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第1章:ダメ男とばかりつき合ってしまう

10. きみに必要なのは自分を信じること

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「知り合って間もない頃、彼女は僕に『私のために生きて』と言ったんだ。そして、僕は『いいよ。でも、きみが死んだら?』と聞いた」

「奥さんは何て……?」

 マオさんだけじゃなく私も、好奇心を刺激され答えを待つ。

「『その時は先に殺してあげる。私なしで生きられなくなっていたら』」

 わーお!
 さすが先生の奥さん。
 セラピーの中で必要なら嘘をつくこともたまにあるけど、先生が作り話を事実のように話すことはない。

 目をみはり、微かに唇を動かすも声の出ないマオさん。

「彼女が存在しない世界は、僕にはないんだよ」

 葦仁先生が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 マオさんは、深い息をついて頭を振った。

「頭で考えてちゃダメですね」

「怖くなくなった?」

「というか、アレコレ想定しても意味がないってわかった。かまえてもムダだって」

「なら、よかった。話したら逆効果になるかなって、少し迷ったからね」

「相当な覚悟が要るくらい愛したら、ほかに何も気にならない。今考えてる不安や恐怖なんて忘れちゃう。だから、出逢ったらきっと、その幸運に感謝するだけ……でしょ?」

「それでいい。きみが思うことが正解だよ」

「自分が作った枠、超えられそうです」

 コクリと頷き、葦仁先生がテーブルの上で両手を組む。

「じゃあ、次に進もうか」

「はい」

「望む自分にふさわしい相手をイメージしたグリーンゴールド。この色は、少しだけ緑の入った強い黄色だ」

 マオさんの視線がボードに移る。

「ここでの黄色は精神を表す。きみが求めるのは、楽観的で実用的な思考を持つ人間だと言える」

「私が、いいほうに考えるのが苦手だからかも」

「そして、しっかりとしたブレない軸を心に持つ人間」

「頼りになる人?」

「精神的にね。ただ甘やかすだけじゃなく、感情に左右される弱いきみに引きずられることなくそこにいてくれる」

「安心させてくれる人って理想です。でも、理想的な人が相手だと気後れしちゃいそう」

「きみにふさわしい相手なら、その人にふさわしい人間はきみだよ。お互いを認め合い、尊敬し合える関係を築けるはずだ」

「私なんて……」

「ストップ」

「え?」

「私なんて、私なんかって口にするのは禁止だ。きみはステキな女性だよ」

「そうなれるといい……な」

 マオさんがはにかんだ顔で笑う。

「きみに必要なのは自分を信じることだね」

「少しずつ、がんばってみます」

「その手助けをしよう。西園寺さん、新しいボードを」

「はい」

 テーブル上にある2枚と同じ、B5サイズの紙を貼ったA4サイズのボードをマオさんの前に置く。

「絵具は前回使ったアマゾナイト、カスケードグリーン、グリーンゴールドの3色と、バイオレットを用意して。バイオレットは47番」

 手元のノートパッドをめくり、3色のナンバーを確認する。
 絵具のチューブには当然色名が書かれている。多くは外国産なので英語表記だけど、色名くらいは読めもする。
 それでも、120色余りから目当ての色を探すのは大変だから。ナンバーを振って順番に並べて置けばすぐ取れる。
 先生が番号を言ってくれることに感謝だ。

 キャビネットに言われたものを取りにいくと、葦仁先生も来た。

「きみもデモで描いてくれる? マニフェスト画だ」

「わかりました」

 助手だから肯定する。
 だけど、気は進まない。



 セラピーによって、クライアントに描いてもらうものは異なる。

 1回目のセラピーでは、ほぼ色を塗るだけ。だから、お手本としてのデモンストレーションは不要。
 2回目のセラピーで描くものは数種類あるけど、一番多いのがマニフェスト画と呼んでいる絵。これは実際にやって見せればすごく簡単なんだけど、口で説明すると伝わりにくい。
 そこで、私が一緒に描くことになる。

 これまでに何度も描いてるから、家には私のマニフェスト画がたくさんある。
 でも、その効果はない。マニフェスト……宣言を本心で肯定していからだ。
 いつか、効果を期待出来るマニフェスト画を描いてみたいと思ってはいるけれど。



「いつものように、適当な色を3色で」

「はい」

 適当な色。これがなかなか難しい。
 何も考えずに3色手に取ろうとしても、つい色のバランスを気にしてしまう。
 そして何よりも。
 私が適当に選んだ色の意味を先生は知っていると思うと……なんか居心地が悪いのね。もちろん、先生は何も言わないんだけど、自分のどこかを見透かされてるような気がして。

 絵具チューブに記載された色名をサッと見ながら、素早く3色を選ぶ。今回は、キナクリドンレッド、アメジスト、フタロサファイヤにした。



 小皿7枚と7本の筆、7色の絵具チューブ、そして、布巾と水入れをテーブルに運んで絵具の用意をする。自分用のボードも。
 その間に、葦仁先生はキャビネットから自分で取っていった水彩色鉛筆のケースを開け、マニフェスト画に使用する色を選んでいた。

「この黄緑は、自信と信頼の色だ」

 葦仁先生が1本の色鉛筆をマオさんに手渡した。

「これで、こうなりたいと思う自分を宣言する文を書く」

「宣言っていうのは?」

「『私は幸せだ』『私は自分に満足している』こんなふうに、現在形肯定文で自分のことを言い表す。私は幸せになりたい、という希望の形じゃなくね」

「いくつでもいいんですか?」

「その紙が埋まるくらい。思いつくままに書いてもいい。書き方は今説明するけど、見た方が早い。西園寺さんも一緒にこのマニフェスト画を描いてもらうから、お手本にしながら進めよう」

「マニフェスト画っていうのは、絵じゃなくて字なの?」

「出来上がりは絵になるかな」

 マオさんの表情に、ほんの少し不安の色が差す。

「大丈夫。この前の色で描くのと同じ、気負わなくていいよ」

 絵具を溶き終えた7枚の小皿のうち3枚をマオさんの席に、4枚を自分が座る赤い壁側の席に並べる。それぞれに水入れと布巾も脇に置く。

「先生。準備出来ました」

「ありがとう。きみはこれを使って」

 じぶんの席に腰を下ろした私に葦仁先生が寄越したのは、マオさんのよりちょっと濃い黄緑の色鉛筆だ。

「始めようか。まず、抵抗がなかったら『私は幸せだ』って一文をスタートにしてほしい」

「わかりました」

「じゃあ、西園寺さん。お願いします」

「はい」

 小さく息をつき、手元のボードに視線を落とす。




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