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六章 大寧寺ショック
猫十河
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「三好郡を除く吉野川以南を遠州細川に割譲しよう。これが和睦の条件となる。三好と争わずとも領土が増えるのだ。これ以上の条件はあるまい。ああっ、乱を起こした連中は遠州細川で好きにしてくれ。但し、武装解除させるのが条件となる。それができない場合は手出し無用。黙って見ておれ」
和睦の条件はとんでもないものであった。ただ兵を率いて駆け付けただけで、阿波国の四分の一もの領土を割譲を提示される。それも一級河川吉野川の流域までもが手に入るのだ。吉野川は氾濫は多いものの、流域の平野は肥沃な土地であり、しっかりと開発をすれば確実に穀倉地帯となる。
一切の小競り合いも無く、突然このような破格の和睦条件を提示されるのは全ては三好側の事情に他ならない。平たく言えば、阿波戦線で無駄な兵力を消耗したくないのがその理由となる。
なら三好側に何が起こったかというと、九月中旬に丹波戦線で負けた。それも大敗と言える見事な負けっぷりである。更には長年氏綱派を支えてきた丹波守護代内藤 国貞殿と嫡男である永貞殿が討ち死にしたというのだから、被害の深刻さが分かるというもの。中でも不幸中の幸いなのは、内藤 国貞殿の居城 八木城を辛くも守り抜いた点であろうか。もし八木城まで落城していたならば、戦略の大幅修正の必要が迫られるほどの目も当てられない惨状となっていたのは確実である。
なお、この丹波国攻めに当家の将兵は参加していない。これは元々丹波攻めが京から晴元派を追い出した後の追撃戦の扱いに近かったからだ。当家には手柄を立てさせないようにと京の守備へと回された形となったが、結果的に命拾いをする。
こうなれば、現状の三好に必要なのは立て直しの時間となる。当家と真正面から戦をしている余裕は無い。反三好 実休派との戦いは、相手が寡兵であるからこそ継続しているだけものであった。
ずっと変だと感じていたのだ。本来なら反三好 実休派の兵力程度では、阿波三好軍に軽く蹴散らされて終了である。それがここまで長引いていたのは阿波国内事情もさる事ながら、ここで多くの動員を行えば、畿内事情が急変した際に後詰ができなくなってしまう。そんな切実な事情がこの戦いの裏には隠されていた。
これが和睦と大幅譲歩の理由と言えよう。
だが、この和睦交渉には一つの齟齬が生じる。当家は反三好 実休派の救出も目的としているが、そもそもの軍事目的は阿波国の完全掌握にあり、可能であれば三好 実休の討伐も視野に入れていた。例え十河 一存が好条件を提示しようとも、それで満足できる筈がない。
「さすがは十河殿。話が分かる。これで安心した。足利 義栄様の初陣にケチが付いたのでは可哀想だからな。派手な戦果が期待できそうで本当に良かった」
「……細川殿。お主は何を言っているのだ? こちらの和睦の条件に納得したのであろう? なら、どうして戦果と言葉が出てくる」
「ああっ、納得したさ。迷いなく蹴飛ばせるとな。こちらは戦をしに来たのに、何も残さないまま帰る訳にはいかない。提案、とても感謝しているぞ」
だからこそ容赦無く和睦の提案を断る。しかも、これ見よがしに切り札となる足利 義栄の名を出すのも忘れない。揺さぶりを掛け、十河 一存の動揺を誘おうという狙いを込める。
俺がこのような態度に出るのは、今が三好宗家の分水嶺だと考えているからに他ならない。三好宗家は敗戦の傷を癒し、後始末に奔走している最中だ。そこで当家が阿波国北部を荒らせばどうなるか? 阿波国内で長期間の戦を行えばどうなるか? 阿波国の兵を畿内へと動員できない状況を作り出せばどうなるか?
