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真っ黒な夜、真っ白な朝。
これまでの人生で、色んなチャンスに巡り合いながらも、自分のこだわりと障害のせいで、いつも人とズレ、失敗ばかりを経験してきた自分。
年齢ばかりがいたずらにとり、周りの人間は成功していく焦り。皆がやりたいことを見つけ、人生を開拓していく中で、自分はいつまでも変われないまま、変わることに恐怖を感じる。
新しいことややりたいことを見つけていざやろうとしても、成功や正解がわかっていても、こだわりのせいで最短ルートを選べない。いつも遠回り。本気になりたくても本気になれない。
追い込まれないと自分はだめなのか。誰かに尻に火をつけられないと走り出せないのか。ただ、自分の選んだことが、自分の日頃の行いや過ちで失敗してしまいそうで。
純粋にそれだけを追いかけ続けることができないのか。本当にそれが好きなら何を捨てても構わないと思えるだろう。
欲しい物ばかりが目移りして、色んなものに手を出して全て手に入れたとしても、どこか満たされず、もっと求めたいと思ってしまう。
ものばかりに囲まれて、心はからのまま。歳を重ねても熟すことがない。いつまでも青二才のまま。甘ったれなのも、もっと厳しい環境に飛び込まないと成長できないのもわかっている。
ただ、今を生きるが必死で、死なないようにするのが大変で、現状を維持するのがやっと。新しいことを始める前に、人間として当たり前なことや正しいことをできるようにしないといけない。
だからこそ、とりあえず今の環境である程度自分の当たり前なことや正しい事ができるようになりたい。そこから旅立つのだ。うんざりする周りからの視線や、うっとおしい自分の慣習から抜け出して、今の自分が本当にやりたいと心のなかで自問自答して。厳選して一つだけを。ぱっと思い浮かんだもの、何を捨ててでもこれだけなら続けられることを。
それを選んでできるだけ回り道せず、正しく努力できたなら、自分のこだわりや障害も唯一無二の武器になり、きっと成功できる。
今の自分は欲しい物やなりたい自分を選ぶだけ。そして、それを手にするために、走り出すための一歩を踏み出すだけ。この最初の一歩を踏み出すのが、なかなか曲者でいかんせん思うようにいかないのが大概だとしても。
それでも成功していった奴らはほとんど早い時期からそれを見つけ、今の自分に踏ん切りをつけて、最初の一歩を踏み出し飛び立ち変わっていっている。
大体、これだけ生きていくと、このままだとこうなるだろうなだとか、ここでこうすれば変われるだろうなだとか人生の分岐点ってやつが見えてくる。
その新しさを選ぶには今の安住から抜け出さないと掴めないから新鮮さもあるけど、恐怖が何より先行する。
いつも始める前から尻込み。優柔不断が先走って右往左往。悩んだ挙げ句、結局何もしない元の鞘に収まる。それだけじゃ、残された時間の無駄遣い。地獄の賽の河原のように、積み重なるものがなにもないまま、最初から一からやり直し。
本当にもったいない。もったいない意味がない生き方に思える。もう今の自分がこれ以上自分でも付き合えないなら、もうええわと全て投げ出して、飛び立とう。
口だけ、机上の空論を語るばかりの虚しい毎日はもう飽きた。
年を取りすぎて何も始められなくなる前に、もういい加減飛び立とう。
今の自分がこれだと選んだものが、正解じゃないかもしれない。下手したら、それが原因で、今よりもっと転落するかもしれない。堕ちるところまで堕ちてしまうかもしれない。
誰だって嫌なことや面倒なことは避けたい。楽な道があるのならそこにいればとりあえず身の安全は保証されるのだからそこにいたいと思うのが人間の性だろう。
でも大概、新しいことをやり始めるまでは嫌なことがほとんどで、面倒な手続きが四方八方から襲ってくる。思ってもみなかったことが、思ってもみない角度で、予想外に襲ってくる。
そういうアクシデントをどう捉えるかは、その人の性格にもよるだろうし、血液型や生まれ育った環境にもかなり影響を受ける。
