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潮風のキャラメル
逢着、値遇…
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何故だか音を立ててはいけないような気がして、私は身動き一つ取れず、息苦しささえ覚え始める。
実際はせいぜい十分にも満たない位だったが、私には物凄く長い時間に感じられ、気が狂うのではないかと思い始めた頃、やっと隣の部屋から移動した気配を感じ取ることが出来た。
そしてそのまま足音は少し遠ざかって行く。
私はやっと息ができる…と安心して、肺の中の空気を入れ替え、脱力する。
暫くして、遠くの部屋で掃除機の音がしたが、五分と経たないうちに鳴り止んだ。
…足音がコチラに近づいて来ている。
私は再度、息を殺す。
足音は隣の部屋の戸を引くと、そのまま中へと進み「また明日も伺います…」そう言った。
どうやら今の人は、この家の住人では無かったらしい。
それにしても、何処かで聞いたことのある声だった様な気がしたが、やはり気の所為だろう。
先程の人が玄関の鍵を閉めて去って行って直ぐに彼は戻って来た。
私一人残して何処に行って何をしていたのかと言う疑問よりも先に、心細くてただひたすらに苦痛でしか無かったと不満をぶちまけようと彼へと体を向ける。
しかし、彼は今まで見たことのない、まるで嘲笑うかのような表情のまま、玄関の奥の門の先を見つめていて、現在私の存在が彼の中に居ないのだと察し、口を閉ざす。
「一人にしちゃってごめんね」
そう言った彼は、見間違いだったのだろうかと思う程に、先程の表情は払拭された、清々しいと言わんばかりのいい笑顔をしていた。
「さっきの人は?」
一体誰だったのか、気になったので聞いてみる。
「あぁ、アレは兄さんだよ」
あっさりと答えてくれたが、私には何故かその返答が嘘のように感じられた。
しかし、根拠がないのに露骨に疑ってかかるのはどうかと思う。
なので、私はそっかと一言だけ返す。
「血は繋がってないんだけどね」
彼は時々私の心を読んでいるのではないかと言うような発言をする。
…私が分かりやすいだけなのかも知れないが、正直少し恐怖すら感じてしまう。
しかし、それでもその返答は私の中で、納得せざるを得ないものだった…と言うより、腑に落ちてしまったのである。
怒りはすっかり萎えて、今度は少し気まずさが現れた。
なんだか彼の地雷を踏み抜いた気しかしない。
けれど、彼は気にした様子は見られず、むしろニコニコと楽しそうにしている。
「ねぇ、私勝手に上がっちゃったけど、大丈夫だったの?」
大丈夫では無いのなら招き入れたりしないと分かってはいるが、心做しか私の存在を隠されていた様だったので、不安になった。
「確かに誰にも何も言ってないけど、俺はちゃんとここの住人だから、ビックリはされるだろうけど文句は言われない筈だよ」
私でも、彼が今楽しくて仕方が無いと言うのが感じ取れるほどに声を弾ませてそう答えた後、クスクスと笑いながら「まぁ、言わせないし。むしろ…あっちが…」と小声で付け加えていた。
この一言で、彼がお兄さんの事をよく思っていないのが分かった。
私には兄弟が居ないので、嫌うとかそういった事はよく分からない。
私が彼と出会う前と同じように、彼も私と出会う前に何かあったのだろう。
不意に外の蝉の声が変わっていた事を知る。
これに気がついたら、不思議な事に他の変化にも気がついた。
外から入り込む光の色もオレンジ色に色付いて、仄暗い。
時間が気になってスマートフォンを起動すると、十八時をまわっており、とても驚く。
そもそも学校終わりに待ち合わせをしたので直ぐに日が暮れるのは分かって居たつもりだが、それにしても時間が経つのが早い。
名残惜しいが、流石にそろそろ母も心配するだろう頃合なので、私は彼にそろそろ帰ると告げる。
彼は少しだけ目を見開くと、直ぐいつも通りの笑を浮かべて、暗くなってきたもんねと返した。
私が荷物を持って立ち上がると、彼は送るよ…と言って共に立ち上がる。
「いや、悪いし大丈夫だよ」
女の子扱いがむず痒くて照れくさくて、嬉しいのについ遠慮の言葉が口を継いで出てきてしまう。