答えは三好宗家を没落させる大きなチャンスとなる。
とは言え前提となるのは、畿内での晴元派の動きだ。俺達は晴元派に転向した訳ではないため、連携して動くというのはまず起こらない。しかし、丹波戦線での勝利で勢いに乗った晴元派が丹波国全域の掌握に乗り出す、もしくは近江六角家が京へと侵攻すれば三好宗家に二正面作戦を強いられる。これに対応できる力は現在の三好宗家には残っていない。
より確実に仕留めるなら、当家が阿波国で三好宗家の後詰を引き付けるのも一つの手だ。そうすれば三好宗家の畿内での兵の動員は大きく低下するため、ここぞとばかりに晴元派が動く可能性が高い。あわよくば、摂津国や和泉国で三好宗家に対する春の離反祭りが開催されるのでないだろうか。そんな相乗効果さえ期待できる。
三好 実休が画策している河内遊佐家乗っ取りも、三好宗家の力を背景としたものに過ぎない。力の根源自体が落ちぶれてしまえば、その策も水泡となって消えるのが見えている。
降って沸いたこの好機を、俺は手放す訳にはいかなかった。
三好 長慶を追い落とした暁には、細川 晴元の討伐は当家が責任を持って行う。四国制圧を終えれば、三好宗家に取って代わる力も備わっているというもの。
「お主は儂を愚弄しておるのか! 遠州細川が大軍で来たならまだしも、見る限り兵は当家よりも少ないではないか。それでどう勝つつもりだ!」
「そうそう、その意気だ。当家は兵の数が阿波三好軍より少ないからな。きっと勝てるぞ。だから四の五の言わずに戦で決着を付けよう。まあ、これで負ければ三好は天下に恥を晒すな。……いや、間違った。三好が勝つから安心しろ」
「お主……もしや儂に何か隠し事をしておるのか?」
「隠すような事は何も無いだろ? 後ろで靡いている『足利二つ引き』の旗も目立つようにしてあるぞ」
しかしながら、もどかしいのがこの十河 一存の態度である。こちらの大義名分を示すために足利 義栄の名を出したのが良くなかったのか、口調こそ激しいが、腰が引けているのが手に取るように分かる。明らかに当家との戦を回避しようとしていた。
「鬼十河」とも呼ばれる猛将ともなれば、挑発に乗ってくると思っていただけに拍子抜けである。いや、この程度の挑発は軽く流せる冷静さを持っているからこそ、この難しい交渉に出てきたと考えた方が良さそうだ。
「……一度この和睦の話は持ち帰り、皆で協議する。七日後にもう一度話し合う形で良いな? 改めてこちらから使いを出す」
結果として、善戦空しく交渉は延期となる。こちらの意図が読まれているとは思えないが、ここで一旦引く姿勢を見せた辺り、俺を疑っているのが分かる。今ここで開戦だけはしてはならないと、そんな危機感が働いたのではないだろうか。
その勘は正しいだけに、俺としては悔しい。
「ちょっと待てよ! そっちから和睦の話を持ち込んで、一度持ち帰るというのはどういう意味だ。こっちは最初から戦をすると言ってるんだぞ。持ち帰る必要は無いだろ。『鬼十河』の二つ名は嘘か。そこまで意気地が無いなら、いっそ『猫十河』に改めろ! それがお前には似合いだ!」
「貴さ……いや、何でもない。七日後にもう一度話し合いだ。それまで手出しをするな」
「分かった。分かった。待ってやるよ。けど、次は無いからな。それだけは覚えておけ」
お陰で苦し紛れに放った暴言も空しく宙に舞う。こうなればこちらの打つ手はない。諦めて次回までに、もっと怒らせる悪口を考えておくとしよう。
……待てよ。今十河 一存が言った「手出しをするな」という言葉を限定的に解釈すれば、良い挑発ができるのではないか? この悔しさは、それで晴らさせてもらうとするか。
そう、こちらからは対岸の阿波三好軍に対して絶対に手出しはしない。手を出すのは、それ以外の場所となる。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
七日後の昼下がり、今一度の和睦交渉には前回の十河 一存に加えて最も厄介な人物が加わっていた。
「細川殿、此度は恨むぞ。いつの間に遠州細川家は晴元派に鞍替えしたのだ。もしや官位や守護職が欲しくて靡いたのか?」
