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人狼
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一三世紀半ば、イベリア半島はユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教とが混在した時代であった。大レコンキスタ、国土回復運動によってイベリア半島の殆どがキリスト教に改宗することになったが、一部地域では自由な信仰活動が認可されていたこともあり、信仰の自由は認められたものであった。
しかし西暦一四六九年、大レコンキスタの完了に伴ってスペインに統一王権が誕生することとなる。カスティーリャ王国のイザベル女王とアラゴン王国のフェルナンド二世の結婚により、スペインは平定され、七〇〇年近くに渡る戦乱の世は終わりを迎えた。後に言うカトリック両王の誕生である。
このカトリック両王にとって、表面上はカトリックではあるが、独自の信仰を守り続けている隠れイスラム教徒、隠れユダヤ教徒は「完全な平定」のためには酷く邪魔なものとなった。やっとの思いで平定したスペインの内部に、後に禍根を残したくはなかったのだろう。
こうしてカトリック両王はヴァチカンとの交渉の末に、王の監督のもとに独自に異端審問を行う事を許可されることとなる。彼らはトマス・デ・トルケマダ氏を異端審問所の長官として置き、キリスト教に改宗したと言いながらも裏では元の教義の文化で生活をしていたユダヤ教徒(コンベルソ)やイスラム教徒(モリスコ)を片端から異端として裁いていくこととなる。これがスペイン異端審問、四〇〇年に渡る恐怖政治の始まりであった。
レナト・エレーラ・ルイスはそのような時代に生まれた。両親も祖父母もキリスト教を心から信じ、レナトもそのようにと育てた。レナトはそのような出自から生まれながらの敬虔なキリスト教の信者として育てられ、自身もそれに疑問を持ったこともない。神父になるべく神学校に通い、休みの日は慈善活動をして日々を送っていた、ただただ普通のキリスト教の信徒であった。
そんな彼が何故異端審問官になるに至ったか──否、結果論で言えば、レナトはコンベルソやモリスコを救う気がなかった、ということが全てであった。一度キリスト教徒になったのならば、何故異教の神を隠れて信仰するのだろうか。恥ずかしいことだと自分でも思っているから隠れているのだ。なんと醜く、愚かな人種なのだろう。神に嘘の言葉で誓いを立てる人種がこの世にいるのだということに、生理的な嫌悪感があった。
レナトが神学校に通っていたある日、自分の住む村の近くにてアウト・デ・フェが執り行われた。その行列に、レナトは驚愕した。こんなにも身近に、こんなにも神に唾吐く人間がいたというのか。背筋がゾッとした。隣人も、友人も、もしかしたらこうして自分を謀っているのではないか。気持ち悪い。平気で嘘の言葉を並べられる人種が、気持ち悪い。それは、レナトが初めて胸に抱いた「嫌悪感」であった。
それ故、レナトは神学校を辞し、異端審問所の門を叩き、十五の齢から異端審問官としての職を得ている。
性に合っていた。レナトにとって異端審問官の仕事である拷問や審問は、愚かな人物をこの世に残さないための作業だった。愚かな者がこの世に生きている資格はない。神に唾吐く人間はこの世にいてはいけないのだ。そう思えばこそ、レナトの仕事は捗り、気付けば二七歳になった春の日、レナトはトレド異端審問所の責任者代理の席を得ることとなる。
トレドはマドリードに近い大都市である。そのような要所に自分が認められているのだという充足感があった。
トレドにはトマス・デ・トルケマダ氏も来ることがあり、レナトはトルケマダ氏に非常に可愛がられていた。若い身空でこのような職に必死に打ち込む姿が評価されたのだろう。レナトは、自分がトレド異端審問所の責任者代理になることができたのは、トルケマダ氏の後援があっての事だということも深く理解していた。
