異端審問官の寂寞

衣織

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変遷

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 セシリアは物覚えが良い。カトラリーの使い方にも慣れたようで、焼いた肉をフォークとナイフを使って切り分けることも出来るようになっていた。……まだ、食べ方は拙いといえば拙いが。皿を舐めることもしなくなった。育児書にはこう言ったことは何年もかけて教えるものだと書いてあったが、セシリアはたった数週間で日々成長している。もう育児書も必要ないかもしれない。


 次に教えるべきものは、矢張り文字だろうか。セシリアは当然教育を受けていないため、文字を読むことができない。


 スペインの識字率はイスラム教支配時代の名残か、低くはない。イスラム教の教徒は非常に勤勉だったため、イベリア半島の南部にはマドリードよりも立派な図書館や教育機関があった。スペイン人が使っている言葉にも、一部アラビア語が混ざっている。例えばスペインの地名によく用いられている「al」というのは元々アラビア語である。


「セシリア、文字を読めるようになりたいと思わない?」


「もじ……よめたら、どうなるの?」


「賢くなれる。本も自分で読めるようになれば楽しいと思うよ」


「ほん、というのは、レナトがいつもじっと見てるいっぱいの紙? それはもじがわかると面白いの?」


「きっとね」


「じゃあもじわかるようになる!」


「いい子だ」


 この時代、自分の名前の読み書きができれば立派なものだが、セシリアは今後二〇〇年を生きていくのだ。時代の変遷につれて、識字率は上がる可能性がある。そう思えば吸収の早い若いうちに文字を覚えておいて損はないだろう。


 異端審問官になるには識字が必須だが、難しい単語については読めないものもいて、そんな下級異端審問官に教育を施すべく、ある程度の教材はレナトも所持している。書斎の棚からいくつか教本を抜き取り、セシリアの元に戻る。羊皮紙と羽根ペンをテーブルに広げ、その前にセシリアを座らせた。自分はその横に座る。


 羽根ペンにインクをつけ、レナトはさっと文字を書く。「Cecilia」。まずは自分の名前を認知するところからだ。


「セシリアの名前は、こう書くんだよ」


「これがセシリア?」


「そう。真似して書いてみて」


 セシリアにペンを渡すと、セシリアは真面目な表情でペンを握り、レナトが書いたCeciliaの文字の下にガタガタの線で文字を綴っていく。


「できた」


 へたくそな文字だが、ペンを握ったこともないにしては出来たほうだ。綴りも間違っていない。


「よくできたね。これがセシリアの名前だよ」


「これがセシリアの名前!」


「そうだよ。練習して、僕のお手本がなくても自分の名前が書けるようになろうね」


「うん!」


 セシリアはペンを握ったままレナトに笑いかける。それからまた羊皮紙に向かい、自分の名前を練習し始めた。やはり、セシリアは物事の吸収が早い。言葉遣いも少しづつ一般的な喋り方になりつつある。出会った時の片言と比べれば、随分人間らしくなったと思う。

 

 素直で、勤勉。約束を破らない。この数日でレナトのセシリアに対する態度はすっかり軟化したと言ってもいいだろう。最初は機嫌を取りあやすように話しかけていたが、噛まれる心配はないと思えばこそ、異形である点を除けば、セシリアはごくごく普通の何処にでもいる少女なのだ。


「レナト、できた!」


「もう? 早いね」


 セシリアは自分の名前を練習した部分の羊皮紙を折り返して、見本も無い状態で自分の名前を綴ってみせる。最初のミミズののたくったような字から比べれば、たったの一〇分ほどでCeciliaに関しては完璧に綴れるようになっていた。


「よく出来たね、セシリア。完璧だ」


「ほんとに?」


「うん。この調子ならすぐに文字を覚えられるようになるよ。一緒に勉強して行こうね」


「うん!」


 レナトがセシリアの髪を撫でると、セシリアは花が咲いたように笑うもので、レナトも教えがいがあると嬉しくなってしまう。思わず微笑むと、セシリアも一緒に笑うので、異端審問官の職に就いてからというものの心安らぐ瞬間などほとんどなかったレナトにとって、セシリアの存在はレナトにとって試練ではない、他の何かのように感じてしまう。最初こそ頭痛を抱えたものの、セシリアは今となってはレナトの生活にすっかり馴染んでいた。


 それからさらに数週間の後、セシリアは簡単な単語はすっかり覚え、自分から何かの印刷物を求めては声を出して読み上げるようになった。要らないと思っていたセシリアの部屋の文机は、レナトが出かけている間、セシリアの定位置になっているようだ。文机にインクとペン、羊皮紙を用意してやると、セシリアは飛び上がらんばかりに喜んだ。


 それから彼女は文字の読み書きの練習に励んでいる。時々様子を見てやると、セシリアは辞書を片手に書き取りを練習していた。辞書では発音は分からないので、それだけは面倒を見た。それにしても、セシリアは読み間違いも一度訂正してやるだけですぐに覚える。人狼とは学習能力が高い生き物なのかもしれない。分からないと首をかしげる所に関しても、解説をしてやればすぐに理解を示す。そうすれば、本を読めるようになるまであっという間だった。


「レナト、レナト。本はもうない?」


「まだ少しならあるよ。書斎に行って、気になるものがあれば持ってくるといい」


「ありがとう!」


 書斎への立ち入り禁止は解除した。セシリアの知識欲はすさまじく、レナトが所持していた簡単な本はすっかり読みつくしてしまった。そうなれば次に読む本の難易度が上がっていくのは当然で、セシリアは専門書以外は全て読むといわんばかりに本の虫になっている。


 レナトの家には、本だけは山ほどある。それはレナト自身も勤勉な性格だからというのもあるが、セシリアのために分かりやすい本をどんどん買い足しているから、というのもある。


 何故、こんなに世話を焼いてしまうのだろう。セシリアを疎ましく思っていた気持ちは、とっくの昔に消え去った。可愛くて仕方ないのだ。セシリアは森から生まれ出でる存在のため、家族と呼べるものがいない。セシリアにはレナトしかいないのだ。その真実が胸に広がるほどに、セシリアのことが愛しい。


 自分のことだけを必要としてくれる存在がいるというのは、こんなにも嬉しい事なのか。禁欲主義で生きてきたことを一瞬後悔しそうになる。

 けれど、否。禁欲主義だとか、そんなことは関係ない。例え禁欲していなかったとしても、セシリアに対して抱く感情は変わらなかっただろう。きっと、あの時から。セシリアの髪を結ってやるために組み紐を買ってしまったあの日から、自分の中で何かが少しずつ変わり始めたのだと、レナトはぼんやりと思った。

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