怪談

馬骨

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創作系怪談短編集

着いてくる子供

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 最近、おかしな夢を見るようになった。

 そう先輩から聞かされたのは四日前の事だった。
 部活の練習終わりにファミレスに誘われてついて行った私が、ドリンクを片手に席に座ったその直後だった。
 怪訝な顔をする私を他所に、彼は話を続けた。

「その夢ってのがさ」

 体感でおよそ十分ほどの夢であるそうで、先輩は彼の家から徒歩でおよそ一時間ほどの場所から、彼自身の家へ向かって帰るという、そんな夢らしい。

 先輩はなんだか家へ帰らなければならないという、帰巣本能のようなものに支配されていて、その夢の中では、家へ帰る以外やることがないのだとか。

 そんな夢を三日続けてみているらしい。
 二日目以降は前日の夢の中で歩いたとこからがスタートで、どんどんと家に近づいているそうだ。

 確かにおかしな夢ですねと相槌を打つと、先輩は続けて、

 「これだけじゃないんだ」

 と、眉間に皺をぐっと寄せて続けた。

「俺の他にな、誰かついてくるんだよ」
「だれか?」

 「うん。初めてその夢を見た三日前な。俺途中でちらっと振り返ったんだよ」

 彼によれば、彼以外人っ子一人居ない街並みの中で、彼に着いてくる者がいるらしい。

「五歳くらいの男の子なんだけど、そいつがテトテト歩いてついてくるんだ。
 顔を確かめようにも、モヤがかかったみたいでそこだけよく見えないし、近づこうとするとふっと姿を消しちまう。
 それなのに歩き出すといつの間にかまた後ろにいて、そんでついてくるんだ」

 喋り終わると、先輩はふぅっとため息をついた。

「そんな夢をさ、三日連続で見てんだよ。なぁこれさぁ、なんかの幽霊とかの仕業なの?」

 かなり不可思議とはいえ、普段の様子からすれば突拍子もない言葉が先輩の口から出てきて、私はいくらか戸惑った。

「幽霊って…先輩僕がそういう話するといつもありえないってバカにするじゃないですか」

 いやそうだけどと、彼はコップに半分ほど入っていたコーラをストローで一気に飲み干した。ズゴゴと不愉快な音が鳴ると、先輩は話を続けた。

「いつまで経っても家にたどりつけないんだよな。歩くスピードがめちゃくちゃ遅いし。十分も歩いてるのに気づいたら百メートルも進んでない。それに加えてその男の子だろ。ちょっとはそういう可能性も考えるよ」

 彼は参ったような顔をしていた。
 三日連続で同じ夢を見れば、さしもの彼でも滅入ってしまうのだろうと、少し真剣に考えることにしたが、

「そんな話聞いたことないですね」
「そっか。まぁそうだよな、調べても出てこねぇもん」
「先輩はその男の子に何か心当たりがあるんですか?」
「いや」と言葉をさえぎって、先輩は空になったプラスチックのコップをじっと覗き見た。

「ないな」
 そう言って、彼は席を立った。
 それ以降、その日先輩の口から夢の話が語られることは無かった。

 事態が急転したのは、それから三日後の夜であった。

 九時半頃、そろそろ寝る準備をしようかと床に就いた途端、携帯がなった。
 出てみると、例の先輩だった。

 「もしもし?先輩どうかしたんですか?」

『おー、いやすまんなこんな夜中に』

 聞けば、あの夢の話であるようだった。

「あの夢がどうかしたんですか」

『さっき部屋の中を整理してたら、昔の写真が出てきてな。それで気づいたんだよ』

 「何にですか」

『あの男の子が誰なのか。あれさ、俺の弟だった』

 はて、先輩に弟さんなんていたかなと思い、尋ねようとするとそれより先に先輩がまた喋り始めた。

『お前には言ってなかったけどな、俺弟がいてさ。十歳離れた子で、ゆうたっていうんだ』

「初耳ですね。一人っ子だと思ってました」

『あぁ、まぁ一人っ子っちゃ一人っ子なんだけどな俺』

「…?どういうことですか?」

『…ゆうたな、産まれる前に、亡くなっちゃったんだ』

 はっと息を飲んだ。

『今日ゆうたが産まれる前の写真見て思い出した。夢の中で男の子が履いてた靴が産まれる前に用意した靴だった。生きてたら、あいつちょうど五歳だし。なんで忘れてたんだろうな』