トルケマダ氏はカトリック両王より任命された長官である。敬意を払うに値する人物である。故にレナトもトルケマダ氏の来訪があれば敬意を示すために首を垂れ、賛辞を述べる。レナトにとって、それは当然のことだった。まだ若かった頃なら、トルケマダ氏は幼いレナトの頭を撫でることもあったが、今ではレナトのほうがトルケマダ氏よりもずっと身長が高くなってしまったことと、もうそのような年齢ではないということから、髪を撫でてもらえることはなくなった。
けれど、それは敬意を払わない理由にはならない。それどころかレナトは、トルケマダ氏は老齢であるというのに未だ現役の最前線で異端審問を続けているということに、殊更強く敬意を持っている。
*
先日のアウト・デ・フェと処刑の完了を祝いに、トルケマダ氏がトレド異端審問所に来訪するらしい。レナトは一番いいチョコレートを用意し、トルケマダ氏の来訪を今か今かと待ちわびていた。
朝から貴賓室を掃除し、侍女から「それは私どもの仕事です」と咎められもしたが、敬愛すべきトルケマダ氏の来訪に何もせず手をこまねいているなどできはしない。結局掃除はやめさせられて、客人用のカップを綺麗な布で延々と拭いていることしかできなかったが。
遠くから馬の蹄の音が聞こえては、あれはトルケマダ卿だろうか。と窓辺に駆け寄ってはそうではないことに落胆して、またカップを磨いて何時間経った頃だろうか。やっと待ち望んだ、十字架をオリーブと剣で挟んだ紋章の描かれた馬車がトレド異端審問所の前に停まった。
「トルケマダ卿……!」
部屋を飛び出そうとしたところを、また警備の役人に止められる。レナトは警備に囲まれて、少し肩を落としながら歩いていた。トルケマダ卿に一番にご挨拶できないだなんて。レナトは唇を噛みながらも、警備の役人によって走り出すことすらままならない。ようやっと審問所の門に出ると、トルケマダ氏は今馬車を降りたところだった。ああ、一番にご挨拶ができるのだ! 逸る心をおさえて、レナトは礼の姿勢をとる。
「親愛なるトルケマダ卿、本日もご機嫌麗しく……」
「おお、レナト。よく出迎えに来てくれた。堅苦しい挨拶はいい。面を上げよ」
「はい、トルケマダ卿」
顔を上げると、トルケマダ氏は笑顔でレナトの肩を軽く叩いた。触れられることさえ嬉しくて、レナトはほんの少し頬を染める。
「レナトよ、まずは先日のアウト・デ・フェ、処刑の進行、どちらも見事な手腕であったと聞いている。立派になったものだ」
「はっ、有難きお言葉、勿体のうございます」
「この話は部屋に通ってからするとしよう。レナト、今日はお前に頼みがあって来たのだ」
「頼み……ですか?」
「ああ、牢を一つ借りている。昨日捕らえた異端者なのだがな、レナトにそれを一任しようと思い、ここまで足を運んだのだ」
トルケマダ氏は急に真剣な眼差しでレナトを見た。そして、レナトの横を通り過ぎて牢の方へと向かって歩き出す。レナトも慌てて牢のほうに足を向けた。
トレド異端審問所の牢は地下にある。薄暗い地下はろうそくの明かりでほんのりと照らされているだけで、湿っぽい空気が石造りの地下に溜まっている。
「あの、牢を借りたというのは」
「理由もなくいつまでも馬車にいるわけがあるまい。役人にとりあえずその異端者を牢に運ばせておったのだ。暴れる故、役人を借りたぞ」
「なるほど。それほど危険性のある異端者ということですか」
「危険……さて、危険と言えば危険やもしれんな。一番奥に入れておけと命令したのでな、レナト、一番奥の牢を見てやくれぬか」
「は、はい」
レナトはブーツのかかとを鳴らしながら一番奥の牢に向かう。そうして中を覗いてみると、ボロ布をまとった少女が中にいることが分かった。
空っぽの皿を口元に当ててかじっている。肩まで伸びた銀髪が少し薄汚れている。よく見ると──少女の足は銀色の毛皮で覆われていて、腰からも毛皮の塊を垂らしている。そうして耳は、人間に耳があるべきところには。そこからも、三角の垂れた毛皮がついていた。
「……トルケマダ卿、これは」
後からゆっくりやってきたトルケマダ氏を置いて、レナトは牢の鉄格子にしがみ付く。中にいる少女はそれにひどく驚いたのか、トルケマダ氏が来たことを嫌がったのか、かじっていた皿を投げ捨てて、獣のような体勢で唸り始めた。腰から下げていた毛皮の束は、少女の意志でピンと逆立っている。
両手を床につけて、四つん這いになった少女の瞳は、紅く光を放っていた。よくよく見れば、足に纏った毛皮の間から、鋭い爪がのぞいている。