「送れば君ともう少し一緒に居られるなって、思ったんだけど……ごめん」
ウザかったかな、そう彼は困ったように微笑みながら肩を竦める。
「嬉しい…から、やっぱ送ってもらってもいい?」
なんだかお付き合いしているカップルの様な会話だと思ってしまったら、気恥ずかしさが倍増して、顔に熱が集まる。
私の返事を聞いた彼の嬉しそうにしている様子は、いつまでも眺めていられる程に心地の良いものだ。
行こっかと彼がこの部屋の引き戸を開ける。
私はそれの後に続いて、そのまま玄関へと向かう。
靴を履き、彼が玄関の鍵を閉めている間も、まだ顔の火照りは冷めない。
彼と並んで歩き出しても一向に冷める気配はなかった。
「顔赤いけど大丈夫?」
彼はクスクスと笑いながら問う。
「夕日の色に照らされてるからそう見えるんだよ」
そう言って私は彼から顔を背け、歩調を早めた。
背後の空気の揺れで、彼がまた笑ったのが分かる。
「あんまり早く歩かれちゃうと、一緒に居られる時間が減っちゃうよ」
大きな声ではないが、彼がそう言ったのがハッキリと聞こえて、私は慌てて立ち止まり、体の向きは変えずに、彼が追いつくのを待つ。
彼の掌でコロコロされているのは分かっているが、気がついたらそうなっているのと、不快では無いので結局素直に流されてしまう。
彼がやっと追いつき、私の右手側に並んだ所で再び足を進める。
歩き始めたら途端に会話が途切れてしまった。
話したいことは沢山あるような、もう話尽くしてしまって何も話題が無いような気もする。
「…宮園くん」
あの大きな彼の自宅に掛けられていた石に明朝体で彫られていた苗字を呼んでみた。
すると彼は、特に何かを気にした様子も無く目線だけをこちらに向けて「なぁに?」と文字に表した時「な」の後ろに小さく「あ」が入りそうな、間の抜けた返事を返す。
「下の名前って、何ていうの?」
今までずっと聞けずにいた事は、思いの外すんなりと私の口から滑り落ちる。
意識していたので、多少の緊張があり、声がほんの僅かに上ずってしまった気がした。
彼はそれに気がついたのだろう、顔を少し背けてクスリと笑って「そう言えば名乗ってなかったっけ」と肩を竦め、再びこちらに…今度は目線だけを向ける。
「のどか…だよ。平和の[和]って書いて、和」
のどか…私は口の中だけで小さく復唱した。
「なんだか、あなたらしい名前だね」
ありきたりな言葉だとは思ったが、本当に彼らしいと思ったのだ。
名は体を表す…とはこういう事なのだろう、と思わざるを得ない程に。
「そう言えば俺も君の名前聞いてなかった、教えてくれる?」
そう言われてからやっと、彼の名前の事しか頭に無くて、自らが名乗ることをしていなかったと、今更気が付く。
「筒浦惑華…です」
彼の様に上手くすんなりと名前の説明が出来ず、漢字の説明とか不要かなと諦めかけた時、下の名前の漢字はどう書くのかと聞かれた。
「えーっと、惑わすの[惑]…ってわかる?それに、中華の[華]だよ」
ちゃんと伝わるかが不安で、右手の人差し指で、宙に書きながら説明する。
「名前の響きは一文字違いで似てるのに、漢字は全然違うね」
確かに、彼と私の名前は一文字違いだった。
それだけでなんだかお揃いの様で嬉しいとか、これは噂に聞く…恋というものなのだろう。
恐らくは、あの日一目惚れをしてそれからどんどん好きになって行ったのだ。
何故か恋だと認めようとしなかっただけで、恋だという事に、薄々気がついていた。
認めてしまえば、心は踊ったままなのに、頭だけ少し冷静になった気がする。
腑に落ちた…という感じだろうか。
「付けたのはお父さん?」
私が一人で納得していたら、彼がそう聞いてきた。
「お父さんだよ、よく分かったね」
「何となくそんな感じがしたんだ」
そう言い終わったら、彼はこちらに顔ごと向けて、はにかんだ。
「誰かや何かに[惑]わされる事なく、凛と[華]の様に立っていられる子になって欲しいって意味なんだって」
聞かれた訳では無いのだが、私の口から流れ出ていた。
「貴方は…和くんは、意味とか聞いた事ある?」
いきなり下の名前で呼ぶのは図々しいだろうか…そう思いはしたが、意を決して読んでみると、何とも心地好い響きで、思わず口元が緩んでしまう。