そういうアクシデントをチャンスと捉えて気ままに楽しめる楽観主義者がいる。
そういったアクシデントを、これは自分の日頃の行いがち招いた天罰なのだ。だからスムーズに事が運ばないのだと感じてしまう悲観主義者もいる。
どちらが正解とは言わないが、見ていて楽しいのは前者だろう。後者は自分から進んで付き合いたいとは思えないだろう。
残念ながら、自分の考えは後者で、何事も悪く捉えてしまう。悪く捉える事で、被害者意識を持つことで、これ以上悪くならないでくれと祈ってしまう。
きっと自分に恐ろしいほどに自信がないのだと思う。こうやって自信がないと公に書いてしまえる程には自信がないのである。
人からどう思われるかだと変なところで自意識過剰で妙なプライドがあるくせに、根本なところでは自分を自分で信じてあげれてない。
こうやって自分を卑下してありのまま書く行為は非常に惨めである。自分を自分で傷つけるような、己の首を自ら締めるような、リストカットでもある。
こんな気持ちを吐き出しても仕方がないことは自分でも分かっている。
これを見たからといって誰かに共感され同情されたとしても、根本なところで自分がそれを機に変わらなければ、救われない。
今の自分が本当に求めているのは、ちやほやされる名声でも、有り余るお金でも、心をさらけ出せる友人でも無く、今の自分から抜け出すきっかけなのだろうか。
自分のことなのに、どこか他人事。当事者意識があまり強くない、無責任な甘ったれ。それが今の自分。どんなに嫌で上っ面整えようが、今の現時点の自分はどうしようもなくともそれなのだ。
周りがどう評価したとしても、少なくとも今の自分を自分でそう評価してしまっている。
これでは良くない。健全なあるべき心からかけ離れている。ある種、心が病んでしまっている。
こんな状態では、何をしても楽しくない。自分で今の生活を生きにくくしてしまっている。最終的に自分を守れるのは自分しかいないのに。
今の自分は何よりも敵が自分で。毎日どう生きているか冷静に自分の後ろで監視して見つめて評価しているのが自分で。
そんな自分を騙し騙しで今日もなんとか生きている。
自分が嫌いなようでいて、自分のことをこれだけ書けるのだから、心のどこかでは、きっとどこかで自分は変われるだろうと期待している、心のどこかでは、まだ今の自分を見捨ててない。
心のどこかでは、きっと自分が好きなのである。
自分のことが本気で嫌いならここまで掘り下げて、自分を見つめて考えようとはしないはずだ。
こうやってさらけ出すことは、実に色んな感情が芽生えて、心が忙しくなる。
さらけ出すことは、どこか快感で、どこか苦行で、楽しくも苦しくもある。
ただ、これだけ自分のことを伝えると、安易な他の人の模倣品に埋まりたくないという欲も生まれてくる。
こんな風に感じる自分はどこか特別で、独特で、唯一無二だと思いこんでしまう自分がいる。
しかし、世の中、襟を正して冷静に見つめてみれば、このような考えを持つ人間はごまんといて、これよりもっとひどい考えを持つ、生まれ育った環境や生まれつきの病気や障害の人もいる。
そういう人を見て、自分は少なくとも五体満足で心は病んでいて正常でないにせよ、まだ息をして生きていられる環境がある、まだ恵まれていると考えることもできる。
でも、そうやって周りと最悪を比較して、不幸自慢して自分を保とうする考えは、自分が実に嫌いとする考えの一つでして。
その人がどうであろうと、今の自分は今の自分で悩んで苦しいのは事実なのだ。周りがどうであろうと俺は俺で苦しく必死なのだと訴えたくなる。
周りと比較しての不幸自慢という考えは多分に親に植え付けられた考え方だと思う。だからこそ、ある種、そうだろうと認めつつも、それは違うと反感を抱きたくなる。
どうせするなら、「自分はこれだけ恵まれています、今がとても幸せです」と幸福自慢でもしてろと言いたくなってしまう。
だってそうだろう?悪い話ばかり聞かされて、まだ自分はこの人よりはマシだと思い込み、そういう考えが蔓延すれば、周りと比較しての不幸自慢という考えが根付いてしまう。