「……人狼だ」
トルケマダ氏は、静かにそう告げた。
「じん、ろう……」
「そうだ。森の護り手、人狼」
眩暈がした。トルケマダ氏の声も遠く聞こえるほどに。人狼。人の姿をした狼。豊かな森から生まれ出でる精霊。キリストのみを奉じる異端審問官にとっては、間違いなく異端である。
しかし、人狼は滅多に人前に姿を現すことはない。レナトもその存在はおとぎ話で聞くのみで、実際に、本当に人狼がこの世にいるなどとは思ってもいなかった。だが、いる。牢の中で四つん這いになりながら牙をむいている少女は、紛れもなくおとぎ話ではない、現実である。
「……異端、ですよね?」
「異端だ」
「では、では、もう裁判にかける必要もありません! すぐにでも火刑に」
「否、レナトよ。人狼を火刑にはできない」
トルケマダ氏は静かに首を横に振った。何故、とトルケマダ氏に縋りつきたくなるが、なんとか鉄格子を強く握ることでその衝動を抑える。
「何故、火刑にできないのですか」
「人狼は先にも言った通り、特定の地域では森の護り手、豊穣の守り人として大切にされている妖精の一種だ。人間ではない。人間ではないものを裁判にはかけられない」
「ですが、異端には変わりありません」
「ですが、もないのだ。正しい意味での異端ではあるが、異端として処理はできない。妖精は信仰対象でもないために、この人狼を祀り上げている村人も同じく、異端ではない」
どうしようもないほどの正論だった。人狼は人間ではない。故に、人間を対象とした裁判にはかけられない。異端審問はコンベルソやモリスコという「キリスト教を信じると言いながら裏では別の宗教を奉じている者」が対象であって、それに人狼……妖精は対象にならない。妖精は信仰の対象ではなく、森に住む隣人である。故に彼女を今まで護っていた村人にも罪はなく。
──だからと言って、どうすればいいのだ。レナトは鉄格子の中にいる少女を見やる。相変わらず尻尾を天に向けて立てて、唸っている。いまにもこちらに噛みついてきそうな勢いだ。異端審問官の埒外の存在である人狼を前に、レナトは何も言えない。
「おとといマドリードの検閲所で、商人の荷物に紛れていたところを役人が捕まえたのだ」
「何故……」
「妖精の考えることなど理解しようとする方がおかしいのだよ、レナト。ともかく、この人狼はそうして捕まり、マドリードの異端審問所に留め置かれた。しかし、すまんがマドリード異端審問所はもう牢がいっぱいでな」
つまりは。この異端でありながら異端ではないものの処遇を、レナトに一任すると言いたいのだ。
「こ、困ります……そうだ、フランスでは人狼は魔女裁判というものにかけられると」
「この人狼一匹のためにピレネー山脈を越えるだけの護衛をつけるというのかな、レナト」
「……」
「それに、人狼を異端として火刑に処してしまえば農民たちから反感を買う。農民は国を支える大切な基盤。怒りに触れてくれるな」
「……はい」
「分かってくれればよいのだ。ではレナト、この人狼の処遇をお前に一任する。暴れ噛みつく故に今は牢に入れたが、落ち着けば会話もできるようになるだろう」
「はあ、会話、ですか?」
「警備隊によれば彼女はある程度人間の言葉を解するようだ。子どもをあやすように話してみれば、通じるやもしれん」
トルケマダ氏はそれだけ言い、踵を返した。
「ああ、そうだ。その人狼の名は……セシリアというらしい」
「……セシリア」
セシリアと言えば、聖人の名である。人外の生き物がそれを理解するはずもないので、おそらくは知識人である誰かがつけた名前だろう。……もしかしたら、この人狼をきっかけにコンベルソの一斉摘発も可能かもしれない。コンベルソには知識人が多いためだ。その思惑を隠すように、レナトは殊更心がけて優しく名前を呼ぶ。
「……セシリアさん」
敬称は人狼には通用しないかもしれない。名前を呼んでから気付いたのだ。なんとも自分も動揺しているものだと自嘲する。
「セシリア、きみが人を傷付けないと約束するならここから出してあげる。明日までに、考えておいてね」