「争いごとに巻き込まれず、平和に過ごせますようにとか…そんなだった気がする」
うーん…と、唸って首を捻って、数秒の考える素振りを見せた後、彼は確か…と、教えてくれた。
幼い頃、母親に聞いただけなので、細かくは覚えておらず、曖昧なのだがそんな感じの意味合いなのは間違いないと、彼は自信満々に答えて、小さなガッツポーズと短いながらも強い鼻息を吐く。
「なんでドヤ顔」
そう言って私は笑いを堪えきれず、肩と声を震わす。
すると、何となくだよ…と彼も笑う。
その後は和やかな空気のまま、会話が途切れることも無く、私の家が見えて来た。
着いてしまったと意識した途端に、私の中で急激に寂しさが膨張し始める。
明日はどうしようか、などと聞いてしまえば、今日が終わってしまう。
なので、私は口を閉ざす。
彼は、そんな私を見て心中を察したのか、はたまた彼も同じ気持ちだったのかは分からないが、日が落ちたら涼しくなったねと言ったきり黙ってしまった。
「俺は、明日もいつものあの場所に居るから、学校終わって予定無ければおいでよ」
ね?と彼は小さい子をあやす様に優しく言って、困った様な顔をして俯く私を覗き込んだ。
明日も会える喜びと、今日はお別れという事実。
「もし、次雨が降ったらウチに来ない?」
お母さんにはちゃんと言っておくし、大丈夫。
後半は聞こえていたか定かではないが、彼はフフッと軽く笑って「雨が降ったら、お邪魔するね」と、言ってくれた。
家の前に到着した頃には、カーテンや玄関の曇りガラスから漏れる光が少し眩しく感じる程に、暗くなっていた。
「じゃあ、またね」
そう言って彼は踵を返し、そのまま来た道を戻って行く。
彼は一度も振り返る事の無いまま、背中がかなり小さくなったが、私は目を離すことなく玄関の方へと足を進める。
「かずくん?」
不意に至近距離から震えた小さな声が聞こえて来て、私は思わず後ろに飛び退きながらそちらに目を向けた。
そこには母が居て、彼が去った方向に目を見張って硬直している。
「お母さん?」
駆けた時みたいに跳ねる心臓を、落ち着かせるように、手の平で軽く胸を叩きながら声を掛けた。
すると、母はハッとしてから、おかえりと笑う。
しかし、その笑顔はいつもとは違って無理矢理作ったのが丸分かりの、口元が引き攣ったものだった。
実際はせいぜい十分にも満たない位だったが、私には物凄く長い時間に感じられ、気が狂うのではないかと思い始めた頃、やっと隣の部屋から移動した気配を感じ取ることが出来た。
そしてそのまま足音は少し遠ざかって行く。
私はやっと息ができる…と安心して、肺の中の空気を入れ替え、脱力する。
暫くして、遠くの部屋で掃除機の音がしたが、五分と経たないうちに鳴り止んだ。
…足音がコチラに近づいて来ている。
私は再度、息を殺す。
足音は隣の部屋の戸を引くと、そのまま中へと進み「また明日も伺います…」そう言った。
どうやら今の人は、この家の住人では無かったらしい。
それにしても、何処かで聞いたことのある声だった様な気がしたが、やはり気の所為だろう。
先程の人が玄関の鍵を閉めて去って行って直ぐに彼は戻って来た。
私一人残して何処に行って何をしていたのかと言う疑問よりも先に、心細くてただひたすらに苦痛でしか無かったと不満をぶちまけようと彼へと体を向ける。
しかし、彼は今まで見たことのない、まるで嘲笑うかのような表情のまま、玄関の奥の門の先を見つめていて、現在私の存在が彼の中に居ないのだと察し、口を閉ざす。
「一人にしちゃってごめんね」
そう言った彼は、見間違いだったのだろうかと思う程に、先程の表情は払拭された、清々しいと言わんばかりのいい笑顔をしていた。
「さっきの人は?」
一体誰だったのか、気になったので聞いてみる。
「あぁ、アレは兄さんだよ」
あっさりと答えてくれたが、私には何故かその返答が嘘のように感じられた。
しかし、根拠がないのに露骨に疑ってかかるのはどうかと思う。
なので、私はそっかと一言だけ返す。
「血は繋がってないんだけどね」
彼は時々私の心を読んでいるのではないかと言うような発言をする。
…私が分かりやすいだけなのかも知れないが、正直少し恐怖すら感じてしまう。