だから、今の自分が嫌いで新しい自分に変わりたい、飛び立ちたいと思うと同時に、今の自分の嫌いな全てのことに感謝しないといけないのだ。
とりあえず、一日学校や職場に行けた。少なくともお金を稼ぎ、誰かの役に立てた。温かいお風呂に入り、ごはんを美味しくいただき、夜は寝床ですぐに寝れなくとも安心して休むことができる。
そんな人として当たり前の日常に感謝してみる。
やりたいことやなりたいものが見つかっていなくとも、そんな当たり前を当たり前に感謝して過ごせたなら、自分はあまり神様を信じたくはないが、きっと運が正常に流れて、その人が求めるものが受け取るべき形となって、やがてその人に巡ってくる。
そうやって当たり前の日々を感謝して正しく生きていることが、正しい努力であって、そうやってなんとか生きていればゆくゆくは必ず、本当に欲しい物やなりたい物が見つかるはずだろうと信じてみる。
極論言えば、人が生まれた意味であったり、なんのために生まれただとかそんなことを考えても詮無きことで、意味などその人が決めるものであり、周りがどうこう決めても意味などない。
ただ、不平不満をたらたらと不幸自慢しても気が滅入り、本当に死にたくもなるし、そうやって感じてしまっている時間が不幸だからこそ、日々で何気なく感じた当たり前に感謝してみようと思う。
誰かに今の自分をあげつらわれたり、運命に尻に火をつけられて、嫌でも行動しないといけない状況に追い込まれなくとも、背水の陣でなくとも、自然に変わろうと決意して実行に移せる朝がいつか自分にも訪れてほしいと願う。
変わることは不自然で大変で面倒で嫌なことではなく、その人がこれからもこの先を生きていくためにもとても必要で、大切なことなんだと思う。
変わることは周りや神様や運命が決めるような不自然なことでなく、その人がこれからも生きていくために必要な実に自然なことなんだと信じてみる。
そうやって、今の自分を許しながら、当たり前に感謝してみる。
それが正しい努力で、真っ黒な夜を乗り越えて、真っ白な朝を迎えられると信じながら。
年齢ばかりがいたずらにとり、周りの人間は成功していく焦り。皆がやりたいことを見つけ、人生を開拓していく中で、自分はいつまでも変われないまま、変わることに恐怖を感じる。
新しいことややりたいことを見つけていざやろうとしても、成功や正解がわかっていても、こだわりのせいで最短ルートを選べない。いつも遠回り。本気になりたくても本気になれない。
追い込まれないと自分はだめなのか。誰かに尻に火をつけられないと走り出せないのか。ただ、自分の選んだことが、自分の日頃の行いや過ちで失敗してしまいそうで。
純粋にそれだけを追いかけ続けることができないのか。本当にそれが好きなら何を捨てても構わないと思えるだろう。
欲しい物ばかりが目移りして、色んなものに手を出して全て手に入れたとしても、どこか満たされず、もっと求めたいと思ってしまう。
ものばかりに囲まれて、心はからのまま。歳を重ねても熟すことがない。いつまでも青二才のまま。甘ったれなのも、もっと厳しい環境に飛び込まないと成長できないのもわかっている。
ただ、今を生きるが必死で、死なないようにするのが大変で、現状を維持するのがやっと。新しいことを始める前に、人間として当たり前なことや正しいことをできるようにしないといけない。
だからこそ、とりあえず今の環境である程度自分の当たり前なことや正しい事ができるようになりたい。そこから旅立つのだ。うんざりする周りからの視線や、うっとおしい自分の慣習から抜け出して、今の自分が本当にやりたいと心のなかで自問自答して。厳選して一つだけを。ぱっと思い浮かんだもの、何を捨ててでもこれだけなら続けられることを。
それを選んでできるだけ回り道せず、正しく努力できたなら、自分のこだわりや障害も唯一無二の武器になり、きっと成功できる。
今の自分は欲しい物やなりたい自分を選ぶだけ。そして、それを手にするために、走り出すための一歩を踏み出すだけ。この最初の一歩を踏み出すのが、なかなか曲者でいかんせん思うようにいかないのが大概だとしても。