言うまでもなく三好宗家当主の三好 長慶だ。本来なら畿内にいる筈が、急遽俺との和睦交渉のために阿波までやって来る。この行動力こそ、三好宗家を一代で畿内の覇者へと成り上がらせた秘訣なのだと思わされる。
とは言え目の下には隈が見える辺り、さすがに今回はお疲れのようだ。それでもいつも通り背筋をピンと伸ばして隙の無い佇まいでいるのがその真骨頂なのだろう。隣に座る弟の十河 一存は俺に対して敵意丸出しなのだから、実に扱いやすい。兄弟でもここまで違うのかと感心させられてしまう。
「誓って言う。当家は晴元派には転向していない」
「細川殿ならそう言うとは思っていた。ただな、此度の絵図は晴元派の動きが無ければ完成しないのは分かっておろう。そこはどう釈明する」
珍しい事もあるものだ。普段ならもっと余裕を見せる態度だというのに、今回は妙に棘がある。もしくは疲れでそこまで気を回す余裕が無いのだろうか。
とは言えそれが、逆に俺にとっては願ったり叶ったりの状況ではある。さっさと答え合わせをして、本当の交渉へと持ち込むとしよう。ほぼ間違いなく三好 長慶は、俺の目論見に気付いたからこそ全ての予定の放り出して今回の交渉に駆け付けたと考えて良い。
「三好殿ならこう言えば分かるか? 晴元派が喜ぶ撒き餌をした、と」
「つまり細川殿はこう言いたいのか。晴元派は単なる駒で、策によって利用するだけだと。よくこんな恐ろしい策を考えるな。もう少しで三好は滅亡一歩手前になる所であったぞ」
「俺からすればそれに気付く三好殿の方が恐ろしいがな。氏綱派の枠内で考えていれば絶対に分からなかったろうに。猫十河が典型例だ。後詰があるのを隠していると考えるのが精一杯だったろうな」
「儂も急使からの書状を見た当初は、遠州細川家が全軍を挙げて攻めてきたのだと思ったぞ。だが上洛するならもだしも、阿波国攻めにそこまでする利が見出せなかったのでな。なら答えは一つであろう。阿波攻めは陽動だと。これが分かれば、当家に多方面から攻め込む策だというのが見えてくる」
「それが開口一番の晴元派への鞍替えに繋がる訳か。まあ、これで分かったろう。晴元派への転向はしていないと。それで、三好宗家当主の三好 長慶殿はこの交渉をどうするつもりだ?」
「細川殿相手に腹の探り合いをすれば、大変な目に合うからな。まさかこの七日間で城を次から次に落としていくとは思わなかったぞ。しかも阿波大西家も既に降したと聞いておる。まごまごしていれば、交渉自体が無意味となってしまいそうだ」
この七日間、向こうは三好 長慶との連絡に使ったようだが、こちらはただ無為に過ごしていた訳ではない。何より当家は決戦のためにここまでやって来たのだから、「交渉が終わるまで何もせずにいろ」というのは酷ではある。幾ら常から十分な鍛錬を積んであるとは言え、ずっと士気を維持し続けろというのは難しいというのが実情だ。
吉野川以南の城を次々と落としていったのは、目の前の敵と戦えないうっ憤晴らし兼士気の維持という側面がある。特に新兵器の抱え大筒や抬槍は、初の実戦投入だけに良い練習台にもなってくれた。
そのお陰か、皆の士気は更に爆上がりしている。最早機甲部隊でも出してこなければ、今の三好に勝ち目は無い。和睦交渉を決裂させるための仕掛けではあるものの、良い準備運動となった。
「約束通り、吉野川を挟んだ阿波三好軍には一切手出しをしていない。それに反三好 実休派は武装解除させて傷の手当と飯の配給を行い、休ませている。こちらに落ち度は無いな」
「貴様! よくもぬけぬけとそのような嘘を言いおって! 遠州細川家が約束を違えたのは一目瞭然であろう!」
「止めよ一存。細川殿相手に詳細を詰めなかったお主が悪い。相手が一枚も二枚も上手だっただけだ。此度の失敗を糧にして次に生かせ」
「話の途中で悪いが、結局どうするんだ? こちらとしては戦をするために阿波国に来たんだが。そちらの猫十河はようやくやる気になってくれたようなので、後は三好殿の決断一つだぞ」
既に舞台は整っている。最早これ以上の交渉の引き延ばしもできない。後は三好 長慶が開戦の決断を下して当家と戦を始めるだけだ。