しかし、それでもその返答は私の中で、納得せざるを得ないものだった…と言うより、腑に落ちてしまったのである。
怒りはすっかり萎えて、今度は少し気まずさが現れた。
なんだか彼の地雷を踏み抜いた気しかしない。
けれど、彼は気にした様子は見られず、むしろニコニコと楽しそうにしている。
「ねぇ、私勝手に上がっちゃったけど、大丈夫だったの?」
大丈夫では無いのなら招き入れたりしないと分かってはいるが、心做しか私の存在を隠されていた様だったので、不安になった。
「確かに誰にも何も言ってないけど、俺はちゃんとここの住人だから、ビックリはされるだろうけど文句は言われない筈だよ」
私でも、彼が今楽しくて仕方が無いと言うのが感じ取れるほどに声を弾ませてそう答えた後、クスクスと笑いながら「まぁ、言わせないし。むしろ…あっちが…」と小声で付け加えていた。
この一言で、彼がお兄さんの事をよく思っていないのが分かった。
私には兄弟が居ないので、嫌うとかそういった事はよく分からない。
私が彼と出会う前と同じように、彼も私と出会う前に何かあったのだろう。
不意に外の蝉の声が変わっていた事を知る。
これに気がついたら、不思議な事に他の変化にも気がついた。
外から入り込む光の色もオレンジ色に色付いて、仄暗い。
時間が気になってスマートフォンを起動すると、十八時をまわっており、とても驚く。
そもそも学校終わりに待ち合わせをしたので直ぐに日が暮れるのは分かって居たつもりだが、それにしても時間が経つのが早い。
名残惜しいが、流石にそろそろ母も心配するだろう頃合なので、私は彼にそろそろ帰ると告げる。
彼は少しだけ目を見開くと、直ぐいつも通りの笑を浮かべて、暗くなってきたもんねと返した。
私が荷物を持って立ち上がると、彼は送るよ…と言って共に立ち上がる。
「いや、悪いし大丈夫だよ」
女の子扱いがむず痒くて照れくさくて、嬉しいのについ遠慮の言葉が口を継いで出てきてしまう。
「送れば君ともう少し一緒に居られるなって、思ったんだけど……ごめん」
ウザかったかな、そう彼は困ったように微笑みながら肩を竦める。
「嬉しい…から、やっぱ送ってもらってもいい?」
なんだかお付き合いしているカップルの様な会話だと思ってしまったら、気恥ずかしさが倍増して、顔に熱が集まる。
私の返事を聞いた彼の嬉しそうにしている様子は、いつまでも眺めていられる程に心地の良いものだ。
行こっかと彼がこの部屋の引き戸を開ける。
私はそれの後に続いて、そのまま玄関へと向かう。
靴を履き、彼が玄関の鍵を閉めている間も、まだ顔の火照りは冷めない。
彼と並んで歩き出しても一向に冷める気配はなかった。
「顔赤いけど大丈夫?」
彼はクスクスと笑いながら問う。
「夕日の色に照らされてるからそう見えるんだよ」
そう言って私は彼から顔を背け、歩調を早めた。
背後の空気の揺れで、彼がまた笑ったのが分かる。
「あんまり早く歩かれちゃうと、一緒に居られる時間が減っちゃうよ」
大きな声ではないが、彼がそう言ったのがハッキリと聞こえて、私は慌てて立ち止まり、体の向きは変えずに、彼が追いつくのを待つ。
彼の掌でコロコロされているのは分かっているが、気がついたらそうなっているのと、不快では無いので結局素直に流されてしまう。
彼がやっと追いつき、私の右手側に並んだ所で再び足を進める。
歩き始めたら途端に会話が途切れてしまった。
話したいことは沢山あるような、もう話尽くしてしまって何も話題が無いような気もする。
「…宮園くん」
あの大きな彼の自宅に掛けられていた石に明朝体で彫られていた苗字を呼んでみた。
すると彼は、特に何かを気にした様子も無く目線だけをこちらに向けて「なぁに?」と文字に表した時「な」の後ろに小さく「あ」が入りそうな、間の抜けた返事を返す。
「下の名前って、何ていうの?」
今までずっと聞けずにいた事は、思いの外すんなりと私の口から滑り落ちる。
意識していたので、多少の緊張があり、声がほんの僅かに上ずってしまった気がした。
彼はそれに気がついたのだろう、顔を少し背けてクスリと笑って「そう言えば名乗ってなかったっけ」と肩を竦め、再びこちらに…今度は目線だけを向ける。
「のどか…だよ。平和の[和]って書いて、和」
のどか…私は口の中だけで小さく復唱した。
