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第一章 『歪んだ刃先』

五話 『勇気のその先に』

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体感距離からしてかなり歩いたと自負しているが、スマホを開けマップを見る限りあまり進んでいないようだ。
 日も落ち、すっかり夜になった大都市は少し不気味なオーラを醸し出している。そんな大都市の裏路地でこそこそと家を目指し歩いていく愛斗。
 あまりこの地域のため地図頼りの帰宅になってしまっているが、これもいい経験だと自分に言い聞かせる。『弱音を吐く前に行動に移す』、愛斗の中で心得ていることであり、自分の中でも気に入っている言葉だ。
 後ろ向きの人生で自害せず、ここまでやってこれたのはこの言葉があったからと言っても過言ではない。それ程自分の中では行動源となっている言葉だ。
 そんな心で唱えている言葉に背中を押されたのか、徐々に歩くペースが速くなっている。一定のリズムで呼吸をし、それに並列して足の動きもテンポを刻みながら進んでいく。さすがに傷跡が癒えるわけではないが、それを補う根気でどうにかなっている状況だ。
 「もう九時じゃないか…。はぁ、明日の用意もしたかったのに‥‥」
 再度愚痴を漏らす愛斗は大きな溜息を吐き、力なさげな声でそう呟いた。
 月光が差す路地の中、ほぼ正常な体の運動を果たしている愛斗は、スマホ画面に表記された駅のマークを目にし、安堵の笑みを零す。
 やっとここまで来た。文房具屋での理不尽な暴力が早々数時間。意識を保ち、よろめきながらも突き進み、その努力の結果が今、スマホ画面に表記されている。喜びを表すように拳を握り締め、切れた唇を気に掛けず歯を食いしばる。
 努力は実った。そう実感できるこの瞬間、本当によかったと思える。本音を言うとタクシーを呼んだ方が楽なのだが、金銭的問題が生じ、それ以外にも男の性とやらがそれを認めなかった。そのため這いつくばるように路地を歩き、現在進行形で喜びを謳っている。
 「さぁ、ラストスパートだ」
 不意に零れた言葉に気を掛けず、無我夢中で足取りを速める。傷跡の痛みを感じないほど興奮してしまっている心。高ぶる意思を妨げるものは何もなく、今目の前にあるのは帰宅という大きな課題。それを目前とし、不細工な笑みを続けざまに浮かべ足を進める。
 
————————ぺちゃ。
 
 音がした。それは確かに自分の真下から耳元まで響き、その不快感を覚える音に皺を寄せる。足底に覚えるのはねちゃねちゃした感触。そして鼻を抜ける刺激臭。
 「なん…だ? この臭い‥‥」
 不気味な路地裏に、感じたことがない危機感が体中を駆け巡っている。
 靴底にへばり付く何かを確認したいが、怖気づいた自分では不可能であり、ここは引き返すの一番だと、判断したのだが。
 『弱音を吐く前に行動に移す』
 どこからか聞こえたその言葉に引き下がろうとした足を止めた。
 揶揄に、怪訝された視線に、頼れない周りに、打ち果ててしまった少年の健気な思いが、その哀れな少年の想いの丈が託された言葉が、脳裏に木霊した。
 恐れを抱いた感情を飼い慣らし、引き下がった歩数分前へ歩いた。
 「うっ‥…」
 二度目の刺激臭に渋い顔を見せ、その出所を探るべくスマホの光で暗闇の満ちた路地を照らす。
 靴に絡みつく液体様な何か、それは愛斗のスマホの光で露となった。
 「マジかよ…これ‥‥‥」
 視界いっぱいに広がったのは一面の赤。それも真っ赤に滴る鮮血であり、まだ近くに実行犯が居るかもしれない。そんな恐怖に身を抱かれながら恐る恐る靴底へと光を当ててみる。
 「——————」
 靴底には得体の知れない臓器のようなものがこびり付いており、桃色の血肉が靴の間に挟まっている。よく見ればまだ活動を続ける臓器も周りに散乱しており、辺り一面地獄絵図と化していた。
 「おっ」
 嗚咽が走るその光景に激しく嘔吐し、気が滅入ってしまう現実に目を擦った。
 今視界に映っている惨状がどれほど悪辣な現場か。考えるだけでも悍ましい犯人の予想図。苛立ちも芽生えるが、今は身の安全を確立せねばならない。この状況から察するに犯人はまだ近くに居る。残された血痕は第三者へ足取りを伝えるかのように奥へ続いており、その不吉な印にまんまと引き寄せられてしまった愛斗。
 死体を引き摺ったような跡を辿っていく。手順としては警察への通報が最優先だが、この惨劇の主要人物が近くに居る以上、迂闊な行動は避けるべき。そう的確な判断をした愛斗は奥へ奥へと足を進める。
 完全に回復した体ではないが、いざとなれば闘う覚悟も出来ている。死体の肉片を見る限り刃物を手にしているのはほぼ確定であり、その切れ味が凄まじいものであるのも臓器の損傷具合から容易に読み取れた。
 「ここ‥‥なのか‥‥」
 行き着いたのは駅方面の路地裏で、建物に囲まれた行き止まりの路地だ。相変わらず視界は黒く塗りたくられ、微妙に音は聞こえるものの視認は愚か、力づくで止める気力も微かにしか残っていない。
 「大丈夫。僕は死なない。僕は‥‥死なない」
 そんな身体的にも精神的にも心を摩耗し尽くした愛斗は意を決し、スマホのライトを音のする方へ向けた。
 「だ、誰だッ! おま、お前はそこで何をやっている!」
 恐怖のあまり喉が震え、手が震え、足が震え、息が荒くなる愛斗は強い意志と共に実行犯であろう人物を凝視する。
 暗闇の中に差し込んだ光に視界は明転し、慣れない光を目で調整し、対象を確認する。
 ふと明かりに照らされたのは地べたに座る一人の少女。それも不気味なまでに体を、髪を赤く濡らした少女だった。少女は愛斗の声に気づき、その場で立ち上がった。揺れる長い髪にどこかで見たことのある服装。記憶の掘り起こしに意識が傾く愛斗に少女は一気に振り返り、その長い髪を靡かせた。髪に付着した血液が愛斗の頬にも掛かり、それが雫となり滴り地面に落下する。気持ちが良い水着音を鳴らす血と同時に、愛斗の脳内は無理解を繰り返し唱えることになったのだ。
 「あら、今日の変態男‥‥。名は確か、愛斗だったわよね?」
 「お、おま‥‥お前ここで何を‥……」
 怒号を飛ばした相手、それは今日の昼、文房具屋で口論となったそう、彼女だったのだ。
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