それでも成功していった奴らはほとんど早い時期からそれを見つけ、今の自分に踏ん切りをつけて、最初の一歩を踏み出し飛び立ち変わっていっている。
大体、これだけ生きていくと、このままだとこうなるだろうなだとか、ここでこうすれば変われるだろうなだとか人生の分岐点ってやつが見えてくる。
その新しさを選ぶには今の安住から抜け出さないと掴めないから新鮮さもあるけど、恐怖が何より先行する。
いつも始める前から尻込み。優柔不断が先走って右往左往。悩んだ挙げ句、結局何もしない元の鞘に収まる。それだけじゃ、残された時間の無駄遣い。地獄の賽の河原のように、積み重なるものがなにもないまま、最初から一からやり直し。
本当にもったいない。もったいない意味がない生き方に思える。もう今の自分がこれ以上自分でも付き合えないなら、もうええわと全て投げ出して、飛び立とう。
口だけ、机上の空論を語るばかりの虚しい毎日はもう飽きた。
年を取りすぎて何も始められなくなる前に、もういい加減飛び立とう。
今の自分がこれだと選んだものが、正解じゃないかもしれない。下手したら、それが原因で、今よりもっと転落するかもしれない。堕ちるところまで堕ちてしまうかもしれない。
誰だって嫌なことや面倒なことは避けたい。楽な道があるのならそこにいればとりあえず身の安全は保証されるのだからそこにいたいと思うのが人間の性だろう。
でも大概、新しいことをやり始めるまでは嫌なことがほとんどで、面倒な手続きが四方八方から襲ってくる。思ってもみなかったことが、思ってもみない角度で、予想外に襲ってくる。
そういうアクシデントをどう捉えるかは、その人の性格にもよるだろうし、血液型や生まれ育った環境にもかなり影響を受ける。
そういうアクシデントをチャンスと捉えて気ままに楽しめる楽観主義者がいる。
そういったアクシデントを、これは自分の日頃の行いがち招いた天罰なのだ。だからスムーズに事が運ばないのだと感じてしまう悲観主義者もいる。
どちらが正解とは言わないが、見ていて楽しいのは前者だろう。後者は自分から進んで付き合いたいとは思えないだろう。
残念ながら、自分の考えは後者で、何事も悪く捉えてしまう。悪く捉える事で、被害者意識を持つことで、これ以上悪くならないでくれと祈ってしまう。
きっと自分に恐ろしいほどに自信がないのだと思う。こうやって自信がないと公に書いてしまえる程には自信がないのである。
人からどう思われるかだと変なところで自意識過剰で妙なプライドがあるくせに、根本なところでは自分を自分で信じてあげれてない。
こうやって自分を卑下してありのまま書く行為は非常に惨めである。自分を自分で傷つけるような、己の首を自ら締めるような、リストカットでもある。
こんな気持ちを吐き出しても仕方がないことは自分でも分かっている。
これを見たからといって誰かに共感され同情されたとしても、根本なところで自分がそれを機に変わらなければ、救われない。
今の自分が本当に求めているのは、ちやほやされる名声でも、有り余るお金でも、心をさらけ出せる友人でも無く、今の自分から抜け出すきっかけなのだろうか。
自分のことなのに、どこか他人事。当事者意識があまり強くない、無責任な甘ったれ。それが今の自分。どんなに嫌で上っ面整えようが、今の現時点の自分はどうしようもなくともそれなのだ。
周りがどう評価したとしても、少なくとも今の自分を自分でそう評価してしまっている。
これでは良くない。健全なあるべき心からかけ離れている。ある種、心が病んでしまっている。
こんな状態では、何をしても楽しくない。自分で今の生活を生きにくくしてしまっている。最終的に自分を守れるのは自分しかいないのに。
今の自分は何よりも敵が自分で。毎日どう生きているか冷静に自分の後ろで監視して見つめて評価しているのが自分で。
そんな自分を騙し騙しで今日もなんとか生きている。