 ひゅっと涙をこらえるような声が、携帯から時折聞こえてきた。
 もはや何も気の利いた事がいえないでいた私は、ウンウンと相槌を打つことしか出来なかった。

『多分、今日の夜で俺は家に着く。
 その時ゆうたから、なんか伝えたいことがあると思うんだ。俺はしっかり受け止めるよ』

 「そうですね…」

 とっぷりと更けた夜の中で、先輩のぽつりぽつりと語る声が、やけに頭の中で反響した。

『すまんなこんな夜遅くに。こんな重たい話。
 じゃあ、そろそろ切るよ。ありがとう』

 「はい、じゃあまた明日学校で」

 そう言うと、電話はあっさりと切れた。
 その日は自分までよく寝れなかった気がする。
 カチコチと無機質な時計の針が打つ音の中で、眠れないため息が虚ろに浮かんだ。

 その翌日、彼は学校に来なかった。

 その日の放課後、生徒達の喧騒の中、私はいつもとは違う帰宅路を歩いた。
 目的地は先輩の家だった。

 先輩から着信が届いたのは、六時間目の保健体育の授業後すぐだった。

「話したいことがあるから、放課後家まで来てくれ」

 これを私は二つ返事で了承し、部活が終わるとすぐさま先輩宅へ足を向けた。
 昨日の涙交じりの調子とは違って、やけに陰気で切羽詰まった先輩の声の響きが、何となく私を焦らせた。不気味なほど赤く光る夕日が、首の辺りをジリジリと照らした。

 彼の家は十四階建てのマンションで、彼自身は八階に住んでいる。エントランスにてインターフォンを鳴らすと、しばらくして外部と内部を隔てるドアが開いた。

 小綺麗な建築物に気後れしながら、私は先輩の部屋を手探りで当たる必要があった。八階まで上がれば、彼の部屋まではすぐだった。

 803号室。

 傾いた夕日が、レンガ式のタイルが張られた壁を燃やすように照らしている。エレベーターの出口より数歩の距離を歩き、彼の部屋のインターフォンを鳴らした。

 ピンポーン、ピンポーン。

 在り来りなチャイム音の後、ガチャリと扉が開いた。

 中から出てきたのは、先輩だった。
 「早く入れ。」

 どうもと言う私の言葉を遮るように、彼は口早に言った。

 促されるまま、するりと家の中へと入った。
 靴を脱ぎ、廊下の奥へと歩く。

 中は案外広々としていたが、電気は一切ついておらず加えてカーテンも閉められていたため、辛うじて漏れる夕陽のオレンジが明かりとなって、部屋の内部をぼんやりと移していた。

 リビングから玄関を振り返って見ると、彼は尚もそこにいて、家の外を見回してキョロキョロとしていた。

 さっき私が通った通路、そこから更に先へ伸びる通路へと、くまなく視線を巡らせて、扉を素早く閉めた。

 その動き方は、なんとなく猟奇的というか、狂気じみた警戒心を感じさせた。

 スパイ映画などでよく目にする、外敵を警戒する素振りともまた違うが、明らかになにかに怯えているのは、傍から見ても明らかだった。
 鍵をかけた彼は、ドアスコープを覗きまたもや外の様子を伺っていた。