策を見破られたのは残念ではあるものの、逆を言えば四国外からの後詰は無いのが確定する。それをすれば三好宗家が没落一直線となるからだ。元々こちらは三カ国分の兵を相手に戦うつもりで侵攻したため、想定内と言えよう。結果として当家の勝ちは揺るぎないままだ。
今回の阿波国戦線での敗因は、三好宗家の没落を止める事を優先したために遠州細川軍への対策を何一つ行わなかった。それに尽きる。
そう考えていたのだが、三好 長慶は一つ切り札があった。全てを見通しているかのように俺に対してにやりと笑みを浮かべたかと思うと、迷わずそれを口にする。
「なるほど、儂の決断か。ならば阿波国は捨てる。家臣や家人、兵達を軒並み畿内へと移す以外に三好宗家が生き残る道はない」
「いっ、今何と仰ったのですか、兄上?」
「あっ、はっはっは。そうきたか。阿波国を捨てるのか。いやー、参ったな。これが出てくるとは思わなかったよ。完敗だ。その提案なら受ける」
「そうか。儂は細川殿に勝ったのか。それは気分が良いな」
「損切りして余剰戦力を作るんだよな。城詰めの兵を掻き集めれば、結構な数になる。ついでに動員もして、根こそぎ抜いていくつもりだろう。阿波国を捨てるのは、晴元派との戦いに集中するためか? 先の丹波攻めで晴元派が快勝したとは言え、もう一度真正面から戦えるほど継戦能力があるとは思えないしな。俺が画策した背後から殴り掛かるのが精一杯だろうさ。そういう意味で、今が丹波攻めの好機ではある」
「近江と丹波のどちらにするか迷いはしたが、此度は丹波であろう。細川殿と同じ考えだ」
「で、勝てるのか?」
「勝つさ。それにしてもあっさり承諾するな。もっと食い下がると思っておったぞ」
「そりゃ、な。阿波国北部を丸々くれるというのに、邪魔する程野暮じゃない。当家は晴元派じゃないからな」
「利に聡い細川殿らしいな。ならば丹波の晴元派を叩くのに、兵糧を援助して欲しい」
「城から備蓄分も含めて全て持ち出すくせに図々しい。銭や金目の物も含めてもぬけの殻にするつもりだろうに。代わりになるかどうか分からないが、反三好 実休派が取っていた人質は返す。これで我慢してくれ」
「それでは足りんな」
「ぬかせ」
一所懸命の価値観のある戦国時代にこの考えができるのが異端でしかない。普通なら当家と戦わないという選択をしても、地域に根付いた武士を見捨てるのが関の山となる。そうすれば、従えている摂津国や和泉国の豪族達が「三好宗家は頼りにならない」となり、次々と晴元派へと靡いていただろう。
しかも三好 長慶によると、この決断ができたのは相手が俺だからなのだという。
当家と争って負ければ、土地や資産を全て取り上げられてしまう。武士としての待遇も保証されない。当然ながら臣従など絶対に受け入れられない。
そんな惨めな思いをするくらいなら、活躍の場を与えてもらえる方が幾らかマシだ。手柄を立てれば再び城主となるのも夢ではない。慣れ親しんだ地を離れるのは辛いだろうが、それよりも家を存続させるのが武士の命題である。土佐の蛮族に蹂躙されるのは、それだけ屈辱的なのだと伺わせる。
中には言う事を聞かない者もいるだろうが、そういった連中は当家で遠慮無く始末して良いとのお墨付きをもらった。そこまでは面倒見切れないらしい。その気持ちは俺も分かるだけに、ついつい乾いた笑いが出てしまった。
更には讃岐国も当家の好きにして良いとの言質を得る。讃岐国の豪族は細川京兆家の家臣でありながら、現当主の細川 氏綱殿を袖にしたために良い感情を持っていないのだとか。三好宗家に保護を求めてきた場合は受け入れるが、そうでない者は見捨てると言い放つ。これは自業自得だけに仕方ないだろう。
意外だったのが、反三好 実休派の処遇をどうするのか尋ねてきた事だろうか。処遇に困るなら引き渡してもらえば、三好宗家で処刑すると提案される。
これに付いては、細川 氏之の嫡子である細川 真之をこちらに引き渡してもらう形で解決をする。反三好 実休派がしなければならないのは復讐ではなく、残された細川 真之を支える事だ。このままでは細川 真之の頼る者が誰もいなくなってしまい、家の存続さえ危うくなる。これでは殺された細川 氏之が浮かばれない。
三好 長慶も俺の考えに賛同をしてくれたため、引き渡しを約束してくれた。