自分が嫌いなようでいて、自分のことをこれだけ書けるのだから、心のどこかでは、きっとどこかで自分は変われるだろうと期待している、心のどこかでは、まだ今の自分を見捨ててない。
心のどこかでは、きっと自分が好きなのである。
自分のことが本気で嫌いならここまで掘り下げて、自分を見つめて考えようとはしないはずだ。
こうやってさらけ出すことは、実に色んな感情が芽生えて、心が忙しくなる。
さらけ出すことは、どこか快感で、どこか苦行で、楽しくも苦しくもある。
ただ、これだけ自分のことを伝えると、安易な他の人の模倣品に埋まりたくないという欲も生まれてくる。
こんな風に感じる自分はどこか特別で、独特で、唯一無二だと思いこんでしまう自分がいる。
しかし、世の中、襟を正して冷静に見つめてみれば、このような考えを持つ人間はごまんといて、これよりもっとひどい考えを持つ、生まれ育った環境や生まれつきの病気や障害の人もいる。
そういう人を見て、自分は少なくとも五体満足で心は病んでいて正常でないにせよ、まだ息をして生きていられる環境がある、まだ恵まれていると考えることもできる。
でも、そうやって周りと最悪を比較して、不幸自慢して自分を保とうする考えは、自分が実に嫌いとする考えの一つでして。
その人がどうであろうと、今の自分は今の自分で悩んで苦しいのは事実なのだ。周りがどうであろうと俺は俺で苦しく必死なのだと訴えたくなる。
周りと比較しての不幸自慢という考えは多分に親に植え付けられた考え方だと思う。だからこそ、ある種、そうだろうと認めつつも、それは違うと反感を抱きたくなる。
どうせするなら、「自分はこれだけ恵まれています、今がとても幸せです」と幸福自慢でもしてろと言いたくなってしまう。
だってそうだろう?悪い話ばかり聞かされて、まだ自分はこの人よりはマシだと思い込み、そういう考えが蔓延すれば、周りと比較しての不幸自慢という考えが根付いてしまう。
だから、今の自分が嫌いで新しい自分に変わりたい、飛び立ちたいと思うと同時に、今の自分の嫌いな全てのことに感謝しないといけないのだ。
とりあえず、一日学校や職場に行けた。少なくともお金を稼ぎ、誰かの役に立てた。温かいお風呂に入り、ごはんを美味しくいただき、夜は寝床ですぐに寝れなくとも安心して休むことができる。
そんな人として当たり前の日常に感謝してみる。
やりたいことやなりたいものが見つかっていなくとも、そんな当たり前を当たり前に感謝して過ごせたなら、自分はあまり神様を信じたくはないが、きっと運が正常に流れて、その人が求めるものが受け取るべき形となって、やがてその人に巡ってくる。
そうやって当たり前の日々を感謝して正しく生きていることが、正しい努力であって、そうやってなんとか生きていればゆくゆくは必ず、本当に欲しい物やなりたい物が見つかるはずだろうと信じてみる。
極論言えば、人が生まれた意味であったり、なんのために生まれただとかそんなことを考えても詮無きことで、意味などその人が決めるものであり、周りがどうこう決めても意味などない。
ただ、不平不満をたらたらと不幸自慢しても気が滅入り、本当に死にたくもなるし、そうやって感じてしまっている時間が不幸だからこそ、日々で何気なく感じた当たり前に感謝してみようと思う。
誰かに今の自分をあげつらわれたり、運命に尻に火をつけられて、嫌でも行動しないといけない状況に追い込まれなくとも、背水の陣でなくとも、自然に変わろうと決意して実行に移せる朝がいつか自分にも訪れてほしいと願う。
変わることは不自然で大変で面倒で嫌なことではなく、その人がこれからもこの先を生きていくためにもとても必要で、大切なことなんだと思う。
変わることは周りや神様や運命が決めるような不自然なことでなく、その人がこれからも生きていくために必要な実に自然なことなんだと信じてみる。
そうやって、今の自分を許しながら、当たり前に感謝してみる。
それが正しい努力で、真っ黒な夜を乗り越えて、真っ白な朝を迎えられると信じながら。
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