 念の入りようが尋常ではないし、気が済んだのか戻ってきた彼の顔は、かなり疲弊した様子であった。

 「まぁ、座れよ。」
 そう言いつつ、リビングの真ん中にあるテーブルの椅子に、先に腰掛けたのは彼だった。

 続いて私も、彼とは対面の位置に腰を下ろす。

 何があったんですか。
 そう聞く前に、彼は口を開いた、
 内容は勿論のこと、彼の夢の話であった。


 ​───────​───────​───​───


 昨晩、八時半を回った頃。
 俺は後輩に、着いてくる子供の正体を電話で告げると、毛布を体にかけてすぐさま横になった。

 こんな冗談でしかないような話に真剣に取り合ってくれるなんて、俺はつくづくいい後輩を持ったなぁと、改めて自覚する。

 外の外壁を飛び越えて窓枠を照らす月明かりの中、ぼんやりと浮かぶ灰色の天井を見上げた。

 いつの間にか暗闇が薄暗闇となり、眠気に引っ張られるようにまぶたを閉じた。

 時計の針が時を刻む音だけが、辺りを支配していた。

 気づけば、俺は夢の中にいた。

 一直線に伸びる道の横に線路が伸びて、少し遠目に見れば、遮断機の先っぽが見える。

 昨日の夢の続き、帰路の最中。
 ここから家までは、そこまで時間はかからないはず。
 二つ目の角を曲がれば、肉眼で確認できる位置にある。

 ふと後ろを振り返ると、そこにはこの七日間の間、全く変わらない男の子の姿があった。

 目を凝らしてよく見る。

 青い子供用の小さいスニーカー、グレーのスキニーパンツの太ももあたりには母が施したものであるチューリップの刺繍が入っている。

 白いTシャツのど真ん中にでかでかと貼り付けられたウサギのキャラクターはその当時俺が好んでいたアニメに登場するキャラクターだ。

 そこから上は、靄がかって見えないが、あれはきっと俺の弟なんだろう。

 最初から、そんな気がしていた。
 というか、本当は気付いていたのかもしれない。

 自覚していたのに、誰にも言えなかったのは、俺がその現実と向き合うことを避けていたからだと、この時初めて実感した。

 思わず、夢の中なのに涙腺が緩んだ。
 駆け寄って抱きしめようとすると、一歩か二歩戻ったあたりで、焦点が合わなくなるようにぼやけて消えてしまった。

 慌てて引き返すと、いつの間にか元の位置にいる。

 どうやら、目的を果たすまで接触は出来ないらしい。

 涙を拭った俺は後ろを振り返ることなく、歩き出した。

 それでもやはり、喪失感からくる十年来の悲しさはボロボロと頬を伝っていく。

 ぼやけた視界の中、何とか足を動かし、滲んだ街並みを通り過ぎ、二つ目の角に差し掛かった時だった。

『お兄ちゃん』

 ふと、後ろから声がした。
 自分にとってかけがえのない、血を分かつ兄弟であることを証明する言葉。

 気づけば俺は、またも後ろを振り返っていた。

 とめどなく溢れる涙を、必死に払い除ける。

 泣くな、受け止めるんだ。

 そう自分に言い聞かせて、強引に涙を止め、現実を直視しようとしたその時だった。

 目の前にいるのは間違いなく、弟である。
 そういう確信が、急に持てなくなった。

 姿かたちや、身につけている衣服。
 それらは全て、あの日供養の際燃やした弟のものだ。

 だが、本当にそうなのか。

 「ゆうた」

 ふと口をついて出たのは弟の名前だった。
 突如として、生まれるはずだった"ゆうた"が姿を消してしまったあの日から、一言も口に出さなかった名前。

 モヤがかかった顔の向こう。
 すっと、口角が上がった気がした。
 パッと華やかで無邪気な笑顔ではなく、ニヤリと言ったなにか腹づもりがあるかのような。

 怪しく、意味ありげな笑いだった。

 ふと、俺は見られているのだと感じた。

 ただ単に、人が人を見るというのとはまた違う。
 獣が獲物を狙うような。
 邪な欲望が入り交じった視線。
 この七日間、俺はその視線にじっと睨まれていたのだ。

『お兄ちゃん』

 もう一度、目の前の子供はそう言った。
 一度も聞いたことも無い、男とも女とも取れない、一人とも複数とも分からない、複雑に入り交じった声。
 酷く歪んで不気味で、嫌に耳に残る声。