最後に忘れてはならない件がある。
「三好殿、こうなった以上は京に逗留している将兵を引き上げるが良いな?」
「待たれよ。細川殿、何か勘違いをしておらぬか? 三好宗家と遠州細川家は戦をしていない。そうであろう。なら、何ゆえ京から兵を引き上げねばならぬ。三好宗家と遠州細川家は今も共に氏綱派の陣営で変わりあるまい」
「よくも抜け抜けと……。京の町の警備を当家に負担させたいだけじゃないのか」
「お陰で丹波攻めに集中できる。今後も遠州細川家の活躍には期待しているぞ」
だがそれは、三好 長慶の詭弁によって現状維持のまま続く形となった。開戦一歩手前の両家がどうして同じ陣営の同僚なのか。馬鹿も休み休みいえと言いたいが、この微妙な関係はまだまだ手切れにはできないらしい。
いや、深くは考えないでおこう。兎にも角にも三好 長慶の常識外れの決断によって三好宗家は滅亡を免れ、当家は阿波国と讃岐国を得る形となる。
和睦の条件はとんでもないものであった。ただ兵を率いて駆け付けただけで、阿波国の四分の一もの領土を割譲を提示される。それも一級河川吉野川の流域までもが手に入るのだ。吉野川は氾濫は多いものの、流域の平野は肥沃な土地であり、しっかりと開発をすれば確実に穀倉地帯となる。
一切の小競り合いも無く、突然このような破格の和睦条件を提示されるのは全ては三好側の事情に他ならない。平たく言えば、阿波戦線で無駄な兵力を消耗したくないのがその理由となる。
なら三好側に何が起こったかというと、九月中旬に丹波戦線で負けた。それも大敗と言える見事な負けっぷりである。更には長年氏綱派を支えてきた丹波守護代内藤 国貞殿と嫡男である永貞殿が討ち死にしたというのだから、被害の深刻さが分かるというもの。中でも不幸中の幸いなのは、内藤 国貞殿の居城 八木城を辛くも守り抜いた点であろうか。もし八木城まで落城していたならば、戦略の大幅修正の必要が迫られるほどの目も当てられない惨状となっていたのは確実である。
なお、この丹波国攻めに当家の将兵は参加していない。これは元々丹波攻めが京から晴元派を追い出した後の追撃戦の扱いに近かったからだ。当家には手柄を立てさせないようにと京の守備へと回された形となったが、結果的に命拾いをする。
こうなれば、現状の三好に必要なのは立て直しの時間となる。当家と真正面から戦をしている余裕は無い。反三好 実休派との戦いは、相手が寡兵であるからこそ継続しているだけものであった。
ずっと変だと感じていたのだ。本来なら反三好 実休派の兵力程度では、阿波三好軍に軽く蹴散らされて終了である。それがここまで長引いていたのは阿波国内事情もさる事ながら、ここで多くの動員を行えば、畿内事情が急変した際に後詰ができなくなってしまう。そんな切実な事情がこの戦いの裏には隠されていた。
これが和睦と大幅譲歩の理由と言えよう。
だが、この和睦交渉には一つの齟齬が生じる。当家は反三好 実休派の救出も目的としているが、そもそもの軍事目的は阿波国の完全掌握にあり、可能であれば三好 実休の討伐も視野に入れていた。例え十河 一存が好条件を提示しようとも、それで満足できる筈がない。
「さすがは十河殿。話が分かる。これで安心した。足利 義栄様の初陣にケチが付いたのでは可哀想だからな。派手な戦果が期待できそうで本当に良かった」
「……細川殿。お主は何を言っているのだ? こちらの和睦の条件に納得したのであろう? なら、どうして戦果と言葉が出てくる」
「ああっ、納得したさ。迷いなく蹴飛ばせるとな。こちらは戦をしに来たのに、何も残さないまま帰る訳にはいかない。提案、とても感謝しているぞ」
だからこそ容赦無く和睦の提案を断る。しかも、これ見よがしに切り札となる足利 義栄の名を出すのも忘れない。揺さぶりを掛け、十河 一存の動揺を誘おうという狙いを込める。
俺がこのような態度に出るのは、今が三好宗家の分水嶺だと考えているからに他ならない。三好宗家は敗戦の傷を癒し、後始末に奔走している最中だ。そこで当家が阿波国北部を荒らせばどうなるか? 阿波国内で長期間の戦を行えばどうなるか? 阿波国の兵を畿内へと動員できない状況を作り出せばどうなるか?