そう言うと、セシリアという人狼はうなるのをやめ、四つん這いでまた牢の隅っこに行き、皿をかじり始めた。空腹なのだろうか。レナトは近くにいた役人に、彼女に飲み物と食べ物──と言っても人狼は何を食べるのだろうか? 分からないので、とりあえず焼いた肉を彼女に供するよう伝えて牢を出た。
今日はトルケマダ卿に褒めてもらえる日ではなかったのか。どうにも困る埒外の存在に、レナトは大きなため息を吐くしかなかった。
しかし西暦一四六九年、大レコンキスタの完了に伴ってスペインに統一王権が誕生することとなる。カスティーリャ王国のイザベル女王とアラゴン王国のフェルナンド二世の結婚により、スペインは平定され、七〇〇年近くに渡る戦乱の世は終わりを迎えた。後に言うカトリック両王の誕生である。
このカトリック両王にとって、表面上はカトリックではあるが、独自の信仰を守り続けている隠れイスラム教徒、隠れユダヤ教徒は「完全な平定」のためには酷く邪魔なものとなった。やっとの思いで平定したスペインの内部に、後に禍根を残したくはなかったのだろう。
こうしてカトリック両王はヴァチカンとの交渉の末に、王の監督のもとに独自に異端審問を行う事を許可されることとなる。彼らはトマス・デ・トルケマダ氏を異端審問所の長官として置き、キリスト教に改宗したと言いながらも裏では元の教義の文化で生活をしていたユダヤ教徒(コンベルソ)やイスラム教徒(モリスコ)を片端から異端として裁いていくこととなる。これがスペイン異端審問、四〇〇年に渡る恐怖政治の始まりであった。
レナト・エレーラ・ルイスはそのような時代に生まれた。両親も祖父母もキリスト教を心から信じ、レナトもそのようにと育てた。レナトはそのような出自から生まれながらの敬虔なキリスト教の信者として育てられ、自身もそれに疑問を持ったこともない。神父になるべく神学校に通い、休みの日は慈善活動をして日々を送っていた、ただただ普通のキリスト教の信徒であった。
そんな彼が何故異端審問官になるに至ったか──否、結果論で言えば、レナトはコンベルソやモリスコを救う気がなかった、ということが全てであった。一度キリスト教徒になったのならば、何故異教の神を隠れて信仰するのだろうか。恥ずかしいことだと自分でも思っているから隠れているのだ。なんと醜く、愚かな人種なのだろう。神に嘘の言葉で誓いを立てる人種がこの世にいるのだということに、生理的な嫌悪感があった。
レナトが神学校に通っていたある日、自分の住む村の近くにてアウト・デ・フェが執り行われた。その行列に、レナトは驚愕した。こんなにも身近に、こんなにも神に唾吐く人間がいたというのか。背筋がゾッとした。隣人も、友人も、もしかしたらこうして自分を謀っているのではないか。気持ち悪い。平気で嘘の言葉を並べられる人種が、気持ち悪い。それは、レナトが初めて胸に抱いた「嫌悪感」であった。
それ故、レナトは神学校を辞し、異端審問所の門を叩き、十五の齢から異端審問官としての職を得ている。
性に合っていた。レナトにとって異端審問官の仕事である拷問や審問は、愚かな人物をこの世に残さないための作業だった。愚かな者がこの世に生きている資格はない。神に唾吐く人間はこの世にいてはいけないのだ。そう思えばこそ、レナトの仕事は捗り、気付けば二七歳になった春の日、レナトはトレド異端審問所の責任者代理の席を得ることとなる。
トレドはマドリードに近い大都市である。そのような要所に自分が認められているのだという充足感があった。
トレドにはトマス・デ・トルケマダ氏も来ることがあり、レナトはトルケマダ氏に非常に可愛がられていた。若い身空でこのような職に必死に打ち込む姿が評価されたのだろう。レナトは、自分がトレド異端審問所の責任者代理になることができたのは、トルケマダ氏の後援があっての事だということも深く理解していた。
トルケマダ氏はカトリック両王より任命された長官である。敬意を払うに値する人物である。故にレナトもトルケマダ氏の来訪があれば敬意を示すために首を垂れ、賛辞を述べる。レナトにとって、それは当然のことだった。まだ若かった頃なら、トルケマダ氏は幼いレナトの頭を撫でることもあったが、今ではレナトのほうがトルケマダ氏よりもずっと身長が高くなってしまったことと、もうそのような年齢ではないということから、髪を撫でてもらえることはなくなった。