 バチンと、目が覚めるような感覚がした。

 そうだ、何が現実。
 何を受け止めるんだ。

 これは夢だろうが。

 そう思った途端、目の前にある全ての事象が不可解かつ、不可思議なものであると、ようやく自覚し始めてきた。

 先程まで、弟だと思っていたそれが、自分の中でみるみる内に、得体の知れないなにかに姿を変えていった。

 しかし夢は覚めない。
 夢を夢だと自覚していても、夢は覚めない。

 恐らくは、家に帰るまで。

 それを理解した途端、俺の体は自然と家へ走り出していた。

 足が鈍い、体が重い、早く、早く。

 逃げなければ。

 後ろから、またあの声が聞こえてきた。

『お兄ちゃん』

 その声を聞く度に、心臓が痛いほど跳ねた。

 何とか家のマンションに着いた。
 ここからはエレベーターに乗って、八階まで上がるだけ。

 そこから先は、ぼんやりとしていてあまり記憶が無い。

 気づけば、家の中の玄関口で、へたり込んでいた。
 まだ目は覚めない。

 だが、結局家には帰れた。
 何とか逃げ切った。

 そう思って、靴を脱いで家に上がろうとした時だった。

 コンコン

 すぐ後ろのドアを、誰かが叩く音がした。

 それと同時に、あの声がもう一度。

『お兄ちゃん』


『あーけーて』


 思わず耳を塞いで、その場に座り込んだ。
 だが塞いだ耳の隙間からは、尚も声が滑り込んできた。

『お兄ちゃん、あーけーて。お兄ちゃん、あーけーて。』

 ドア奥の何かは、しきりに家に入りたがっているようだった。
 恐怖からか、両の眼から大量に涙が出てきた。
 心臓が高鳴る、震えが止まらない、終いには息の仕方を忘れるほど、頭の中は恐怖で埋め尽くされていた。

 ふっと、目の前が暗転したかと思うと。

 次に瞳を開いた時には、白色の天井が広がっていた。

 悪夢から、覚めた。
 まだ酷くぼんやりする意識が、それでもほっと安堵の表情を浮かべた。

 半身を起こし、寝ぼけ眼を擦る。
 今は何時だろうかと、スマホを手に取った。

 その時だった。

 普段、親の出入りを警戒して閉じている自室のドアの向こうから。

 確かに、聞こえた。

 「お兄ちゃん」


 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 全て語り終えて、先輩は深いため息をついた。

「信じられないか?」
 そう聞きながらこちらを見あげるようにして眼だけを向けた先輩の顔は、疲れが張り付き澱んでいた。

 「いや、うーん…」
 確かに、にわかには信じがたい話ではあるものの、先輩の今の有様を見ていれば、本当では無いとの断言もできない。

 「信じられないよな…無理もない」
 「別に信じられないわけじゃないですよ、ただ…」
 「ただ、なんだ?」

 ひとつ、疑問があった。

 「なんでそいつは、この家に入りたがったんでしょうね」
 「え?」
 「いや、先輩自体に用があるとするならば、わざわざ家まで案内させる必要はないじゃないですか」

 仮に、在り来りなオカルトもののプロットで、そいつの目的が先輩に取り憑く事だったとすれば、家に固執する意味がわからない。
 であるのにもかかわらず、家に入ったあとソイツは標的を先輩に変更している。

