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第7章 愛はいつもそこにある

第54話 センパイはもう苦しまなくていい

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 美幽センパイの記憶に触れ、ひどくおぼろげだった遠い昔の私の記憶も鮮やかな色彩を取り戻していく。

 私はどうして今まで思い出せずにいたのだろう?

 幼いころ、この稲荷神社の境内で、セーラー服を着た知らないお姉さんに何度か遊んでもらったことがあった。

 まさか、その相手が美幽センパイだったなんて……。

 思いもよらない真実に感情が激しく高ぶり、私は涙で頬をぬらしながら、美幽センパイの冷たい身体を強く抱きしめた。

「う……ううん……旭ちゃん?」

 私の腕のなかで、悪夢にうなされるかのように苦しんでいた美幽センパイが、ゆっくりと目を開いた。

「どうして旭ちゃんがここに?」
「センパイを助けに来たんです」

 私は涙をぬぐい、懸命に微笑みかける。
 けれども、美幽センパイは暗い顔でうつむき、微笑み返してはくれなかった。

「……私、ようやく思い出したの。昔、私は世界がつくづくいやになって、消えてしまいたいと何度も願ったわ。そうしたら、いつの間にか幽霊になっていて、記憶もすっかり失っていた」

 美幽センパイは私を見上げ、ゆっくりと打ち明ける。

「新しい生活は楽しかったわ。誰にも気がねせず、心も束縛されず、自由に生きられたから。でもね、やっぱりさみしかった。そんな時、神社の境内で遊ぶ旭ちゃんを見かけたの」

 美幽センパイはなつかしそうに目を細める。

「旭ちゃんはいつも一人で遊んでいて、私が声をかけてもぜんぜん気づいてくれなくて。それでも、なぜか旭ちゃんのことだけは守らなきゃいけない気がして、少しも目が離せなかった。それがなぜだか、つい最近までずっと分からなかった」

 美幽センパイは悔しそうにぽろぽろと涙をこぼし、震える唇でさらに続ける。

「……最低よね。私、旭ちゃんのお母さんと約束していたのに……旭ちゃんを守るって。そんな大切な約束すら記憶に残っていなかったなんて……」
「最低なんてことない! むしろ最低なのは私のほうです。昔遊んでもらっていたのに、センパイのことを思い出せなかったんですから」
「仕方ないわ。旭ちゃんがまだ幼かったころの話だもの」

 美幽センパイはこんな時でも私を優しく気づかってくれる。
 でも、気づかわれるだけじゃいや。
 だから、私も美幽センパイを励ましたくて、精いっぱいの思いを伝えた。

「もう、センパイは優しすぎです。記憶を失って、約束を忘れていても、それでもちゃんと私のことをずっと見守っていてくれたんですから。やっぱり私はセンパイのことが大好きです」

 私がようやく感謝を告げると、美幽センパイはいつくしむような目で涙にぬれる私の頬に触れてきた。

「旭ちゃんはいつだってかわいかったわ。幼稚園でも、小学校でも、遠慮がちに人と接して、時おり友だちにはにかんだ笑みを見せて。私はずっと旭ちゃんに夢中だった。旭ちゃんの笑顔を見るたびに、幸せな気分に満たされた」

 やっぱり、そんな昔からずっと美幽センパイは私のそばにいてくれたんだ。
 それなのに、私は気づいてあげられなかった。
 愛情の眼差しを向けてくれている存在がいることに気づけないほど、私はずっと幼かった。

「旭ちゃんが中学生になって、友だちができなくて悩みはじめた時、私はどうにかして力になってあげたいと思ったわ。そんな私の願いが通じたのかな、旭ちゃんはついに私に気づいてくれた」

 美幽センパイが、私に支えられながらようやく上体を起こす。

「それからは毎日が夢のように楽しかった。旭ちゃんといっぱいお話して、たくさん笑って、友だちにもなれて。こんな幸せな日々がずっと続けばいいのにって思ってた」
「きっと続きますよ、私とセンパイの二人がいれば。これからもずっと一緒に楽しく笑って過ごしましょうよ」
「ううん、それはできないわ。私、そろそろ行かなくちゃ」

 美幽センパイは立ち上がり、私の後方にいた吉乃ちゃんに歩み寄った。

「吉乃ちゃん。この世に対する恨みや憎しみが重なれば、私だって悪霊になってしまう可能性があるのでしょう?」
「はい」
「だったら、そうなる前に私の魂を自然に還してほしい」
「――ッ!?」

 私は大きく目を見開いた。
 それって、つまり、美幽センパイがこの世界から消えてしまうってこと!?