答えは三好宗家を没落させる大きなチャンスとなる。
とは言え前提となるのは、畿内での晴元派の動きだ。俺達は晴元派に転向した訳ではないため、連携して動くというのはまず起こらない。しかし、丹波戦線での勝利で勢いに乗った晴元派が丹波国全域の掌握に乗り出す、もしくは近江六角家が京へと侵攻すれば三好宗家に二正面作戦を強いられる。これに対応できる力は現在の三好宗家には残っていない。
より確実に仕留めるなら、当家が阿波国で三好宗家の後詰を引き付けるのも一つの手だ。そうすれば三好宗家の畿内での兵の動員は大きく低下するため、ここぞとばかりに晴元派が動く可能性が高い。あわよくば、摂津国や和泉国で三好宗家に対する春の離反祭りが開催されるのでないだろうか。そんな相乗効果さえ期待できる。
三好 実休が画策している河内遊佐家乗っ取りも、三好宗家の力を背景としたものに過ぎない。力の根源自体が落ちぶれてしまえば、その策も水泡となって消えるのが見えている。
降って沸いたこの好機を、俺は手放す訳にはいかなかった。
三好 長慶を追い落とした暁には、細川 晴元の討伐は当家が責任を持って行う。四国制圧を終えれば、三好宗家に取って代わる力も備わっているというもの。
「お主は儂を愚弄しておるのか! 遠州細川が大軍で来たならまだしも、見る限り兵は当家よりも少ないではないか。それでどう勝つつもりだ!」
「そうそう、その意気だ。当家は兵の数が阿波三好軍より少ないからな。きっと勝てるぞ。だから四の五の言わずに戦で決着を付けよう。まあ、これで負ければ三好は天下に恥を晒すな。……いや、間違った。三好が勝つから安心しろ」
「お主……もしや儂に何か隠し事をしておるのか?」
「隠すような事は何も無いだろ? 後ろで靡いている『足利二つ引き』の旗も目立つようにしてあるぞ」
しかしながら、もどかしいのがこの十河 一存の態度である。こちらの大義名分を示すために足利 義栄の名を出したのが良くなかったのか、口調こそ激しいが、腰が引けているのが手に取るように分かる。明らかに当家との戦を回避しようとしていた。
「鬼十河」とも呼ばれる猛将ともなれば、挑発に乗ってくると思っていただけに拍子抜けである。いや、この程度の挑発は軽く流せる冷静さを持っているからこそ、この難しい交渉に出てきたと考えた方が良さそうだ。
「……一度この和睦の話は持ち帰り、皆で協議する。七日後にもう一度話し合う形で良いな? 改めてこちらから使いを出す」
結果として、善戦空しく交渉は延期となる。こちらの意図が読まれているとは思えないが、ここで一旦引く姿勢を見せた辺り、俺を疑っているのが分かる。今ここで開戦だけはしてはならないと、そんな危機感が働いたのではないだろうか。
その勘は正しいだけに、俺としては悔しい。
「ちょっと待てよ! そっちから和睦の話を持ち込んで、一度持ち帰るというのはどういう意味だ。こっちは最初から戦をすると言ってるんだぞ。持ち帰る必要は無いだろ。『鬼十河』の二つ名は嘘か。そこまで意気地が無いなら、いっそ『猫十河』に改めろ! それがお前には似合いだ!」
「貴さ……いや、何でもない。七日後にもう一度話し合いだ。それまで手出しをするな」
「分かった。分かった。待ってやるよ。けど、次は無いからな。それだけは覚えておけ」
お陰で苦し紛れに放った暴言も空しく宙に舞う。こうなればこちらの打つ手はない。諦めて次回までに、もっと怒らせる悪口を考えておくとしよう。
……待てよ。今十河 一存が言った「手出しをするな」という言葉を限定的に解釈すれば、良い挑発ができるのではないか? この悔しさは、それで晴らさせてもらうとするか。
そう、こちらからは対岸の阿波三好軍に対して絶対に手出しはしない。手を出すのは、それ以外の場所となる。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
七日後の昼下がり、今一度の和睦交渉には前回の十河 一存に加えて最も厄介な人物が加わっていた。
「細川殿、此度は恨むぞ。いつの間に遠州細川家は晴元派に鞍替えしたのだ。もしや官位や守護職が欲しくて靡いたのか?」
言うまでもなく三好宗家当主の三好 長慶だ。本来なら畿内にいる筈が、急遽俺との和睦交渉のために阿波までやって来る。この行動力こそ、三好宗家を一代で畿内の覇者へと成り上がらせた秘訣なのだと思わされる。
とは言え目の下には隈が見える辺り、さすがに今回はお疲れのようだ。それでもいつも通り背筋をピンと伸ばして隙の無い佇まいでいるのがその真骨頂なのだろう。隣に座る弟の十河 一存は俺に対して敵意丸出しなのだから、実に扱いやすい。兄弟でもここまで違うのかと感心させられてしまう。
