

 レナートの腕を取ったアディーシャの声に促されて見た先にいた、仲睦まじい様子でキスタス人の男と連れ立って歩く、ミリアムの後ろ姿だった。

「……は?」

 広場が賑わいに満ちていることでレナート達が到着したことには気付いている筈なのに、ミリアムはまるでその賑わいなど聞こえていないかのように、こちらを一瞥する気配すらない。そのことに色をなくしたレナートが呆然とする前でミリアムの姿はどんどんと遠ざかり、ついには男と共に建物の中へと入ってしまう。
 二人の姿が廊下の角を曲がって消える寸前、男の濃灰色の瞳と目が合い勝ち誇るように眇められたと感じたのは、確かな現実かレナートの受けた衝撃がそう見せたのか。

「あらぁ。もしかしてレナート君の伴侶ちゃん……取られちゃった?」

 耳元で囁かれたアディーシャからの深刻さに欠けるその一言は、出迎えの兵士達に囲まれて身動きが取れないレナートを、文字通りその場に立ち尽くさせたのだった。
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