けれど、それは敬意を払わない理由にはならない。それどころかレナトは、トルケマダ氏は老齢であるというのに未だ現役の最前線で異端審問を続けているということに、殊更強く敬意を持っている。
*
先日のアウト・デ・フェと処刑の完了を祝いに、トルケマダ氏がトレド異端審問所に来訪するらしい。レナトは一番いいチョコレートを用意し、トルケマダ氏の来訪を今か今かと待ちわびていた。
朝から貴賓室を掃除し、侍女から「それは私どもの仕事です」と咎められもしたが、敬愛すべきトルケマダ氏の来訪に何もせず手をこまねいているなどできはしない。結局掃除はやめさせられて、客人用のカップを綺麗な布で延々と拭いていることしかできなかったが。
遠くから馬の蹄の音が聞こえては、あれはトルケマダ卿だろうか。と窓辺に駆け寄ってはそうではないことに落胆して、またカップを磨いて何時間経った頃だろうか。やっと待ち望んだ、十字架をオリーブと剣で挟んだ紋章の描かれた馬車がトレド異端審問所の前に停まった。
「トルケマダ卿……!」
部屋を飛び出そうとしたところを、また警備の役人に止められる。レナトは警備に囲まれて、少し肩を落としながら歩いていた。トルケマダ卿に一番にご挨拶できないだなんて。レナトは唇を噛みながらも、警備の役人によって走り出すことすらままならない。ようやっと審問所の門に出ると、トルケマダ氏は今馬車を降りたところだった。ああ、一番にご挨拶ができるのだ! 逸る心をおさえて、レナトは礼の姿勢をとる。
「親愛なるトルケマダ卿、本日もご機嫌麗しく……」
「おお、レナト。よく出迎えに来てくれた。堅苦しい挨拶はいい。面を上げよ」
「はい、トルケマダ卿」
顔を上げると、トルケマダ氏は笑顔でレナトの肩を軽く叩いた。触れられることさえ嬉しくて、レナトはほんの少し頬を染める。
「レナトよ、まずは先日のアウト・デ・フェ、処刑の進行、どちらも見事な手腕であったと聞いている。立派になったものだ」
「はっ、有難きお言葉、勿体のうございます」
「この話は部屋に通ってからするとしよう。レナト、今日はお前に頼みがあって来たのだ」
「頼み……ですか?」
「ああ、牢を一つ借りている。昨日捕らえた異端者なのだがな、レナトにそれを一任しようと思い、ここまで足を運んだのだ」
トルケマダ氏は急に真剣な眼差しでレナトを見た。そして、レナトの横を通り過ぎて牢の方へと向かって歩き出す。レナトも慌てて牢のほうに足を向けた。
トレド異端審問所の牢は地下にある。薄暗い地下はろうそくの明かりでほんのりと照らされているだけで、湿っぽい空気が石造りの地下に溜まっている。
「あの、牢を借りたというのは」
「理由もなくいつまでも馬車にいるわけがあるまい。役人にとりあえずその異端者を牢に運ばせておったのだ。暴れる故、役人を借りたぞ」
「なるほど。それほど危険性のある異端者ということですか」
「危険……さて、危険と言えば危険やもしれんな。一番奥に入れておけと命令したのでな、レナト、一番奥の牢を見てやくれぬか」
「は、はい」
レナトはブーツのかかとを鳴らしながら一番奥の牢に向かう。そうして中を覗いてみると、ボロ布をまとった少女が中にいることが分かった。
空っぽの皿を口元に当ててかじっている。肩まで伸びた銀髪が少し薄汚れている。よく見ると──少女の足は銀色の毛皮で覆われていて、腰からも毛皮の塊を垂らしている。そうして耳は、人間に耳があるべきところには。そこからも、三角の垂れた毛皮がついていた。
「……トルケマダ卿、これは」
後からゆっくりやってきたトルケマダ氏を置いて、レナトは牢の鉄格子にしがみ付く。中にいる少女はそれにひどく驚いたのか、トルケマダ氏が来たことを嫌がったのか、かじっていた皿を投げ捨てて、獣のような体勢で唸り始めた。腰から下げていた毛皮の束は、少女の意志でピンと逆立っている。
両手を床につけて、四つん這いになった少女の瞳は、紅く光を放っていた。よくよく見れば、足に纏った毛皮の間から、鋭い爪がのぞいている。
「……人狼だ」
トルケマダ氏は、静かにそう告げた。
「じん、ろう……」
「そうだ。森の護り手、人狼」
眩暈がした。トルケマダ氏の声も遠く聞こえるほどに。人狼。人の姿をした狼。豊かな森から生まれ出でる精霊。キリストのみを奉じる異端審問官にとっては、間違いなく異端である。
