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広徳寺と藤左衛門
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滋賀県にある広徳寺は知る人ぞ知る有名な寺である。それは「真鍮祖神」。日本における真鍮製造の始まりの伝承が残る寺であった。
真鍮とは銅と亜鉛の合金である。黄金色に輝く色は古来より人々を魅了し、仏具を始めとして様々な場面で使用され続けてきた。日本人には5円玉で見慣れた素材であろう。
そんな真鍮が日本国内で製造され始めたのは、江戸時代初期からだと言われている。それ以前は海外からの輸入に頼っていた。しかも当時の真鍮は、金と同じ価値で取引をされる貴重な素材ですらあった。
なら何故それほど貴重な真鍮が長年国内生産されてなかったかと言えば、亜鉛の存在を日本人が無視してきたからに他ならない。もっと言えば、亜鉛の精錬が確立できなかったために屑金属として放置されてきた歴史がある。
実は亜鉛の精錬は結構難度の高い作業であり、あの技術大国であった中国ですら確立したのは明代に入ってからであった。具体的には亜鉛の精錬は、溶解ではなく気体にまで変化させなければ行えないというものだ。
従って古代の真鍮は、不純物が多く混じった不完全な物であったとも言える。
そんな真鍮が国内で製造される背景には、豊臣 秀吉による日本全国の統一がある。これによって各地は復興に沸き、様々な資材が畿内へと集まってくる。そんな中、トタンも海外から輸入されるようになっていた。
現代の我々にとってはトタンは亜鉛メッキされた鋼板を指すが、この時代は違う。純度100パーセントの亜鉛板であった。しかも亜鉛素材は加工し易く錆びにも強い。何より鉄より安いため、建材としても利用されるようになったのは自然な流れであろう。
こうした状況の最中、世間的には文禄の役が起こっていた文禄2年 (1593年)に滋賀県の広徳寺にて不思議な現象が起こる。
男の名は藤左衛門。広徳寺のある金成山の麓に住む貧しい百姓だ。長年続いた戦乱のためか、働いても働いても生活は苦しく、最早生まれた村を捨て逃げる以外に道は無いと考えるまでに追い詰められていた。
だが村を捨てた所で、藤左衛門の生活が豊かになる訳ではない。下手をすれば、いや高確率で待っているのは今よりもひどい生活。いつのたれ死んでもおかしくない生活である。行く宛の無い藤左衛門にとっては、村を出る行為は分の悪い賭けでしかなかった。
たからこそ仏に縋ろうと意を決する。藤左衛門が深く帰依する広徳寺に籠り、本尊の庚申尊に自身の未来が開けるようにと祈願をした。
その祈願は17日に渡って続く。それも断食も行いながら。
一心不乱に祈念する藤左衛門であったが、空腹と睡眠不足から精も根も尽き果て、満願となる日の夜には気が付けば意識を手放してしまう。そんな時、藤左衛門の夢の中に齢7歳ほどの童子が現れた。
童子はそこで銅にトタンを混ぜる合金の製法を藤左衛門に伝授する。
そう、真鍮製造の秘法は、お告げとして伝わった。
意識を取り戻した藤左衛門は涙を流して庚申尊に感謝し、急いで下山する。
そこからの藤左衛門は、お告げを現実にするべく挑戦を始めた。
何せ藤左衛門は百姓である。幾らお告げを得たと言っても、全てを一から始めなければならない。素材の確保に設備に道具と必要な物を揃えるだけでも一苦労であった。
幸いなのは村を出ようと考えていたため、路銀が多少なりとも手元にあった事であろう。これを使って最低限を揃えた。その上で作業場は、村の鍛冶師に頭を下げて間借りさせてもらえるよう話を付ける。
こうして始まった藤左衛門の真鍮製造は、実を結ぶまでに6年の月日を費やしたという。
だがそれからの藤左衛門は大きく運命が変わる。慶長4年 (1599年)に京に出て本格的な製造を始めると、瞬く間に有名となり、製作した真鍮は飛ぶように売れた。
当然であろう。これまで輸入に頼っていた貴重な素材が国産として手に入るのだ。価格が安くなる上、調達が楽になる。特に京は歴史ある寺社が多数存在する地だ。仏具としての真鍮の需要があるのは火を見るより明らかであろう。
例えば悪名高い鉛白白粉がある。これは戦国時代には輸入品だったため、そこまで売れる事はなかった。国内に多く出回るようになったのは、江戸時代に入って国産化が実現し、価格が安くなってからである。
それはさて置き、藤左衛門は真鍮製造によって巨万の富を築く。それだけではない。日本国内での真鍮市場の独占的地位を確立し、京は真鍮製造の聖地として長年君臨を続けた。
元和2年 (1616年)、藤左衛門は自身を救ってくれた広徳寺の本堂を再建する。その本堂には、いつの頃からか製作者不明の藤左衛門の木像が置かれるようになった。
これにより広徳寺は国内の真鍮の祖社として、はたまた奇跡の大逆転を成し遂げた成功者として大いに注目を浴び、各地から参拝者が訪れるようになったという。
