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「ふぃー。」

早朝から庭先で草むしりをしていた花岡は流れる汗を首に巻いたタオルで拭うと大きく息を吐いた。街中はハロウィンの装いで賑わうが秋とは思えぬ夏の名残りの暑さが続いている。朝の涼しいうちに少しでも作業しておこうと張り切って早起きした甲斐があり、庭一面を覆いつくしていた雑草も目に付く場所は綺麗に取り除いた。

「花岡さん、お疲れさまです。お茶いかがですか?」

制服姿の詩春が縁側から声を掛けた。花岡は立ち上がり時計を見た。

「うわっ!もう出掛ける時間じゃないですか!お茶はいいです、ゴミを出してきます!」

「少しくらい遅れても大丈夫ですよ。それより庭が凄くきれいになりました。ありがとうございます!」

「草むしりならいくらでもやりますよ。他にも何かあれば遠慮なく言ってください。」

「いえそんな、これで十分ですよ!」

戸惑う詩春に笑顔を送り、花岡は急いで袋いっぱいに押し込んだ雑草をゴミ収集所に運び、洗面所を借り手洗いを済ませ車に向かった。ふと見ると、はちきれそうに詰め込まれた紙袋が後部座席に二つ置かれていた。

「この荷物は?」

「来週、文化祭があるんです。私たちのクラスは喫茶をやるので、その衣装を作っているんです。」

「詩春さんは縫い物得意なんですか。」

「全然ですよ〜。でも部活やっていないのが私とあと3人くらいなので、ちょっとでも役に立てればと思って。」

照れくさそうに笑う詩春だが、手先が器用なことはなんとなく伺える。

「荷物が多くて大変でしょ。車、駅前じゃなくて学校の近くで停めますよ?」

「いえ、いいんです。駅から歩いて10分も掛からないから大丈夫!」

相変わらず生真面目な娘だ。詩春は車で送迎されていることを友達に知られるのが嫌らしく、頑なに隠そうとする。

詩春の学校を目指して車を走らせる。幹線道路は比較的空いており順調に進んだ。

「そうだ詩春さん、熊手を買っておきたいんですが。」

「熊手、ですか?」

「庭に大きな柿の木があるでしょ?葉が落ちてくるから掃除するのに便利なんです。でも物置にあったのが壊れていたので……」

花岡は庭の様子を思い浮かべた。通りに面して大きな樹が目隠しのように植えられている。

「それなら私がお休みの日に買ってきます!」

「いいですよ、お迎えの前に俺が買っておきます。今日はこのあと出社して事務処理をしたら、そのあと時間が余るはずなので。」

「いえいえ、花岡さんに甘える訳にはいきません。それなら学校帰りに一緒にホームセンターに行きましょう。そうだ、お米も買わなくっちゃ。城田さん、腰を痛めていて重い物を買う時に大変だって言っていたからついでに買いましょう。今日の帰りはどうですか?」

「分かりました。でも文化祭の準備があるんじゃないですか?」

「今日は大丈夫。もう衣装は出来上がっているから。」

そんな、少しぐらい頼ったっていいのになぁ。だけどこのままでいいのだろうか。詩春の家を管理しているのは年配の家政婦の城田だ。週に三回やってきて掃除をし食事を作り置きする。それ以外のことは詩春が全てになっている。城田の助けがあるとはいえ家事を一人でこなすのは高校生の詩春には重荷ではないのか。文化祭の準備やテスト期間は誰かの手を借りたいだろうに一言も助けを求めない。

出逢った当初に比べてずいぶん馴染んだとはいえ、自分は彼女の力になれる存在ではないのだ。バックミラーに映る詩春の凛とした顔を眺め、花岡はうーんと考え込んだ。



詩春を駅の近くで降ろし、会社に向かう。少し気が重い。総務部付けとは言え今は出向扱いで、事務所に席は有り周りは花岡に好意的だが、気を使われると逆に落ち着かないものだ。