――そんなこと、絶対にさせない!


 私は衝動的に立ち上がり、美幽センパイの細い身体を強く抱きしめた。

「ちょ、ちょっと旭ちゃん!?」
「センパイ、もうどこにも行かないでください! 私はセンパイに何度も救われました。この世界にはセンパイのような優しい人が必要なんです!」

 美幽センパイに成仏できない理由をたずねた時、センパイは私にこう教えてくれた。


――私ね、なんだか無性に人助けがしたいの。


 その言葉の重みを今さらながら痛感する。
 かつてはいじめに遭っていた柳先生を守ろうとし、今では私をずっと見守り助けてくれた美幽センパイ。
 そんな心優しい人は、この世界から絶対に消えちゃダメなんだ!

「旭ちゃん……」

 幼い子どものように泣きじゃくる私の頭を、美幽センパイはいたわるようにそっとなでてくれた。

「ありがとう。でも、そう言ってくれるのは旭ちゃんだけよ。私はかつて大切な友だちを傷つけてしまった。それに、あの教室の誰からも必要とされなかった。私は恨めしいの、そんな世界も、自分自身も。こんな負の感情を抱え続けていたら、私だっていつかきっと悪霊に変わってしまうわ」
「どうしてそうやって一人で抱えるんですか! 私もいるじゃないですか!」

 私は泣きながら大きな声で叫んだ。

「人は一人では生きていけないんです。だから、共に支え合って、助け合って生きていくんです。センパイ、私と一緒に乗り越えましょう!」
「世界は悲しみに満ちていて、みんな傷ついているわ。それなのに、世界はなにも変わらない。怖いの……。私、もうこれ以上傷つきたくない」
「だったら、私がセンパイを温めます! センパイが私の心をいっぱい温めてくれたように」

 私は美幽センパイを抱きしめる腕に力をこめる。
 そうやって、美幽センパイの凍える心を表すような、冷え切った身体を私の熱で包みこむ。

「センパイは優しくて、優しすぎるくらいだから、人の何倍も傷つくのかもしれない。けれど、センパイにもまだ見えていない世界がきっとあるから! 一人では見えなくても、二人でなら見えてくる美しい景色だって、きっとあるから! だから、勝手に消えようとしないでください!」

 美幽センパイと出会い、私の世界は華やかに色づいた。
 だから、今度は私が美幽センパイの世界に彩りを与えたい。
 二人で力を合わせれば、悲しみに沈む灰色の世界だって、いつか虹色に変えられる!
 そんな祈りにも似た願いをこめて、私は必死に訴えた。

 かたくなだった美幽センパイの身体から、すっと力が抜けていく。
 美幽センパイは涙に声を震わせながら、疑り深くたずねてきた。

「……見えるのかな、私にも。私、大切な友だちも守れないようなひどい人間なんだよ?」
「なに言ってるんですか。センパイはずっと私を守ろうとしてくれていたじゃないですか。センパイにとって、私は大切な友だちじゃないんですか?」

 私がムッとした顔でつめ寄ると、美幽センパイは涙にぬれた瞳をさらににじませた。

「いいえ、旭ちゃんは私の大切な友だちよ」
「ですよね」

 私はニコッと微笑みかけ、美幽センパイの冷たい手をぎゅっと握りしめた。

「それに、センパイ、前に私に言ったことを忘れちゃったんですか?」


――人間にとって最も尊い行為は、許すことよ。


「だから、せめて自分のことくらいは許してあげてもいいんじゃないでしょうか。センパイはもう十分苦しんだんですから」

 美幽センパイは両手で顔をおおって涙にむせぶ。
 私は美幽センパイの両手を取り、優しく微笑みかけた。

「センパイ、笑ってください。センパイは私にとってかけがえのない大切な友だちです。この先もずっと私の自慢のセンパイでいてください」

 センパイは私の小さな身体を抱き返し、肩の辺りに顔をうずめて子どものように泣き続けた。
 そうして私にしがみついたまま、顔も上げず、ただ一度うなずいた。

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