「誓って言う。当家は晴元派には転向していない」
「細川殿ならそう言うとは思っていた。ただな、此度の絵図は晴元派の動きが無ければ完成しないのは分かっておろう。そこはどう釈明する」
珍しい事もあるものだ。普段ならもっと余裕を見せる態度だというのに、今回は妙に棘がある。もしくは疲れでそこまで気を回す余裕が無いのだろうか。
とは言えそれが、逆に俺にとっては願ったり叶ったりの状況ではある。さっさと答え合わせをして、本当の交渉へと持ち込むとしよう。ほぼ間違いなく三好 長慶は、俺の目論見に気付いたからこそ全ての予定の放り出して今回の交渉に駆け付けたと考えて良い。
「三好殿ならこう言えば分かるか? 晴元派が喜ぶ撒き餌をした、と」
「つまり細川殿はこう言いたいのか。晴元派は単なる駒で、策によって利用するだけだと。よくこんな恐ろしい策を考えるな。もう少しで三好は滅亡一歩手前になる所であったぞ」
「俺からすればそれに気付く三好殿の方が恐ろしいがな。氏綱派の枠内で考えていれば絶対に分からなかったろうに。猫十河が典型例だ。後詰があるのを隠していると考えるのが精一杯だったろうな」
「儂も急使からの書状を見た当初は、遠州細川家が全軍を挙げて攻めてきたのだと思ったぞ。だが上洛するならもだしも、阿波国攻めにそこまでする利が見出せなかったのでな。なら答えは一つであろう。阿波攻めは陽動だと。これが分かれば、当家に多方面から攻め込む策だというのが見えてくる」
「それが開口一番の晴元派への鞍替えに繋がる訳か。まあ、これで分かったろう。晴元派への転向はしていないと。それで、三好宗家当主の三好 長慶殿はこの交渉をどうするつもりだ?」
「細川殿相手に腹の探り合いをすれば、大変な目に合うからな。まさかこの七日間で城を次から次に落としていくとは思わなかったぞ。しかも阿波大西家も既に降したと聞いておる。まごまごしていれば、交渉自体が無意味となってしまいそうだ」
この七日間、向こうは三好 長慶との連絡に使ったようだが、こちらはただ無為に過ごしていた訳ではない。何より当家は決戦のためにここまでやって来たのだから、「交渉が終わるまで何もせずにいろ」というのは酷ではある。幾ら常から十分な鍛錬を積んであるとは言え、ずっと士気を維持し続けろというのは難しいというのが実情だ。
吉野川以南の城を次々と落としていったのは、目の前の敵と戦えないうっ憤晴らし兼士気の維持という側面がある。特に新兵器の抱え大筒や抬槍は、初の実戦投入だけに良い練習台にもなってくれた。
そのお陰か、皆の士気は更に爆上がりしている。最早機甲部隊でも出してこなければ、今の三好に勝ち目は無い。和睦交渉を決裂させるための仕掛けではあるものの、良い準備運動となった。
「約束通り、吉野川を挟んだ阿波三好軍には一切手出しをしていない。それに反三好 実休派は武装解除させて傷の手当と飯の配給を行い、休ませている。こちらに落ち度は無いな」
「貴様! よくもぬけぬけとそのような嘘を言いおって! 遠州細川家が約束を違えたのは一目瞭然であろう!」
「止めよ一存。細川殿相手に詳細を詰めなかったお主が悪い。相手が一枚も二枚も上手だっただけだ。此度の失敗を糧にして次に生かせ」
「話の途中で悪いが、結局どうするんだ? こちらとしては戦をするために阿波国に来たんだが。そちらの猫十河はようやくやる気になってくれたようなので、後は三好殿の決断一つだぞ」
既に舞台は整っている。最早これ以上の交渉の引き延ばしもできない。後は三好 長慶が開戦の決断を下して当家と戦を始めるだけだ。
策を見破られたのは残念ではあるものの、逆を言えば四国外からの後詰は無いのが確定する。それをすれば三好宗家が没落一直線となるからだ。元々こちらは三カ国分の兵を相手に戦うつもりで侵攻したため、想定内と言えよう。結果として当家の勝ちは揺るぎないままだ。
今回の阿波国戦線での敗因は、三好宗家の没落を止める事を優先したために遠州細川軍への対策を何一つ行わなかった。それに尽きる。
そう考えていたのだが、三好 長慶は一つ切り札があった。全てを見通しているかのように俺に対してにやりと笑みを浮かべたかと思うと、迷わずそれを口にする。
「なるほど、儂の決断か。ならば阿波国は捨てる。家臣や家人、兵達を軒並み畿内へと移す以外に三好宗家が生き残る道はない」
「いっ、今何と仰ったのですか、兄上?」