しかし、人狼は滅多に人前に姿を現すことはない。レナトもその存在はおとぎ話で聞くのみで、実際に、本当に人狼がこの世にいるなどとは思ってもいなかった。だが、いる。牢の中で四つん這いになりながら牙をむいている少女は、紛れもなくおとぎ話ではない、現実である。
「……異端、ですよね?」
「異端だ」
「では、では、もう裁判にかける必要もありません! すぐにでも火刑に」
「否、レナトよ。人狼を火刑にはできない」
トルケマダ氏は静かに首を横に振った。何故、とトルケマダ氏に縋りつきたくなるが、なんとか鉄格子を強く握ることでその衝動を抑える。
「何故、火刑にできないのですか」
「人狼は先にも言った通り、特定の地域では森の護り手、豊穣の守り人として大切にされている妖精の一種だ。人間ではない。人間ではないものを裁判にはかけられない」
「ですが、異端には変わりありません」
「ですが、もないのだ。正しい意味での異端ではあるが、異端として処理はできない。妖精は信仰対象でもないために、この人狼を祀り上げている村人も同じく、異端ではない」
どうしようもないほどの正論だった。人狼は人間ではない。故に、人間を対象とした裁判にはかけられない。異端審問はコンベルソやモリスコという「キリスト教を信じると言いながら裏では別の宗教を奉じている者」が対象であって、それに人狼……妖精は対象にならない。妖精は信仰の対象ではなく、森に住む隣人である。故に彼女を今まで護っていた村人にも罪はなく。
──だからと言って、どうすればいいのだ。レナトは鉄格子の中にいる少女を見やる。相変わらず尻尾を天に向けて立てて、唸っている。いまにもこちらに噛みついてきそうな勢いだ。異端審問官の埒外の存在である人狼を前に、レナトは何も言えない。
「おとといマドリードの検閲所で、商人の荷物に紛れていたところを役人が捕まえたのだ」
「何故……」
「妖精の考えることなど理解しようとする方がおかしいのだよ、レナト。ともかく、この人狼はそうして捕まり、マドリードの異端審問所に留め置かれた。しかし、すまんがマドリード異端審問所はもう牢がいっぱいでな」
つまりは。この異端でありながら異端ではないものの処遇を、レナトに一任すると言いたいのだ。
「こ、困ります……そうだ、フランスでは人狼は魔女裁判というものにかけられると」
「この人狼一匹のためにピレネー山脈を越えるだけの護衛をつけるというのかな、レナト」
「……」
「それに、人狼を異端として火刑に処してしまえば農民たちから反感を買う。農民は国を支える大切な基盤。怒りに触れてくれるな」
「……はい」
「分かってくれればよいのだ。ではレナト、この人狼の処遇をお前に一任する。暴れ噛みつく故に今は牢に入れたが、落ち着けば会話もできるようになるだろう」
「はあ、会話、ですか?」
「警備隊によれば彼女はある程度人間の言葉を解するようだ。子どもをあやすように話してみれば、通じるやもしれん」
トルケマダ氏はそれだけ言い、踵を返した。
「ああ、そうだ。その人狼の名は……セシリアというらしい」
「……セシリア」
セシリアと言えば、聖人の名である。人外の生き物がそれを理解するはずもないので、おそらくは知識人である誰かがつけた名前だろう。……もしかしたら、この人狼をきっかけにコンベルソの一斉摘発も可能かもしれない。コンベルソには知識人が多いためだ。その思惑を隠すように、レナトは殊更心がけて優しく名前を呼ぶ。
「……セシリアさん」
敬称は人狼には通用しないかもしれない。名前を呼んでから気付いたのだ。なんとも自分も動揺しているものだと自嘲する。
「セシリア、きみが人を傷付けないと約束するならここから出してあげる。明日までに、考えておいてね」
そう言うと、セシリアという人狼はうなるのをやめ、四つん這いでまた牢の隅っこに行き、皿をかじり始めた。空腹なのだろうか。レナトは近くにいた役人に、彼女に飲み物と食べ物──と言っても人狼は何を食べるのだろうか? 分からないので、とりあえず焼いた肉を彼女に供するよう伝えて牢を出た。
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