ちょっとした切っ掛けが人生そのものを変える。人の一生とは何と不思議な事か。現代なら間違いなく伝説となったであろう藤左衛門は、慶長の世でまさしく成り上がりを果たした。
現在の藤左衛門は、京都の天性寺にて静かに眠っているという。
真鍮とは銅と亜鉛の合金である。黄金色に輝く色は古来より人々を魅了し、仏具を始めとして様々な場面で使用され続けてきた。日本人には5円玉で見慣れた素材であろう。
そんな真鍮が日本国内で製造され始めたのは、江戸時代初期からだと言われている。それ以前は海外からの輸入に頼っていた。しかも当時の真鍮は、金と同じ価値で取引をされる貴重な素材ですらあった。
なら何故それほど貴重な真鍮が長年国内生産されてなかったかと言えば、亜鉛の存在を日本人が無視してきたからに他ならない。もっと言えば、亜鉛の精錬が確立できなかったために屑金属として放置されてきた歴史がある。
実は亜鉛の精錬は結構難度の高い作業であり、あの技術大国であった中国ですら確立したのは明代に入ってからであった。具体的には亜鉛の精錬は、溶解ではなく気体にまで変化させなければ行えないというものだ。
従って古代の真鍮は、不純物が多く混じった不完全な物であったとも言える。
そんな真鍮が国内で製造される背景には、豊臣 秀吉による日本全国の統一がある。これによって各地は復興に沸き、様々な資材が畿内へと集まってくる。そんな中、トタンも海外から輸入されるようになっていた。
現代の我々にとってはトタンは亜鉛メッキされた鋼板を指すが、この時代は違う。純度100パーセントの亜鉛板であった。しかも亜鉛素材は加工し易く錆びにも強い。何より鉄より安いため、建材としても利用されるようになったのは自然な流れであろう。
こうした状況の最中、世間的には文禄の役が起こっていた文禄2年 (1593年)に滋賀県の広徳寺にて不思議な現象が起こる。
男の名は藤左衛門。広徳寺のある金成山の麓に住む貧しい百姓だ。長年続いた戦乱のためか、働いても働いても生活は苦しく、最早生まれた村を捨て逃げる以外に道は無いと考えるまでに追い詰められていた。
だが村を捨てた所で、藤左衛門の生活が豊かになる訳ではない。下手をすれば、いや高確率で待っているのは今よりもひどい生活。いつのたれ死んでもおかしくない生活である。行く宛の無い藤左衛門にとっては、村を出る行為は分の悪い賭けでしかなかった。
たからこそ仏に縋ろうと意を決する。藤左衛門が深く帰依する広徳寺に籠り、本尊の庚申尊に自身の未来が開けるようにと祈願をした。
その祈願は17日に渡って続く。それも断食も行いながら。
一心不乱に祈念する藤左衛門であったが、空腹と睡眠不足から精も根も尽き果て、満願となる日の夜には気が付けば意識を手放してしまう。そんな時、藤左衛門の夢の中に齢7歳ほどの童子が現れた。
童子はそこで銅にトタンを混ぜる合金の製法を藤左衛門に伝授する。
そう、真鍮製造の秘法は、お告げとして伝わった。
意識を取り戻した藤左衛門は涙を流して庚申尊に感謝し、急いで下山する。
そこからの藤左衛門は、お告げを現実にするべく挑戦を始めた。
何せ藤左衛門は百姓である。幾らお告げを得たと言っても、全てを一から始めなければならない。素材の確保に設備に道具と必要な物を揃えるだけでも一苦労であった。
幸いなのは村を出ようと考えていたため、路銀が多少なりとも手元にあった事であろう。これを使って最低限を揃えた。その上で作業場は、村の鍛冶師に頭を下げて間借りさせてもらえるよう話を付ける。
こうして始まった藤左衛門の真鍮製造は、実を結ぶまでに6年の月日を費やしたという。
だがそれからの藤左衛門は大きく運命が変わる。慶長4年 (1599年)に京に出て本格的な製造を始めると、瞬く間に有名となり、製作した真鍮は飛ぶように売れた。
当然であろう。これまで輸入に頼っていた貴重な素材が国産として手に入るのだ。価格が安くなる上、調達が楽になる。特に京は歴史ある寺社が多数存在する地だ。仏具としての真鍮の需要があるのは火を見るより明らかであろう。
例えば悪名高い鉛白白粉がある。これは戦国時代には輸入品だったため、そこまで売れる事はなかった。国内に多く出回るようになったのは、江戸時代に入って国産化が実現し、価格が安くなってからである。
それはさて置き、藤左衛門は真鍮製造によって巨万の富を築く。それだけではない。日本国内での真鍮市場の独占的地位を確立し、京は真鍮製造の聖地として長年君臨を続けた。
元和2年 (1616年)、藤左衛門は自身を救ってくれた広徳寺の本堂を再建する。その本堂には、いつの頃からか製作者不明の藤左衛門の木像が置かれるようになった。
これにより広徳寺は国内の真鍮の祖社として、はたまた奇跡の大逆転を成し遂げた成功者として大いに注目を浴び、各地から参拝者が訪れるようになったという。
ちょっとした切っ掛けが人生そのものを変える。人の一生とは何と不思議な事か。現代なら間違いなく伝説となったであろう藤左衛門は、慶長の世でまさしく成り上がりを果たした。
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