「ハナー!」

ゆるゆると廊下を歩いていると突然バンと肩を叩かれた。振り返ると営業部時代の先輩中塚公憲きみのりが笑っていた。

「何だよお前、元気でやってるか?なんで営業部ウチに顔出さないんだ~!」

「元気ですよ〜。今日は経費の書類を出しに来たんです。」

「女子高生相手の仕事なんだろ?いいなぁ!」

「ハハハ、ただのボディガードですよ。ナカさんが期待しているようなことは何にもありませんから。」

のんきに笑う中塚を見て花岡は苦笑いした。詩春のことは内密にと上司に釘を刺されていたのに、どこから嗅ぎつけたのだろう、さすがは中塚だ。

「だけどさ〜ハナ、早く営業部に戻ってこいよ。お前がいないと張り合う相手が無さ過ぎて、俺が毎回成績トップになっちまうからな~。北向部長もほとぼりが冷めたら絶対復職させるって言ってるんだぜ。」

「どうかな。今の仕事も楽しいですからこのままでもいいですよ。」

「ったく可愛げな無いな~。少しは戻りたがれ!そんなに女子高生がいいのか!」

「違いますって!」

中塚にワシャワシャと髪をいじられ、笑って総務部に向かった。相変わらず陽気な男だ。中塚に逢えてよかった。落ち込んだ気持ちがフッと上向きになった。

総務部に顔を出し必要書類を提出した花岡はそそくさと部屋を後にしようとしたが、西山部長に捕まった。

「花岡、第2応接室に行くぞ。社長室がお呼びだ。」

「何の用ですか?」

「さあな。総務部こっちに丸投げしている癖に、あれこれ気に入らないって文句だけは言うんだ。」

ブツブツと小言を漏らす西山に続いて応接室に向かった。

「失礼します。」

中に入ると、上質そうなスーツを纏ったキツネ目の男がじろりと花岡たちを見据えた。

「君が花岡君か。私は神戸ごうど。伊坂の件は私の担当だ。よろしくね。」

「はい、よろしくお願いします。」

「早速だが要件を伝えるよ。あまり時間が無いんでね。」

神戸は言うなり手にした書類をどんと花岡たちの前に置いた。

「伊坂の家の管理だが、今後はお前が担当しろ。ひと月分の生活費はここに書いてある通り。必要なものはお前が購入するんだ。赤字にならないようにな。」

「えっ……」

指し示された数字を見て花岡は思わず驚いた。自分の月給の三分の一にも満たない金額がそこにあった。

「これは、あの、食費とか光熱費とかまとめてこの数字、ですか?」

「そうだよ。高校生一人が生活する分には十分だろう。これだって精一杯譲歩しているんだ。家賃は無いし、学費や税金はあの娘の遺産から支払うことになっている。屋敷は前社長の持ち物だったが、いつの間にか死んだ伊坂千歳のモノになっていてね。その他にも前社長の財産だったものが伊坂名義に変更されているから、管財人を追及しているところだ。」

「詩春さんの母親が、何か不正を働いたとでも?」

「それはまだ分からないさ。あの女は子供の認知を条件に箕輪家には財産を要求しないと約束したんだ。だから、前社長から息子である今の社長に受け継ぐはずだった財産を、あの娘にくれてやる道理は無いんだよ。」