「あっ、はっはっは。そうきたか。阿波国を捨てるのか。いやー、参ったな。これが出てくるとは思わなかったよ。完敗だ。その提案なら受ける」
「そうか。儂は細川殿に勝ったのか。それは気分が良いな」
「損切りして余剰戦力を作るんだよな。城詰めの兵を掻き集めれば、結構な数になる。ついでに動員もして、根こそぎ抜いていくつもりだろう。阿波国を捨てるのは、晴元派との戦いに集中するためか? 先の丹波攻めで晴元派が快勝したとは言え、もう一度真正面から戦えるほど継戦能力があるとは思えないしな。俺が画策した背後から殴り掛かるのが精一杯だろうさ。そういう意味で、今が丹波攻めの好機ではある」
「近江と丹波のどちらにするか迷いはしたが、此度は丹波であろう。細川殿と同じ考えだ」
「で、勝てるのか?」
「勝つさ。それにしてもあっさり承諾するな。もっと食い下がると思っておったぞ」
「そりゃ、な。阿波国北部を丸々くれるというのに、邪魔する程野暮じゃない。当家は晴元派じゃないからな」
「利に聡い細川殿らしいな。ならば丹波の晴元派を叩くのに、兵糧を援助して欲しい」
「城から備蓄分も含めて全て持ち出すくせに図々しい。銭や金目の物も含めてもぬけの殻にするつもりだろうに。代わりになるかどうか分からないが、反三好 実休派が取っていた人質は返す。これで我慢してくれ」
「それでは足りんな」
「ぬかせ」
一所懸命の価値観のある戦国時代にこの考えができるのが異端でしかない。普通なら当家と戦わないという選択をしても、地域に根付いた武士を見捨てるのが関の山となる。そうすれば、従えている摂津国や和泉国の豪族達が「三好宗家は頼りにならない」となり、次々と晴元派へと靡いていただろう。
しかも三好 長慶によると、この決断ができたのは相手が俺だからなのだという。
当家と争って負ければ、土地や資産を全て取り上げられてしまう。武士としての待遇も保証されない。当然ながら臣従など絶対に受け入れられない。
そんな惨めな思いをするくらいなら、活躍の場を与えてもらえる方が幾らかマシだ。手柄を立てれば再び城主となるのも夢ではない。慣れ親しんだ地を離れるのは辛いだろうが、それよりも家を存続させるのが武士の命題である。土佐の蛮族に蹂躙されるのは、それだけ屈辱的なのだと伺わせる。
中には言う事を聞かない者もいるだろうが、そういった連中は当家で遠慮無く始末して良いとのお墨付きをもらった。そこまでは面倒見切れないらしい。その気持ちは俺も分かるだけに、ついつい乾いた笑いが出てしまった。
更には讃岐国も当家の好きにして良いとの言質を得る。讃岐国の豪族は細川京兆家の家臣でありながら、現当主の細川 氏綱殿を袖にしたために良い感情を持っていないのだとか。三好宗家に保護を求めてきた場合は受け入れるが、そうでない者は見捨てると言い放つ。これは自業自得だけに仕方ないだろう。
意外だったのが、反三好 実休派の処遇をどうするのか尋ねてきた事だろうか。処遇に困るなら引き渡してもらえば、三好宗家で処刑すると提案される。
これに付いては、細川 氏之の嫡子である細川 真之をこちらに引き渡してもらう形で解決をする。反三好 実休派がしなければならないのは復讐ではなく、残された細川 真之を支える事だ。このままでは細川 真之の頼る者が誰もいなくなってしまい、家の存続さえ危うくなる。これでは殺された細川 氏之が浮かばれない。
三好 長慶も俺の考えに賛同をしてくれたため、引き渡しを約束してくれた。
最後に忘れてはならない件がある。
「三好殿、こうなった以上は京に逗留している将兵を引き上げるが良いな?」
「待たれよ。細川殿、何か勘違いをしておらぬか? 三好宗家と遠州細川家は戦をしていない。そうであろう。なら、何ゆえ京から兵を引き上げねばならぬ。三好宗家と遠州細川家は今も共に氏綱派の陣営で変わりあるまい」
「よくも抜け抜けと……。京の町の警備を当家に負担させたいだけじゃないのか」
「お陰で丹波攻めに集中できる。今後も遠州細川家の活躍には期待しているぞ」
だがそれは、三好 長慶の詭弁によって現状維持のまま続く形となった。開戦一歩手前の両家がどうして同じ陣営の同僚なのか。馬鹿も休み休みいえと言いたいが、この微妙な関係はまだまだ手切れにはできないらしい。
いや、深くは考えないでおこう。兎にも角にも三好 長慶の常識外れの決断によって三好宗家は滅亡を免れ、当家は阿波国と讃岐国を得る形となる。
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