 「それは確かにそうだな…」

 考え込む先輩の姿を前に、私は今までの情報を遡り整理していた。

 7日間、家までの道程、家、先輩、産まれる前に亡くなった弟。
 その時偶然に脳裏を過ったのは、学校での出来事だった。

 7日間、家までの道程、家、先輩、産まれる前に亡くなった弟。六時間目の保健体育。

 それと、同時に恐ろしい考えが頭に浮かんだ。
 突拍子もないが、そう考えられなくもない、そして決して表に出してはならないような、そんな考えが。

 「どうしたんだ、青い顔して」
 「あ、いや」

 不安そうに私の顔をのぞき込む先輩の顔の方がよっぽど青い顔をしていたが、それには触れずに、軽く息を吸った。

 「なんでもないです」
 「そうか…そうか」
 「はい」

 確かめるように繰り返した先輩に、私は少し口調を強めて返答した。

 「ていうか、考えてみたらさ」
 「はい?」
 「俺の顔の方がよっぽど青いよな」

 そう言って先輩はクスリと笑った。
 目の下のクマが歪んだ。

 考えを見過ごされたような気がして、引きつった笑みしか浮かばなかったが、なんだか笑わなくてはならないような気がして、へへへと不慣れな愛想笑いを浮かべた。

 すると、夕陽が完全に地平に身を隠したのだろう。
 私たちの空間は突然薄暗闇に包まれ、目の前の先輩の顔すら不明瞭になるほど、部屋の中が暗くなった。

 目の前のシルエットが立ち上がり、電気をつけるスイッチを押そうとした瞬間だった。


 ボシュッ


 そんな音がしたと思う。
 密閉された釜から、蒸気が吹き出る様な。
 破裂音に似た鈍い音がした。

 音がする方向には、自分が先程置いた通学用のリュックがあった。

 「あ…え…」

 先輩が間抜けな声を絞り出した。
 自分はと言うと、そんな声すらも出なかった。

 学校を出る際に端まで閉めていたはずのリュックのジッパーは、ちょうど中心から左右に大きく裂けていた。

 裂け目の中心部からは、鮮やかな紅に塗れた灰色の何かが蠢いていた。

 筒状の頭から分岐した5本の小さな突起が、うねうねと体をくねらせていた。

 赤子の腕であった。

 やがてそれは姿を完全に外に表すと、ぼとりと重みを感じさせる音を立てて、フローリングに落下した。

 「お、おい…」
 石化したかのような体を、先輩の声が解いた。
 「なんだ…あれ…お前何持ってきて…」
 「知りませんよ…」 
 静寂がその場を包んだ。

 その時、

 ​──おぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!

 赤子の長く酷く大きな産声が、当たりを包んだ。

 続いて、


 ボシュッ

 ​ボシュッ

 ボシュッ


 立て続けに三回ほど、さっきの音があちこちから鳴った。

 キッチンの鍋と鍋蓋の隙間から小さな左脚が、クローゼットの間から小さな右手が、小さな勉強机のタンスから小さな右脚が飛び出している。

 「な、なんだこれ!なんなんだ!」
 「知りませんよ!」
 なおも続く産声とパニックに陥る私と先輩の絶叫が入りまじった。
 電球がバチバチっと音を立て消えた。

 「と、とりあえず逃げないと!」
 暗闇の中で震える膝を必死で制御して、何とか廊下までの道のりを走り去ろうと、立ち上がる。

 「ほら!先輩も!」
 そう言って先輩の手を取ろうとすると、異変に気がついた。

 暗がりに慣れた目で見る先輩の目の、焦点が合っていない。
 「先輩………?」
 顔だけこちらに向けて、小刻みに震えている。
 何してるんですかと言いかけたところで、先輩の口が、がぱりと大きく開いた。

 「が……あ……」
 絞り出すように必死で声を出しているように感じた。
 「先輩…先輩!」
 そう呼びかけるも、返答が返ってこない。
 唖然としていると、そのうち目一杯開かれていた口はさらにその間隔を広げていった。

 許容範囲を超えて開き続ける口から、ミチミチと音がし始めた。
 先輩の異様な顔越しに、喉の辺りが膨らんでいるのが見えた。
 その奥から、ごぼごぼと不快な異音が聞こえる。

 もはや何が起こっているかも、何をすればいいかも分からない状況下で、兎に角先輩と一緒にこの部屋を出ることだけを考えていた私を次に待ち受けたのは、絶望的な産声だった。

 「……がぁ……ぎゃぁ………おぎゃぁ…おぎゃぁぁぁぁぁぁあ!!!」

 先輩の苦悶する声は、いつの間にか産声に成り代わっていた。
 それと同時に口の奥から出てきたのは、赤子の頭部だった。

 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!」

 腰を抜かしそうになりながらその場から弾かれたように走り去った。
 先輩をそのままに部屋を駆け出し、家までの道のりを一度も止まることなく走り抜けた。

 そこから先は、あまりよく覚えていない。

 その後、おいてけぼりにしていた自分のリュックは翌日の朝方に、家の前にぽつりと置かれてあった。
 中身は、ところどころ血のようなものがこびりついていて、入れていたノートなどに付着していた。
 気味が悪かったので、こっそり裏庭でリュックごと燃やした。

 あれから先輩は、何事も無かったかのように登校している。
 ただ話す機会は一切無くなったし、話したいとも思わなくなった。

 あの日から先輩は、何かが決定的に変わってしまっている。

 詳しくは言語化できないし、なんとなくと言ってしまえばそれまでだが、姿形はそのままで、中身だけ入れ替わってしまったような。

 そんな違和感を、ずっと抱いている。

 あの日の夕方、自分が立てた仮説は当たらずとも遠からずということだったのだろうか。

 これから先輩に、先輩の家族に何が起こるかは、考えたくもない事柄だった。

 今はもう、この出来事を早く忘れてしまいたいと念じることしか出来ない。


 保健体育の授業にて、体育の教師がこんなことを言っていたのを思い出した。

 ━━━精子は、何万という仲間と共に受精卵をめざします。大体7日間を経て着床した一つの精子が、徐々に人間になるわけです。

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