「詩春さんは前社長の娘さんと伺いました。成人するまでの養育費はもらって当然じゃないですか?」

「余計な詮索はせずに言われた通りにやれ。ああそうだ、今雇っている家政婦もそのうち辞めさせるからな。」

神戸は立ち上がりざまバンとテーブルを叩くとそのまま会議室から出て行った。

目の前に積まれた書類を握りしめ、花岡は狼狽えた。

「詩春さん、これで生活出来るんですか?」

「出来なくはないだろうが節約を強いられるだろうな。だけどな花岡、俺たちは社長室あいつらに言われた通りにするしかないんだ。」

西山はやれやれとため息を吐き、神戸の置いていった書類にムッとしながら目を通した。

「熊手……」

「なんだ、熊手って。」

「詩春さんに買うって言ってしまったんですよ……落ち葉を掃除するのに必要だけど壊れていたので……」

「それくらいなら買えるだろう。だけど足りないようなら俺が出してやるぞ。」

「大丈夫ですよ、節約しますから!」

花岡は慌てて両手を横に振った。

「花岡、お前、可哀想だからってあんまりあの娘にのめり込むなよ。」

「えっ?」

「いや、あの子の肩を持つのはイイが、俺たちはしょせんサラリーマンだからな。上司うえには逆らえないもんだぞ。」

ハッとして、シュンと落ち込んで花岡は下を向いた。同情しているつもりはない。ただ、あの凛とした詩春の顔を、いつか柔らかな笑顔で満たしたいと思っているだけで……

それからもこまごまと注意を受け、ようやく西山に解放されて、どんよりと重い足取りで出口に向かった。

「花岡さん!」

今度は誰だ?と振り向くと、後輩の松嶋英恵はなえが息を切らして駆け寄ってきた。

「中塚さんに聞いたんですよ!なんで営業部に顔を出してくれないんですか!」

「いや、その、用事があるから……」

「今のお仕事、忙しいですか?」

「営業部に比べたら忙しくはないよ~。」

「だったら私のこと……避けているんですか?」

「違うって!」

思わずしどろもどろで言い訳する。英恵は人好きのする愛らしい顔を曇らせ潤んだ瞳で見上げている。

「私のせいで、花岡さんが異動になったのに……」

「あれは、俺が酒の勢いで、あのおぼっちゃまに手を挙げたのが原因で……」

「だって、元は私が光本さんにホテルに連れていかれそうになっていたのを、花岡さんが助けてくれたからじゃないですか!」

「ねぇ英恵ちゃん、もう終わったことだし俺は元気だし!そのうち営業部に戻るかもしれないから、あんまり気にしないでよ!」

「分かりました。絶対、絶対に戻ってきてくださいね!」

英恵をなんとか宥めて別れを告げ、花岡は車に乗り込み運転席に沈み込んだ。

「俺、本当に営業部に戻れるのかな……それともずっとボディガードのままなのかな……」

ふるふると頭を振って邪念を打ち消した。今はそんなことを悩んでいる場合じゃない、熊手だ熊手!



下校時刻にいつもの場所で詩春を拾い、すこし離れた国道沿いにあるホームセンターを訪れた。そこで熊手や日用品を買い揃え、食材を買いにスーパーマーケットに向かう。詩春に道案内されて着いたのは安売りが自慢の店だった。

詩春は知っているのだろうか。生活費を切り詰めなければならないことを……

「詩春さん……」

「はい、なんですか?」

「あのですね……来月から、その、詩春さんの生活に必要なものは……俺が買うことになりました。」

「え!城田さんは?」

「もしかしたら、近いうちにお辞めになるかもしれません……」

すると詩春はぎゅっと唇を噛み締めた。

「城田さんのこと、花岡さんが気にする事はありません。近いうちに辞めさせるって前にあの人に言われたけど……城田さんは持病の腰痛が悪化して、お母さんの介護もあるからうちの世話をいつまでもお願いする訳にはいかなかったんです……」

詩春の言う『あの人』とは、社長室の神戸だろうか。まさか自分に言い放ったように、詩春にも厳しい意見を押し付けたのだろうか。

「でも、そしたら、詩春さんは……」

「私は一人で大丈夫です。」

バックミラーに映る詩春の顔が険しい。

「花岡さん。」

「はい?」

「……もしかして、日用品も、全部花岡さんが買うんですか?」

「そうですよ?」

「あの、そうしたら、困るんです……だってその、女の子の物とかもあるし!」

「あっ!」

日用品って、服なんかも俺が買うのか?だったら下着とかブラジャーとか?女の子の物って言ったら生理用品とか?!

狼狽える花岡をしげしげと眺め、詩春はウフフっと小さく笑った。

「心配しないでください。それなら今日みたいに一緒にお買い物に行きましょう。その時に必要な物は買いますから。」

「そうですね!そうしましょう!」

すっかり落ち着いてニコニコ笑う詩春を見てさらに動揺した。これじゃどっちが大人でどっちが子供か分からないじゃないか!



家に着き、車を車庫に停めた。買い込んだ荷物を両手に下げ、屋敷に入ろうとした時だ。

「おい、オッサン!なんで詩春の家に入るんだ!」

「詩春とどんな関係だ!」

振り返ると、そっくりな顔の美少年が二人、噛みつきそうな顔で花岡を睨みつけていた。


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