「なんだか、あなたらしい名前だね」
ありきたりな言葉だとは思ったが、本当に彼らしいと思ったのだ。
名は体を表す…とはこういう事なのだろう、と思わざるを得ない程に。
「そう言えば俺も君の名前聞いてなかった、教えてくれる?」
そう言われてからやっと、彼の名前の事しか頭に無くて、自らが名乗ることをしていなかったと、今更気が付く。
「筒浦惑華…です」
彼の様に上手くすんなりと名前の説明が出来ず、漢字の説明とか不要かなと諦めかけた時、下の名前の漢字はどう書くのかと聞かれた。
「えーっと、惑わすの[惑]…ってわかる?それに、中華の[華]だよ」
ちゃんと伝わるかが不安で、右手の人差し指で、宙に書きながら説明する。
「名前の響きは一文字違いで似てるのに、漢字は全然違うね」
確かに、彼と私の名前は一文字違いだった。
それだけでなんだかお揃いの様で嬉しいとか、これは噂に聞く…恋というものなのだろう。
恐らくは、あの日一目惚れをしてそれからどんどん好きになって行ったのだ。
何故か恋だと認めようとしなかっただけで、恋だという事に、薄々気がついていた。
認めてしまえば、心は踊ったままなのに、頭だけ少し冷静になった気がする。
腑に落ちた…という感じだろうか。
「付けたのはお父さん?」
私が一人で納得していたら、彼がそう聞いてきた。
「お父さんだよ、よく分かったね」
「何となくそんな感じがしたんだ」
そう言い終わったら、彼はこちらに顔ごと向けて、はにかんだ。
「誰かや何かに[惑]わされる事なく、凛と[華]の様に立っていられる子になって欲しいって意味なんだって」
聞かれた訳では無いのだが、私の口から流れ出ていた。
「貴方は…和くんは、意味とか聞いた事ある?」
いきなり下の名前で呼ぶのは図々しいだろうか…そう思いはしたが、意を決して読んでみると、何とも心地好い響きで、思わず口元が緩んでしまう。
「争いごとに巻き込まれず、平和に過ごせますようにとか…そんなだった気がする」
うーん…と、唸って首を捻って、数秒の考える素振りを見せた後、彼は確か…と、教えてくれた。
幼い頃、母親に聞いただけなので、細かくは覚えておらず、曖昧なのだがそんな感じの意味合いなのは間違いないと、彼は自信満々に答えて、小さなガッツポーズと短いながらも強い鼻息を吐く。
「なんでドヤ顔」
そう言って私は笑いを堪えきれず、肩と声を震わす。
すると、何となくだよ…と彼も笑う。
その後は和やかな空気のまま、会話が途切れることも無く、私の家が見えて来た。
着いてしまったと意識した途端に、私の中で急激に寂しさが膨張し始める。
明日はどうしようか、などと聞いてしまえば、今日が終わってしまう。
なので、私は口を閉ざす。
彼は、そんな私を見て心中を察したのか、はたまた彼も同じ気持ちだったのかは分からないが、日が落ちたら涼しくなったねと言ったきり黙ってしまった。
「俺は、明日もいつものあの場所に居るから、学校終わって予定無ければおいでよ」
ね?と彼は小さい子をあやす様に優しく言って、困った様な顔をして俯く私を覗き込んだ。
明日も会える喜びと、今日はお別れという事実。
「もし、次雨が降ったらウチに来ない?」
お母さんにはちゃんと言っておくし、大丈夫。
後半は聞こえていたか定かではないが、彼はフフッと軽く笑って「雨が降ったら、お邪魔するね」と、言ってくれた。
家の前に到着した頃には、カーテンや玄関の曇りガラスから漏れる光が少し眩しく感じる程に、暗くなっていた。
「じゃあ、またね」
そう言って彼は踵を返し、そのまま来た道を戻って行く。
彼は一度も振り返る事の無いまま、背中がかなり小さくなったが、私は目を離すことなく玄関の方へと足を進める。
「かずくん?」
不意に至近距離から震えた小さな声が聞こえて来て、私は思わず後ろに飛び退きながらそちらに目を向けた。
そこには母が居て、彼が去った方向に目を見張って硬直している。
「お母さん?」
駆けた時みたいに跳ねる心臓を、落ち着かせるように、手の平で軽く胸を叩きながら声を掛けた。
すると、母はハッとしてから、おかえりと笑う。
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